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 ロック史を体系的議論から解き放ちながら、サイケデリアの土着性とハードロックの非継承性を論ずる。主要1000タイトル、20年計画、週1回更新のプログ形式。
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毛羽立つ日々…

以前、宇多田の少年性について論じたが、宇多田自らがノンバイナリー(非二元論)である事を公に吐露しており、さもありなんと納得するが…写経もたしなむらしい宇多田であれば、仏教に不二と云う概念がある事を知っているだろうに、とお伝えしたい…トランスジェンダーとか中性とか云うのも、男女の性別を前提としているから、男や女で規定できない性別であるならば当然ノンバイナリーや不二が的確なのだろう…ただ、できれば二元論の否定形ではなく、積極的な肯定形で表現したいものだ…そもそも性別は身体的特徴にのみ言明すべきで、意識に性別などあるはずない…
酒に関しては元来保守的で、飲酒歴20年以上であるが、ビール、日本酒、ワイン、ウイスキー以外は手を出さなかった小生であるが…蒸し暑さに誘われて何とはなしにレモンサワーの350ml缶に手を出すと云う変化があり、しかし実は此の兆候は去年の夏から始まっており…暑くなってスカッとしとうなったある日、オレンジ果汁とウオッカと炭酸を自ら混ぜて飲料に供すると云う変化もあったのであった…此の自作飲料はウオッカのアルコール感がなぜか消滅して、知らなければ幾らでも飲めてしまう事からカクテル系の潜在的危険性に思いを致したが…いずれにせよ物にこだわれなくなっている老い、ガツンと力のある酒を体が何となく避けようとしている老いを一層感じざるを得なかった。
以前にも増して聴覚過敏が激しくなり…何故かエンジンをかけたまま一時間近く停車し続ける不届き者が発する果てしないエンジン音や、ポンコツ室外機の振動がコンクリートを伝わって一際耳障りに響いて心を痛める際限ない雑音、走行中の車のドアのプラスチックが板金に微細に当たり続ける事による、耳元だから地味に神経をイラつかせるカタカタ異音に精神のイラつきが最高潮に達して落ち着きを失い…近所のスーパーの駐車場の街灯柱に車の後部をぶつける、と云う自損事故も起こしてしまい…聴覚過敏のきっかけは宇多田のアルバムを聴きこんだせいだろう…宇多田の声の細やかに変転する深まり、かすれ、伸び、つやなどを、達人の書の潤渇などを鑑賞するように精密に聴き込んでいる内に…音楽以外の雑音が耳障りになる排他性に意識が追い込まれたのであった…其れを改善するために、ビートがやかまし気味のキンクスやザッパを聴けば多少は車内の異音は気にならなくなり、雑音をも清濁併せ呑むロックの真髄を感得するも…過敏そのものは未だ落ち着かず小生を苦しめており…しかし、自分の車の後部のパーツが5mmほどずれると云う損害はあったものの、ライトの柱自体は、元々あった傷なのか、自分のせいの傷なのかあちこち傷だらけだから不明で、自分がぶつけたせいだろうと思われる凹みなどの明らかな損害は見当たらなかった…此処で人間性が問われておるなと感じるが、其のまま何食わぬ顔で去っても問題にはならないだろうが…しかし…こういう駐車場はどこかに監視カメラが潜んでいるものだし、事件の顕在化に怯えながら暮らすのは更に神経を痛めつける、と打算し、諦めて、正直に、店員さんにその旨を伝え、店長を呼んでもらい、被害状況を一緒に確認してもらう事に…結果、店側の損害はないと云う事で一件落着したが…逃げてしまう選択肢もあった世界の恐ろしさを改めて恐ろしく思いつつ…珍しく社会的に正しい振る舞いをした自分に安堵したのであった…因みに車の後部のズレは、親指でフンッと押すと元に戻り、此れも一件落着。運転は平常心が大事。

次回は7月25日です。

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ぬか漬け…

また馬齢を重ねて…やはり完治していなかったらしき歯根嚢胞をだましだまし生活する事にさえ慣れてしまう今日…そうこうするうちに事態の悪化は避けられぬのは明らかだが、今のところ小康状態を保っている以上、抜本的解決即ち抜歯に至る勇気は奮わず日常を飼い馴らす…歯が悪いと食欲も減退し、体重が減る一方である事も冥土の旅の一里塚…数か月前から、お試しとして始めた無印のお手軽ぬか床…当初はただ塩味しかしない野菜の浅漬け程度にしか思えない仕上がりだったのが、最近になって幾分陰りの有る酸味も加わり、ようやく乳酸発酵が出来るようになったと思えて、出来れば自分でぬかや酵母や塩などを調合した本格的なぬか漬けに挑戦したい、此のお手軽ぬか床はそのための練習台と思っていたのが、お試しのぬか床を無下にする訳にもいかないようになり…なぜなら菌が生きているから…結局、捨てるに忍びず、今度は野菜の水分を吸って水っぽくなってきたぬか床の処置などさえもかいがいしく、ぬか床全体を週一程度でかき混ぜるのもすっかり習慣化している。

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次回更新日

先週書き忘れたが、次回更新は6月13日です。

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日本的巧緻と云う幻想さえも崩壊して…

梅雨の晴れ間は雲一つなき晴天にて…されどどこもかしこも緊急事態で遊びに行けず…持て余して遠足がてら少し遠い神社まで徒歩でお参り…小高い丘に角ばった帽子みたいに立つ社を見物すると黒塗りのフーガで社殿横まで乗り付けて何やらお祓いの真っ最中の太鼓が響いており…記念に引いたおみくじは、帰宅後に開くとあら大吉、目上の人に礼を尽くせば思わぬ引き立てで万事良好と…そういえば礼を尽くしていない思い当たりがあって改めて焦慮の念にかられつつ、思えば自分と云う人間には話ができる年下の人の知り合いがいない事に思い至り…仮にいた処で頭の中が資本主義で話にならぬだろうと寂しい老後が確実視されるが其れは望む処の覚悟の上ではなかったかと、覚悟の虚しさを知り尽くした低調の気分であっても、日が高くなれば早夏の日差し、抜ける青空に近づけど近づけど至りはせぬ散歩道…と云うのは此の散歩は新しい靴の試験も兼ねており…今日常使いにしている靴は靴底が柔らか過ぎて不均衡にすり減り、歩く度に小生の骨格のバランスを崩して全身に悪影響を与えそうなので買い替えを試みているが…ことごとくうまく行かず現在三足目と云う…事情を掘り下げるのも億劫なので割愛するが、年を経る事に要求される靴の項目が増えすぎて全てが小生の基準をクリアする靴が見当たらずに難儀していると云う事であった。
去年の中頃、ワクチン確保に政府挙げて取り組んでいた事は、此のコロナに関する数々の愚策の中で唯一高い評価に値する国家的業績であったと小生さえも思うが…其の当時、K防疫に自惚れてワクチン確保が上手く進んでない事を韓国国民は不安がっている、其れに比べて此の件に関しては自民党はうまくやっているなどと、相変わらず隙あらば隣国への嘲笑をネタにする保守系メディアの言説があったが…今年になっていざ接種の段になると結局、ワクチン確保に出遅れたらしき韓国よりも接種率が覚束ない日本の体たらくにだんまりを決め込んでいるではないか…其の連中は愛知県知事のリコール運動にも積極的に肩入れしてきたが、署名偽造がばれると蜘蛛の子を散らすように我関せずと得意のだんまりを決め込んで、失態を晒した自らの地位への反省など微塵もない傲岸ぶりで、民主主義を腐敗させた責任に対して露悪的な肯定を公表して憚らぬだんまりであった…
思えばこの国に漠然と蔓延するパラダイムのようにして…確かに日本人は、個人技は兎も角、集団としては、システム自体を超越して新しい課題と其の解決策を創出する創意に乏しいが、其れでも、与えられたシステムの中で与えられた課題に対し与えられた方法で課題解決する事に関しては、日本人全体が一致団結する事で予想以上の成果を上げる事ができるんだぞと云う自負のような言説が蔓延していたように思う…だから、ワクチン確保が進みさえすれば、いざワクチン接種が始まれば一致団結してうまい事やるのではないかと云う期待があった…ところが蓋を開けてみると、後は組織化された個人が目的に従ってシステム内の創意工夫でやればいいだけなのにうまく行かず、先進諸国内では最下位レベルの接種率と云う体たらくで、馬鹿にしていた韓国にさえも水を空けられる始末…だいたい、そもそもなぜ個人が一斉に接種予約しなければならないのか、こんなものは、接種担当者が可能な範囲で一方的に接種日を指定して通知して呼びつければいいのに、なぜ其処に個人の都合を無駄に尊重して誰も望まない混乱と予約業務に係る無駄な仕事を生じさせるのか、民主主義を愚弄するための悪意と取れば全て納得できるが恐らく悪意を構想する有能さえも望めない無能が露呈しているだけなのが腹立たしく…注射する打ち手不足にしても、そんなのは去年の段階から想定すべき問題だから今更になって薬剤師がどうのと無様な後手後手であるし…英国では法律改正して誰でも注射できるようにしている戦略的柔軟性を発揮しているのに、そんな先例があっても日本では何故か其れを無視して法律を言い訳にして注射の打ち手不足に今更うろたえるばかり、法律を変える国会議員が無能を宣言するだけと云う暗愚の極みを呈している…大規模接種センター立ち上げにしたって、まるで一夜城を成し遂げたかのようなふてぶてしい自慢ぶりが目に余るが、此れも去年ワクチン確保に走っている段階で接種計画を練りこんで居れば整然とできたものを、慌てて自衛隊に仕事を押し付けたようでとても国家事業とは思えぬ間抜けぶりではないか…人口の少ない自治体によっては臨機応変にうまくやっているように見受けられるが、肝心の大都市圏で律速になっているようでは埒が明かない…結局のところ、日本人は、既定のシステムの中で一致団結すればうまくやると云う事が幻想だったと云う現実が露呈したのだろうと思う…そして、此の幻想が希望的観測を生み、現実に対する厳しい対応を怠る契機になって、幻想が幻想として散ったのがワクチンに関する日本の現実だろう。
結局は幻想だった此の言説を、日本的巧緻と呼ぼう。此れは、かつてレイテ海戦おいて、四つの艦隊の機動的連携を構想した日本海軍の陣容と作戦内容を評して大岡昇平が用いた言葉だが…そして周知の通りレイテ海戦では帝国海軍は壊滅的惨敗を喫するわけで…日本人が漠然と日本的巧緻を期待していたのは歴史的経緯があろう…日露戦争での辛勝に端を求めるのは簡単だろうし、戦後の復興、物作りへの自負もそうだろう…自動車産業に代表されるカイゼンは時間をかけて蓄積された日本的巧緻であり、即断即決を要するコロナのような事態の打開に期待を与えるような成功例ではないのだが…ただ、そうした幻想が蔓延するに至った歴史的経緯は批判的に乗り越えないといけない課題ではあるものの民族的歴史ゆえに致し方ない部分があるにせよ、少なくとも一人、糾弾せねばならぬ人物が居る。庵野監督である。
かつて私の学生時代の恩師は酒の席で、「自然科学は夢を見てもよいが、人文系は夢を見てはならず、現実的でなければならない」と仰り、小生も首肯したものだが…芸術こそ本来、徹頭徹尾現実的でなければならず、例え幻想を取り扱う場合でも、其の幻想を成立させる現実への考察があってこそ表現としての誠実さが確保される…しかるに庵野氏はテレビ版の「ヤシマ作戦」しかり、そしてシンエヴァでは更にエスカレートした「ヤマト作戦」しかり、日本人が一つの目標に向けて既定の方法を一致団結してやるのであればうまくやると云う成功例を物語った訳だが(否、ヤマト作戦は最終的に責任者のミサトさんが乗務員を全て脱出させて自ら危地に特攻し、責任者としての責任を果たす事で、責任者が責任を取らない日本の政治の無責任構造=天皇制への痛烈な批判になっているが)、此れは、日本のパラダイムとして蔓延する日本的巧緻と云う幻想に無自覚に無批判に追従して此の幻想が実現する事が民族的必然であるかのような言説の醸成に加担したのであった。要するに、日本的巧緻への批判的分析は皆無で、ただ其の幻想に盲従して幻想の強化に芸術作品と云う形で努めているのである。シン・ゴジラでは、ゴジラ出現に際し、列強は核攻撃による東京諸共の犠牲も厭わぬ根本的解決を要求したが、日本人は、日本国は、大雑把な根本解決に傾かず、無論東京壊滅を避けるためと云う説得力はあるが、ゴジラを電車や戦闘機などの連係プレイで足止めしてゴジラの口に冷却材を流し込むと云う地道な組織戦による成功を物語り、結果として日本的巧緻を称賛する事で此れを翼賛した。即断即決で一致団結して緊急事態に対処するなどと云う事は日本人には不可能である事はコロナの件で証明された訳だが、こうした現実を洞察し得ず、漠然とした日本的巧緻におもねるように日本的巧緻の成功を物語で実現し、日本的巧緻と云う幻想を社会に発表した罪を庵野監督は犯したのである、シン・ゴジラで。およそ自らの作品が、政治的幻想に無自覚に加担して其の翼賛機関に堕する事ほど、芸術にとって不名誉な事はないはずだ。庵野監督の作品には、およそ自らの、組織や社会へのなじめなさへの反動が嵩じて、逆に組織や社会との一体化を無暗に短絡的に礼賛する傾向が見られるが(アスカやマリ、龍の歯医者など)…庵野分析に興味はないが…ともかく庵野監督の、日本的巧緻と云う政治的幻想に加担した芸術的罪は弾劾されてしかるべきである。なぜなら此の日本的巧緻と云う幻想は軍国日本の全体主義によって促進されながらも、当の全体主義の醸成に明らかに理論的に加担しているからだ。其の理由は少し考えたら分かるはずだ。ヒントは…日本的巧緻は現実を直視しない事から始まる希望的観測の最たるもの。

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五月晴れ…

どこにも行けないので、西日を浴びて劣化が進み、そよ風を受けただけではらはらと粉雪のように舞い散るようになった網戸の張替えを敢行…道具、材料を揃えるため訪れたホームセンターは何故か大渋滞だったが…前日、どういった物があるのか下見して改めて家の網戸やゴムパッキン等のサイズを再確認しての満を持しての購入はスムーズに進み…其れでも初めての事ゆえ難儀しながら次第に手際よくパリッと綺麗に張り終えられるようになると気持ちよく…一番の難関は網戸をサッシから外すためのストッパー外し…ネジが固まってドライバー諸共ネジ山がナメる…しかし何とかやりおおせた午後の晴れ間…二種の騒音問題に悩まされたりもしており…一つは…階上の住人が飼う犬が飼い主が居なくなると玄関の扉を力いっぱいガタガタ長時間押したり引いたりを繰り返して鉄筋コンクリートの建屋全体に響き渡る被害…確実に殺意が芽生える大騒音であり…決定的瞬間をビデオで録音録画して管理人に告発する準備を進める…もう一つは…去年買った新車…右側後部ドアから走行中にガタガタ音がして…音楽を聴きながらのカーライフが自分の人生に占める比重が高い事から看過できぬ問題だが、車自体は気に入っており、其れに走行性能に直接影響しないような車体の軋み音の苦情を訴えられるような高級車でもないのもあって…わずかな異音のせいで音楽に集中できない事に関しては憎悪と云うよりも残念な気持ちにうち沈む…過日、自分を襲った体調不良…日常の延長ではない体験を明日に控えての心理的な緊張も要因の一つと思われるが…全身が得体の知れぬ倦怠感に襲われ、手足に力が入らず、節々が痛み、体の向きを変えると眩暈でふらつき、36.7℃の微熱…自分の平熱は35.8℃くらいと低めだから、36℃後半は自分にとっては立派な微熱なのだが多くの医者は何を大げさなと、一笑にこそ付さないものの真面目に取り合わないが…兎にも角にも時勢ゆえ、すわコロナなのか、と思い至ってその日の予定はキャンセルして病院に電話…噂のPCR検査を受けると云う運びになった…翌日、陰性だったが…コロナでないのであれば何なのか、其れ以上の診察をしてくれる気配はなく…気休めみたいにして処方された解熱剤と痛み止めの薬を飲めば飲むほど眩暈がひどくなるので自己判断で服用を休止し…一週間休養すると、病的な倦怠感や微熱は収まって日常生活に支障はなくなった…しかし、其れ以降、首筋の凝りがひどく…時折襲われる眩暈は首の凝りによって血管や神経に刺激を与えているせいではなかろうか、と自己診断する…病院はもう、コロナでなければどうでもいいと云わんばかりの態度だから。寄る年波に逆らえないのか…病気やケガをすると、何らかの痛みや不具合が地味に体に加わって完治する事がない不吉の蓄積に憔悴の一途…そういえば、シン・エヴァンゲリオンを拝観したのはエンディングの宇多田の新曲が目当てであったが…アルバム「初恋」の延長で、透明感ある歌声を無意識に期待していたのが、見事に裏切られ…映画自体の、其れなりの決着を迎えた見かけ上のハッピーエンドの真意を暗に表明するかのように…荒廃したエフェクトがかけられた、混濁したような曲調と歌声に、当初は戸惑いもあったものの、一か月近く考えた結果、納得せざるを得ないと思うようになった…要するに映画館を出た私たちは、エヴァンゲリオンの世界以上に荒廃して悲惨な世界を、うまくいく希望など当てにもできず、生きていくなら生きていくし、死ぬなら死ぬしかない厳然たる現実しか先にはないと云う映画のメッセージに、誰よりも深く鋭く宇多田が感応した的確なレスポンスなのだろう…

次回は5月23日に更新します。

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花冷えの人生苦…

体のあちこちにガタが来ている事の露見…と云うよりもいつからと言明できない自然さでとうの昔からゆるりと進行していた事態の悪化を殊更見ないようにしていたのは当の自分であり…其のいちいちを書き下せばすっきりするかと云うと寧ろ陰惨な憂鬱に沈み込む深刻さから抜け出せず…つくづく笑い、面白さと云うのが世界認識において重要だと思われ…歯のグラつきが発覚したり…其れは小生が小学生くらいの頃に重度の虫歯で神経を抜いており、数年前に歯根に膿が溜まったため長期にわたる治療に及んだ末に一命を取り留めた歯であったから、真っ先に弱ってもおかしくない歯であったが…抜歯が現実味を帯びてくると生活の質の低下が現実味を帯び…長年の歯医者通いで、入れ歯の調整に来る老人たちの多さを思いながら、インプラントだと中古車一台分の費用がかかるのか…と経済的にも心理的にも貧困が重くのしかかる…あながちコロナのせいだけとは云えない慢性的な運動不足のせいなのか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・…血中※※も基準値を僅かにオーバーしており…様子見の判定だったが…・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・…もうこうなってしまえばただひたすら、健康な体で旨い肉と酒を食って飲んで暮らせるだけで本望…と心の底から絶叫するようにして切望する庶民の願いにひれ伏す…エヴァンゲリオンのテレビ版を見直したが、結局、ゲンドウらが企む人類補完計画と云うのは思想的には陳腐な生物全体主義である事が判明したから思想的には興味を失した。映画のシン・エヴァンゲリオンを拝観…動画としては世界最高峰のキレのある技術である事には感服しつつ…登場人物らの振舞いの比較から現代社会の傾向を論じてもよいがそんなのはもう…いいだろう…どこかでだれかがやるだろうし…そういうのにも疲弊しきった遥か彼方に、現実の社会の方が既に振り切っているのだから、思想的に学ぶものはなく…特に小生が、90年代のテレビ版の発表からエヴァンゲリオンの影響のもとに人生を過ごしてきた訳ではないが、監督共々、エヴァを卒業させられた、そんな映画でした。お疲れさまでした、というのが最終的な感想である。其れよりも、田中邦衛の訃報の方が心痛に堪えぬ…。

本来なら次回は四月二五日ですが、故あって次回は五月二日です。

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宇多田少年

以前、宇多田ヒカルの実存覚醒前のアルバム、ハートステーションを酷評してしまったが、何度か聴くうちに、と云うよりも、何度も聴いてしまっている事実があって、要するに此れは此れでいいなと思うようになり…であるならば、ファントムによる覚醒以後が圧倒的に良いのは当然だが、だからと云って其れ以前の成果がおしなべて悪いという訳ではないのではなかろうか、と此れまでの先入観を一変させ、従って覚醒以前のアルバムも確認する必要がある、と確信的に狙いを定めたのであった。だから、追加でハートステーション以前のアルバムにも触手を伸ばし、微に入り細に渡って日々、浴びるように宇多田を聴きまくって、自ずと比較検討してしまった。其の結果、以下のような見解を持つに至る。音楽の点数評価など、其れ自体に意味はないのは十分承知、単なる自分の中での独断的かつ相対的評価に過ぎないが、こうなった。100点満点で…

三番目アルバム ディープリバー    65点
四番目アルバム ウルトラブルー    75点
五番目アルバム ハートステーション  85点
六番目アルバム ファントム     150点
七番目アルバム 初恋        200点

ファントム以降が百点の限界を超えたのは実存覚醒だから当然、しかもリミッターを振り切りながらも、リミッターを振り切ったファントム以上の作品を成し遂げた初恋と云う現実に、いまだに心の震えが止まらないのだが、注目すべきは覚醒以前であり、線形的にではあるが着実に実存の萌芽が育っているのがよく分かる…覚醒してしまえば不連続的に非線形領域に突入するのだが…覚醒前の線形領域をじっくり聞きこむにつれて聴取される実存の形成過程は自ずと宇多田ヒカルと云う人格の形成過程でもあり、剥き出しの人間模様を公開する生贄にならざるをえない芸術のサガに成りえている事の証左でもあり…今や取り返しがつかないほど宇多田にぞっこんとなっている…此れは一種の実存中毒とでもいうべきもので…ファントム以降の完全な実存に法悦したにも関わらず此れに飽き足らず、今のところ初恋以上の作品がないから、ハートステーション以前の、実存過程における現実に垣間見える実存を曲の端々に路傍の菫のようにいちいち見つけていく喜びにものめり込んでしまい、ハートステーション以前はこうした発見の悦楽を与えて止まない数奇者向けである。ただ、こうした評価を論証しようと思ったら、アルバムに収録された各楽曲ごとの、歌詞と曲の各個分析や相互作用分析を含めた実存評価が必要であり、当に自分の意識の中では其れは済んでいるが其れを書き出すと書籍になるので、此処では宇多田作品の特徴を成している一つの傾向を抜き出したい…其れは…女性として生まれた自分の意識に潜む少年性とでも云うべきもので…ウルトラブルーにおいて宇多田氏は自分の中の少年を自覚し、ハートステーションにおいて其れをジャケット写真の少年風宇多田に顕著であるように全面的に創作の駆動力として公開している…女性の中の内なる少年と云うテーマは少女漫画では一般的でありつつ…「アリエスの乙女たち」や「アルトの声の少女」の主人公は女性として生まれながらも内に潜む少年性が自ずと人となりとして表出するため、自己同一性が女性一本やりの単純に戯画化された女性からモテる、と云う状況と、其の事への違和感を基本設定として、主人公の内面が物語の中で展開されるのだが…そうした女性は意識に少年性があると云う事で、時に果断な行動力を発揮するが、かと云ってガサツと云う訳ではなく、寧ろ内なる少年性を秘めている複雑な精神性を生きているからこそ、思慮深い控えめさで所謂女性らしい振る舞いも板についていたりするから、そうしたギャップに萌える女子女子したクラスの女子から持て囃されると云う事だ。けれどもそうした女性は周囲からの表層的なモテとは裏腹に、性差に依存した特権とは縁のない、人間としての忌憚なき苦悩を抱えて後ろ暗い陰りを抱える誠実さが、芯が通っているが故に切ない人格を形成して目が離せない豊かである…そして、此処で谷崎潤一郎ばりに個人的で下世話な性向を露出して恐縮だが…小生は其のような、内なる少年と云う矛盾との葛藤や解消と云う動的過程を意識に抱えた女性にソソられると云う嗜好性を持っており…要するに、女性としての己に潜む少年を陰に陽に生きて葛藤する女性と、そうした葛藤を含めてソソられる、特に自我の性に漫然とした数奇者の男としての小生が存在していると云う現実にも、小生はソソられているのであり…宇多田氏にも目ざとく其れを嗅ぎ取ったのが、宇多田楽曲に惹きつけられて止まぬあられもない劣情でもあったりする。ところで、此の内なる少年は、専ら女性の中で規定された少年像であるから現実の少年とは対応せず、ましてや、女性性における男性性とも異なるだろう。また、単なる男性とも決定的に関係ない。更には、少女漫画に規定された少年として、例えば竹宮恵子や萩尾望都が描く少年があるが、あれが現実の少年と対応するかはいざ知らず、少なくとも女性の中にいる少年を描いたものではない。描かれた少年は神学校的寄宿学校でのホモセクシャルな関係などといった、資本主義社会にあっては非現実的だが、内なる少年と共に生きる女性は、社会とリアルに生きる存在でもあり…特に宇多田氏の内面の少年は其れを含む女性性とも相まって資本主義社会を生き抜く人間活動に冷めた視線を投げかけつつ、システムの中を生き抜く人間関係を肯定的に即ち躍動的に捉える…こうした内面は必然的に、性に対して偏らないため人間一般に対する視線も正鵠を射て公正であるから、凡百の歌手の性的特権的目線に内在する差別やへつらいとは一線を画す冷静透徹した社会性を保証している…覚醒前にこうした下地があったればこそ…、実存覚醒した楽曲では、一つの楽曲の中でワタシやボクやアナタやカレやワタシタチなどの多彩な視線が目まぐるしく入り乱れるバフチン的多声性を展開するだけでなく、遂には人間界に留まらず自然の視座をも獲得した豊饒の結果、多彩な視線は全て死で焦点を結び、死の焦点から万物の躍動を逆照射する慈悲を言祝ぐ実存覚醒へと至ったのであった。楽曲のこうした特質や変遷は、歌詞内容で読み取れるだけでなく、年を経る事に命を剥き出しにして憚らぬ巧みな歌唱方法や、男女を超越した天性の声…まさに少年性と表裏一体となった女性の、慈しみと力強さと儚さと陰りを帯びた明るさが混然とした伸びやかな色が深まる透明な声に集約されているから、小生は宇多田漬けとなってまだ抜けきらないでいる。いや、さすがに聞きすぎてようやく最近になって飽きてきたが…

そんな宇多田氏の新曲が、前作Qに引き続いて、このほど公開されたシン・エヴァンゲリオンでも聴けるというのも必然であろう…庵野監督と云う天才の作品にひけを取らぬテーマソングを提供できるのは、宇多田ヒカルと云うもう一方の天才をおいて他ないのだから…美味しんぼで、中東に赴任予定の夫婦がフグの白子を食べられなかった現場に遭遇した雄山と士郎…フグの白子の代替対決となり、士郎はタラの白子を提案したが、雄山の牛の脳みそに完敗…フグの白子と云う一級品の代わりを持ってくるのにタラを持ってきたところで、いくら生きが良くても二級品は二級品でフグには勝てない、ならばフグの白子に匹敵する全く別の一級品を持ってくるべき、例えばモーツアルトの音楽に対してシャガールの絵画、と云う風に…と云う話だった(フグ、タラ、牛だったか、うろ覚え)。天才には天才を引き合わせねばならず…例えば宮崎監督の風立ちぬでジロウ役が務まるのは宮崎監督に匹敵する天才庵野監督をおいて他なかった事も改めて思い出されて、庵野監督と宇多田ヒカルの再タッグに執念深く興奮している…因みに士郎は挽回するために、中東でも入手可能な羊の脳みそを持って来て一矢報いたが…其れは兎も角として映画を、もう、絶対見に行きたい。恐らく三回は映画館で見るだろう…実はエヴァのテレビシリーズを見返してもいて…予習はばっちり…昔、理論生物学を名乗ろうとしていたら郡司ペギオに先を越されたが、ならばと思いついた別案も、ネルフの副指令冬月教授が京大の形而上生物学教室にいたのを知り、また先を越されたと、半ば嬉しく残念がる。

次回は4月4日です。

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春の陽気…

ぽかぽかした陽気に誘われて焼き芋を買いに行く散歩道…一際濃い香りを辺りに漂わせていた蝋梅の花は終わりかけ、路地植えの梅は今が盛りと薫風もさやかに、木蓮の綿帽子も一層膨らみを増す…五輪組織委会長の顛末…会長森は珍しく自らの言動に対して直接非を認めて謝罪したにも関わらず赦されず、しかし女性である新会長橋本は過去のセクハラ疑惑に反省の弁を述べれば不問に付されると云う、社会的扱いに対する差別は公的な男性差別のような気もするし、しかも此の傾向は日本国内だけでなく、国際社会と呼ばれる一部欧米にも共通する差別はいかがなものか…仮に男性候補者にセクハラ疑惑があれば会長就任はなかった事が蓋然的に言明できるから、男性差別の露呈と云わざるを得ない…普段は男性による女性へのセクハラを一刀両断に糾弾する野党の女性議員もなぜか新会長橋本の過去に関してはだんまりを決め込む露骨な男性差別ぶりである…自分の意識に都合のいい時だけ民主主義や人権を振り立てて相手を弾劾するくせに都合が悪いとひっこめるご都合民主主義だから、野党のリベラル意識が見透かされて馬鹿にされるのだが、野党が嘲笑されるだけならまだしも、其れによって民主主義自体が思想的に毀損されるから、リベラル派のご都合民主主義は保守派による民主主義への攻撃よりたちが悪いからいい加減にしろと云いたくなる。ただし森氏個人に対しては、過去の政治的思想の吐露において民主国家を否定する言辞を弄して憚らぬし、其の事についても、世間を騒がせた事については誤ったが発言内容自体を謝罪撤回した訳ではないから此度の失脚は遅きに失したと思っている。
加えて自分が気になるのが、昨今のコロナによる女性自殺者の増加を問題視する報道…其れ自体は確かに問題だから注目して対策を講じるべきと思うが、此の報道に際してしれっと巧みに男性自殺者のデータを削除して女性自殺者の推移グラフだけを見せるやり方に明らかに男性の命を女性よりも軽視しているとしか考えられない男性差別がメディアを中心に蔓延っている…なぜなら、男性自殺者はどの年でも基本的に女性自殺者よりも圧倒的に多いのが現状だからだ。男女両方の自殺者推移グラフを見せれば、明らかに男性の方が自殺者が多いのだから、基本的には両性共に自殺者を問題視すべきと云えども、此の明らかな性別による結果の差は、男性特有の問題に着目せざるを得ない事を開示するだろう。男性自殺者のデータをわざわざ隠すのは、女性自殺者のみを問題視したいと云う恣意的意図の現れであって、其の根底には、男性の命を女性よりも価値が低いとみなしている男性差別意識が、多様性だの男女平等だのを謳うメディアの偽善があると云う解釈が成り立つ。仮に女性自殺者が男性よりも毎年圧倒的に多い推移グラフであったならマスコミは、日本社会は女性の命を軽視しているとしてとっくに問題視して取り上げていただろうに、現実は逆で、男性自殺者が毎年圧倒的に多いが、しかし自殺者自体が問題になっても、男性自殺者が女性自殺者よりも多いと云う視点から問題視される事がないのは、メディアの男性差別を浮き彫りにする。こうした女尊男卑の考えは実は男尊女卑と表裏一体をなすのがジェンダー論の一般論だろうに…そうした洞察を欠いて漠然と世に蔓延る特異的な女尊男卑の風潮に流されて男女平等と云う理論を貫き通せないからリベラルを謳うメディアは偽善者として虚仮にされるのがまだ分からないのだろうか。実際、男尊女卑社会で特権を享受する男性はごく少数であり、他の大部分の男性は特権もなく奴隷のように酷使されて一生を終わる…其の最たる状況が戦争であり、国家主義に内蔵された男尊女卑は女尊男卑と相まって男性を戦場に駆り立てて死屍累々となった惨い死を遂げさせられた…当然、男尊女卑社会では全ての女性が卑しめられたわけでもなく特権を享受する女性もごく少数いただろう…要は差別社会において性差は見かけに過ぎず、人間自体が差別されるから、帰着すべきは人権と云う事にはなる…
 女性差別をなくそうとするメディアの単眼的問題意識が男性差別を助長しメディアの正当性を無自覚に自ら毀損している事は、トランプ現象と同じ構造だろう。マイノリティ差別をなくそうとする単眼的政策の結果、マイノリティ差別社会においても基本的に特権を享受していなかった大部分の白人層を更に公的に差別する形で不利益を押し付けた結果不満を爆発させたのが、メディアの正当性に嚙み付いたトランプ現象なのだから。男尊女卑の中で長い間男性は特権を享受してきたのだから、男女平等の過渡期である今、女尊男卑の傾向を男性は我慢すべきとの言説も平気で蔓延るが、先述のように男尊女卑の世で特権を享受した男性は少数で、しかもそうした特権を享受した者は今や現役世代を退いた老人たちであり、大部分の現役世代の男性は男女平等社会の下で男性の特権を享受しないまま女尊男卑の不利益や差別の我慢を強いられるのだから、先の言説は現実を見ない不当な抑圧に加担しており人権思想からすれば誤りである。
女性差別の残滓は解消すべきだが、其の一方で、自分で選んで男性として生まれた訳でもなくたまたま男性である事を理由に不当な差別を受けているが、其の事に異議を訴えようものなら男のくせにと云った言説で抑圧を忍耐と云う美談で糊塗されて社会的に異議申し立てを抹殺されるのであれば今や男性は社会的弱者である。差別構造と云うのは、そもそも、異議を訴える事自体が反道徳的価値観として内面に組み込まれて差別を受領させられる意識にあったし、此れはかつて蔓延った女性差別やカースト制、儒教的分限意識の基本であろう…そうであれば社会による内的な差別意識の植え付けを「言い訳」にせず、かつての部落解放運動や女性差別解放運動の闘士の方々のように、不当な抑圧に悩む男性も、自らが社会的弱者である事にひるまず訴えるしかないのだろう…ただし、社会から弱者であると措定されて差別されてきた被差別部落や女性一般であれば社会的弱者としての現実と自己意識が合致して差別に抗する意識が生まれやすいのかもしれないが…男性の場合、社会から強者であると措定されながらも、そして強者と措定される事自体によって、差別に裏打ちされたプライドを醸成されながら其の命が軽んじられ不利益と我慢を強いられてきた歴史があるから、簡単に自らを社会的弱者と位置付けるメンタリティに至る事が難しいと云う特有の問題があるのだろう…此れも件の「言い訳」と云われればそれまでだが…かつて、女性差別に反対する女性の敵が男性だけでなく大部分の女性であったように、男性差別に反対する男性の敵が女性だけでなく大部分の男性であるはずだから、問題は根深い…その辺の方策は最新のジェンダー論が戦略的に取り扱っているはずだし、そうでないならジェンダー論自体が女尊男卑に囚われただけでなく同時に男尊女卑からも脱却できないお粗末な理論であったと云う事になる。
かつてNHKで、少子高齢化で行き詰った日本社会の活路を人工知能AIに聞くと云うNHKスペシャルがあって…スタジオの論者たちは、女性活躍だの男女平等だの子育て世代への支援だのと云ったよくある意見を垂れ流していたが…AIは、「40代~50代の独身男性」にこそ着目して対策すべき、と云う結論を出してスタジオを唖然とさせていたと記憶する…結局番組では、AIは人間には思いつかない結論に行き着く事がある、と云う事でAIの結論を無視して、何事もなかったかのように女性に着目した議論に戻っていたが、この辺りも女尊男卑の傾向が露呈していたと記憶する…おそらくAIの見解は正しいと思われる…なぜなら、此の年代の独身男性は恐らく其の多くが非正規雇用で奴隷のように搾取されながらこき使われては文句も云えず、文句を云う権利さえも社会的に否定された状態で社会に使い捨てにされがちだから女性からも相手にされず結婚も望めない状況を社会が見て見ぬふりして放置しているのが、少子高齢化の大きな要因であるのは間違いないからだ。自死に追いやられる男性が女性より多い原因は、男性自殺者が女性の其れよりも多い事実や件の年代の男性の不遇がメディアと共に社会に無視される事からうかがえる、男性差別が内面化した日本社会、あるいは国際社会(!)とやらの意識構造にある。此れが解決しない限り、女性差別の真の解決も遠いだろう。
少なくともリベラルを気取るメディアは、たかだか欧米を国際社会と同致して無条件に正当化しながら彼らのご都合民主主義(自分に都合のいい時や自分に関係ない時に限って民主主義を振りかざす)に踊らされずに、事実と論理に基づいて反論すべき時は反論する気骨を持ってもらいたいものだ。実際のところ、性差別の問題は労働問題や職業差別、ナショナリズムや生命至上主義と相互作用して解読は容易でない中、上記の議論も、其の全体像さえ素描できていないと自戒する。

次回は3月14日に発表します。

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次回予定

また書き忘れたので此処に追記…次回は2月21日に更新します。

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