ロック史を体系的議論から解き放ちながら、サイケデリアの土着性とハードロックの非継承性を論ずる。主要1000タイトル、20年計画、週1回更新のプログ形式。
カテゴリー「カテゴリーなし」の記事一覧
- 2025.05.15
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- 2010.02.14
緊急追記
- 2010.02.14
「おニャン子クラブ/おニャン子クラブ☆ベスト(1985-1987)pcca-01613」 2010年2月14日 小春
- 2010.02.07
「10cc/the original soundtrack(1975)phcr-4417」 2010年2月7日 大工忌
- 2010.01.31
「chuck berry/the best of chuck berry(1955~1964)uicy-91032」 2010年1月31日 ライ麦忌
- 2010.01.24
「love affair/no strings(1966)vscd-2851」 2010年1月24日 拍子抜け
- 2010.01.17
「cocorosie/noah's ark(2005)pcs-23683」 2010年1月17日 鯰忌
- 2010.01.15
茶会記加筆訂正
- 2010.01.10
「the band/music from big pink(1968)cp21-6027」 2010年1月10日 図星
- 2009.12.28
野点放浪記第二回決別茶会
- 2009.12.27
「lazy smoke/corridor of faces(1968)msif2589」 2009年12月27日 大正忌
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「おニャン子クラブ/おニャン子クラブ☆ベスト(1985-1987)pcca-01613」 2010年2月14日 小春
トヨタならびに日本の製造業の信頼性の世界的失墜と、バンクーバーオリンピックでの日本選手の不活躍を仄暗く願う、浅薄浅慮とは知りつつも反動的な個人的心境です。
21世紀お洒落革命のアスペリティとなるべく、ループタイの無限の可能性を模索する電脳店舗広場「世界を装う!?ループ帯庵」を、暫定的に仮店舗として開設しました。まだ宣言および小生が夢想するループタイの草案を提示したのみであり、通信販売の体裁など整っていないが、事が緊急を要するので、見切り発車した次第。世界内電網で検索すると、如何なる活動内容かは不明であるが評論家の東浩紀が「ループタイ同盟」を結成したり、あるいは川原の石で自分好みのループタイを作製する20~30代の者や、嫁にループタイ(既製品)をプレゼントする30代夫、といった、静かながら僅かにもループタイ勃興の動きが散見され、10年以上もこの装いについて考えてきた自分の試みが陳腐となり兼ねぬ昨今の時局を嗅ぎ取り、宣言だけでも公にする必要に迫られたためである。そこで、もう立派な店構えサイトの構築を待つ時間も無いので、小生のホームページ作成を依頼しているローカルメディアクリエイターに、仮組みのサイトを作っていただいた次第。
ここをクリック→ 「世界を装う!?ループ帯庵」
茶道具でも同じことだが、何か一つのことにこだわりだすと、その周りの物が審美的低劣であるように見え、目に付きだすものである。元よりファッションに疎い小生、新時代のループタイに相応しいファッションというのを考察するべく、大手スーパーの中の洋服屋やエキゾチック雑貨屋などに行ってみた。気になる服や面白い服などありはするが、服の場合、当たり前だが自分が着るので、自分に相応しいかどうか、というファクターが存在することに、今更ながら気がついた。茶碗だと、身の程というものにかまう事無く、主としてその茶碗自体がよいか悪いかに集中すればよいのだが、服だと、幾ら服自体が良くても、いたって冴えぬ小生が着たところで、珍妙な居心地悪さというのが、小生自身と服の双方を貶める結果になる。成程、これは自分を試すに余りある道であろうよ、と、自分の美に再考を促す厳しき契機になり申した。
もう、上記のことで頭が一杯なので、とても、悪趣味の系譜やモダーンポップや10ccといった面倒な事を語る気力は無い。そこで、「10cc/the original soundtrack(1975)phcr-4417」 は再び先送りする。判断の先送りが、変貌が早い時流において更なる事態の悪化を招く経済界政界であるが、もしそうならば、10ccを先送りすることでいかように事態が悪化するか、楽しみでもある。最悪の事態でロックを聴きたいものだ…。
聴くのに手抜きできる音楽などありはせぬと思いながら、あわよくば考察を怠けたいと思って手に取ったこれも、改めて聴くと本当はたくさん言いたい事はある。おニャン子クラブである。小生の認識では、日の本の代表的な80~90年代アイドルグループの音楽性をロック史上の諸分類に重ね合わせると、以下のようになる。
おニャン子クラブ→1950年代~60年代初期アメリカ オールディーズ(プレロック)
うしろゆびさされ組→1960年代アメリカ ガレージロック
Wink→1970~1980年代ヨーロッパ テクノ、ユーロビートディスコ
うしろゆびさされ組のガレージ性については以前本ブログで記事にしたのでそこを参照されたい。80年代後期おニャン子クラブは上記のように、その音楽構造はビル・ヘイリー&ヒズ コメッツなどの、古典的ロックンロールリズムに古典的エレキギターを絡ませつつ、といったものなので構造上の新規性は無い。そこにトロピカルなシンセをデラックスに絡ませるのが80年代的というのもどうでもよい。何人もの若い女性がノーテンキなことを全員でへたくそに歌うのが要ではある。そういう意味では米国のシャッグズの末裔とも云える(過去の本ブログにシャッグズの考察あり)。
秋元氏の歌詞内容について多いに論じたいところであるが(また、最近の、秋元氏とエグザイルと天皇制との結託も気になるが)、下記に題目を唱えるように写すことで容赦ねがいたい。本当は歌詞全文を写経すべきであろう。何にしても歌い手と歌詞の呆気羅漢(あっけらかん)とした新しさによって、パンクと同等以上に全く新しい文化的金字塔歌謡曲ではあった。今となっては援助交際やセクシャルハラスメントを女子高生が無邪気に誘発する、モーニング娘。も及ばぬ過激な歌詞世界ではあった。こういう感性というのは常にいつ如何なる時代でも高レベルで維持して生きたいものである。
その後も女子高生は時代の制度に対して挑発的先鋭的であったが、90年代終りか2000年代初期、村上龍のラブ&ポップという小説並びに映画公開および地方でのルーズソックスの廃りを以って、女子高生が先鋭的であった時代は終わった。一部、シヴヤなどでヤマンバギャルの伝統を守る女子高生に何事かを期待したい。いずれにせよ、老いも若きも男も女も保守化の一途を辿る現代に至るだろう、という見方は資本と既成権力と結託したメディアのイメージに過ぎないかもしれないという留保も必要であろう。「女子高生」のようにメディアに持ち上げられてからその反骨が「」に括られ消費されたのと同じ轍を踏むまでもなく、怒りの挙動は潜伏しつつ地下水脈を広げている…少なくとも毎夜、半地下のライヴハウスでがなられるロックにおいて、と記したところで、一体何がしたいのか、小生にも、最早、分からなくなっている…。
1.セーラー服を脱がさないで
2.およしになってねTEACHER
3.じゃあね
4.おっとCHIKAN!
5.お先に失礼
6.恋はくえすちょん
7.NO MORE 恋愛ごっこ
8.かたつむりサンバ
…
11.早口言葉でサヨナラを
12.夏休みは終わらない
16.新・新会員番号の歌
…
作詞 秋元 康
作曲 佐藤 準、高橋 研、長沢 ヒロ、山川 恵津子、後藤 次利、見岳 章
「10cc/the original soundtrack(1975)phcr-4417」 2010年2月7日 大工忌
元来、蕉風の土壌であり芭蕉をして全否定ではないにしてもそこからの脱却を促した、江戸座の点取り俳諧ばかり読んでいるのにも飽きがくるというものである。ボルヘスの伝奇集や高橋和己の捨子物語などの、こってりした小説を味わう。青春リアルが、一流のお笑い番組に見えてきた。その詳細はまた今度。カーペンターズの女性の命日が2月4日。当時から、カーペンターズは、大統領ニクソンに招かれ握手し承認されたことからも分かるように、制度が求める善良で純真な田舎の若者といった風情とその音楽性をロック勢の評論家から厳しく批判され続けたらしく、主因としては体型に関する誹謗中傷であろうが他の一因としてそうした荒くれな批判によっても衰弱し拒食症となった、と昼間のテレビで言っていた。(小生はその日、何もかも嫌になって心の風邪を引いて仕事を休んだ)気の毒ではあるが当時でも、そうした的を射た評論がきちんとあったことに感銘する。
この「王道なきロック史」において、これまでの歩みをかいつまむと、「(反ビートルズ史観としての)ザッパ/ローリングストーンズ史観」「サイケデリア~ガレージの欺瞞的白人的土着性による獰猛ないしはピースフル」「ハードロックの脆弱性ないしは非継承性」「サイケデリアの点在する系譜」といった事どもについて、まさに寿司でもつまむように手短に述べてきた。本来ならばこれら諸概念の紐帯ならびに離反の趣きを緊密に論ずるべきであるが、引き潮間際の酩酊千鳥足のまま、義務から逃れるように、従来のロック史の樹立にクサビを打ち込むべく、新たに題目を提案したい。
それは、先般より述べているところの今年の2大テーマ、「悪趣味の系譜」並びに「永遠の詩と肯定の歌、そして次は誰だ」である。今回は、「悪趣味の系譜」について序論申し上げたい。普段、音楽が好きで音楽を聴いている人々は、ある類の音楽を何度も聴く際、ああ、これはよい音楽だ、と思いながら、何度も聴くのだろうか。恐らく、多くの場合、そのようにして音楽は聴かれる。当然であり、何ら非の無い有様だと、確かに思われる。思われるが、しかし、小生のみに限らないだろうが、どうにも我慢ならない御仁もおられるのではなかろうか。自分が、よいと思っている音楽を、ああ、よい音楽だ、と思いながら、幾度と無くその音楽を聴いてしまうこと、そして、特にその音楽だけを排他的に聴くわけでもなく他の音楽も趣味的義務感のようなものを感ずる最低限の教養に添ってある程度聴きはするが、やはり、この類の音楽が好きだから、何度も、全アルバム聴いています、と時に公にしたり身近な友人に話したりする、この有り触れた趣味的様相に対し、どうしようもなく、安全感、安泰感の満足げな腐臭を感じる不安定な人々というのが居やしないか。少なくとも小生が当てはまるだろう。
ここで、いっそのこと、芸能作物と鑑賞者の両方を対象とした趣味性の段階を定義したい。
①趣味性奴隷段階:社会や世論の大掛かりな宣伝装置において、予め、よい、と承認されている芸能を、自動的に購買享受し、自分でも、よいと思って受容している。こうした民主的承認済みの芸能は多くの場合、共同体にとって無害であり、芸能自身の美的論理からするとはなはだ下劣であるばかりか、多くの場合、国威発揚の具に供される。例は全く枚挙に暇がないが、コンヴィニエンスストア音楽、あるいは、在位20周年記念の奉祝歌を天皇に捧げたエグザイル(どこが「ならず者」なんだ!こんな下らない飼い犬音楽に関わる暇などないが、昨今目に余る所業なのでいずれエグザイル批判はきっちり片付ける)など。
この段階の人々は趣味人の端くれですらない、唾棄にも値せぬ畜生や塵埃以下の存在であるからして、まさにあまりに人間的な人間である。過去にもどこかで書いたが、人間というのは動物植物以下の価値にもなれるゆえに人間であるといえる。「悪趣味の系譜」では論外の存在。無論、こうした人々が、社会生活者として下等だというのではなく、基本的人権も保障されるべきであり、加えて、労働組織内では有能有益な人物が多い。しかし趣味人としては家畜以下の奴隷、と呼ぶことにする。家畜はまだ、人間の勝手ながら人間にとって大事である。いわゆる黒人奴隷、といったことは、人間が家畜扱いされたという最悪の出来事ではある。しかるにここでいう真の奴隷とは、民主主義政体の中で培養される、既成権力や既成価値観に盲従した挙句大勢を作り少数の義を脅かし、時にファシズム的に人間弾圧状況を構築する無責任な日和見連中を意味する。
②趣味性普遍段階:趣味人として中等にして凡庸普遍の有様。国家世論資本の宣伝を盲信する愚を避けようとする趣味的教養的意識があるゆえに、自分で、自分好みの芸能を探求する。その結果、自分好みの芸能を発見し、日々、それを楽しむのであるが、そうした自分好みを選ぶ美的感覚を懐疑したり、あるいは自分好みを楽しむ安住的姿に対して懐疑や不安がない。悠々自適という有様で第二の人生を送る団塊世代のビートルズ好きやフォーク好き、そうした団塊に媚びる程度の許容範囲の教養を身につけた団塊ジュニアのビートルズ好き、フォーク好きに多い。極端に言えば、去年ビートルズの利マスター版が出た時、ビートルズ・バーみたいな店で、往年のビートルズ好きの団塊世代客に混じって、団塊ジュニアも居て、テレヴィインタビューに対し、「昔の音楽、フォークとかビートルズが好きなんです。ビートルズを通して、上の世代の人とも話ができるから、やっぱりビートルズって偉大だな、て思います」などといった媚びを公言して憚らぬ恥知らずの団塊ジュニアの満足したゆとり顔に相当する。
③趣味性弁証法段階:いろいろ、何でも聴く、やる。雑食であることを本望とする。確かによい、と思える芸能と遭遇し、確かによいが、そのように、よい、と思って安住する満足げな態度に我慢ならない。そして、最早、自分が、よい、と思える芸能との出会いを趣味の目的にすらしていない、不断の不安を忸怩としている。これはひどい、と思う芸能でも、積極的に、我慢強く味わう中から、新しい味わい方を方法論として会得しようとする絶え間なき貪欲に苛まれている。よい芸能をよいと思いながら味わう趣味的安住への捨て鉢な反感を常に尖らす。しかしながら、そうした不安は不安という形式で安定と同義ではないかと怯えてもいるが、いっそ如何なる態度も諦めるべきか、とも考えつつ、しかし、不安を諦念に代替させる場合ではない、安住顔に脱糞する不逞は、いかに論理的には弁証法的形式に収用されようとも、美学的に特有の意味があるはずだ、と懊悩しつつ、苦渋の決断を迫られている。奏者と同じくらいにこうした受け手の責任意識は高い。よいと思えるもの思えないもの全てに対して、自分が試されている、この芸能が何をやっているのか分からなければ自分の芸能への数寄は瓦解するのでは、という危機意識が鮮明である。不安や苦悩を、蛸が自分の脚を食べるように駆動力にしているといわれればそうかもしれないが、意固地に、それは違う、と思い、愚かしくごね得を期待しているが、衰弱著しいのも確かだ。袋小路で人知れずもよおした野糞から沸き立つ湯気に乗ってどこか飛んで行きたい。
嫌いが好きになり好きが嫌いになる弁証法的美的発展という論法については既にカント、ヘーゲルの論述があるだろう。昨日、両者の美学関係の書物を読む必要に今更ながら迫られ、2学期が始まる前の小学生が慌てて宿題する未熟さで、カント「判断力批判」とヘーゲル「美学」を古本屋に買いにいった。なぜもっと早く読んでいなかったのか、悔やんでも遅い。「判断力批判」は安価で買えたが、「美学」は全9巻で14500円、とあり、持って帰る体力に自身が無くお助けできなかった。またいつか、汚名返上したい。ともあれ、「悪趣味の系譜」をものするには、当然ながら美学を学ばなければならなくなった。恐らく、上記の3つの定義くらいは、既に先人らがきちりと書いていることだろう。自分如きが駄文を晒す必要など無かったのだ…と悔やんでも後の祭り。
哲学は神学の端女、という言葉があるが、自分としては、ニーチェを道連れにして、神学・哲学は美学の端女ではないか、という観点から、弁証法や脱構築も含めて諸理論を洗い直す必要があると考えている。その成果をいつか発表したい。
従って、④の段階も、まだ存在すると考えている。それは、段階でも存在でもないかもしれないが…。
さてロックは、その誕生から極めて短い間に、③の聴き方や奏し方を旺盛にやりだし、その結果、ジャズや西洋古典音楽以上に、多岐に渡る音楽性を創出した。それは、ロック内の多彩な分野の内実をわきまえながら境界領域や未開発領域をあざとく認識した上でのことなので、実にきわどい処を鋭敏に狙う嗅覚を奏者と聴衆に要求した。よって、ロック史、③の観点から、常に既成の価値が覆されながら別種の音楽が現れた。この史観が即ち「ザッパ/ローリングストーンズ史観」であることは、事細かに説明しなくても過去の記事を読んでいただいた諸賢には仄かに分かるだろう。(対して、①または②の史観が「ビートルズ史観」である。)
悪趣味の系譜を通じてモダン・ポップという概念を論じ、そしてその代表の一つである英国の10ccについて述べる予定でいたが、更に長くなるので来週に回します。
kevin godley & lol creme
graham gouldman & eric stewart
「chuck berry/the best of chuck berry(1955~1964)uicy-91032」 2010年1月31日 ライ麦忌
サリンジャーの訃報を聴く。「へうげもの」最新第10服を早速購入。雑誌でも読んでいるので内容は熟知しているが、またしてもきちりと楽しませてくれた。そろそろと、焼物紀行への思いがもたげて来る兆しの毎日です。問いというものはその本質として回答を範疇的ではあれ問いの中に含むものであり、且つ、如何なる問いを立てるかが、既に質問者の恣意性が免れ難い状況であるとすれば、慎重を期してどうこうできるものではなく、政治学上の厳密な定義が法曹も巻き込んで国会なり司法なりで必要であろう、世論調査に対して。現状では世論調査というものは新聞TV等の各メディアが暗黙なのか取り決めなのか分からぬが半ば歩調(=数値結果)を合わせるようにしてそれぞれ勝手に問いを立て、勝手に数値結果を出し、社会にばら撒く無法状態となっている。そして、それは明らかに政治的力として発動されていく。これに対して政治権力側は、こうした世論調査に対する政治学的定義を確立する考えがないために、闇雲に、調査能力を有する少数のメディアが概ね談合のようにして結果を出してくる世論などというものに、みじめに振り回される結果となるのだ。議会制間接民主主義の現在では、投票結果(リコールも)が唯一の民意という定義はあるが、加えて、メディアが繰り出す世論調査を民意として定義するのかしないのか、何らかの条件付きで考慮するのか、どうなのか。無論、あえて定義せぬ曖昧な状況を、敏感に鈍感に、感度の機微を調節しながら汲み取るようにして世渡りするのも政治の一端ではあろうが、そこまでの政治力を期待できる被選挙民など最早期待できないのなら、そして一方的にメディアが統計世論を武器に政治介入している現在があるならば、政治あるいは主権者側は、防衛手段として、きちりとこれを定義する必要があろう。
まず、世論調査における問いに、中立を一応旨とするメディアの意に反して、政治的恣意性が含まれているのかいないのか検証するものが何も無いのが問題である。よく言われることであろうが、問いによって、世論調査ならぬ世論誘導が可能となる危険性への意識である。これはいわゆる誘導尋問というもので係争の場面では特に注意すべき類のものだろう。ただし、この改善をメディア側に求めるのは不可能だろうし、報道の自由表現の自由が保証されている以上法的にはどうにもならない。要は、受け取る市民側が防衛手段として、どれだけ、この問いが妥当なのか、疑念を抱き続けるしかない。あるいは統計結果そのものに対して疑念を抱き続けるしかない。そして、市民自らその疑念を表明しメディアを告発するしかないだろう。メディアは、もう、市民の代弁者ではない。仮想敵としてこれを扱い、ネットや連凧やアドバルーンや飛行船や落書きなどの何らかの方法でメディアの愚を市民自ら告発すべきである。その告発内容の信憑性も結局は市民自ら責任を持たなければならない。
問いに対する客観的疑念の持ちようは個人の素養如何によるので何ともしがたいが、統計結果に対する疑念の刃を握り続けるには、当然ながら、統計ないしは統計学というものの質を理解する必要がある。メディアは、数値の下に、申し訳程度に、調査方法や調査数を記すが物凄く字が小さいかあるいは一瞬であり、それが統計学的に妥当なのかはっきり明示することはない。どうせ分かりはしないだろう、という感じであり、要するに詐欺の手法である。問いに対するサンプリング調査数の妥当性は問いの対象となる母数(=有権者数)との関係に左右されようし、統計学上、ある母数に対してこれ以上サンプリング調査していれば信頼性は何%、という数値が出るはずなので、それを明示しない以上その調査結果の信頼性は全く不明である。よって、こうした、信頼性の不明瞭な数値が政治力を持つことはあってはならないし、主権者もこうした数値を振りかざすメディアの言うことに右顧左眄してはならない。数字で表現しそれに意味を与えるのは飽くまでも人間であり、人間がやる以上はいつまでたっても疑念は拭えぬ。ならばいっそ、統計結果のいちいちに対して、その統計結果を信じますか?という問いへの回答結果も補足でつけておくと面白いと思う。例えば、小沢氏の政治資金についての説明に納得するか、という問いに対して70%が納得しないと回答したとする。そして、この統計結果を信じますか、という問いに対して信じるという回答が70%、というデータも添付しておく。すると、民意としては、納得しないという回答が、0.7×0.7×100=49%と5割を切ることになる。統計学上、誤りとされるかもしれないが…。
自然現象を数値で表現することにまつわる神学と市民経済との葛藤から実験データ科学が生まれた中世ヨーロッパの歴史を紐解けば面白いし、かつ、戦前、東条英機が、軍部の総力戦研究所の統計データが対米英戦争すれば必ず負けると示したのに対し、必勝の信念、を持ち出し開戦に踏み切った歴史の反動のようにして今日の世論調査数値偏重があるかもしれない視点を交えれば更に議論は深まるがこれ以上ブログに費やす時間が無いので今日はこのへんで。
「悪趣味の系譜」を論ずる旅立ちの前に、この御方に挨拶申し上げたいと思った。チャック・ベリー。前のめりであること、決して忘れまじ。猪突猛進する内股の、ひょうきんで可愛い内気。形振り構わぬ破れかぶれと、内向的な危うさと、二つ我にあり、と、ロックの行く末を代弁した偉大なる黒人R&R始祖、チャック。
リトル・リチャードが気になる。
「love affair/no strings(1966)vscd-2851」 2010年1月24日 拍子抜け
下の中レベルで不味いのは分かってはいてもまた行ってしまった近所の回転寿司屋、最後に食した太刀魚が何とも不味く、きちりと後味の悪さを提供してくれた。賃貸アパートに帰り、またしても赤ワインで咽喉を焼きながら、青春リアルや会社の星、カウントダウンTVを、見るに耐えないのでそれぞれ15秒ずつ、酔いの為厚ぼったく垂れた半眼で赤く睨み付けるようにして怒りの視聴。青春リアルでは自殺した友人に対する切実な苦悩、というテーマでそれについてここでどうこう言うつもりはない。ただ、その主人公の話題提供者の掲示板での書き込みを読み上げる声が、カワイイアニメ声であり、番組中、本人の声を聞くとそのアニメ声とは似ても似つかぬ低い地声の持ち主のようであり、なぜ書き込み朗読の声をカワイイアニメ声の声優にやらすのか、そこのところで苦悩の切実さが信憑性の薄いものになっていた。せめて、話題提供者に限っては書き込みした本人に朗読させるべきでは。
東京カワイイTVでは先々週に引き続き先週でも、手作りがキているのを紹介していた。ヘッドホーンや耳当てを、独自に手作りで装飾するギャルデザイナーも現れ、おこがましくも小生は危機感を感じた。自分も早々にループタイの万華鏡の世界を世に知らせねば、と。ヘッドホーンに関しては、牡蠣殻やムール貝のヘッドホーンなんかが世に出たら面白いと思う。ジーンズを畑に埋めてヴィンテージ感を出そうとしているジーンズデザイナーも居たが、茶碗を土や池底に埋めて古格を出そうとする数寄者との共通も見出され、興味深かった。
神戸震災を記念する行事で子らが合唱していた。下らない教師に言われて、思想を刷り込まされてやっているのだろう、過剰に表情をつけて指揮者の教師に身を乗り出さんばかりに歌う子らを、消音して見ていると何とも醜悪に見えた。舞台上で何事か演ずる者の姿というのはそのこと自体の原因により、演劇にせよ音楽にせよ美醜が諸刃の剣の如く共存し、ひとえに鑑賞者のうつろな主観によって神々しくも卑しくも見えるものである。(ただし舞台で聴こうが個室で聴こうが音楽だけは、あるいは聴く事に関しては、専ら音楽の有様自体に結果して美醜を判断しうるから不思議なものである。このところが重要だと思われる)義務教育期間中は団結の美名の下に頻繁に合唱させられるが、そのことへの小生の根源的憤怒は書き出すときりがないのでおいておくとして、当時から合唱に対する反骨的疑念を抱きながらも、いざ合唱となると、体調の問題もあろうが、他のどの児童よりも激しく楽曲に陶酔して気をやり、天井がぐるぐる廻り始めたと思ったら心ごと昇天して気絶していた事がある。舞台上に設置された階段状の台から倒れるのだから結構な衝撃であるが意識無く、気がつくと舞台のある体育館の隅に青あざだらけで座らされていた…。同じく学童の頃の運動会で、何故か阿波踊りをやらされたが、これも誰よりも率先して踊りの狂熱的陶酔にのめり込んでしまい、本番、練習での取り決めも無いのに踊りの群れから抜け出た小生は運動場の真ん中で、一人、神がかり的な阿波踊りを踊りまくったらしい、そして保護者教師学童来賓らの唖然としたどよめきが運動場内で沸き起こったらしい。これは見に来ていた親から後で聴かされた話で、小生自身は全く記憶に無いから恐ろしい。合唱のことにしろ阿波踊りのことにしろ、共同幻想にのめり込みがちな自分の浅はかさが心から恥ずかしい。
結局過剰ゆえに速攻で孤立してしまうほどの陶酔への没入と、そうした大政翼賛的な没入に対する過敏とも取れる憤怒憎悪、の両極端が小生の性質としてあるのかもしれず、恐ろしくも心細いほど、疲れます。
英国のポップバンド。1966年くらいから、ソウル・サヴァイヴァーズという、アメリカにも同名バンドがいる名前で開始し、後に、テレヴィ番組企画でラブ・アフェアーというバンド名に変更。情事、という馬鹿馬鹿しいバンド名である。英国のあの叙勲バンドらが産業革命したようなマニュファクチュアルな流通ドリーミングをまぶしながら、肉質硬質のキーボードをギチギチポロポロならし、白人でありながら飽くまでも黒っぽさを本気で目指した結果の、挙句の黒人音楽ならぬロックという音楽になっているという、今となっては在り来たりに聴こえるかもしれないこういう音楽に対してこそ、真正面から向き合わないといけないのだろう。黒っぽく男臭い歌唱、ボトムがよく効く、熱くも愚直なドラム。リズム重視でもあればメロディワーク重視もあり、共倒れしかねぬほど両方大事にするロックの常態である。ピンピン遊ぶギター。何ほどの事も無いように聴こえるからこそ徳の高いベース。そして、常に前のめりであることを忘れぬ姿勢。ちと攻撃性が薄いのが残念でもある、
スモールフェイセスの出来損ないといってしまえばそれまでだが、マージービートもモッズも共沸状態であるほど混乱を極めた創生の状況の中、たとえ後の世において紋切り型だと見なされ歴史に埋没する運命になろうが、やるべきことをやった、大切な大切な偉大なる凡庸音楽である。ラブ・アフェアーのような、今、ここで何をなすべきかわきまえた幾多のバンドがあるおかげで、スモール・フェイセスもザ・フーもありえたのだ…などと、すまし顔で聴きながら書いていたら、何か、ボのジャングル・ビートからディープパープルまで一気に貫きかねぬ、ハード・ロックの祖形のような熱い音楽をドロドロ繰り出し始めた!カウント・ファイブ程度には重要なバンドかもしれない。かと思えば暢気に慰められる、楽観的な雲のような大きいメロウを奏するし、買ってからきちんと聴いた事なかったが、今更ながら、良い、と言いたい。
こんな彼らに相応しい詩を送りたい。
雲
大抵の人は
雲を眺めるのが好きだろう
おれも好きだ
昔っから好きだ
それも
印象派の音楽家がフルートで
のんびり描いたような
晴れた日のぷかぷかした雲の様もよいが
嵐の前触れを見せて青黒く
乱れた雲が何よりだ
限りなく混沌としているようでいて
そのくせ
ひっしひっしとひとつになって
何処かへ移っているのだ
あいつらを見ていると
大声をあげたくなる
恐ろしい速度をもっているに違いない
恐ろしい断面をもっているに違いない
あいつらを
でかいドラムと
牛のように吠えるチューバとで
思い切りうたってやりたいものだ
(思潮社 現代詩文庫 黒田喜夫詩集より)
スティーヴ・エリス:ヴォーカル
モーリス・ベーコン:ドラムス
モーガン・フィッシャー:キーボード
イアン・ミラー:ギター
ワーウィック・ローズ:ベース
「cocorosie/noah's ark(2005)pcs-23683」 2010年1月17日 鯰忌
年末年始、竜馬竜馬とうるさく感じたものだった。勝ち馬に乗るようにして竜馬を公言して憚らぬレベルの人々が、竜馬と同時代を生きていたとしたら、竜馬がやろうとしていた事を理解できたのだろうか。恐らくこうした連中が、最も、竜馬がやろうとしたことへの無理解非協力あるいは暗殺へと走ったのではなかろうか。
先週にも報告したが広辞苑を2冊購入したが、情けないことに、重すぎて持って帰れない自分が居た。駅まで歩いて持っていけばいいのでたいした距離ではないはずが、体にこたえるのである。悪い癖だが致し方なくタクシーで家まで帰ってしまった堕落ぶりである。かつては三蔵法師のように、全集本でいえば20巻くらいを担いで東京神田から広島まで鈍行で帰っていたものだが、体力気力の低下に危惧を覚える。
電車の中で人が本を読んでいると中味が気になるものである。ちら見すると、40代の男が、エヴァンゲリオンの二次創作エロ漫画を読んでいた。シンジ=読者である自分、の欲望を満足させるためだけが目的のガイナックス公認のエロ漫画である。内容は言う必要あるまい。そして家に着き、テレヴィをつけると、もののけ姫をやっており、5秒ほど見た。そういえばかつて、エヴァンゲリオンともののけ姫の映画が同時上映され、高校生の頃、今では行方不明の友人と二つとも見に行ったことがある。その時はエヴァの方が重要に思えた。
最早、環境・資源問題というのは思想の問題ではなく、技術と政治と経済の問題であるというのが小生の認識、しかるに、風の谷のナウシカの頃は環境を思想問題として捉えることが新しかったと思われるが、平成狸合戦やもののけ姫の頃で、いまだに環境・資源問題を思想問題に置き換えていることは現実を見ていない、かったるい怠慢を表明しており、よって作品として生温く、時代とずれているように、上映当時思ったのだった。環境や資源が生存にとって大事なのは最早当たり前である。それを解決するのは新規技術の開発と制度設計、そして金の問題にすぎない。自然環境というものを、オームや狸やダイダラボッチなどに表象させることで自然環境=神 対 人間、という構図を介在させることで環境を「考えさせる」、という図式は退屈極まる韜晦した物語に過ぎない。環境・資源問題は考える問題ではないし、最早そんな猶予は無い。やるかやらないか、できるかできないか、それだけである。深く考える余地などなかろう、「深く考える」ための時間も資源も、「もったいない」。
そんなわけでもののけ姫を馬鹿にしていたが、最近5秒ほど見て、今となっては、こっちのほうが面白く思えた。というのは、相対的にエヴァのつまらなさに気付いたからである。今頃になって分かったが、結局、エヴァという物語は、覚悟が出来るほど成熟するのが待たれずに本人にとっては突然に、有権者によって社会の生存問題を負託され、未体験の他者との関係性や生活闘争の如きものへの直面を無理強いされる理不尽や恐怖を描いた、社会制度に馴れぬ上に批判力も無いガキの泣き言逆ギレ物語に過ぎない。この、大人一歩手前のガキが、大人社会が抱える生存問題に巻き込まれる恐怖、という構造の物語は十五少年漂流記や蝿の王に始まり、そして名前忘れたが監督自身十五少年漂流記の影響を公言しているガンダムで既に成され、そして作品を見る限りエヴァは単なるガンダムの焼き直しに過ぎないといえる。そこんとこの悩みや恐れにこだわることが重要かもしれないし、こだわり続けることでやりようによっては新しいものが出来るかもしれないが、エヴァや、その他の後続アニメ(「蒼穹のファフナー」など)の場合、先述の意味で構造がガンダムのままなのだから特筆すべきは何も無い。エヴァに、聖書や死海文書に絡んだ如何にも意味ありげな筋立てがめぐらされていようとも、それはガンダム以上の意味は無いことを隠蔽する装置を成し、よって単なる消費の意匠に過ぎない。十五少年漂流記をロボットアニメに移したガンダムの功績のレベルには、エヴァは毛頭及ばないだろう。
だから、結局、エヴァやファフナーは、パチンコ屋の客寄せキャラや二次創作のエロの具になるしかない現在があると小生考える。それはそれで珍妙な、気にすべき事かもしれないが…。
ココロージーという姉妹デュオ。アメリカで生まれたがままならぬ事情で二人は生後別々に育ち、成人後、フランスはパリで再会、音楽活動を始めたようだ。本作「ノアの箱舟」は2005年リリースのセカンド・アルバムにあたる。拙い弦の爪弾きや朴訥に時を知らせるドラムマシーン、そして種々の、フィールドレコーディングらしい環境音やざわめきを散りばめている。そして、恐らく薄弱の、纏足されたような、しかし絆の強そうな姉妹が、一歩も出られない一軒家の中で、一生寝巻きのまま、それを握る掌から重い血が流れるのも構わぬちっぽけなガラス片のみを唯一の武器として全世界を敵に回す透明な憎悪を羽根のように蒼穹にまで吹き上がらせながら、いじけたような、誰も聞きたくない泣き言を細々と延々と歌っている。そんな姉妹の周囲には釈迦の涅槃図のように小動物らが親しげに集まり、中でも身寄りの無い子猫がひとしきりミャアミャア鳴き、且つ、発情の頂点で屠殺されるだろう愚かしげな馬がいななき続けることで、姉妹の歌に唱和する。姉はクラシック、妹はブルース、フォーク調の歌唱法であり、両者が追いつ越されつしながら、一貫して、どうしようもない悲しみと、幾らでも鋭くなる怒りを神々しくも馬鹿馬鹿しく歌い続ける。サイケデリアは突然変異でしかありえないが、これもその一種である。
レコメン系、特にトイポップ系の音楽として、既にクリンペライなどが先行している音楽性であろうが、影響関係をあげつらう事で当の作品を貶め批評の優越に悦入りする愚を犯す必要は無い。しかしこうした音楽性は、サイケデリアの本質たる、係累ならざる飛び火現象として、英国カンタベリー系やレコメンディッド系もひっくるめて今後説明されるだろう、説き明かすことを拒否しながら。
そこで今後の王道なきロック史の主題であるが、アメリカの天然サイケデリアの、ヨーロッパあるいは日本での受容あるいは飛び火がいかになされたかを考える上で小生が重要だと思う、「悪趣味の系譜」という概念を提唱したい。加えて、ガレージ~ハードロックの亡羊なる脆さや前提無き非継承性を表沙汰にせぬように暗躍させるべく、過去にも言ったが、イエスとレッドツェッペリンとザ・フーの三つ巴三国志を物語りたい。その際にも、むろんの事ながらサイケデリアの千鳥足が狂言回しの役を演じるだろうし、同時にハードロックという考え方を通じてサイケデリアの道化処世術が深まることも期待している。そして当然、思いつくままの脱線もありあり。
ビアンカ
シエラ
茶会記加筆訂正
野点放浪記第二席決別茶会、の後ろ付近を加筆訂正しております。書き忘れたことがあったゆえ。確認いただければ。
「the band/music from big pink(1968)cp21-6027」 2010年1月10日 図星
図星っ、と脱糞した快調の朝。
おとつい、広辞苑を合計2冊、中古で買った。第二版は大特価500円、第四版も激安1500円で。第二版は読書用、第四版は保存用である。寝転んで読むには重過ぎるので、読みやすくするために、第二版を、鋏で四分割した。毎晩、この広辞苑を読んでいる。これらに関して、色々あったが先が長そうなので詳細は次週か次々週にまわす。
今宵は酒がよく廻る。そんな日はザ・バンドだろう。高相夫妻はピンクハウスでクスリをキメていたようだが、そして係争中に謎の出火により焼失したようだが、こちらのピンクハウスでは最上の音楽が生まれた。ドラムスのリヴォン・ヘルムはアメリカ、彼以外の四人はカナダ出身の5人組。1968、8月リリース。言うまでも無く、60年代末期というものは、60年代末期ということで一まとめにはできぬ。最低でも、1965年と1966年と1967年と1968年と1969年、そして1970年と1971年と1972年と1973年と1974年のそれぞれの年において、ロックと言う音楽は全く様相を異にしたことを認識しなければならないし、本来ならば、さらに細かく、月ごとの変遷、差異を詳細に聞いていかなければならない。1967年7月と8月における差異だけでも途轍もないものがあろう。
それは兎も角1968、既に英国の叙勲バンドだけでなくペットサウンズやサタニック・マジェスターズが世に問われ、ジミ・ヘンドリクスやフー、ツェッペリンも既に居た。一般的に承認されたことを追認することがこのブログの主旨ではないので、ザ・バンドとその同時代のバンドとの位置付けについては省くが、既に爛熟の態であったサイケデリアの徒花のようにしてハードロックという、普遍的でありながらかくもか弱い流れが途切れがちに伏流していたのとはまた別に、アメリカという、新大陸などと呼ばれながら少なくともロックにおいては頑迷固陋なる旧い国における、自省的な運動の一つがザ・バンドであろう。しかし、ザ・バンドの音楽は、70年代初頭における、クラプトンが便乗したようなレイドバック、サザン、あるいはスワンプロックの嚆矢、とするには当たらないと小生考える。聞き比べれば分かるが、両者は全く別種の音楽である。後で詳細を言うが、後者の音楽たちは、まだアメリカを信じている、悪く言えばアメリカを信じているふりをし続けることが商売になることに気付いた音楽である。
ザ・バンドはサイケか?こんな問いを掲げた者など笑い種になるだけだろう。分かりきったことだ、どこがサイケなんだ、カントリーやジャグ、ファンクの一形態であるもったりしたリズムのソウル音楽即ちディキシー・ラインといった、当時ならず現在でも多くのアメリカ民族(!)が懐かしみ自分の物としているような往年の黒白(こくびゃく)音楽の基礎そのものの素材をそのまま提出したかのようだが、実はそれと気付かれぬように料理している高度極まりないあのロック音楽のどこにサイケがあるのか、と。しかし、小生はこの問いから始めたい。そして、もう、殆ど答えを言ったようなものだ。即ち、これまでの議論からも分かるように、黒白音楽の基礎素材の在り来たりな提出からサイケは生まれたのであり、従ってザ・バンドもサイケ足りうる。しかし、小生が過去に掲げたサイケ概念であるキチガイ性凶暴性については聴き当たらないだろう。また、ピースフルという考えも挙げていたが、これはサイケのドリーミングがキチガイ性に裏打ちされた時に表出される、平和とはいうもののいつ噛み付くか分からぬ類であり、やはりザ・バンドから遠い。ザ・バンドに聴かれる、どこか情けないようなドリーミングは、当然ながら英国叙勲バンドおよび産業サイケの流通経済共同幻想とは異なる。どちらかというと、ペット・サウンズやヴァン・ダイク・パークスらの孤立、点在したドリーミングに近いが、彼らよりも地に足のついた、今日の労働の疲れを癒す、朝になると新しい今日のために目覚めることが可能なようなドリーミングである。(ようするに、サイケではなかったようだ。)
そして、そんな、健康的な夢のようなことは、もう、1968のアメリカにおいて、終わっていたのだ。ザ・バンドが、そのファーストから、旧大陸然として独自の老いを身につけていたのは、そうした事情による。(英国バンドが肌のつや丸出しのフレッシュ連中が多いに対し、ロック旧大陸のアメリカにおいては、既に老いた風情が少なからず居る。ザ・バンドと同様にそうした意味で重要なのは、やはりザッパ&ザ・マザーズである。変態ゆえの年齢不詳という面もあるが)もう終わってしまったアメリカという、ラストワルツを、東部の森のログハウスの中で暖かく踊り続けていたのだ。西部に移る前の、ローラ・インガルス・ワイルダーの親父が自力でセコイアの巨木を切り倒して作ったログハウスである。あまりに健康的なドリームゆえに、逆説的に、最早在り得ないという意味でそのドリーム性は空恐ろしく、未来が無くまったく孤立している(未来のある夢など無いかもしれないが)。こんな、初めから終わりきっているようなバンドは、どうしようもなく、この先、出てくる事はなかった。ペットサウンズなどは、終わり続けるというよりか、既に黄泉の世界の彷徨である、生霊である。だから、ザ・バンドは、アメリカ音楽の点在する系譜として、また一つ、輝く。
アメリカ音楽の系譜におけるアメリカ民族表現ということでいえば、本当は、西の、リトル・フィートとの対比で論ずべきであったが、これはまたの機会にする。(リトル・フィートは、麻薬常習ゆえにザッパからマザーズを追放されたローウェル・ジョージが結成したバンドであり、カリフォルニア、ビバリーヒルズ幻想の構築に一役買ったが、事はそう単純ではない。日の本では細野晴臣らのはっぴいえんどへの影響源として有名だろう)
個々の楽曲について言いたい事一杯あるが、何だか目頭が熱く、画面が滲んで見えるのでこのへんで。ただ、加えておきたいのは、ザ・バンドは必ずしも、聴いていても安全な、という意味での健康懐古主義音楽ではない。微笑みながら怒りの涙(tears of rage)を浮かべて歌い奏する、早すぎた老成バンドに狡猾な棘がないはずがない。生きていけるのか、と心配になるほど情けない声と遠慮がちなコーラス、こってりコクとテリのあるドラムとベース、先述したようなドリーミングを醸すぶわぶわキーボードのとろみ粘性、ピンピンほろほろギター、いずれも積極的に前に出ようとせぬ奥ゆかしい演奏であり、聞いているほうまで、その恥の重み(the weight)の切実さに耐えがたくなる。そういう類の棘がある。ロックという音楽の本質をなす恥を、ザ・バンドがその愚直によってわきまえ、引き受けているのを、聴くだけで自ずと分からせてくるのだ。恥知らずを旨とするロックという音楽の主潮流において、かような意味でも、ザ・バンドの点在性を証明する。
今後の、王道無きロック史の新たな展開の概略を述べる予定であったが、長くなるのでこれも次回に。
リヴォン・ヘルム:ドラムス、ヴォーカル、マンドリン
ロビー・ロバートソン:ギター
リック・ダンコ:ベース、ギター、ヴォーカル
リチャード・マニュエル:キーボード、ヴォーカル
ガース・ハドソン:キーボード、サックス
野点放浪記第二回決別茶会
このたび、第二回野点茶会を決行いたしました。先述の、「第二回野点茶会」と書いてあるところをクリックすれば、小生の茶会記のページへ飛びます。お楽しみあれ。
「lazy smoke/corridor of faces(1968)msif2589」 2009年12月27日 大正忌
先週、野点のため原野をさ迷ったのであるが、家に戻って、ある日の出勤の時に、靴をみると、よく乾いたオナモミの果実が靴紐にひっついていた。あの、とげとげしたもので種子を覆って、通りかかる動物にくっついて散種を狙う賢い野草である。学童の頃、しばしばこのオナモミを投げ合ってお互いくっつけあった記憶が蘇ったが、咄嗟にそのオナモミを取り外してアスファルトの上に捨ててしまった。後で、せめて土の上に投げておけば、種子としての役割全うに一役買えたのに、と、こんな他愛無いことに心痛めて。
何とか年末まで乗り切ったと思ったら、風邪を引いた。職場で、風邪引きの男たちにオセロのように四方を囲まれた結果である。喉が痛い。
ちなみに、12月25日は、キリストどうこう言うよりも、大正天皇死去の日であることを肝に銘じたい。1926年12月25日、大正15年であった。翌26日は昭和開始の日である。年の瀬、近所を警戒して歩き回る、自治会の火の用心の男の声と拍子木の音が寒空には大きすぎて、怖い。
自慢の喉ではないが喉が痛いのでまた消化試合。とりあえず棚に目を向けて、まぐれで目に付いたレイジー・スモークというバンド。アメリカはマサチューセッツ・サイケ。ジャケットが黄色いので買った記憶がある。内容は、メロディ重視のメロウなサイケ・ポップ。ドリーミングな味付けもそこそこに、こじんまりまとまった感じ。自分のやる気が失せているだけかもしれないが、本当に特筆すべきはほとんど無い。これ以上何もいえない。全然凶暴さは無く、去勢された従順サイケ。否、サイケですらないとも言えるだろう。サイケ界のレアアイテムとして持て囃されたらしいが、聴いてもどうって事はないだろう。ジャケットがサイケ色の黄色幻覚、というのだけに価値があるかもしれない。もう関わりたくない気持ちにもさせる。
次の2010年1月3日(日)は世界っちゅうものを見てみんがために故あって脱藩するので休載します。今年も書き残した事多く心残りであるが次回は1月10日(日)から、心機一転勇躍発信いたします、無縁ゾーンへと。
john pollano :vo,g
ralph mazzota :l.g, vo
bob door :b
ray charron :ds