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 ロック史を体系的議論から解き放ちながら、サイケデリアの土着性とハードロックの非継承性を論ずる。主要1000タイトル、20年計画、週1回更新のプログ形式。
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「cocorosie/noah's ark(2005)pcs-23683」 2010年1月17日 鯰忌

 
 年末年始、竜馬竜馬とうるさく感じたものだった。勝ち馬に乗るようにして竜馬を公言して憚らぬレベルの人々が、竜馬と同時代を生きていたとしたら、竜馬がやろうとしていた事を理解できたのだろうか。恐らくこうした連中が、最も、竜馬がやろうとしたことへの無理解非協力あるいは暗殺へと走ったのではなかろうか。
 先週にも報告したが広辞苑を2冊購入したが、情けないことに、重すぎて持って帰れない自分が居た。駅まで歩いて持っていけばいいのでたいした距離ではないはずが、体にこたえるのである。悪い癖だが致し方なくタクシーで家まで帰ってしまった堕落ぶりである。かつては三蔵法師のように、全集本でいえば20巻くらいを担いで東京神田から広島まで鈍行で帰っていたものだが、体力気力の低下に危惧を覚える。
 電車の中で人が本を読んでいると中味が気になるものである。ちら見すると、40代の男が、エヴァンゲリオンの二次創作エロ漫画を読んでいた。シンジ=読者である自分、の欲望を満足させるためだけが目的のガイナックス公認のエロ漫画である。内容は言う必要あるまい。そして家に着き、テレヴィをつけると、もののけ姫をやっており、5秒ほど見た。そういえばかつて、エヴァンゲリオンともののけ姫の映画が同時上映され、高校生の頃、今では行方不明の友人と二つとも見に行ったことがある。その時はエヴァの方が重要に思えた。
 最早、環境・資源問題というのは思想の問題ではなく、技術と政治と経済の問題であるというのが小生の認識、しかるに、風の谷のナウシカの頃は環境を思想問題として捉えることが新しかったと思われるが、平成狸合戦やもののけ姫の頃で、いまだに環境・資源問題を思想問題に置き換えていることは現実を見ていない、かったるい怠慢を表明しており、よって作品として生温く、時代とずれているように、上映当時思ったのだった。環境や資源が生存にとって大事なのは最早当たり前である。それを解決するのは新規技術の開発と制度設計、そして金の問題にすぎない。自然環境というものを、オームや狸やダイダラボッチなどに表象させることで自然環境=神 対 人間、という構図を介在させることで環境を「考えさせる」、という図式は退屈極まる韜晦した物語に過ぎない。環境・資源問題は考える問題ではないし、最早そんな猶予は無い。やるかやらないか、できるかできないか、それだけである。深く考える余地などなかろう、「深く考える」ための時間も資源も、「もったいない」。
 そんなわけでもののけ姫を馬鹿にしていたが、最近5秒ほど見て、今となっては、こっちのほうが面白く思えた。というのは、相対的にエヴァのつまらなさに気付いたからである。今頃になって分かったが、結局、エヴァという物語は、覚悟が出来るほど成熟するのが待たれずに本人にとっては突然に、有権者によって社会の生存問題を負託され、未体験の他者との関係性や生活闘争の如きものへの直面を無理強いされる理不尽や恐怖を描いた、社会制度に馴れぬ上に批判力も無いガキの泣き言逆ギレ物語に過ぎない。この、大人一歩手前のガキが、大人社会が抱える生存問題に巻き込まれる恐怖、という構造の物語は十五少年漂流記や蝿の王に始まり、そして名前忘れたが監督自身十五少年漂流記の影響を公言しているガンダムで既に成され、そして作品を見る限りエヴァは単なるガンダムの焼き直しに過ぎないといえる。そこんとこの悩みや恐れにこだわることが重要かもしれないし、こだわり続けることでやりようによっては新しいものが出来るかもしれないが、エヴァや、その他の後続アニメ(「蒼穹のファフナー」など)の場合、先述の意味で構造がガンダムのままなのだから特筆すべきは何も無い。エヴァに、聖書や死海文書に絡んだ如何にも意味ありげな筋立てがめぐらされていようとも、それはガンダム以上の意味は無いことを隠蔽する装置を成し、よって単なる消費の意匠に過ぎない。十五少年漂流記をロボットアニメに移したガンダムの功績のレベルには、エヴァは毛頭及ばないだろう。
 だから、結局、エヴァやファフナーは、パチンコ屋の客寄せキャラや二次創作のエロの具になるしかない現在があると小生考える。それはそれで珍妙な、気にすべき事かもしれないが…。

  ココロージーという姉妹デュオ。アメリカで生まれたがままならぬ事情で二人は生後別々に育ち、成人後、フランスはパリで再会、音楽活動を始めたようだ。本作「ノアの箱舟」は2005年リリースのセカンド・アルバムにあたる。拙い弦の爪弾きや朴訥に時を知らせるドラムマシーン、そして種々の、フィールドレコーディングらしい環境音やざわめきを散りばめている。そして、恐らく薄弱の、纏足されたような、しかし絆の強そうな姉妹が、一歩も出られない一軒家の中で、一生寝巻きのまま、それを握る掌から重い血が流れるのも構わぬちっぽけなガラス片のみを唯一の武器として全世界を敵に回す透明な憎悪を羽根のように蒼穹にまで吹き上がらせながら、いじけたような、誰も聞きたくない泣き言を細々と延々と歌っている。そんな姉妹の周囲には釈迦の涅槃図のように小動物らが親しげに集まり、中でも身寄りの無い子猫がひとしきりミャアミャア鳴き、且つ、発情の頂点で屠殺されるだろう愚かしげな馬がいななき続けることで、姉妹の歌に唱和する。姉はクラシック、妹はブルース、フォーク調の歌唱法であり、両者が追いつ越されつしながら、一貫して、どうしようもない悲しみと、幾らでも鋭くなる怒りを神々しくも馬鹿馬鹿しく歌い続ける。サイケデリアは突然変異でしかありえないが、これもその一種である。
 レコメン系、特にトイポップ系の音楽として、既にクリンペライなどが先行している音楽性であろうが、影響関係をあげつらう事で当の作品を貶め批評の優越に悦入りする愚を犯す必要は無い。しかしこうした音楽性は、サイケデリアの本質たる、係累ならざる飛び火現象として、英国カンタベリー系やレコメンディッド系もひっくるめて今後説明されるだろう、説き明かすことを拒否しながら。
 そこで今後の王道なきロック史の主題であるが、アメリカの天然サイケデリアの、ヨーロッパあるいは日本での受容あるいは飛び火がいかになされたかを考える上で小生が重要だと思う、「悪趣味の系譜」という概念を提唱したい。加えて、ガレージ~ハードロックの亡羊なる脆さや前提無き非継承性を表沙汰にせぬように暗躍させるべく、過去にも言ったが、イエスとレッドツェッペリンとザ・フーの三つ巴三国志を物語りたい。その際にも、むろんの事ながらサイケデリアの千鳥足が狂言回しの役を演じるだろうし、同時にハードロックという考え方を通じてサイケデリアの道化処世術が深まることも期待している。そして当然、思いつくままの脱線もありあり。
 ビアンカ
 シエラ

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