ロック史を体系的議論から解き放ちながら、サイケデリアの土着性とハードロックの非継承性を論ずる。主要1000タイトル、20年計画、週1回更新のプログ形式。
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- 2009.06.21
朗報
- 2009.06.21
「the mothers of invention/weasels ripped my flesh(1970) rcd10510」 2009年6月21日 空梅雨
- 2009.06.14
「the rolling stones/their satanic majestiers request(1967) abkco8823002」 2009年6月14日 紫陽花忌
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「leadbelly/leadbelly(1935) srcs6349」 2009年6月7日 走梅
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「frank zappa/chunga's revenge(1970) rcd10511」 2009年5月30日 怨春
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出来れば見て
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「son house/father of the delta blues; the complete 1965 sessions(1965) srcs5958~9」 2009年5月23日 曇魔
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下線部追記
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「the who/my generation(1965) deluxe edition mca 088 112 933 」 2009年5月17日 屈春
- 2009.05.10
「ruben & the jets/cruising with ruben & the jets(1965?1968?) rykodisc rcd10063」 2009年5月10日 初夏
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「the mothers of invention/weasels ripped my flesh(1970) rcd10510」 2009年6月21日 空梅雨
盆灯篭が恋しくなる季節がやってまいりました。小生は盆灯篭収集家としても功名したいと思い、今年入手すべき盆灯篭は、石灯籠のタイプでいうならば雪見灯篭の形をしたタイプにする所存です。今宵は枕草子でも読みふけりたいので手短に。
60年代マザーズ オブ インヴェンションのライブあるいはスタジオ作品を巧みにつなげて編集した本作は、往時のマザーズの、アメリカンサイケデリアの素地に裏打ちされた、趣味が悪いというよりかは趣味の良さを拒絶する貴重なアクの強さを満喫できる。ナイス邦題は「いたち野郎」。ザッパの場合、特に本職のコンテンポラリーミュージックのような厳密な理論に基づくものではない、聴きこむにつけ身に付いたのであろう現代音楽風の音の運びが違和無くフリージャズやブルースと冥合する猛々しさがある。
2曲目のブルースの、フィドルを思わせるが実はエレクトリック・バイオリンによるささくれ立った音色が、聴くだけで松脂の噎せる臭いに喉がからからにやられそうになるほど、白人土着のブルースキチガイとなっていて聴き処である。男たちは相変わらず変態声を呻いたり喚いたり笑ったりするとめどなさ。そして気の抜けたような、暢気なインストを挟んだりする芸達者でもある。と思いきやサービスを放擲して、フリーインプロヴィゼーションの本気の怒りへと猪突する獰猛でもあるから手がつけられない。地獄の底でしか救われぬ連中である。
こうしたすさんだ音を聴く事でしか癒されぬ、あるいは癒しが違うなら落ち着かぬ性分の小生にとって、この音楽は鎮静剤か睡眠薬の役割を果たす。同好の士も多かろう。アルバム最後、長い長いノイズが待っている。そういえば、20年前ぐらいから一部流行っていたのだろうか、灰野敬二やメルツバウやアルケミーレコードなどのノイズ音楽の最近の動きはどうなのだろうか。このアルバムのザッパの肖像写真が一番かっこよい。関係ないが、夢野久作の父の杉山茂丸(久作以上に相当奇怪な人物である。各自調べられたし)は暢気倶楽部という集まりを持っていた・・・
frank zappa :lead guitar and vocal
ian underwood :alto sax
bunk gardner :tenor sax
motorhead sherwood :baritone sax and snorks
buzz gardner :trumpet and flugel horn
roy estrada :bass and vocal
jimmy carl black :drums
art tripp :drums
don preston :piano organ and electric effects
ray collins :vocal
don sugar cane harris :electric violin and vocal
lowell george :rhythm guitar and vocal
「the rolling stones/their satanic majestiers request(1967) abkco8823002」 2009年6月14日 紫陽花忌
6月8日で、アキハバラ無差別殺傷事件から一年たったようだ。このプロ愚を始めた日にちが6月8日なので、関連した動きについて物申す。
おとつい、NHKで、50代とおぼしき劇作家の男性が、20~30代の劇団員を指導して、アキバ事件と関わろう、アキバ事件を理解しようとする演劇を催しているのを取材していた。この劇作家は、事件を起こした男と同年代の者らを演劇を通じて指導しながら、個々の団員が現実に抱える問題(ふれあいとかコミュニケーションとか)とやらをもどこかに導こうとしていた。小生、あきれ返り、またしても憤激しました。
そもそもその劇作家がやろうとする演劇は、既に権力=大衆から承認された「人間」や「舞台」や「世界」といった概念を再認した様式であり、一方、そのような承認から最も遠い処に居た犯人=彼であるから、そうした「表現」であの事件を「理解」しようというのが、甚だしい勘違いである。また、劇団員は既に承認された組織でありコミュニケーションが安泰である連中であるから、彼のやり場の無い絶対的孤独とは関係が持てないだろう。劇団員が「彼」を「表現」するのは不可能であるばかりか欺瞞である。何かしたいのであれば、まずそうした認識が必要であり、そうした認識があるならば、演劇などという旧態依然の形式は採れないはずだ。
また、劇作家がアキバ事件を念頭に置いた演劇を団員にやらすことで団員の社会的負の部分を救おうというおこがましさにビックリである。団員たちは救われたいのであれば、まず、指導者の地位で人に指図するこの劇作家を倒す、追放する、あるいは無視することから始めなければならない、と団員に言いたい。あのような「表現」で事件を「理解」しようとする指導者=劇作家の欺瞞、現代的なメッセージを送ろうとする卑しさを攻撃することを優先すべきである。指揮者無きオーケストラを幻視せよ。
しかし団員らはそのように蜂起することなかった。予め設えられた舞台の上で、既に承認された現代的メッセージなるものでしかないメイド服着て踊りまわり、涙流しながら指導者=劇作家にこびへつらってあくまでも劇を通しての自分探しに夢中という醜悪を見せつけた。団塊ジュニアらの奴隷根性、ただの無知不勉強による保守性はどこまでもおぞましく絶望的である。
ローリング・ストーンズのサタニック・マジェスターズは、ビーチ・ボーイズのペット・サウンズ、マザーズのwe're only in it for the moneyに匹敵するアルバムであり、サイケデリアの最重要アルバムである。ロック史一般において本作は、時のサイケ流行におもねったストーンズの迷いであるとかサイケデリアアルバムとしても要領を得ぬ駄作であるとかの否定的評価が多いと思われるが、小生は断じてそうは思わなかった。このアルバムを聴かずしてサイケデリアは語れないが、逆に、例えば英国の叙勲バンドのサージェント・・・などはサイケデリアを聴くに当たって全く不要といってもよい。たとえ、サタニック・マジェスターズが、創造力や構成力からあくまでもロック的立場から決別したためにサージェント・・・に触発されてサタニック・マジェスターズを創ったとしても。否、ローリング・ストーンズは、いわゆる創造力や構成力、即ち珍奇な手法を思いついてその思いつきに基づいて創作したり他分野と思われる手法を自分野に取り入れることで珍奇を衒うといった、思いつき→行動(創作)、といった図式を拒絶するバンドであるので、サージェント・・・に触発される、といった事は見掛けの説明に過ぎず、しかしそうした影響とも関係なく才能が独創した、といえる創造神話からも遠い有り様、としか言い様の無い、土に草が生えるように肉を鍛錬した愚直なのである。そう、鍛錬の結果ですらない捨て鉢である。そもそもローリング・ストーンズほど、英国においては、土臭く土俗しているバンドは無い。対してクリームのブルースロックなどは全く鼻持ちならないが、クリーム批判はまたいずれする。
繰り返しになるが、種々思い付く面白げな音を、思いついて、構成して一つの楽曲にするのではなく、兎も角音楽の中で専ら音楽的に音楽を鍛錬した不様の肉と土の区別がつかなくなった処にある彼らの音楽から、すさんだ不況和音や、小さい音やら、叫びやらノリの悪いリズムが世界のように萌え出てしまったのがサタニック・マジェスターズであり、これはストーンズの音楽の本質と一致するからして彼らの経歴の迷いの産物ではない。サイケデリアのあるべき低調なる生活態度から、土臭い欠伸が絶叫でもあって、どこまでもひねこびた怒りと安らぎを野生するサタニック・マジェスターズ。繰り替えすが演奏は、特にチャーリー・ワッツのドラムは致命的にノリが悪いが、その悪さが殺伐を生み、倦み、呆れ果てたサイケデリアの白人キチガイ的土俗を構築する。物凄いリズムを生む訳でもなく誰もが好むメロディを生むわけではないが、力任せというほど力も無いチンピラ風情が、木とか弦とかをひたすら何かしているだけで、筋の通った、あるいは筋しか通っていない単調を押し通すのがストーンズであった。文章にたとえると分かりやすいかもしれないが、このサタニック・マジェスターズは、繰り返しが多く何がしたいのか分かりづらい悪文であり、決して明瞭流麗な名文ではないのである。しかし、いつも土に起き伏ししている柱が通っているから悪文であっても音楽的不利にはならず圧倒的であり、小生をして聴かす。
浪漫や憧憬から逃げ果せる白人的土俗は欧州には無いだろう、アメリカーナである。そして、なぜローリング・ストーンズが英国なのか、なぜアメリカではないのか、がロックにおいて重要な謎であり事実である。音楽に国境は無い、などという認識はあまりに甘ったるい。これはロックが内包する厳然たる矛盾として、常にこの居心地の悪さを感じ続けることがストーンズを、ひいてはロックを聴くことに繋がるだろう。それがロックを聴く事の肝心である、あるいは英国特有の、ヤイバである。
以上、サタニック・マジェスターズになぞらえて、繰り返しの多いわりには要領を得ぬ悪文で綴ってまいりました。
ミック・ジャガー ボーカル
キース・リチャーズ ギター
ブライアン・ジョーンズ ギター
チャーリー・ワッツ ドラムス
ビル・ワイマン ベース
「leadbelly/leadbelly(1935) srcs6349」 2009年6月7日 走梅
夜分、近所の蝙蝠がチュッチュ鳴くのがうるさい。食料品の買い物のために車を走らすと、街のあちこちに浴衣姿の女性が。楚々としたあやめ柄などの日の本の凛とした浴衣の着こなしなどありようもなく、いずれも、昨今のモールがプッシュするビラビラした帯締めにけばけばしいプリント生地を、クロワッサンを十二面観音のごとく頭に盛り上げたような巻き髪茶髪の、傍目に疲れる化粧顔立ちの浜崎あゆみ的女性が着ている。そして成人式で紋付袴を着て市長が挨拶する壇上に上がって一升瓶片手に馬鹿声をだみ上げるジモヤン風情が着流しを威張りながら、そうした女性に侍る。おそらく稲荷さん(とうかさん)があるのだろうが、いつの間にか日の本の夏祭りの風景は、かような荒れた感じになってしまった。
何も考えたくないのでただ書くが、電車の中吊り広告、京都産業大学の准教授の女性が、環境経営なるものについて講演することを広告しているようだったが、その吊り広告の真下に、当の准教授の女性が乗客として居た。吊り広告の隅の顔写真と同じ、あるいはあまりに似ている女性が、真下にいたのであった。
何か特筆すべきことがあったように思うが、忘れた。
心の乱れままならず、明日、いや今日、丹波焼紀行を敢行する所存です。初の福知山線が楽しみである。
さて、レッドベリーである。この不世出のブルース・フォークシンガーは相当な極悪人だったようで、婦女暴行や喧嘩は常習、極め付きは殺人事件まで起こしている。その結果30年の懲役になったようだが、あまりの歌のうまさにテキサス州知事が惚れ込み6年あまりで出所している。今宵は丹波の事で頭が一杯、何も考えなくても良いブルースの簡素な原始に耳を委ねたい。ビロビロした十二弦ギター一つで、何とも色っぽくも野太い良い声でブルース。お休み・・・。
「frank zappa/chunga's revenge(1970) rcd10511」 2009年5月30日 怨春
さて、「チャンガの復讐」である。年代順では「鼬野郎」を先に紹介すべきであるが何となく。この頃になるとバンドとしてのマザーズは解散、次のジャズロック的な試みへの移行期間とも言われたりタートルズのフロー&エディをフロントに迎えたこともあってタートル・マザーズとの別名が与えられたりする時期であるがそうした演者の内情はこのアルバムにおいてどうでもよいだろう。実は、マザーズ解散~ホットラッツ楽団結成の間の、バンドメンバーが流動的だったこの時期こそが、ザッパ山脈において最もロック・バンド的な音を出しているという逆説が成り立っているのである。つまり、一般にザッパのワンマンと思われがちな彼の音楽史において、バンドメンバー各位が少なくとも持ち前の楽器に対しては独自の主導で以って平等かつ対等に発音する上で歯止めを利かしたり利かなくしたりするバンド音楽の粋が際立つ、まことに重要な時期である。これまでの、アンクルミートや鼬野郎までの、極彩色変態低迷サイケデリアを雑多な手法奏法編集法によって万華法華する試みから直接的には離れて、打ち水して、あくまでもロックのコードを、これまでのように壊す事無くその中で、バンド音楽を鍛錬しながら、ジャズもブルースも諸共に新しい音楽を生んでしまったのが、このアルバムである。アルバムではザッパ個人名義となっているが、確かにこれはザッパ個人の主権に留まらない、バンド音楽となっている。
ライナーノーツにもザッパのコメントがあるので転載。「バンドとしての基本的なことが、このグループには存在している。グループとしての精神があり、個々のメンバーが自分たちは凄い事をしている気分になっている。表現の自由が与えられている。マザーズ・オブ・インベンションでは自分だけが聴衆に喋りかけていたが、このバンドではフロー&エディを中心にグループ全体が聴衆とコンタクトしている。聴衆とのコミュニケーションに多様性があるし、芝居みたいなものだ。そして何よりもエインズレー・ダンバーが叩いているからリズムがロック的だ」
ところでその新しさとは、そう、アメリカにおける最初期の、へヴィメタルの誕生であった、とここに宣言したい。小生の知る限り誰も指摘しておらぬようだが、このチャンガの復讐こそは、アメリカによるアメリカ独自のへヴィメタルの始まりであった。既に前年、英国にてレッド・ツェッペリンが、突然変異のように形振り構わぬハードなリフを引っさげてメタルの生誕を打ち上げていた。その特異性については重大すぎるので後日に譲るが、ツェッペリンとはまた異なる方法で、ザッパは、メタルを発明したといえる。微分積分を、ニュートンとライプニッツがそれぞれ独自に構築したようなものであった。
英国ツェッペリンのメタルと米国ザッパのメタルの差異は、ザッパの側から説明すると、ザッパ的メタルは、これまで論じてきたアメリカーナ・サイケデリアを出自としてその延長にある如何ともしがたい獰猛が、自ずとハードな表現に集中した結果の形振り構わぬリフ頼り、に尽きると思われる。英国のみならず欧州には、米国のような非空間的な、雰囲気作りのプロデューサーにさえも噛み付きかねない恩知らずの獰猛サイケデリアの伝統がなかったためメタルがサイケデリアを出自としようが無く、そうした意味でツェッペリンのハード、あるいはへヴィは容易には説明つかぬ突如と、ここでは言い置いておこう。そして、そうしたツェッペリンのへヴィを触媒とした可能性もあるが、兎も角ザッパとマザーズ残党らは彼らの樹立した真性サイケデリアの必然において、そしてこれまた継承されることは無かったが、アメリカーナ・へヴィ・メタルを生誕させたのである。 以上の意味で最重要アルバムであるからして、今夜は一曲ずつ丹念に聴き書きしたい。
1.トランシルヴァニア・ブギ
いきなりの、ワルそうなギターのディストーションが、怪奇な変拍子と共に炸裂しながら当然のように走り行き、途中、ジャズ的雰囲気やブルースにも会釈しながら簡便に去る。後にメタルと確言されるであろうこのギターのワルさが、既にそのメタルという概念をとうに乗り越えている民族臭プンプンなのにモダン極まりないリズムを伴う様は、メタルという概念すら広まっていなかったこの当時どのように聴かれたのか皆目見当つかない。匹敵しうるのはジミ・ヘンドリクスのモダンのみである。ただ、ギター奏者としてのジミとザッパ、という比較は、いずれジミの作品紹介の時に長々としたい。
2.淑女の道
ブルース。ザッパの良い声が堪能できる。ブルースを頭ごなしに力いっぱい叩きつければ、楽曲構成はどう聴いてもただのブルースなのに、へヴィメタルになってしまう、コロンブスの卵のようなナンバー。しかもザッパのへヴィであるから、文化継承の自信に裏打ちされないし、そうした裏打ちを拒否する人喰いの凶暴をきっちり吐瀉する。
3.20本の短い葉巻
馬車に潰されて死んだカエルの美しい夢のような、アメリカの草野心平のようなインスト。
4.ナンシー&メアリー音楽
何という土俗。朝っぱらから混乱したまま土で出来たようなサックスを吹き上げる。そしてびっこあるいは酔いどれのごとき、リズムのずれに頓着せぬドラムの、呂律の回らぬ凶暴な容赦ない連打。呂律の回るスマートな連中を叩きのめすようだ。諌めるようにしてザッパのワルいギターがへヴィにブルースの茶々を入れる。そのうち部族の者らの雄叫びが、ドラムというよりも地団太に近い煽りに煽られて上げ潮の連破となり、トランスの絶叫が最高潮になったかと思うと、相変わらずグズグズしながら猪突猛進だけは忘れぬドラムがリズムを無視して叩きまくられるなか、手数が過剰に多いギターが入り、いつのまにかジャズロック的まとまりも一応聞かせておく。祭りに飛び入り参加したキーボードがいつのまにか生贄あるいは司祭となってその身をロックの業火に燃やし尽くしながら熱となって消尽しても叫び続ける。
5.俺が好きだと言ってくれ
へヴィ・メタル・アメリカーナの金字塔。この楽曲が、アメリカンメタルの発祥である。分厚いベース&ドラムによる噛み付くリフと、他愛無い歌詞をこれまた噛み付くように叫びきる余裕の無さ。一発一発が、聴く者の下腹を殴られるような、肉の痛みを知るへヴィなドラム、エインズレー・ダンバーの名を顕彰したい。確か、この当時も塗装屋が本業で、今も塗装業の傍ら熱いドラムを叩いている偉人である。
6.何だってやろうじゃないか
打って変わってブリティッシュ的、特にキンクス的軽妙楽曲だが、演奏はやっぱりへヴィ。徐々に熱くならざるを得ぬメタルの宿命。
7.チャンガの復讐
野蛮ながらダウナーに始まる。インスト。沈鬱な面持ちながら触れば何されるか分からぬ不穏な空気。そんな時、またカエル的な、どもりながら導くような喋るギターが音色を聞かす。おとなしそうでいて、だんだんに狂い、最早言葉を成さぬ廃人ぶり(インストなので歌詞は最初から無いが)。と、少しは言葉が分かりそうなギターが軽く煽るが、そうすると既に邪鬼と化したカエルのダウナーギターが真っ先に暴力で答える様は、肉を叩き続けるドラムの音が説明する。
8.パチパチパンチや(淋病)
原題はthe clap。拍手や雷とかのパチパチ言う音の事のようだが、淋病の意味もあるようだ。ごく短いインスト。いろいろ叩いている。竹とか。
9.ルディーが一杯奢ってやるんだってよ
下品な男たちの陽気なブルースポップロック。パーティーも終わりに近づき、無理に盛り上がろうとする情に厚い男たちが吐きながら肩組んで歌っている。
10.シャリーナ
顔の異なる男たちが、正面を向いて、正直な気持ちを真顔で歌い奏する、滑稽で気持ち悪い有様。お別れの時間。
frank zappa:guitar, vocal, harpsichord, drum set, wood blocks, temple blocks, boo-bams, tom-toms, etc
ian underwood:organ, piano, rhythm guitar, electric piano, pipe organ, electric alto sax with wah-wah pedal, tenor sax
max bennet:bass
aynsley dunbar:drums
the phlorescent leech&eddie:vocals
john guerin:drums
george duke:electric piano&vocal drum imitations, trombone
jeff simmons:bass&vocal
sugar cane harris:organ
「son house/father of the delta blues; the complete 1965 sessions(1965) srcs5958~9」 2009年5月23日 曇魔
いつか、既に所持しているの新しい気持ちで、幸田露伴の幻談・観画談と、ベルクソンの思想と動くもの、という書物を再度購入してしまうということを書いたが、今度は音楽において、ウォーホースという、ディープパープルを解雇させられた方が結成した英国湿り気オルガンハードロックバンドのCDを、既に所持しているのに、それを忘れて、また買ってしまった。ヴァーティゴレーベルをよく手がけるキーフのジャケットデザインに惹かれたのか。ある意味、自分の心の嗜好の、再現性が確かめられたのであるが、所持品の記憶が失われると同じ物をお助けするばかりで、新たな嗜好、あるいは数寄の境地の開拓難しく、危惧する次第です。
今週はひどく鬱屈している。こうした時は如何なるロックもどうしようもなく五月蝿く感じ入るので、義太夫とかブルースを聴くに限る。特に、ギター一本で黒い民が他愛の無い事やどきりとすることを唸っているだけ、がよい。サン・ハウス。取り立てて声が凄くしゃがれているとか、スモーキーであるとかはなく、こざっぱりした声の歌い手であるが、滋味あって滲みるのである。意味も歴史もどうでもよい、これ以上何も言う必要の無い、黒い民がギターをぴんぴんさせながら淡々と語るように歌い続ける嘆きと道化の小風景、ミシシッピ・デルタブルース。
「the who/my generation(1965) deluxe edition mca 088 112 933 」 2009年5月17日 屈春
五月人形界に物申す。なぜいつまでも、鎌倉武士や応仁の乱以前の、大仰な古式ゆかしい大鎧ばかりなのだ。戦国時代や安土桃山時代には、百鬼夜行の如く珍妙な変わり兜の世界が綺羅星の如く広がっているというのに。退屈極まりない鎧兜はやめて、桃山の、百花繚乱たる変わり兜の世界を勉強されたし。そうすれば子供たちばかりでなく親たちの心も掴めるのではないか、売り上げも上がるのではないか。
ザ・フーである。えてしてよく知らぬ、あるいは自分が意識的に知ろうとせぬ民族や人種の顔は見分けがつかぬものであり、たとえば「英国の彼ら」(ザ・フーではない)に偏見しか持たぬ小生にとって初見では「英国の彼ら」の顔の違いは分かり難いし、むしろ分かろうとせぬ意固地が鬱屈している。人間、皆、顔が違う、などというのはこの際どうでもよい。そうした原則と関係ないところで、何度も言うがザッパ&マザーズらの男たちの顔は一目瞭然に、異なっている。そして、同様に男たちの顔が皆、異なる、と言いたくなる英国の希少なバンドの一つが、小生にとって、他ならぬザ・フーであった。一体誰なんだ、この、あまりにも顔が異なる4人組は?という疑問をはね付けるのが、文字通りフーである。
歴史に貢献するためにバンドは演奏するのではないのだがザ・フーのロック史上の位置付けや経緯は既に名を成しているので詳細は省きたい。白人によるブルースやリズム&ブルースの愚直な鍛錬が、言葉に成らぬ浮き世への怒りを暴発させる時に、勢いだけの他愛無いビートロックを、リスナーを社会的危険に陥れる凶暴なガレージロックの萌芽にするのだが、そのプロトタイプがザ・フーであることはここで繰り返す必要がないほど自明でありながら、やはり前提として必要であった。そして、ザ・フーの歴史はロックの歴史を成すものだから、このファーストのみでフーの全てを語れるわけも無い。このファーストや次のクイック・ワンから後年の病的なロックオペラ諸作品まで考えようとしたら、それこそ全ロック史を注入する必要がある。
ここでは、既にこの、純正黒人音楽から脱しえた熱いビートのファーストアルバムから言えることを、ザ・フーが何であったかを、この王道無きロック史の中の位置付けを、完結に宣言するに留めたい。その宣言の原因説明は、ザッパ&~と同様、彼らの全てのアルバムを通聴し逐一考えねばならないために、今後じっくり取り組みたい。関係ないが、小生は、説明責任、という言葉が大嫌いだ。ザ・フーも同じ事を言っている。
ザ・フーは、ビートとガレージの荒野からハードロックという不在へと駆け抜けた。
ザ・フーは、王道無きロック史の、まさに王道であった。
ザ・フーは、ロックの王道の、途絶えた系統であった。
ザ・フーは、継承されなかった。
ザ・フーは、プログレッシブ・ロックやメタルの形式を拒絶する、ガレージ=ハードロックというか細くも険しい踊り場に居続けた凡庸なる異端であった。
この凡庸なる異端、異端なる凡庸が、安住を許さぬ、危機意識に満ちた不安定な殺伐であり、未来永劫ロックのあるべき姿であった。
外部の目新しい音楽におもねようとせぬ、あくまでもブルースによるブルースのプログレッシブ化をハードロックというならば、ザ・フーこそがそうしたハードロックを体現しえた数少ないバンドであった。
既に初期音源にも聴けるが、特に後年の、ザ・フー独特の叙情は、ぎりぎりのところで、欧州ロマン主義に流れた正統プログレッシブロック的叙情やアイリッシュ叙情を避けえた、まことに奇特な持病であった。
聴き方によっては、この奇特な持病ゆえに、最早、先ほど申したような意味でのハードロックなるものからも逸脱してしまった、ザ・フーとしか言い様の無い音楽性に到達した。
マイ・ジェネレーションはロック樹立宣言であった。それは共産党宣言の冒頭に匹敵する。この楽曲、この歌詞に、ロックのレジスタンスの全てがある。制度に承認された範囲内で世渡りする連中を尻目に、うまいこと物が言えぬ、永世的に未熟な者らの、殺伐とした、救いの無い怒りと暴力がある。歌詞を乗り越えて雪崩れるように煽り下るキースのサービス精神旺盛な超絶芸人ドラムがそれを証明するだろう。己に刻み込むために、拙いながら自分で翻訳してみました。お目汚し相済まぬ仕儀。
最後に、キースとジョンの御霊に感謝と、冥福を祈る。私は、死んでいった者のことを決して忘れない。
my generation
people try to put us down
just because we get around
things they do look awful cold
hope I die before I get old
this is my generation
this is my generation, baby
why don't you all fade away?
don't try to dig what we all say
I'm not trying to cause a big sensation
I'm just talkin' 'bout my generation
this is my generation
this is my generation, baby
たむろしてるだけで
奴らが俺たちを潰そうとする
とんでもなく澄ましこんでる奴ら
年とる前に死にたいぜ
これが俺たちの世代
これが俺たちの世代なんだ、分かるかい
お前らみんな消えちまえ
俺たちの言う事を理解しようとするな
俺はでかい事したいわけじゃない
俺はただ俺の世代のことを話してるだけさ
これが俺たちの世代
これが俺たちの世代なんだ、畜生
(不吉 意訳)
ピート・タウンゼンド:ギター
ロジャー・ダルトリー:ボーカル
ジョン・エントウイッスル:ベース
キース・ムーン:ドラムス
「ruben & the jets/cruising with ruben & the jets(1965?1968?) rykodisc rcd10063」 2009年5月10日 初夏
私企業に身売りして得た銭で以って購入したオンキョウのミニコンポFR-155GXは、一ヵ月後には音を再生しなくなり、その後度々修理に出すがすぐ壊れる、小生、特に音質にこだわるオーディオマニアではない、ほどほどの音を出してくれたらよいのに、音楽再生装置の存在意義である、音を再生するという根本機能に欠けており、最近では、楽曲によって一部コーラスが出ない、ベースが出ないといった不具合に悩まされていた。なぜこの不具合が分かるかというと、小生がハイスクールに通っていた頃親に買ってもらった日立製作所のCDラジカセで、二重にCDの音をチェックしているからである。ただ、このCDラジカセも、楽曲によって出ない音があったりするし、いかんせん音が悪すぎる。従って、この2種の再生装置の、出せない音が合致した場合、小生はそのCDが出せる真の音が分からずじまいになる。
こうした劣悪な音環境を打破すべく、ついに新しく音再生装置をこのほど購入。オンキョウは最悪だったが、今度はケンウッドのミニコンポにした。小生は、繰り返すがオーディオマニアではない、無論できれば良い音で聴きたいが、どんな音質で聴くかよりも、どんな音楽を聴くかに重点を置いて出資しているので、まあそこそこの音質であればよいと思っている。今は書画骨董の類に身銭を注入しているので、書画骨董界と同じく趣味の業叢深く険しいオーディオ界に足を踏み入れる金銭的時間的余裕は皆無である。
それにしても、このたびのケンウッド、割り合い廉価だったにも関わらず前のオンキョウよりも格段に音は良い。(ケンウッドは26000円、オンキョウには45000円払った!)あとは耐久性の問題であるが、何となく具合がよさそうである。前のオンキョウは、思えば買ってすぐに、動作に不可解な前兆が見られた!さすがはケンウッド、と手放しで褒め称えられる日がいつか来る事を願います。せめて7年は音再生機能を保持して欲しい。
さて、ルーベン&ザ ジェッツである。マザーズ オブ インベンションが、ルーベン&ザ ジェッツの名前で作製したアルバムである。名前からも分かるように、ハイスクールダンスパーティバンドの1950年代風の初期ロックンロール、ドゥーワップ音楽である。よってその内容は、自ずとザッパ&マザーズのルーツを掘り下げるものとなるであろう。好き嫌いが別れるであろう、ドゥーワップをマザーズ流に曲解した臭いげっぷの連続のような低音コーラスと耳に優しくない高音コーラスは既に健在であるが、楽曲は専らダンパ用であるからして、古き良き50年代の範疇、映画「アメリカン グラフィティ」に収録されていても不自然は無い作品である。中には、大きくアレンジを変奏、複雑化してマザーズのファーストアルバム「フリークアウト!」に取り入れられている楽曲もあるため、このアルバムは、ファーストが達成した音楽の検証に役立つ。ルーベン&ザ ジェッツという、他愛無いダンパ音楽が、如何様にマザーズが成した珍妙玄妙ロック、取り分けてサイケデリアの金字塔へと変態したか、をリスナーに聴かす為に、あえてザッパが発表したのがルーベン&~であるため、ザッパの自信推し量るべし。
ただ、ファーストとの関係は考えなくても、当然、このアルバム単独で十分楽しめる。後年のロックのように演奏技術の凄みだとかを前面に出さぬ、演奏が楽曲に従属する歌謡曲の伝統の中で、いまだ静かに、しかし確かに牙剥きながら揺籃睡眠するロックの赤子水子を、丹念に聴く事が出来る。それは結局、資本と大衆を安住の外には決して出さぬ危機意識のない歌謡曲あるいはポップスに収まりようもない、ブルースという嘆きと怒りの音楽を根底に持つロックンロールであるからして、権力や人を安心させないロックの誕生の必然を物語るザッパ&マザーズのしたたかな戦略であった。反権力闘争も結局は権力活性化と結託した同じ穴のムジナだというのは単なる言葉上の連想ゲームに過ぎない。ブルースという、言葉あらざる音楽は、音楽であるからして、それを奏する者聴く者にとって、独立的に反権力となる現実である。50年代のロック周辺音楽については、またしっかり考察したい。
なお、メモのため、昭和歌謡サイケ、という考え方を記憶までに。
ray collins :lead vocals
frank zappa :low grumbles, oo-wah and lead guitar
roy estrada :high weazlings, dwaedy-doop&electric bass
jimmy carl black and/or arthur dyer tripp Ⅲ :lewd pulsating rhythm
ian underwood or don preston :redundant piano triplets
motorhead sherwood :baritone sax &tambourine
bunk gardner & ian underwood :tenor and alto saxs