忍者ブログ
 ロック史を体系的議論から解き放ちながら、サイケデリアの土着性とハードロックの非継承性を論ずる。主要1000タイトル、20年計画、週1回更新のプログ形式。
[63][64][65][66][67][68][69][70][71][72][73]
カテゴリー「カテゴリーなし」の記事一覧

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

下線部追記

昨日のプロ愚に、追記しました。下線部です。

拍手[0回]

PR

「the eighth day/on(1967)mvce-22014 」 2009年8月9日 長崎忌


 八月八日と九日の端境の刻。民放ではその夜、しつこく、麻薬取締法違反の嫌疑がかけられた酒井法子の警察への出頭を報じており、うんざりし(もっと重要なニュースはあるだろうに)、NHKに変えると、やはり戦後番組をやっていた。広島への原爆投下直後の、市民の手記の紹介。すさまじくも悲惨な、その現場に居なければ文字通り体験できないような赤裸々な体験を綴った文章が、市民が描いた、簡素な描写ゆえにいっそう生々しい地獄絵図とともに紹介されていく。平和教育というものは「はだしのゲン」漫画版アニメ版双方を強制的に摂取させるだけで事足りると思っていたが、東京空襲に際した市民の絵図もそうだが、かような、市民の簡素絵が、まことに恐ろしいものである。(原民喜、大田洋子、井伏鱒二、小田実、はだしのゲン、市民の手記、簡素絵といった原爆表現の系譜は一度まとめたい)
 去年作製され、東京大空襲の日に因んで放送された映画でも同じ現象であったが、先ほど見たNHKの番組でも同様の事が起きた。件の映画とNHK番組との違いは、後者においては井上ひさしが、小生も気になっていた事実を、意識的に指摘した事であった。
 例えば空襲映画では、爆撃を受ける日本人が、天からの災厄を受けるかのようにただひたすら火に巻かれ爆風に砕かれるようにして逃げ惑って殺される映像が淡々と流れるのみであり、そうした殺戮を直接的に実行した敵=アメリカへの直接的な憎しみの声を上げる市民が一人も居なかったのである。果ては、ラスト、堀北まきが、むしろすすんで、米軍機の発砲に身を委ねるようにして無抵抗に死ぬ場面で終わったのである。いったいあの映画は何だったのか。明日はキャンプなので手短にしたいが、アメリカ軍という、ただただ自国の国益に従って戦争する国民国家が齎す殺人攻撃を、まるで神が齎す災厄であるかのように、極限まで苦しみながらも憎悪と異議の叫びを上げずに、受け入れるのである。(アラブ人が、日本人はアメリカに原爆落とされてなぜ平気なのか、としばしば問うが、じつはこの問題は相当にややこしい。)
 そして、先ほどのNHKで、井上ひさしが、文意として「広島の手記でも長崎の手記でも、一体誰がこんな殺戮を実行したのか、といった疑問の声は一つも無い。あるのは、ただ死んでいく者らへの労りと、何もしてやれない自分への自責だけだ。こんなことは世界に類例が無い。目には目を、と考えるのが世界の常識であるが、広島や長崎の市民は、やりかえそうとは思わない。報復による憎悪の連鎖が戦争を生むことを市民は知っている。これは日本にしかない恐るべき思想だ」と指摘していた。小生が、先の空襲映画で感じた違和感を、井上ひさしは、思想と言ったようだった。小生の違和感とは、東京大空襲にしても原爆にしても、こんな殺戮をやった張本人=敵は何か、と考える日本人がいないのではないか、ということである。無論、アメリカであり、アメリカだ、と考えた人もいただろう。戦争状況は一概にはいえないが、しかし、単純に、この場合、アメリカだ、と考える思考が無い方が不自然である。しかし、映画なり手記なりで、作品として世に出る形で、それが表明される事は稀である。アメリカによる戦後の国策教育のせい、とだけでは片付くまい。多分、メディアの検閲以前に、実際に、多くの市民が、アメリカへの憎悪を書き立てることは無かったのである。書きたてたとしてもそれはごく一部だったろう。あの殺戮を災厄のように受け止め、原因を考えようともしない日本人、これを思想というならば、これはガンジーの無抵抗主義とも隔絶する。ガンジーには、しっかり敵が見えていた上での行動だったはずであり、だからこそ印度の大衆がついて来たのである。しかし、敵、を意識的に定めようとしない、ということはできないだろう。意識的にすまい、とした途端に、意識してしまうからである。だから、あの映画を作った者らや、手記の記者らは、初めから、敵は何だったのか、原因は何だったのか、と考えることすらなかったのである。
 それでは、彼ら市民らが、戦争を多極的観点から考えた末に原因を突き詰める事の不可能性を悟った上での事かというと、どうもそこまで考えてはいない気がする。井上ひさしは、憎悪の連鎖を断ち切ろうとする市民の視点を想定していたが、小生は、あの手記の市民らがそこまで考えていたとは思えないし、少なくとも番組内で紹介された手記の部分にはそうした内容は無かった。
 市民らは、単純に、敵と敵への憎悪を考えることすらなかったと小生は思う。思いつくことすらなかったのである。そうでなければあんな映画は世に出ないしあんな手記は書けない。日頃鬼畜米英などと言いながらも、天空から爆弾を落とす者が同じ人間に過ぎない敵であるとはわかっていなかったのである。去年話題になった「夕凪の街 桜の国」も同じ種類である。
 よって、井上ひさしが日本独特だと指摘した思想とは、世界の側から見たら、いや、日本にとってさえも、痴愚の思想ということになるだろう。(いや、日本にとって、という思念が不可能だから痴愚なのだが)井上ひさしはここまではっきり言っていないが、小生が感ずるところによると、西洋の、原因と結果、あるいは敵と味方、目には目を、といった考え方でもなく、ガンジーの戦略的無抵抗主義とも異なる、日本痴愚思想によって平和が訪れると、示唆したようなのである。これが本当ならば、日本はなんという恐るべき痴愚の基底であろう。これは、イデオロギーと、ただの馬鹿との紙一重である。実際に平和になるかどうかは別として、全く想像を絶する国である。それでもあえて思想と呼ぶならば、小生は、この思想の是非を問うつもりにすらならない、思想というよりも確かな現状のように思えるこの事態を、ひたすらあきれるばかりである。
 ただし、本当はアメリカへの直接的な憎悪が市民の大多数で溢れていたが戦後60年以上経って今でも日本メディアによって検閲されていたとしたら(アメリカは立場上当然検閲するだろうから)、メディアよ、小生による報復の筆誅を覚悟せよ。

 全然関係ないけれどもエイス・デイ。アメリカ産。女性二人に男五人がはべるハッピー・ハーモニー・コーラス・ソフトサイケ・ポップロックである。車中でジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンスなどを聴くと冷房しているにもかかわらず熱中症で倒れそうに成るので、即ちそれほどまでの暑熱であるゆえに、何かしら涼しげな音は無いものか、と、ストロベリー・アラーム・クロックの傑作サードアルバムやキャラバンのfor girls who grow plump in the nightなどを聴いていた一週間であった。両者とも、別の意味で涼しげであったが、これらのバンドは最重要バンドであるからして、これらの音楽に無粋にも言葉を立てんとするならば、涼には納まらぬ気合が必要である。賃貸アパートメントに籠る熱気たるやすさまじく、午前零時過ぎても、冷房の無い台所などは30℃以上ありそうで、我が家の米が全滅的に腐るのではないかと危惧、いっそ米壷と米壷に入りきらなかった米だけでも、冷房のある居間兼寝室に移すべきなのか、家人に具申する所存でもある差し迫った状況で、さらに内的ではあるが熱を帯びる主題をここに来て選ぶ必要もなかろうということで、滅法界に手に取ったのだエイス・デイであった。ようは白米を守るためである。その音楽性は、冒頭に記したとおりに尽きるのであり、アレンジがソフトロックらしく凝ってはいるものの、ストロベリー・アラーム・クロックほどの的確なサイケ色ではない、兎に角ハッピー感丸出しのスタジオセッションマン的職人的思考の産物であるから限りなくポップスに近いだろう。そうした野暮さが、涼しさもしくはクールから遠く、ほっこりした温もりを髣髴させる、典型的な60年代末期の音である。

拍手[0回]

「the mothers/just another band from L.A.(1972) rcd10161」 2009年8月2日 桃水


 盆休みのため、キャンプの申し込みをしてしまいました。だいそれた事をした気がしてドキドキしております。本気のキャンプではなく、手ぶらで来ても大丈夫なのが売り文句の、らくらくキャンプセット、みたいな、上げ膳据え膳のキャンプコースを選択。天幕や食材や調理道具やランタンは勿論の事、10分歩けば施設の大浴場や露天風呂もあり、車で10分でスーパーやコンビニやホームセンターもあるらしい。
 温泉とかの観光地に行くとどうしても何かしら目に適う器や面白き物を求めてしまって、そうした自分の物欲にいささか疲れ、いっそアウトドア的な自然の中だと茶道具の類はないだろうし、己が物欲に解放される、という算段。
 中学生の頃に集団でさせられて以来、なので一抹の不安があるが、大学の頃読んだ、山と渓谷社の山岳雑誌の特集の座談会で、登山好きの匿名女性らが、火の起こせない男なんて駄目だわよね、といった事をいっていたな、と思い出し、細君にいいところを見せんがためでもある。(そういえば彼女ら、山で惚れても、地上でそれが続くとは限らないわよ、などと、登山中での軽はずみな恋を戒めるような事も云っていた)雨が降らないか心配であるが、当の細君は、寝てる間に熊に襲われやしないか、早くも怖がっている。焚き火しながら、小生が寝ずの番をしなければならないのか・・・。上げ膳据え膳といっても、ビールを保冷するためのクーラーボックスとか蚊取り線香は買わないといけないかな、と早くも物要りになりそうな予感。満天の星空が見たい。
 
 さて、マザーズの「L.A.からきたバンド」である。恥ずかしながらこれまで、ザッパ&マザーズの歌詞あるいはロック・オペラならぬロック・ミュージカル的な世界の台詞について述べることは無かった。ここで、ロックオペラならぬロックミュージカル、と、問題の本質を考えも無く漏らしてしまったが、その通りであり、即ち、欧州殊に英国などでは、例えばプリティ・シングズやザ・フーらのアルバムの一部がロック・オペラと巷間に言われるに対して、マザーズの場合は、これは一般的にはそうした指摘は無いが、ロック・ミュージカルと呼ぶに相応しかろうと思う。ロック・オペラはその方法が換骨奪胎されて後に西洋ロマン主義的プログレッシブ・ロックへと一般化した事からも結果的に言えるように、西洋古典音楽の様式を楽曲構成に展開した。対してマザーズあるいは70年代初期の、タートルズと合弁したいわゆるタートル・マザーズがやっていた音楽は、様式の展開美を明確にするクラシカルなものから端から隔絶し、ミュージカルが踊りながら物語るように、演奏しながら物語るのを猥雑にやってのける。猥雑というのは、物語上の役柄とバンドメンバーを演じている生身の一挙一動が演奏の一打一弦と区別無く相乗するを言う。特にマザーズの場合は、ロック・オペラバンドがやるようにオーケストラの分身のようなホーン・セクションや、直接的に弦楽器群の導入といった、すぐにクラシックに収斂しかねぬ編成に流れず、あくまでもドラムとベースとギターのみで物語ったのが、オペラならぬミュージカルという謂いでもあろう。単純に、アメリカ大陸にはクラシックの伝統が無かったから、というだけでもよい。こうした結果からでも、ザッパ&マザーズが、欧州ロマン主義に変性する機会から遠い幸運の中でサイケデリアを培養できたのを説明できよう。
 ちなみに荒唐無稽の物語を多量の台詞で一楽曲に詰め込むザッパ&マザーズの歌詞世界を、一通り読み下すのも怠けていた小生、これを機に、一曲目の「ビリー・ザ・マウンテン」という、ロック・ミュージカルの白眉を読んでみた。当時のアメリカで流行っていたテレビ・コメディやニュース番組、その他諸々の風俗の固有名詞が、何の説明も無く歌われるので、日本人のみならず、恐らく大半の今のアメリカ人にも分かりにくい。しかしそうしたことを平気でやり続けたことを論ずるには、私小説論になるので稿を改めたい。他者性による内輪批判、内輪性による他者批判、私小説によるフィクション批判、フィクションによる私小説批判といった泥仕合もよいが、ここですることではないため。
 内容は、こんな感じだった。
 アメリカ西部にビリーという山がいて、その肩にエセルという樹木の彼女を乗せている。絵葉書の被写体として退屈な日々を送っていたが、ある日その絵葉書の印税の札束を、キャデラックに乗った男がビリーにくれた。ビリーは喜んで崖の顎が外れ、キャデラックはぺちゃんこ。ビリーとエセルはニューヨークにヴァケーションに出かけることにする。行く先々で街や道を破壊しまくり、ついにはエドワード空軍基地も破壊。その際に古い毒ガス兵器と細菌兵器の倉庫も破壊したため、ビリーは自分に付着した毒ガスや細菌を撒き散らしながらニューヨークに向かっている。ビリーに徴兵要請が来て、忌避している。
 話は別の男に移り、何やかんやあって、このスチュワードベイカー・ホックは、腕にアルミホイルで羽根を巻きつけ、ジャマイマおばんさんのメイプルシロップを足の裏に塗りたくって電話ボックスに入る。するとホックにハエがびっしりたかって、電話ボックスごと浮き上がった!
 ホックはビリーのふもとに辿りつくが、山が笑ってふもとが崩れ、200フィート下の岩クズの中へ落ちていった。

 frank zappa: guitar&vocals
mark volman: lead vocals
ian underwood: winds, keyboard & vocals
aynsley dunbar: drums
don preston: keyboard & mini-moog
jim pons: bass & vocals

拍手[0回]

二日酔い、そして

26日(日)、不甲斐無くも二日酔いにてロック史執筆できず、申し訳ない。本日書こうかと思うも、敬慕して止まぬ露伴の五重塔を読み、かつ先週の鎌倉彫紀行を思えば、今はロックよりも、鎌倉彫と私、の関係の方が重要に思える事うず高い。よって次回ロック史は早くても明日28日、遅ければ8月2日(日)になる仕儀何卒ご容赦いただきたく。

拍手[0回]

先週分休載の理由

鎌倉彫紀行のため、先週のロック史は休載しました。次回ロック史は7月26日(日)です。

拍手[0回]

「虚ろ草子」 2009年7月12日 銀花

今宵はザッパのジャスト・アナザー・バンド・フロム・L.A.(just another band from L.A.)でも、と思っていたが気力続かず、後日に廻す。
枕草子にならって、ずっと続けているもの、あるいは最近取り組んだものの物尽くしで計画がてら済ませたい。

トーマス・マン 魔の山
バルザック 知られざる傑作
フローベール 感情教育
牧野信一 ゼーロン・淡雪
道元 正法眼蔵
岩波書店版 近世俳句俳文集 風俗文選
熊倉功夫 南方録を読む
蓮如 御文
季刊 銀花 ←いい雑誌です。
別冊太陽 豪商百人 盗人百人
モーニング
デリダ マルクスの亡霊たち
山本義隆 熱学思想の史的展開



まだまだあったのでこのへんで。
来週は、上記アルバムを例にとって、音楽の側面ばかりであまり批評される事のないザッパの内輪物語について述べます。
また、たこ焼きのように売られて死す24時間営業スーパーの日本カブトムシに端を発して、NHKで過去に放送された、子供を自然の中で遊ばせるという企画の番組(二つの番組)の欺瞞について告発します。
いい訳ですが、なぜ今日は疲れたのかというと、小生の新作「夜学歴程」の製本のために、印刷会社にコンタクトを取ったためです。といってもメール送っただけ。こんな事で気が小さくなるとは、何だか、モーニング掲載の、僕の小規模な生活、みたいだ。このプロ愚を開いてしまった意識の高いあなたにこそ相応しい作品です。どしどし予約してくだされ!

拍手[0回]

些細

劇的ビフォアー→アフターのスタジオのセット、見るに、古民具や骨董のまがい物の類が大きく造作されており、中にはなぜか伊万里の大皿が回転していたりしている。こうした物らは番組内容と全然関係ないように思うが、どちらかというと、開運!なんでも鑑定団に相応しいセットではなかろうか。局が違うし何ともいえぬが、突っ込まずにはいられないので一応指摘しました。

拍手[0回]

「pere ubu/the modern dance(1978) bom812」 2009年7月5日 私信


 磁器など侘びに適わぬと敵意剥き出しだったのが、細君が買ってきた煎茶道の本を、「こげなものを・・・」といった態度でぺらぺら斜め読みするに、あっさり煎茶道具にぞっこん、抹茶を本道とするのは変わらぬとしても、煎茶によく使われる白磁の小さき茶碗にも色目を使い出す物欲の権化の小生である。そうなると、実は兼ねてより、磁器の中では例外的に欲していた古伊万里、初期伊万里の、ぽってり侘びて可愛らしい蕎麦猪口への所望が激しくなるこの頃です。あの色褪せた、儚げに遠くに後ずさるような、慎ましい染付けの日の本の草花文がたまらぬ。

 ペル・ユビュである。アメリカ、時は1978。プログレッシブが高踏的として批判され、産業サイケデリアがようやく擬似ピースフル連帯としてその欺瞞が喝破されながらも、ガレージの凶暴が擬古典主義的ビートポップあるいはパンクに挿げ替えられた形が不幸な事に先鋭的だと持て囃されもした時代でもあるが、そのようにガレージサイケの率直かつ滑稽な凶暴が文化として文脈化され、一方で旧い世代の文化を共有することの不可能性つまり世代間断裂に立脚した反抗であるパンク~ニューウエーヴのムーヴメントであってみれば、パンクが如何に下劣な叫びを上げようとも、ガレージサイケの真骨頂たる似非土着的野蛮に至らず、擬古典主義的ビートポップに収斂されるのも致し方なかった。(似非土着的野蛮というのは、アメリカ大陸における白人の土着性という矛盾から発せられたキチガイの謂いであるが、詳細はこのプロ愚を遡って読んでいただければ理解していただけると思う。)
 しかしながら、かような大勢にあって、否、かような大勢であるからこそ、何度も言うが点在する系譜はムーブメントを拒絶する突発を、孤立して、独自に、しかし着実に、相続も遺伝も拒否して、生まれてしまうのであるし、そうした者らが星座無き点在する系譜として、継続を拒否しながら、各時代に捨て置かれた地雷のようにして居るのである。ペル・ユビュもそうした音楽史的地雷の一つであった。ここでその地雷を分かる限り列挙、紹介しても良いが、そうすると地雷の地雷たる意味がなくなるので、その都度各自で地雷を踏んでしまうように、折に触れて紹介したい。既に本プロ愚で挙げたのであれば、無論ザッパ&マザーズ、ローリング・ストーンズ、ビーチボーイズ、シャッグズ、the 13th floor elevators、ブルースマグーズが相当するがまだまだ居ますのでご安心を。
 そしてペル・ユビュは、かような大勢の当時、やはりパンク的文脈で聴かれたかもしれないが、その音楽性に注意深く耳を澄ますと、点在系譜の一つであったといえる。しかも、見かけ上サイケデリア運動が終わった後での事ゆえ、その点在性は否応無く水際立つ。あの時代にあって、ペル・ユビュは、アメリカというものを執拗に考えていた。考えていた音を臆面も無く出していた。
 それは、「アメリカ民族」、という概念ではなかろうか、と、ここに小生が初めて提唱したい。小生のホームページに奇妙なべん図があるのをご存知だろうか。そこに、アメリカ音楽の点在する系譜、を含む形で、王道無きロック史と、そしてアメリカ民族の誕生、が記されている。そう、アメリカ音楽の点在する系譜、を本質的に論ずるには、大局として、アメリカ民族の誕生、を見ていなければならないのである。
 これは精密な文献調査を要する結構な大著になりそうでいまだ着手ならないが、漠然とした目論見としては、日本人である小生が、まことに勝手ながら、アメリカ民族というのを定立しその誕生を宣言する事である。アメリカ建国より1世紀以上経った今日、いまだに多民族国家を自己同一性に置いているアメリカであるが、まず、多民族性の特権化特徴化というのを批判したい。そもそも、人間は連綿たる命のリレー過程における、途方も無い混血の結果である。この日の本とてアイヌ民族や沖縄民族を含めた多民族国家である。すべての国家は多民族国家であり、あい異なる文化文明との習合により結果している。そうした観点からすれば、もう建国から幾年月も経過したアメリカであるし、今更多民族国家を云うのはカマトトぶる未熟と云えはしないか、ということである。だいたい、今日、コミュニケーション論の一貫で云われがちな多様性や他者性といった概念が眉唾ものであり、そこで云われる多様性や他者性などは全く不徹底で欺瞞的であることを証明したい。
 多民族性を多様性の根拠とするのに欺瞞がある。多民族性は政治や文化の多様性の根拠とはなりえない。多民族とは言い換えれば複数民族であり、複数民族は無限ではなく有限数民族に過ぎない。従って単一とまではいかないにしても結局まとまった可能性の許容範囲内に過ぎないのであるからして、そこから他者性や多様性をいうのはおこがましいだろう。
 一方で、イスパニックやアラブやチャイニーズやアングロサクソン等といった他種の文化を起源に持つとはいいながら、今日、既にアメリカ、としてまとめられてしまう程度の文化の均質化がアメリカ国内で進んでいるのではないか、という思いもある。そして、外国に、アメリカ文明のみならずアメリカ文化なるものも既に発信しているのではなかろうか。無論こうした事が本当に言えるかどうか、今後の小生の調査を待たれたい。
 ペル・ユビュ初期の本作は、プレーリーの荒野で陽炎の如く立ち昇る白人キチガイの憩いといったものではなく、ジャケットにもあるように、インダストリアル・プリミティヴとも云うべき、都市工場地帯に寄生するプロレタリアートの、汗でぐっしょり濡れた背中から立ち昇る土着的怨念といった、まったく新しい、そしてこの時代に相応しいレジスタンスであった。実にいいジャケットデザインであり、モダーン・ダンスとは言い得て妙である。ペル・ユビュこそはアメリカの、ロックのモダーンといえるバンドの一つである。そして、多民族性を多様性だと言い張る驕慢から遠い処で、彼らは、白人と原住民と黒人らの織り重なる習合と引き裂かれた断絶をありのままに受け止めたサイケデリア音楽を無茶苦茶に無駄に遂行する。
 力士並みの巨漢デビッド・トーマスがどこかへなへなの情けない声で怒りを吐き散らすが、その気の抜けようが、点在する系譜地雷の火薬成分の必須であるサイケデリアのピースフルな凶暴を思わす。そして神経症的パルス音ノイズ音や、一聴では親しみやすげな、生き急ぐリズム隊も、決して土着に安泰できぬプロレタリアートの都市部への土着といった引き裂かれをさらに不安にし、これはつまり、サイケデリアの本然(=似非土着的野蛮)と合致するのである。デビッド・トーマスはペル・ユビュ解散後、デビッド・トーマス&トゥー・ペイル・ボーイズを結成、現在でもディープにサイケデリア・アメリカーナに沈潜する試みを続行している。耳が離せぬ最重要人物の一人である。

tom herman:ギター、ベース
scott krauss:ドラムス
tony maimone:ギター?、ベース?
allen ravenstine:ノイズ、キーボード
david thomas:ボーカル、ノイズ

拍手[0回]

「the soft machine/the soft machine volumes one and two (1968-1969) cdwikd920」 2009年6月27日 マイケル忌


 新しいものを発見する気力や眼力がないというよりも、新しいものの創出による既成権力の破壊を恐れる既成権力の報復を恐れる卑屈な臆病が蔓延しているのだろうか、あるいはそうした卑屈な臆病を自覚出来ぬほどの無知無能が常態となっているのだろうか、かつて承認されたものが改めて追認され持て囃される閉塞的保守的昨今の文化状況である。しかるに、猫も杓子もパチンコ屋もコンビニも、村上春樹、エヴァンゲリオン、美空ひばりである。まして小生などは、はなから美空ひばりを承認、否、好みに思っていなかった。
 先週、美空ひばり没後20周年ということでNHKで特集歌番組をやっていた。日の本の歌謡曲を全的に否定するつもりはないし、小生とて田端義夫や村田秀雄、ピンカラ兄弟、内山田洋とクールファイブ、東京ロマンチカ、小椋圭や山口百恵やウィンクを好むものである。しかしながら日本歌謡曲が聴き手の音楽認識の限界を変換、批判しうるような積極的音楽であったことは、上記の彼らを除いてほとんど皆無であろう。その皆無さの代表が美空ひばりという絶望的状況であると言えるだろう。聴き手の趣味範囲を予め措定しその範囲内でやって喜ばれる戦後エンターテイメントの類稀な鼻声の拡張に過ぎない。
 ニュースで、美空ひばりの墓参りに訪れたファンの中年女性たちの集いを見たが、中には例外がいるかもしれないと慎重に留保する態度をとったところで状況は変わらないだろうから有体に書くとするならば、彼女らのような美空ひばりファンが、例えば日本GSの本質を聞き取ってその当時きちんとGSを擁護したとは考え難いし、ましてや彼女らがソフトマシーンを、自分を揺るがす体験として聞き取ったとは考え難い。小椋圭が美空ひばりに提供した楽曲「愛燦燦」を、件のNHKの歌番組で小椋圭自身が歌ってくれたが、美空ひばりよりも格段に良い。心におずおずと滲みました。美空ひばりよりも小椋圭が如何に素晴らしい歌手か、についてはまた詳述したい。

 ソフト・マシーンである。英国。このファーストとセカンドは、一聴して腑に落ちる音ではなかった。何をやろうとして何になっているのか分かるバンドではなかった。一体何なのだろう。いまだにさっぱり分からないのであるが、少なくとも英国のあの叙勲バンドに端を発した英国の産業サイケに全くサイケデリアの本分を聞くことが出来ない本プロ愚の論旨にとって、英国産でありながらサイケデリアを感得できる数少ないバンドの一つであると言える。しかしそう言った途端、サイケデリアからも様式を嗅ぎ取って速やかに前衛ジャズロック的試みへと流れていくだろう、そうしたバンドである。
 まず彼らの成したサイケデリアであるが、決して骨太ではないにしてもその線の細さや弱弱しさや巧妙さが攻撃的でもありうることを、威圧的でない、しかし川の流れが決して単調ではないように複雑巧緻なリズムで納得させるだろう。至って物寂しいが、それが英国あるいはアイリッシュな民俗に許容される雰囲気作りを拒絶する、どこまでも現代的な病的さである。ザッパの場合、凶暴さの背後にどこか低調な衰弱を思わすが、ソフト・マシーンの場合は弱弱しさの切っ先に攻撃性を尖らす、そしてその攻撃性はどこまでも儚いのが、サイケデリアの一様相とも言えるだろう。
 ジャズロックについて考えなければならないが、これがよく分からぬ。ジャズ的素養をふんだんに取り入れたインスト主体のロックといってしまえばそれまでだが、そうはいってもジャズロックなるものをいわゆるジャズと聞き間違う事は少ないだろう、ジャズとジャズロックの間には、当然ながら途方もない飛躍がある、と指摘するに留めたい。
 ただ、このファーストとセカンドは、ソフトマシーン後期の、おさまりどころを得たようなジャズロック目的のアルバムとは異なる。あまりに儚かったがゆえに彼ら独自のサイケデリアの終りからも流去した彼らは、プログレッシブにもハードにも、ジャズロックにもおさまれぬ無人の荒野で、萩の原のように咲き乱れたのであった。
 そう、ソフトマシーンは、ロック史における点在する系譜に含まれうる、突拍子も無い点であった。あるいは、後にカンタベリー一派と括られるにしてもそのカンタベリー~レコメンディッド・レーベルといった英国の日陰者らが、デリダ風に言うと散種された点在する系譜になるのであろう。いかにもインテリジェンスの利いた音作りに聞こえてしまいそこが馴染めぬ御仁があられるかもしれぬが、知性や理念ほど凶暴なものはなく即ちロックに相応しいことを示してもいるのがソフトマシーンである。

マイケル・ラトリッジ:オルガニスト(?)
ロバート・ワイアット:ドラムス、ボーカル
ケビン・エアーズ:リード ギター
ヒュー・ホッパー:ベース

拍手[0回]

忍者ツールズプロフィールは終了しました

HN:
々々
性別:
非公開

04 2025/05 06
S M T W T F S
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31

ロック史最新記事

(03/03)

ブログ内検索

最新トラックバック

忍者アナライズ

Copyright ©  -- 仄々斎不吉 --  All Rights Reserved

Design by 好評ゼロ / powered by NINJA TOOLS / 忍者ブログ / [PR]