ロック史を体系的議論から解き放ちながら、サイケデリアの土着性とハードロックの非継承性を論ずる。主要1000タイトル、20年計画、週1回更新のプログ形式。
カテゴリー「カテゴリーなし」の記事一覧
- 2025.05.15
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- 2009.11.01
「the soul children/genesis(1972) pcd-4433」 2009年11月1日 円楽時雨
- 2009.10.25
「yes/yes(1969) elektra/rhino8122-73786-2」 2009年10月25日 曇秋
- 2009.10.18
また追記
- 2009.10.18
夜神楽見物
- 2009.10.11
追記
- 2009.10.11
野次
- 2009.10.11
「frank zappa/ waka/jawaka(1972)rcd10516」 2009年10月11日 野分晴
- 2009.10.04
「tom ze/nave maria(1984)som livre-02412」 2009年10月4日 白雨中秋
- 2009.09.27
加筆
- 2009.09.27
「captain beefheart & his magic band/trout mask replica(1969)wpcp-5738」 2009年9月27日 後添え
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「the soul children/genesis(1972) pcd-4433」 2009年11月1日 円楽時雨
国産ワインを嗜好する小生。このほど好飲している、県北は世羅郡世羅町産の「せらワイン」、大変満足している。そして今も飲んでいる午前1時20分。先週のモーニング掲載「へうげもの」も、面白かった。詰まらぬページが一ページたりとも無く、感服。そろそろ、小生が考える、実写版「へうげもの」のキャストを公表すべきか。毎週、サラダのために、レタスを買うが、小生、レタスの効能をほとんど信じきれずにいる。瑞々しい嵩張りだけでしかないようなあの葉っぱに、本当に栄養があるのだろうか、と。「サラダの本質とは何か、それは、人間とは基本的に生野菜が嫌いなのだ」とは、美味しんぼの雄山の至言ではあるが、レタスへの不審が高まる小生、レタスやトマトやパプリカやキャベツやかいわれ大根やキュウリや水菜以外で、頼りになるサラダ野菜を欲するも、そうすると、もう、サラダ、というものへの疑念もふつふつである。ちなみに、小生は、美味しんぼという漫画、大嫌いで、この漫画の絶望的な保守性、海原雄山=北大路魯山人、を芸術の最高峰とするあまりに狭量な世界観に辟易しているのだが、料理知識につい引き込まれて、1~70巻は所持、読了している。岩倉具視がダンジリの連中によって道頓堀のどぶ川に突き落とされる夢。山奥の現場に行く途中の県道で、狸の轢死体を多数避けるはめに、秋の深まりを感じ入る。
さて、もういつのことだか忘れたが横尾忠則氏の一件である。NHK日曜美術館での出来事。
横尾忠則氏が、とある美術館内で、観衆の前で絵画するという。美術史において欧米で1950~1960年代ほどに、アメリカのアクションペインティング(ジャクソン・ポロックなど)やフランスなどのアンフォルメル(ジョルジュ・マチウやサム・フランシスなど)といった潮流で流行った絵画ライブである。
観客も結構居た。横尾氏の今更ながらのそうした試み、例え美術館という箱物制度に守護されているとはいっても未だに刺激的に思われてしまう企みを、わざわざ見ようとする人々なのだから、それなりに文化的意識の高いのだろうが、皆、黙って見ているだけであった。
思い出すのは映画「ニュー・シネマ・パラダイス」。映画は、老若男女別なく、わいわいがやがや好き勝手に騒ぎ放題で映画や別の事に対する野次や賞賛の声が上映中に構わず叫ばれたりひっきりなしに物が飛び交う雑多な中で上映されており、それでも、映画の中で事が起こると、別のことでの騒ぎもありながら、観客総出でどよめいたり、何とも猥雑な、そして望ましい幸福であった。
従って、野次や怒号の一つもあっていいと小生思うが、しかし、品よく文化的意識の高いこのプチインテリゲンチャらは、おとなしいばかりか、横尾氏を理解の目で包む生温かい連帯を演じており、また媚びか、巨匠への媚びなのか、と思い絶望した。野次を飛ばす柄の悪い、無理解な市民も居てしかるべきである。しかし、そうした連中が美術館に足を運ぶべくも無いのは横尾氏も承知のはずである。横尾氏ほどの画家であるならばそうしたおとなしい媚びに気付かぬはずはなく、そして容赦ない、言論界で安住する批評性が全く無い野次や声援を求めているのではなかったか。ならば横尾氏は、自分の絵画ライブを盛り上げるために、観客の中にさくらを仕込むことも辞さず、多いに罵詈雑言させるべきであったろう。やさぐれの、出来れば本宮ひろしの「男樹」のような、ずたぼろの学ランのズボンを縄で縛っているようなヤクザ男(劇団員でも可)を仕込んで、横尾が描く線の、色の一つ一つに薄汚い文句をつけさせるべきであったろう。
以下、小生が望む野次や応援の妄想である。
(横尾氏がキャンバスで何かやるごとに・・・)
「陳腐だあ」
「つまんねー」
「まだかー」
「まだやるんか、おい」
「そうだあ」(国会風の賞賛)
「拍手かよ、くだらねー」(観客の品よい拍手に対して)
「納得できねー」
「終わったら完成じゃねーのかよ」(横尾氏の「作品は終わりますが、完成ではありません」の発言に対して)
「そんな説明もとめてねーぞ」
「黙れ」(野次ヤクザに対して、ようやく芽生えた一般観客の反応)
「一人で描くことと、人前で描くことの違いをどのようにお考えでしょうか。そこには社会的観点を想定しているのでしょうか。」(野次ヤクザがいきなり真顔で言ってもいいし、このヤクザに触発された良識市民の声であってもよい)
そうこうしているうちに、美術館の、横尾氏の仕込みであることを知らされていない、物の分からないキュレーターに指示された警備員にその野次ヤクザが取り押さえられ、会場から野良猫のようにつまみ出されながらも、なお野次ヤクザ(劇団員)は憎まれ口を叩き続け、承認された範囲内で文化的意識を高めているぬるま湯観客の頭上に、不穏に汚れた文句を雹のように浴びせかける。
「おい、どーする横尾ぉ!」
「いーのか、これで!」
・・・そんな荒れた情景が、NHK日曜美術館で放送されたら、小生、くさくさしがちな日曜日の朝でも、すっきりするだろう。
プチインテリゲンチャ観客の構成要員のほとんどが団塊と団塊ジュニアであるからしてその絶望的な保守性を慮って、横尾氏はそこまでやるべきであったのだ。いや、むしろ小生がこの絵画ライブの日程を知っていたならば、観客の一人としてその現場で多いに野次や声援を発散することが出来たのに、残念である。そうすれば、60年代の加藤氏のゼロ次元や現在の会田誠の一派の試みとは違った意味で、面白いハプニングとなっただろう。
ソウル・チルドレンのサード。1972年。アメリカ。ソウルという音楽も経時や地域、あるいはレコード会社の差異による種々の方向性を明確にした音楽であるが、これはスタックスレコードにしてディープ・ソウルの名盤、既に人口に膾炙するところであろう。ブルースなどの音楽だけに限らないがソウル・ミュージックにおいても、北部と南部に差異が想定され、即ち北部のモータウンに対して南部のスタックス・レコードがある。殊更に峻別する必要もないし出来もしない模糊とした部分ではあるが、モータウンの、白人好みにステージ上での振る舞いや仕草まで矯正の対象となるショウビジネス色の強い、ノリよく踊れるリズムナンバーやメロウ趣向とは一線を画すように、スタックスは、ソウルという音楽に肉迫するべく、どこか内に籠った意固地な愚直な有様を選択した。そうすることで、ソウルという音楽の肉付きとでも言うものが炙り出され、即ち、ブルースのみならず、ゴスペルという、これはこれで大きいテーマとなりうる音楽の血流をソウルに聞き出すことができる。ディープソウルと云われる所以である。当たり前の話である。ただ、ジャズやブルーズやゴスペルが如何にしてソウルという音楽に結実したか、は、結論を述べる以上に難しい話である。しかしながら、ロックという耳から考えると、何が分かるか。何も分からないかもしれない。
ソウルの演奏面はR&B的な手法や歌謡ジャズやビッグバンドジャズ的要素により構成されるとすると、ソウル的歌唱は何なのか。これはブルースの本来の、ただのおっさんのだみ声からも出てこないし、ジャズ歌謡の洗練とも違う、ゴスペルに近いものがあるかもしれないが、ゴスペルの、やはりキリスト教らしく人を垂直へ導く煽りはソウルには聴き当たらない。ソウルにとって、スタックスがモータウンよりも本質的だ、とする理由は何も無く、むしろモータウン的な音楽こそが廻り巡ってソウルの有様が直に表されていることが後で分かるが、兎も角、何でもいい、この、ソウル・チルドレンをしんみり聴くとすると、ブラックフット(黒い足)の歌唱が凄まじければ凄まじいほど、白人が黒人を模倣したロックという、激しさを志向する音楽の中で白人が演じた黒人の、過剰な黒人性というものが聴こえてこないか。黒人の黒人たるを証明するようなソウルフルな声、というものは、白人にとっての黒人のイデアを当の黒人が受け継いだものではないか。ロックという形でブルースやR&Bといった自分らの音楽までもが白人どもに侵略される中で、それへの抵抗としての黒人性の立脚とすべく創発されたかもしれないソウルが、まさに敵である白人の妄想を基盤としていた可能性を、小生、拭えぬ。ソウルと紐帯分かち難いゴスペルにしても、事情はどうあれアフロキリスト、黒人単独が創った仕組みではない。
そういう意味では、一聴するとスタックスは黒人による黒人のためのソウルというものをより本質的に追究をしているかのように聴こえるにしても、実は、白人への意識、悪く言えば媚び意識が高いモータウンの方がソウルという音楽の情勢を如実に示しているのかもしれない。
ただ、以上の事はうがった聴き方というもので、当のソウル音楽の素晴らしさを損なわせるものではない。そうした、歴史と因果からの飛躍が音楽の、只ならぬいかがわしさというものである。
男二人、女二人が容赦なく互いのヴォーカルをぶつけ合う。特に黒い足の声は、無味乾燥なベニヤ板をも噛み砕き、冷凍庫から出したばかりの肉塊をついさっき円盤のこぎりでスライスした凍った肉板を、がっと両腕で引き伸ばさんとする獰猛な、前歯むき出しの声である。そして、手数少なく、地味ながら飽くまでもバックに徹して唄を盛り立てるリズム隊が、華やかさをこそぎ落として、滲みる。コクのある演奏である。他愛無いバラッド楽曲が多いが、それが、唄を真っ直ぐに際立たせ、聴く者聴かざる者全てに心優しい。夜気の中、まだ蓄熱した土壌に寝そべると背中を通して伝わる温もりや耳元で蚊初める微音の、人からなのか自然からなのか問う必要もない逞しい慈しみに包まれる。パファっと割った、湯気立つ鳴門金時焼き芋の黄金の断面に、小さくなった小生がソウルの巨人につままれて木釘のように叩き込まれる、そんな熱い音楽を、魂の子らが惜しげもなく歌う、畢生のソウルアルバムである。
ジョン・コルバート(J・ブラックフット):ヴォーカル
ノーマン・ウェスト:ヴォーカル
アニタ・ルイス:ヴォーカル
シェルブラ・ベネット:ヴォーカル
ザ・メンフィス・グループ:リズム
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「yes/yes(1969) elektra/rhino8122-73786-2」 2009年10月25日 曇秋
書道ラブコメディ漫画「とめはねっ!」を購入。手っ取り早く、文人趣味の必須科目、書道について学ぶ。さえない男子が、なぜか可愛い女子にもてもて、という典型に、書道を付け合せた文化系女子漫画である。そそられるのは矢張り道具、自分が書を始める時は、硯、筆、水滴、文鎮、紙などに、己が目に適ったものをお助けしたいものである。数寄において、身の程をわきまえるつもりはまったくない。字がへたくそな小生、いきなり最高の道具を以って書の道に挑みたい所存。漫画読みながら、宿便快男児、や福耳女子高生、などといった馬鹿げた言葉を浮沈させて夢想に励む。どっしりこってりした握り寿司の油絵も描きたいが時間が無い。
朝、日曜美術館が半分しかなかったので憤然としながらだらだらテレヴィ見ていると、またあった、団塊ジュニアによる団塊への媚びへつらいが。昨今、目につくこの種の媚びをいちいち指摘することが本ブロ愚の頼まれもせぬ使命になりつつあるが、大事な事は何度でも書く覚悟だけは小生旺盛である。一瞬、また見つけてしまった、と思って心の嘔吐催して直ぐに目を逸らして番組変えたが頑張って元に戻したが、つまり、どこかの地方の山間部で、フォークジャンボリーなる催しの舞台裏、をドキュメントしていた。オヤジバンドなるものがどこまで音楽に対して真摯で根本的な仕事をしているのか皆目分からない。渡る世間は鬼ばかりのオヤジバンドのような単なる胸糞悪い懐古趣味のイメージが大手を振っている陰で、熱いビートをじゃりじゃり聴かす老いてなお盛んな団塊ロックも地方には出没しているというが、このフォークジャンボリーにそうした危機意識の高い身につまされるような音楽を見出す可能性は皆無である。それは日本フォークという音楽の限界所以であることは過去に何度も書いたので参照頂きたいが(2009.3.1付けの記事)、往年の、そしていまでも続けているフォーク歌手らが何をやろうと反体制の皮を被った日和見連帯に過ぎぬので何の意味も無いばかりか意味ありげに見せているところが狡猾なる欺瞞である。遠藤賢司がアコースティックギターかき鳴らしながら絶叫し続けようとも、そうした音楽構造が音楽として稚戯なる満足に過ぎぬのでどうしようもない。
ただ、往年の団塊フォーク歌手とそれを好んできた団塊客が懐古趣味的に地域手作りステージに集うのは、最早批判の対象にはならないどうでもよさである。勝手にすればよいだけの話だ。ただ、問題なのは、大物歌手らが歌うメインステージとは別に設けられた、ミニステージとやらで、往年の和製フォークに共感するかのように、団塊ジュニアらしき年代の者らが、世相を反映する歌詞をアコースティックギター一本でフォークしている様が流れた事である。中には派遣切りキリキリマイと題してその手の事をフォークしているのだが、その若い彼女は、かつて団塊らが革命の現場で和製フォークに甘んじそして今となってもそれを懐古解雇的に復権させようとする狡猾を批判せぬばかりか、音楽的意志の低さゆえなのか無自覚に自堕落和製フォークを翼賛し再生産するその行為が、極論でもなく、派遣切りや年越し派遣村を引き起こしたことを認識すべきではないか。音楽が出来る者の責任を意識しないからああした体たらくになる。小生、何度でも書くが、団塊ジュニアによる団塊への媚びへつらいを、今後もゲリラ的に指摘していくだろう。
そして、先々週の日曜美術館での横尾忠則の一件は、そうした種類の媚びと芸の道とが深く関わる好事例の最たるものであったが、先を急ぐのでまた後回し。来週こそは、きちんと書きたい。ありきたりなフォークジャンボリーの件などよりも、横尾忠則の件を最優先すべきであった。
イエスのファーストアルバムである。1969年、英国。後に英国プログレッシブ・ロック(以後、プログレ)のみならず全プログレの荒筋の中でも取り分け重要となるバンドであり、キング・クリムゾンとは別の、方法、とは断定し難い雰囲気でおよそプログレを印象付けた役割が大きかった。しかし、イエスを、プログレの代表、などと説明して漫然とするは、たとえば並木路子の「りんごの唄」が、敗戦後の日本大衆を復興へと勇気付けた、などといって乙に澄ましているのと同じであり、何も言った事にはならないだろう。常に変化、つまり無常、あるいは段違いに遷移し続けては分野の小宇宙コロニーを形成したかと思えば破壊もするロックというケダモノの音楽の、そうしたサガの骨格のようにして生きた、生き続けた、あるいは生き延びたバンドというのはいくつかあるが、イエスもその一つである。無論、一瞬生まれて直ぐに消えた星屑泡沫バンドの有り難さを否定するものではない、「棺桶に直に赤子を産み落とす」(ベケット)有様も、ロックの、そしてバンドのバンドたる所以である。100年続く老舗オーケストラなどの安泰の愚を横目に毒牙一閃するのがロックという音楽の不逞である。
それは兎も角、レッド・ツェッペリン「song remains the same」とザ・フー「who's next」とイエス「yes songs」の三つ巴、三国志で一挙に物語ることで、この三者の、そしてハードロックというものの本質が炙り出されると、小生、企画している。この念頭は非常に重要な、この王道無きロック史の天王山ともなるので、今日は足を踏み入れないが、イエスにしても、他の2バンドにしても、ザッパと同じく、全アルバムを詳細に論ずる必要があるため、本日はイエスの第一歩である。(関係ないが、2大政党制というのは危険かつ退屈ではなかろうか。三国志の例もあるように、三大政党制の方が、政治的に面白いように思う)
繰り返すが、イエスのファーストである。1969、英国。如何に1969の英国が、ロックの本来が形成や仕組みを拒否して揺らぎ混沌と、希望無き可能性にたぎっていたとはいっても、この突飛な音楽を説明付ける概念は、その当時にも、そして現在にも、全く無い。あまり妥当とは思えない言葉だが全盛期のイエスがプログレだと仰るのに、特に目くじら立てようとも思わないが、ファーストからサードまでの放浪記は、サイケデリアの時に生硬な攻撃性や馬鹿馬鹿しい陽性を忌避して、英国の霧、などというと先ほどのりんごの唄になるが、稚拙で大きく、これを信じたら将来碌な事が無い楽観ファンタジーへと誘うのはジョン・アンダーソンの天上的な歌唱ゆえなのだろう。加えて、ジャズ的な音の運びを白人風に脱色してパストラルな精緻を、珠玉のようなオルガンがころころ悲愁させるから、これを既にプログレの萌芽、と見なすのは簡単だが、そうすると大事を聞き落とすことになりかねない。大事は常に小事に隠されている。
しかしながら、この時点で、サイケコンセプトアルバムの切り貼りや、ブルースサイケの冗長性の堂々とは違った書法で、構成の長々とした、緩い起伏がいつまでもふわふわ続くような、後にプログレの典型となる楽曲構成が既に確立しているのは確かだ。それでいて、演奏は、ドラムもベースも、相当熱く、ガッツが効いてリズムがブンブン、兎(=ジョン・アンダーソン)追いしかの山。ただ、その熱は、冷たげにも見える白熱電球であるが、触ると聞くと、あっつい、そしてその熱さは、脆い。プログレというと知に働いて角が立った冷たい技術権化と思われがちだが、今後語られるだろう三つ巴で詳論したいが、プログレの代表のようなイエスから、ハードロック特有の熱さ、脆さ、というのが既にうかがえるのである。こんな稀有なことが、1969年英国で、あっさり起きていた。
ああ、イエスについて、こんなことでは、何も言った事にはならない。以上の文章、全然駄目だ。今日はこの辺で仕舞いにしておこう。フーにしても、ツェッペリンにしても、いわく言い難いのであろう。しかし、このもどかしさは、良い音楽に出会った証拠だ、最上の音楽は聴くことでしか味わえない。あるいは真似るか。何にしても月並みだ。狂歌をひとつ、「月並みに踊るも恥か踊らぬも恥」。
bill bruford :drums, vibes
tony kaye :organ, piano
peter banks :guitar, vocals
chris squire :bass, vocals
jon anderson :lead singer, incidental percussion
夜神楽見物
またしても青春リアル、東京カワイイTV、スイーツ好きのスイーツ男子などを、いまいましく苦々しく、たわけが、などと思いながら、ねめつけるようにして、昨日の職場の宴会での不味い酒を払拭するため、今晩、あらためて清め酒に走る。
近所の神社で秋祭り。夜神楽見物に行く。笑いあり笑いありの、清々しいひと時を過ごす。土派手な衣装での回転が速すぎて凄かった。ひょうきんなものを久しぶりに見た。
金木犀も香り初め、釣瓶落としの杮落とし。講習会に行って出題されるところを教えてもらうなどといった小器用なことなどできるか、と意地張って本屋で最も分厚い参考書の全てを覚えよう理解しようとして全てを覚えられず全てを忘れて落第し続けてきた危険物取扱者甲種の、その講習会に、11000円自腹でいそいそ出かけるも、目にゴミが入ったため心身消耗し何も得ず、不毛な時を過ごしたのだった。講習会などに行く手筈を能動的に整えて、まるで効率よく情報を得ようとするかのような行動が小器用に思えて我慢ならなかったのだが、そうもいかなくなったほど追い詰められたということだ。自己啓発を強要して勤務時間外の個人時間まで搾取しようとする会社の余計なお世話は新興宗教以上だ。
そんなこんなでもう今宵はロックという気分でもないので、休載します。訳あってエステティックサロンの券を持っており、使用期限が迫っているのが気にかかるこの頃である。この小生がエステティックサロン(メンズ美顔コース)に行くという、この事の顛末も、面白いことになりそうだ。先週の日曜美術館の、横尾忠則の所業も忘れてはならず、課題多し。山口県から、壷祭りのお誘いの葉書が来た。どうしたものか。
近所の神社で秋祭り。夜神楽見物に行く。笑いあり笑いありの、清々しいひと時を過ごす。土派手な衣装での回転が速すぎて凄かった。ひょうきんなものを久しぶりに見た。
金木犀も香り初め、釣瓶落としの杮落とし。講習会に行って出題されるところを教えてもらうなどといった小器用なことなどできるか、と意地張って本屋で最も分厚い参考書の全てを覚えよう理解しようとして全てを覚えられず全てを忘れて落第し続けてきた危険物取扱者甲種の、その講習会に、11000円自腹でいそいそ出かけるも、目にゴミが入ったため心身消耗し何も得ず、不毛な時を過ごしたのだった。講習会などに行く手筈を能動的に整えて、まるで効率よく情報を得ようとするかのような行動が小器用に思えて我慢ならなかったのだが、そうもいかなくなったほど追い詰められたということだ。自己啓発を強要して勤務時間外の個人時間まで搾取しようとする会社の余計なお世話は新興宗教以上だ。
そんなこんなでもう今宵はロックという気分でもないので、休載します。訳あってエステティックサロンの券を持っており、使用期限が迫っているのが気にかかるこの頃である。この小生がエステティックサロン(メンズ美顔コース)に行くという、この事の顛末も、面白いことになりそうだ。先週の日曜美術館の、横尾忠則の所業も忘れてはならず、課題多し。山口県から、壷祭りのお誘いの葉書が来た。どうしたものか。
「frank zappa/ waka/jawaka(1972)rcd10516」 2009年10月11日 野分晴
またしてもNHKの「青春リアル」や民放の「カウントダウンTV」を、消音して、深酒のため薄汚れて瞼が厚ぼったく垂れる半眼でどす黒く睨み付けるようにして見ながら、赤ワインつぎつぎ、執筆中。
アメリカ合衆国大統領のオバマ氏がノーベル平和賞という茶番、多くの日の本の民にとっては違和感だろうに、中には歓迎の意を示す街角インタビューの市民もおり、情けない思いである。その理由は既に多くの新聞やネットで公開されているもので事足りるのでここで言う必要も無いが、オバマ氏は、賞を辞退して、広島・長崎の歴代市長の代表として現市長に受賞させるよう呼びかけるならば、大した男である。彼がプラハで今年一回だけ演説した内容は、毎年、両市長が国内外に向けて演説している事と同じ内容であり、人々を改めて歓喜させるような、そして受賞理由に値するような新しい内容は全く含まれていない。日の本だけでなく、いわゆる貨幣経済が流通している多くの国家にまで、何となく大きいもの、(軍事)力を持っているものへの、先方から頼まれもせぬ媚びへつらい著しい醜態が蔓延している。それにしても、オバマ氏の反核声明に便乗するかのような広島市の、オバマジョリティなるキャッチフレーズには開いた口が塞がらない。(オバマ+マジョリティ(多数派)の造語)オバマジョリティ音頭なるものまで作ってなぜへつらう。占領終了後この方途切れる事無く反核都市の中核の一つを曲がりなりにも自らに担ってきた広島市が、なぜ、愚昧この上ない大統領ブッシュ二世の次に就任した、少しはマシな大統領の、それはそれで立派ではあると認めるが特に実績も無い者の動静に便乗しようとする卑屈を演じるのか、理解に苦しむ。オバマ氏が広島市長崎市に対して、自分(オバマ氏)の言う事にさも追従するような態度を取れ、まるでオバマ氏が反核運動を歴史上初めて始めたかのように称賛してくれ、その証としてオバマジョリティなるキャッチコピーを愚かな日本人に広めるがよい、そのために日本人に親しまれた盆踊りのリズムでオバマジョリティ音頭を作って保存会の女性らに躍らせろ、さもなければ真っ先に広島市長崎市に大陸間弾道ミサイルを落としてやる、と脅したならば、その通りにするのも肯ける。しかし、オバマ氏がそこまでする権能を有しているとは考えられない状況下で、つまり特に権力による積極的直接的な圧力があったわけでもなく、市民側が、積極的に、権力っぽいものに対して率先して媚びる、おもねる、といった醜悪が遍在している。うろ覚えだが、小泉政権時にも、似たような事があった。先方から頼まれもしない、大衆の大衆による無自覚に率先した、力らしきものへの媚びの蔓延にはもう我慢ならない。そうした媚びだらけ状況が、奇しくも、この、オバマジョリティなるコピーで全て言い当てられている単純さも、むしろ気味が悪いぐらいだ。実績というよりも今後に期待、という解釈もあるようだが、その期待とは、率先して支配されたいという期待ではなかろうか。生物の遺骸と違って、人間の人間性の腐りというものはどこまでも歯止めが利かないようだ。
さて、嗚呼!回転寿司血風録!である。小生、仕方なしにではあるが、ファストフード店に足繁く通う身分である。元来人見知りでできるだけ人とは言葉を交わしたくない、特に知らない人とは話したくない、他人と話すことで何かを得ようとも思わないし得たとしてもほとんど無いと思っているだけに、店の、店員とのコミュニケーションは避けたいと思っている。可能な限り、小生の意中の品物と、小生との、閉鎖的内的対話に没入したい、よく知らぬ人間とは関わりたくない、何となくかっこいいものとして承認されている他者との関わりとそれによる不安とそれによる鍛えなどどうでもよい、外国で外国人と他者的交友をもって人間として国際人として向上云々、なんかはどうでもよい、糞食らえ、承認された事を承認された通りにやって自信を持つ安住した無恥には付き合いきれぬ、それならばいっそ井戸の蛙で結構、井戸の中から、少ない確率で望まれるだろう月でも愛でて楽しみたい、没交渉の閉鎖系の中で呆けて和むほうがましだと思っている。なんとなれば鎖国して、大根めしと日本酒があれば生きていける、と勝手に思っている。否、日の本には能ある鷹は爪隠すの格言があるように、他者との交渉能力をひけらかさない人もいると思うのでひがみに過ぎるというものだろう、と小生も反省する。また、人と関わりたくないというこうした言説を言葉で表明することは、相手を念頭する言葉ゆえに他者の拒絶にはならないというブランショの指摘も重々承知している。時には人と話すのはためになるし楽しい、ただ、店員とは話したくない、ということだ。
ようは、現場の状況とは無関係に、他者との交流という概念をしきりに持ち上げる雑誌やコンサルタント的な意見に異議を付けたいだけである。そのように煽り書き立てるという行為が、既に他者性を失ったマジョリティの陥穽へと落ち込むことを認識すべきだ。
そんな自分にとって、ファストフード店は、最低限、メニュを注文しさえすれば、あるいはメニュを指差したりするだけで声を店員に向けて出さずに目的は達せられるので、食文化上の貧しさは犠牲にするにしても、有り難い。
中でも回転寿司は、入店して席が空いていれば勝手に座り、近寄る店員に、取り合えずメニュの生ビールを指差し、後は回転する皿を取るだけで、文字通り黙々と、言葉を言わずに済むので重宝している、原則的には。江戸時代に対する錯誤なのか、カウンター越しでの活きのいいイナセな板前とのやり取り、などといった面倒くさいことから開放される、皿が回ることによって。この発明、大いに称賛したい。
しかしながら、現実はそうでもなかった事もあった。小生が行くようなレベルの低い回転寿司屋での出来事。多くの回転寿司でも当たり前ではあるが、ベルトコンベアの中に居るバイト職人に、客が直接、食べたい寿司を頼む、という制度がある。
客の中の、服をほとんど買ったことが無いのでよく分からぬがスェットというのだろうか、だぼだぼした、口にするのも恥ずかしいがいわゆるパジャマのような上下お揃いの服を召してよく肥えた首には金の鎖をジャらつかせ、足はゴム草履、といったいでたちの、中肉中背の50代男が、回っている寿司には一切手をつけず、若者バイト職人に直接矢継ぎ早に次から次に注文しまくるのである。コンベアには割と多めの皿が流れているにも関わらず、である。全く理由が分からない。なぜ皿を取らないのか、この男が注文するネタは眼前で回っているはずなのに。回転寿司の何たるかが全く分かっていない不届き者であった。回転寿司とは原則として回転しているものを食する処であり、店員に注文するのはあくまでも例外的な措置、どうしても食べたいネタが無かったら、会計ぎりぎりまで待ってもそれが出てこなかったら、最後の手段として店員に頼む、という奥ゆかしさが重要ではなかったか。
そうした回転寿司の作法を傍若無人に破戒するだけでなく、さらにこのゴロツキ風のししおき男は、しきりに店員に、如何にチャチなチェーン店であってもそぐわぬ酒とタバコの絡んだ野卑な大声で話しかけ、悪いことに馴染みなのか、店員も盛んに受け答えしている模様なのである。回転寿司とは、店員とのコミュニケーションをなるべく拒絶する、専ら品と客との関係に専念させる唯物空間ではなかったか、それをこの男は、これ見よがしに店員とのコミュニケーション能力を大声で大仰に晒す体たらくなのである。いちげんさんお断りのような、近所の顔見知りしか来ない馴染みの小料理屋でそれをするなら勝手にすればよいが、ここはそんな人間臭い有り様が正統のように許される場ではない、ただ人間が寿司を腹に詰めるところだ、そうした唯物的割り切りの成立が、回転寿司屋の真骨頂でもあり美学でもあろうに、場をわきまえぬ事甚だしい。
加えて、ゴロツキが注文しまくるものだから肝心のコンベアで流れなくなり、あるのは河童巻きと、いつ握ったのか分からぬ、干からびたアジくらいである。そうした状況下で、他の客までもが、我が我がと血なまこで自己中心的に、店員に直接注文し始めるのだから、激マズのネタしか回ってこない。回転寿司という、利益優先の企業文化が生んだファストフードの儀礼と長所をそれなりに汲み取って重んずる小生が、悔しい思いをする羽目になった。憤懣やる方なし。
それにしても、回転寿司屋で羅列し押し合いへし合いする客の、皿を追う目の殺伐としていやらしいこと。欲深さがそのまま目つきに表れるあの浅ましさを大人の客はどれほど自覚しているのだろうか。無論小生とて例外なく、皿を追う目は救いがたいほどのさもしさになっていると思われるが、これもまた回転寿司屋の出現によって初めて学ぶことができる人間の真実である。この真実、きちんと受け止めたところで清々しさは一切無い。物欲の受容には勝手ながら爽快感があるのはやはり物欲が人間特有の文化的営みの源であるためと思われるが、食欲は、より生に密着するためか、食欲むき出しの人間の目のむさぼり具合というのは、何とも救いがたい荒んだ底辺である。ラーメン屋の客がラーメンを啜る姿はどこか薄暗くて不幸せそうだ、これはアジア人の後ろ暗い悲しみの歴史を背負うからだというのは「美味しんぼ」の卓見であったが、回転寿司屋の、隠し立てされぬ卑しさは、資本主義を無定見に信ずる体制的自然状態に起因するだろう。それはそれでよいとも思う。
こうした回転寿司屋に、小生が学童の頃は考えられなかったが、時代というものだろう、親子連れが多数入店することがある。子供は節操ないから、あのような、食べ物をそれなりに自分で獲得しなければならないようなある種の自然において、最も鵜の目鷹の目で卑しい目つきで露骨に皿を、時に身を乗り出してまで皿を見送るが、どうしたものか、と思ってしまう。恐らく、あれが自然な姿なのだろう、とも諦めるが、しかし、子が甲高い声で、大人の店員に、直接注文するのだけは許しがたい。親のすね齧る分際が、それで生計立てている大人の店員に金で指図するように注文するとは何事であろう、何様のつもりなのか、おこがましい。子はあてがわれた物を文句言わず平らげればよいのに、こんな我侭を許す親も親である。朱子学読みすぎか。
あと、どうでもよいが、客が、会計を頼む時に、如何にも慣れている感じで「おあいそ」というのが小生気に食わない。そんな文化で生きてないだろう我々のような21世紀の、行き着くところまでいったような文化も糞もない時代の者が、こんなときだけ如何にも濃厚な文化の中で生きているかのような単語を使うのは恥ずかしいばかりか欺瞞である。小生は、きっちりと、「会計お願いします」という。すると店員は、「○番様おあいそで~す」と連呼する…。どうしようもない。
以下、簡単なトピックス。
1.〇〇寿司(駅ビル内):小生が経験した中で最悪、激不味の回転寿司。ネタは、乾ききって不味いか、乾いてなくても根本的に不味い。全部不味く、旨いネタは一切無い徹底ぶり。しかも、コンベアにほとんど流れていない。あったとしても鉄火巻きとか卵焼きとかマンゴープリンとかがほとんどでどうしようもない。仕方ないから店員に頼んで握ってもらっても、必ず不味い。ネタもシャリも最悪。なのに、駅ビル内という好立地のためゆえに、客はそこそこいる。外国人もよく来ており、気の毒なばかりか、国の恥のようにも思う、国辱寿司屋である。行けば絶対後悔するのに、小生、何故か、何度も何度もこの店に通った、便利ゆえに。もう決して行くまい、なぜなら不味いから、と決心しても、便利だから、また行ってしまって、必ず後悔する、不条理寿司。不条理なのは自分なのだが。もう行くまい、でも、また行くのだろう、世界一不味い寿司屋へ…。
2.すし〇(JR××線△△駅付近):中程度。近年流行の炙りもの系の握り寿司の開発に余念が無い。炙りものは確かに一工夫二工夫もされていて美味しい。ノドグロも旨い。冬時、ネタの乾燥がひどい時があって、小生が、お客様の声アンケート用紙に、その旨を記載したところ、次週、湯気のようなものを出す保湿機を導入していた。その対応の早さに感銘する。独身貴族の時、よく通っていた。先ほどの50代男の一件の舞台はここ。
3.名前忘れたが、JR線の××駅近くの、国道沿いの回転?寿司屋:ここは、入店した時に、名前を聞かれる。店を出るとき、全店員が、大声で、「○○様ありがとうございました!」と叫ぶ。何かあるごとに、大声演劇団員のように発声練習したのか、豆鉢巻の男どもが、腹の底から大声で反応する、しかも全員で口々に連呼するから、客の我々の臓器に絶えず音圧を与えてくるので、落ち着かない。一部の寿司屋は、どうも、イナセという美学に捉えられているようで、どうにも困る。イナセというのは魚河岸などで働く男たちの活きの良さの美学なんだろうが、寿司を握る職人と魚河岸の働き手と混同しないで欲しい、関係ないだろう、しかもそのイナセを、何か体育会系的なものと勘違いしている節もあるから、尚更うっとうしい。静かに食べたいのに、客の鼓膜や腹がびんびん腫れ上がるほど、常時「ありがとうございました!」「いらっしゃいませ!」を大声で、鍛えられた発声で叫ぶものだから、礼儀正しさも過剰である。猛省を促したいが、品の握り寿司自体はどれも、確かに旨い。相当旨い。声の音量をもう少し落として。
4.〇〇三昧:中程度。子連れが多く、子の野性ぶりが観察できる、眉を顰めてしまう場面が多い。シジミの赤味噌汁を所望するも、殻ばかりで身が殆どなかった。
5.名前忘れたが、〇〇駅北口を出て少し△△駅方面に行ったところの回転寿司屋:最悪の〇〇寿司と、中程度の寿司屋の中間ぐらい。コンベアには殆ど流れていない。基本的に不味い。
柳沢きみお「大市民日記」、林芙美子「放浪記」、ジェイムズ・ジョイス「フィネガンズ・ウェイク」の三つ巴を読み続ける日々。
さて、ワカ/ジャワカである。さほど言うべき事はない。ザッパが理不尽な聴衆の暴力によってステージから叩き落されて、ギター演奏能力が絶望視される中必死のリハビリの末に復活したアルバム。ロック室内楽の逸品である。この復活が無かったら、70年代80年代の傑作群が生まれなかったかと思うと身の毛のよだつ思いだ。
「tom ze/nave maria(1984)som livre-02412」 2009年10月4日 白雨中秋
今年二月に浅間山小規模噴火、そして10月、桜島が噴煙を上げる。次はどこだ?ご近所の火山に注意しよう。次は誰だ、それはあなたかもしれない、私かもしれない。 最近の坂東英二の仕事は目を見張るものがある。恐らく多くの人が思っているだろう。借金でも抱えているのだろうか。もう70歳近いと思われるが、この頃になって体を張ったロケが多くなったように思われる。川の中で半身漬かりながら、アユのつかみ取りを半日ぐらいやっていた。雨上がり後の増水した川だからアユがなかなか捕まらず、でも掴めないと番組が終わらないという状況で、延々と川で奮闘する坂東英二。ゆで卵好きというキャラクター化もうまくいったようで、兎に角好きな食べ物は何か、ということを明確にする事は、日の本の庶民の人気を得るのに必須のようだ。夜中に、ファミレスで延々と食い続ける企画でも、途中で眠くなって、眠気のままに横になって眠る寝顔が、老いと赤子の同一化のような可愛さの次元に至っており、よかった。ドラえもんのどら焼、コンポコの油揚げ、筋肉マンの牛丼、ハクション大魔王のハンバーグ、そして坂東英二のゆで卵。これからも、坂東英二のロケは見逃せない。
今夜は、小生の回転寿司放浪記を書こうと思ったが長くなりそうなので先を急ぐ。(回転寿司で店員に直接注文する客への怒りおよび批判)
うろ覚えだが、トン・ゼーと発音するのかトム・ゼーと発音するのか。トン・ゼーだった気がする。トン・ゼーにしよう。ブラジル。60年代末期から70年代初期までの、ブラジルサイケデリア運動であるトロピカリズモへの参加としてカエターノ・ベローゾやジルベルト・ジル、ムタンチスなどとも活動を共にした御仁である。死への狭間に近い極貧や収容所などの極限の最悪状況から血の滲むような傑作が生まれることもあるし、一方で、働く必要無くただ財産や税を湯水のごとく使いながらの金満円満の生活しながら手慰みに鼻歌混じりに功名心とは無縁に物にした結果が傑作になることもある、いかがわしくも残酷な芸能の世界であるが、前者後者とも例に事欠かぬ。歴史上、後者が多いようにも思われるが、ブラジル産ボッサ・ノヴァもその好例であろう。首都の高層高級アパートメントの一室に住まうブラジルのボンボンが戯れにギター爪弾いた産物とその発見がボッサ・ノヴァと一般的に言われる由縁である。 以前にも書いたが、ジャズという大きい音楽の衛星のようにしてボッサ・ノヴァが生まれ、一方、ロックという大きい音楽の衛星のようにしてレゲエが生まれたのだが、ボッサ・ノヴァ衛星はブルジョア、レゲエ衛星はゲットーあるいはストリート生まれという差異が興味深い。この差異は、それぞれの衛星の主星の行く末に起因するのかもしれない。ジャズは、もう、どう転んでもゲットーを歌う音楽ではなくなった、そうではない、と反論する活動もあるかもしれないが、聴こえてくるのは、ジャズという既定の雰囲気に安住した品行方正ばかりだ、いや、ジャズはバンドでもあるかもしれぬがどちらかというと個人奏者の力量が物言う世界、そういった芸で世の迎合大衆の流れを押し留めるべく異議の声を大にするのが難しくなったのかもしれない、一方ロックはバンド音楽であり、資本好みの所以かもしれぬが系統的変遷にまとめられたキャラクター化を逆手に取れば、声を大にするのも可能でもあったから、辛うじて、反体制という大義名分を、幼稚ながらも音声(おんじょう)できた結果かもしれなかった。
トン・ゼーの認知度がどの程度か分からぬが、中々の才人である。ブラジルのヴァン・ダイク・パークス、あるいはブラジルのピーター・ゲイブリエルといったところか。ボッサ・ノヴァのみならず、当時流行のワールドミュージックという思考において、インドやらアフロやら南米各地の種々のエスニック音楽を取りまとめた凝った陽気アレンジで、一聴すると人懐っこい歌曲であるが、脅迫的に絡むキーボードやアコーディオンらの不協和音の苦味も効かすし、細部に反骨を宿らす周到さはさすがである。そして時に、きっちりとボッサ調の憂鬱もわきまえており、他方でチャカポカと人を馬鹿にしたような音も鳴っており、忙しくも楽しい。老いてなお盛んのようで、現在でも自作楽器を投入して珍妙音楽の独断場を設ける人である。ブラジルといえば、カエターノ・ベローゾやセルジオ・メンデスだけでなく、トン・ゼーも聴いておきたい。
tom ze :arrangement & lead vocal, acoustic guitar & percussion
lauro lellis :drums & percussion reinaldo barriga :guitar
milton belmudes :guitar cavaquinho & percussion
oswaldinho do acordeao :accorodion
charles furlan :bass cavaquinho & keyboards
sergio sa :keyboards silvia maria :vocals
eliana estevao :vocals and many others
「captain beefheart & his magic band/trout mask replica(1969)wpcp-5738」 2009年9月27日 後添え
国連総会、リビアの独裁者ガダフィ大佐のファッション、かっこよかったですね。髪型が、チェ・ゲバラに似ているし。遊牧民の矜持とばかりに、ニューヨークの公園に宿泊用テントを設置して、当局に撤去されたり。痛烈な米国、国連批判したとのことだが、その言葉がテレヴィで放送されることはなかった。パフォーマンスの部分だけが殊更取り上げられて。後でネットで調べてみればよいのだろう。
情報に疎いばかりか、情報を得るのが苦手、ひいてはインターネットでも検索下手な小生である。学生の頃、配属された研究室で、そういえば、小生以外の学生らが、インターネットのサイトに絡むことで、大いに面白がっていた事、そして小生にはそれが何のことか分からず、且つ何のことかたずねるほど仲がよいわけでもないので、さして気にもしなかったが、取り残された感があった。なにやら、学生らが各自で独力で、そのサイトの文面を見つけ、そして口頭で、互いがそれについて知っている事を確認した上で、更に面白がって盛り上がっている様子なのだ。断片的ではあるが盗み聴くと、どうも、吉野家の牛丼で、ツユダクにしてくれ、と頼む客を揶揄する内容のようであった。それだけでは、何が面白いのか、いまだに分からない。「誰か、誰か教えてください。」
勝手な、ひねこびた妄想かも知れぬが、人々は、インターネットで独自に面白いサイトを見つけて楽しんでいるのではないか、と疑っている。小生は、出会うサイトのどれもがつまらなく思え、結局、自分の書いたページばかり見ている絶望的状況にある。一度、面白いサイト、と入力して検索したが、どれもこれも下らなかった。そこで、情報上手のように思える久々に会った友人に教えを乞い、幾つか教えてもらった。酔っていたので殆ど忘れたのだが、リスナー何とか、というのだけ覚えていた。そこで帰って早速、リスナー、と入力検索するも、天文学的数のサイトが出てくる。海の中で針を探すようなものだが、その中から、スーパーリスナークラブというのに出会った。これが、友人が教えてくれたサイトのような気がするし、そうでないかもしれない不安があるがどうしようもない。見てみると、なるほど、こういった荒みかたがあるのだな、と感服する箇所もあった。全体的には、ポップスやらプログレやらの様々な情報を手際よく並べる感じで、そのへんに居る永久機関のような元気を嗅ぎ付け、小生の苦手なタイプではあるが、漫画ゴラクとかアクションとか、柳沢きみお先生(「翔んだカップル」とか)の最近の欲望系漫画に入れ込む様を読んで、小生の心の荒みようはまだまだなのかもしれない、と思った。モーニングとか、漫☆画太郎先生を読んでるくらいでは、まだまだ救われているのかもしれない、漫画ゴラクとかを、自分のものとしてきっちり読むようになって、新しい心の荒廃のステップが開かれるのかもしれない。しかし、そんなところ、行きたくない。
音楽関係のサイトにろくなものが無いのは承知しているが、小生がなじむ数少ないサイトの一つとして、JOJO広重氏の「こころの歌・最後の歌」がある。共感、などといった行動の様式を拒否する内容であるが、やはり共感できるし、紹介されている音楽を全て聴いているわけではないのでそこのところは何ともいえぬが、音楽に対する姿勢、聴き方には信頼に足るものがある。
牛心隊長と彼の魔法楽団、と呼ぶことにする、1969年、アメリカ。もう、この音楽の一般的な位置付けや影響の系譜を述べたりして一般論で消化する意味はないだろう。そんな事に煩わされている場合ではない。専ら、自分の身体の一部として書きたい、そういう態度でしか望まれぬ音楽である。
キツめの漫画(画太郎)やキツめの小説(嵐が丘、アミナダブ…)、キツめの詩(黒田喜夫、藤原定家…)キツめの侘び、キツめの謡曲、キツめの絵画(ドイツ表現主義、社会派、メキシコ壁画運動、蘇我蕭白、河鍋暁斎)そして何よりもキツめの音楽でしか癒されない。しまいには笑い出したくなるほど、無意味に追い詰められている。寧ろ、自分で自分を追い込んでいる。小生の場合ここで言う癒しとは励まし、と同義であるが、兎も角そういったキツめの芸を日々渇望、摂取する事でしか生きていけない、切実に荒廃した心。もっとキツめなのはないか、もっと、もっと、と飢える毎日。こういったものって、オーバードーズ(過剰摂取)とかあるのだろうか、ドラッグではないのだから、無い、と思って日々摂取に励んでいるが、本当はあるのかもしれない、そうだとしたら、もう、とっくに手遅れだろう、廃人だろう。社会社の空気を敏感に察知しながら処世する泡沫の日々、パソコンと机と人が整然する綺麗な空間や自然のような設備に追いまくられる労働者が居る空間で、途方もなく汚ない絶叫を上げ続けたらどうだろう。それこそキャプテン・ビーフハートのような。こんな妄想は、誰しもが内心思う蟠りであり我慢である習慣のような常態であるが、それをしてしまうという個人の発生は、誰もがしてしまってもおかしくない内的状況なのだから、内的な動機では説明つかない。こんな純然たる結果によって全ては変わる、そんな妄想に取り付かれる。特殊な外的要因などもありはしない日常なのだから、もうこれは結果でしかないのだ。絶叫するかしないか、という結果がすべて。こうしたありきたりな紙一重の毎日の中で、出社のため車中で、卑しくも癒されるために10年ぶりにかけた(賭けた)のが、牛心隊長の音楽なのであった。
何もかもが分かった。隊長が、何をしようとしてこうなったのか、一声一打一弦の機微が、徹底的に分かりだす怒涛に苛まれ、朝っぱらから車という個室で一人、涙腺が熱く緩む。赤ん坊だったらこんな時大声で泣くのだろうか、赤ん坊が、牛心の音楽を心底理解して泣く、なんて事があるのか分からない、いや、あるような気もする、そんな事思いながら、いい大人なので堪えるのに必死で、仕事どころではない馬鹿馬鹿しさ。いったい、今まで隊長の何を聴いてきたのか。自責の念が厳しく強まる。
率直極まりない、あまりに身近すぎてかえって分かりにくくなっていたが、一つの事実を、繰り返すが愚直に素直に、真っ当な方法で、隊長は示していた。
ブルース=リフ
ブルースとはリフである。リフとはブルースである。これがロックの肝心である。これを元手にロックすることがロックの、在り来たりな王道といえる。この事を何よりも理解し、実作し事実していたのが、牛心隊長であったといっても過言ではない。ジャズやブルースやR&Bをひたすら聴く、兎に角聴き込む事。隊長は、ハイスクール時代から、友人ザッパと共に黒人音楽のレコードをひたすら聴きまくっていたという。ロック創生期にあっては当たり前かもしれないが、ガセネタかもしれないし小生の妄想かも知れぬが、ザッパはブルースやR&Bのレコードだけで10万枚のレコードを倉庫で所持していたという。聴き込むとはこれくらいの数を言うのであり、当然ながら隊長も共にこれくらい聴いたはずである。そして本当は彫刻したかったが自分でも小銭稼ぎのため、ただのブルースではない、ロックをし出した時、至極真っ当な音楽を繰り出し始めた。それがミラーマンやトラウト・マスク・レプリカである。
聴いてみるとよい、誰でも分かるだろう、彼の楽曲は、殆ど、リフだけで出来ている。この、ブルースへのある種過剰な忠実が、どれほど獰猛であることか。そしてこの事がロックに直結する。メロディとかサビ、などといったものは一切無い。あっさりと、牛心は、ポップスとロックの峻別をやってのけた。単純な話だ。メロディとかサビといった統制的なものにおもねる公共事業がポップスであり、アメリカ大陸における白人土俗という欺瞞(※詳細は過去のプロ愚小文を参照されたし)という恥の思いに苛まれながら役立たずの頓狂へと煽るのがリフである。けだしロックすべし、と、音でそそのかす牛心。ブルース起源のリフではあるが逸脱してしまうロック創始者にあっては、自ずとタガの外れたリズムへとさまようだろう。素手で、ガッと土から掘り出したような、ぶっきら棒な、しかし簡素なリフは、もう、ブルースという親の顔忘れた不孝者、即ちロックでしかありえない白人キチガイの、荒んだ、大谷吉継やらい病のように崩れた、揺れ揺れリフである。
ブルースやビ・バップ、フリージャズのケダモノ性を、心ある白人が聞き込めば、自ずと醸造される音楽なのではないのか。これ即ち、過去に何度も書いたが、ブルースによるブルースのプログレッシブ化であり、ガレージと未可分の、ハードロックのあるべき姿であり、ロックの王道であった。ようは、当たり前のことをやっているだけである。風変わりな人が聞く高尚な音楽でもなければ人を驚かすスノッブな音楽でもなんでもない。凡庸こそが異端とレッテルされる、ままならぬ、唾棄すべき世である。以前、ガレージとサイケの両輪に跨るハードロック、という表現をしたが、何だか、牛心にあっては、もう、サイケという概念すら必要ないように思える。ある意味、ビーフハートの獰猛野生原初ロックの消化酵素として、ザッパが発明したのが、サイケデリアだったと言える。そういう意味では、矢張り、ザッパ的なるものをサイケ起源とした過去の論考と辻褄が合うだろう。(無論、ジェファーソンエアプレインやラブサイケデリコ、スーパーフライなどといった産業サイケは論外)
それにしても、個人的な信念に基づいて、生活のための訓練を拒絶しながらもがっつり生きてきた、めしいの、つんぼの、片ちんばの、いざりの、せむしの、薄弱の方々が、音楽の何たるかが分からぬ制度に安住した腐った健常者から王権奪取したかのようなこの音楽には、チンドン屋や、かつての農村青年団(今は高齢者)が結成したジンタのような、素朴で他愛無いおかしみもあるし、祈りとも呪詛ともつかぬ、大地が割れて叫びだすような牛心のがなり声は、あの、オオカミウオのような顔したジョン・ケージが吠えたらこうなるのだろうと思わせる、野獣の声であり、癒される、励まされる。噛み付いたら決して離れぬしつこい凶暴である。
そして、牛心の、凡庸にも思えるほど当たり前の事をやっている素直な、真っ当な王道ロック=ハードロックは、またしても、継承されず、系譜ならざる点在する系譜として、飛び石の一つとなった。しかも、とびきりの巨星として、今も燦然と一つ、輝く。この飛び石を布石に変える次代のロックを待ち侘びながら。
(関係ないが、最近は、人間よりも動物が気になる年頃である。これは特に新しい視点ではない。確か、ベンヤミンかアドルノのどちらかが、今後は動物と子供が重要云々、と言っていた。東浩紀の「動物化するポストモダン」とか読まなければいけないのだろうか。もう、隣の芝生など見たくも無い、という閉鎖的な気持ちに、自ら鬱屈する。)
zoot horn rollo:glass finger guitar, flute
antennae jimmy semens:steel appendage guitar
captain beefheart:bass clarinet, tenor sax, soprano sax, vocal
the mascara snake:bass clarinet & vocal
rockette morton:bass & narration
drumbo:drums