ロック史を体系的議論から解き放ちながら、サイケデリアの土着性とハードロックの非継承性を論ずる。主要1000タイトル、20年計画、週1回更新のプログ形式。
[PR]
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
「おニャン子クラブ/おニャン子クラブ☆ベスト(1985-1987)pcca-01613」 2010年2月14日 小春
トヨタならびに日本の製造業の信頼性の世界的失墜と、バンクーバーオリンピックでの日本選手の不活躍を仄暗く願う、浅薄浅慮とは知りつつも反動的な個人的心境です。
21世紀お洒落革命のアスペリティとなるべく、ループタイの無限の可能性を模索する電脳店舗広場「世界を装う!?ループ帯庵」を、暫定的に仮店舗として開設しました。まだ宣言および小生が夢想するループタイの草案を提示したのみであり、通信販売の体裁など整っていないが、事が緊急を要するので、見切り発車した次第。世界内電網で検索すると、如何なる活動内容かは不明であるが評論家の東浩紀が「ループタイ同盟」を結成したり、あるいは川原の石で自分好みのループタイを作製する20~30代の者や、嫁にループタイ(既製品)をプレゼントする30代夫、といった、静かながら僅かにもループタイ勃興の動きが散見され、10年以上もこの装いについて考えてきた自分の試みが陳腐となり兼ねぬ昨今の時局を嗅ぎ取り、宣言だけでも公にする必要に迫られたためである。そこで、もう立派な店構えサイトの構築を待つ時間も無いので、小生のホームページ作成を依頼しているローカルメディアクリエイターに、仮組みのサイトを作っていただいた次第。
ここをクリック→ 「世界を装う!?ループ帯庵」
茶道具でも同じことだが、何か一つのことにこだわりだすと、その周りの物が審美的低劣であるように見え、目に付きだすものである。元よりファッションに疎い小生、新時代のループタイに相応しいファッションというのを考察するべく、大手スーパーの中の洋服屋やエキゾチック雑貨屋などに行ってみた。気になる服や面白い服などありはするが、服の場合、当たり前だが自分が着るので、自分に相応しいかどうか、というファクターが存在することに、今更ながら気がついた。茶碗だと、身の程というものにかまう事無く、主としてその茶碗自体がよいか悪いかに集中すればよいのだが、服だと、幾ら服自体が良くても、いたって冴えぬ小生が着たところで、珍妙な居心地悪さというのが、小生自身と服の双方を貶める結果になる。成程、これは自分を試すに余りある道であろうよ、と、自分の美に再考を促す厳しき契機になり申した。
もう、上記のことで頭が一杯なので、とても、悪趣味の系譜やモダーンポップや10ccといった面倒な事を語る気力は無い。そこで、「10cc/the original soundtrack(1975)phcr-4417」 は再び先送りする。判断の先送りが、変貌が早い時流において更なる事態の悪化を招く経済界政界であるが、もしそうならば、10ccを先送りすることでいかように事態が悪化するか、楽しみでもある。最悪の事態でロックを聴きたいものだ…。
聴くのに手抜きできる音楽などありはせぬと思いながら、あわよくば考察を怠けたいと思って手に取ったこれも、改めて聴くと本当はたくさん言いたい事はある。おニャン子クラブである。小生の認識では、日の本の代表的な80~90年代アイドルグループの音楽性をロック史上の諸分類に重ね合わせると、以下のようになる。
おニャン子クラブ→1950年代~60年代初期アメリカ オールディーズ(プレロック)
うしろゆびさされ組→1960年代アメリカ ガレージロック
Wink→1970~1980年代ヨーロッパ テクノ、ユーロビートディスコ
うしろゆびさされ組のガレージ性については以前本ブログで記事にしたのでそこを参照されたい。80年代後期おニャン子クラブは上記のように、その音楽構造はビル・ヘイリー&ヒズ コメッツなどの、古典的ロックンロールリズムに古典的エレキギターを絡ませつつ、といったものなので構造上の新規性は無い。そこにトロピカルなシンセをデラックスに絡ませるのが80年代的というのもどうでもよい。何人もの若い女性がノーテンキなことを全員でへたくそに歌うのが要ではある。そういう意味では米国のシャッグズの末裔とも云える(過去の本ブログにシャッグズの考察あり)。
秋元氏の歌詞内容について多いに論じたいところであるが(また、最近の、秋元氏とエグザイルと天皇制との結託も気になるが)、下記に題目を唱えるように写すことで容赦ねがいたい。本当は歌詞全文を写経すべきであろう。何にしても歌い手と歌詞の呆気羅漢(あっけらかん)とした新しさによって、パンクと同等以上に全く新しい文化的金字塔歌謡曲ではあった。今となっては援助交際やセクシャルハラスメントを女子高生が無邪気に誘発する、モーニング娘。も及ばぬ過激な歌詞世界ではあった。こういう感性というのは常にいつ如何なる時代でも高レベルで維持して生きたいものである。
その後も女子高生は時代の制度に対して挑発的先鋭的であったが、90年代終りか2000年代初期、村上龍のラブ&ポップという小説並びに映画公開および地方でのルーズソックスの廃りを以って、女子高生が先鋭的であった時代は終わった。一部、シヴヤなどでヤマンバギャルの伝統を守る女子高生に何事かを期待したい。いずれにせよ、老いも若きも男も女も保守化の一途を辿る現代に至るだろう、という見方は資本と既成権力と結託したメディアのイメージに過ぎないかもしれないという留保も必要であろう。「女子高生」のようにメディアに持ち上げられてからその反骨が「」に括られ消費されたのと同じ轍を踏むまでもなく、怒りの挙動は潜伏しつつ地下水脈を広げている…少なくとも毎夜、半地下のライヴハウスでがなられるロックにおいて、と記したところで、一体何がしたいのか、小生にも、最早、分からなくなっている…。
1.セーラー服を脱がさないで
2.およしになってねTEACHER
3.じゃあね
4.おっとCHIKAN!
5.お先に失礼
6.恋はくえすちょん
7.NO MORE 恋愛ごっこ
8.かたつむりサンバ
…
11.早口言葉でサヨナラを
12.夏休みは終わらない
16.新・新会員番号の歌
…
作詞 秋元 康
作曲 佐藤 準、高橋 研、長沢 ヒロ、山川 恵津子、後藤 次利、見岳 章
PR
この記事へのトラックバック
トラックバックURL
この記事へのコメント