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 ロック史を体系的議論から解き放ちながら、サイケデリアの土着性とハードロックの非継承性を論ずる。主要1000タイトル、20年計画、週1回更新のプログ形式。
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「the band/music from big pink(1968)cp21-6027」 2010年1月10日 図星


 図星っ、と脱糞した快調の朝。
 おとつい、広辞苑を合計2冊、中古で買った。第二版は大特価500円、第四版も激安1500円で。第二版は読書用、第四版は保存用である。寝転んで読むには重過ぎるので、読みやすくするために、第二版を、鋏で四分割した。毎晩、この広辞苑を読んでいる。これらに関して、色々あったが先が長そうなので詳細は次週か次々週にまわす。
 
 今宵は酒がよく廻る。そんな日はザ・バンドだろう。高相夫妻はピンクハウスでクスリをキメていたようだが、そして係争中に謎の出火により焼失したようだが、こちらのピンクハウスでは最上の音楽が生まれた。ドラムスのリヴォン・ヘルムはアメリカ、彼以外の四人はカナダ出身の5人組。1968、8月リリース。言うまでも無く、60年代末期というものは、60年代末期ということで一まとめにはできぬ。最低でも、1965年と1966年と1967年と1968年と1969年、そして1970年と1971年と1972年と1973年と1974年のそれぞれの年において、ロックと言う音楽は全く様相を異にしたことを認識しなければならないし、本来ならば、さらに細かく、月ごとの変遷、差異を詳細に聞いていかなければならない。1967年7月と8月における差異だけでも途轍もないものがあろう。
 それは兎も角1968、既に英国の叙勲バンドだけでなくペットサウンズやサタニック・マジェスターズが世に問われ、ジミ・ヘンドリクスやフー、ツェッペリンも既に居た。一般的に承認されたことを追認することがこのブログの主旨ではないので、ザ・バンドとその同時代のバンドとの位置付けについては省くが、既に爛熟の態であったサイケデリアの徒花のようにしてハードロックという、普遍的でありながらかくもか弱い流れが途切れがちに伏流していたのとはまた別に、アメリカという、新大陸などと呼ばれながら少なくともロックにおいては頑迷固陋なる旧い国における、自省的な運動の一つがザ・バンドであろう。しかし、ザ・バンドの音楽は、70年代初頭における、クラプトンが便乗したようなレイドバック、サザン、あるいはスワンプロックの嚆矢、とするには当たらないと小生考える。聞き比べれば分かるが、両者は全く別種の音楽である。後で詳細を言うが、後者の音楽たちは、まだアメリカを信じている、悪く言えばアメリカを信じているふりをし続けることが商売になることに気付いた音楽である。
 ザ・バンドはサイケか?こんな問いを掲げた者など笑い種になるだけだろう。分かりきったことだ、どこがサイケなんだ、カントリーやジャグ、ファンクの一形態であるもったりしたリズムのソウル音楽即ちディキシー・ラインといった、当時ならず現在でも多くのアメリカ民族(!)が懐かしみ自分の物としているような往年の黒白(こくびゃく)音楽の基礎そのものの素材をそのまま提出したかのようだが、実はそれと気付かれぬように料理している高度極まりないあのロック音楽のどこにサイケがあるのか、と。しかし、小生はこの問いから始めたい。そして、もう、殆ど答えを言ったようなものだ。即ち、これまでの議論からも分かるように、黒白音楽の基礎素材の在り来たりな提出からサイケは生まれたのであり、従ってザ・バンドもサイケ足りうる。しかし、小生が過去に掲げたサイケ概念であるキチガイ性凶暴性については聴き当たらないだろう。また、ピースフルという考えも挙げていたが、これはサイケのドリーミングがキチガイ性に裏打ちされた時に表出される、平和とはいうもののいつ噛み付くか分からぬ類であり、やはりザ・バンドから遠い。ザ・バンドに聴かれる、どこか情けないようなドリーミングは、当然ながら英国叙勲バンドおよび産業サイケの流通経済共同幻想とは異なる。どちらかというと、ペット・サウンズやヴァン・ダイク・パークスらの孤立、点在したドリーミングに近いが、彼らよりも地に足のついた、今日の労働の疲れを癒す、朝になると新しい今日のために目覚めることが可能なようなドリーミングである。(ようするに、サイケではなかったようだ。)
 そして、そんな、健康的な夢のようなことは、もう、1968のアメリカにおいて、終わっていたのだ。ザ・バンドが、そのファーストから、旧大陸然として独自の老いを身につけていたのは、そうした事情による。(英国バンドが肌のつや丸出しのフレッシュ連中が多いに対し、ロック旧大陸のアメリカにおいては、既に老いた風情が少なからず居る。ザ・バンドと同様にそうした意味で重要なのは、やはりザッパ&ザ・マザーズである。変態ゆえの年齢不詳という面もあるが)もう終わってしまったアメリカという、ラストワルツを、東部の森のログハウスの中で暖かく踊り続けていたのだ。西部に移る前の、ローラ・インガルス・ワイルダーの親父が自力でセコイアの巨木を切り倒して作ったログハウスである。あまりに健康的なドリームゆえに、逆説的に、最早在り得ないという意味でそのドリーム性は空恐ろしく、未来が無くまったく孤立している(未来のある夢など無いかもしれないが)。こんな、初めから終わりきっているようなバンドは、どうしようもなく、この先、出てくる事はなかった。ペットサウンズなどは、終わり続けるというよりか、既に黄泉の世界の彷徨である、生霊である。だから、ザ・バンドは、アメリカ音楽の点在する系譜として、また一つ、輝く。
 アメリカ音楽の系譜におけるアメリカ民族表現ということでいえば、本当は、西の、リトル・フィートとの対比で論ずべきであったが、これはまたの機会にする。(リトル・フィートは、麻薬常習ゆえにザッパからマザーズを追放されたローウェル・ジョージが結成したバンドであり、カリフォルニア、ビバリーヒルズ幻想の構築に一役買ったが、事はそう単純ではない。日の本では細野晴臣らのはっぴいえんどへの影響源として有名だろう)
 個々の楽曲について言いたい事一杯あるが、何だか目頭が熱く、画面が滲んで見えるのでこのへんで。ただ、加えておきたいのは、ザ・バンドは必ずしも、聴いていても安全な、という意味での健康懐古主義音楽ではない。微笑みながら怒りの涙(tears of rage)を浮かべて歌い奏する、早すぎた老成バンドに狡猾な棘がないはずがない。生きていけるのか、と心配になるほど情けない声と遠慮がちなコーラス、こってりコクとテリのあるドラムとベース、先述したようなドリーミングを醸すぶわぶわキーボードのとろみ粘性、ピンピンほろほろギター、いずれも積極的に前に出ようとせぬ奥ゆかしい演奏であり、聞いているほうまで、その恥の重み(the weight)の切実さに耐えがたくなる。そういう類の棘がある。ロックという音楽の本質をなす恥を、ザ・バンドがその愚直によってわきまえ、引き受けているのを、聴くだけで自ずと分からせてくるのだ。恥知らずを旨とするロックという音楽の主潮流において、かような意味でも、ザ・バンドの点在性を証明する。
 今後の、王道無きロック史の新たな展開の概略を述べる予定であったが、長くなるのでこれも次回に。

リヴォン・ヘルム:ドラムス、ヴォーカル、マンドリン
ロビー・ロバートソン:ギター
リック・ダンコ:ベース、ギター、ヴォーカル
リチャード・マニュエル:キーボード、ヴォーカル
ガース・ハドソン:キーボード、サックス

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