- 2025.05.14
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- 2010.09.04
「lauren weinger/silo(2002)rer」 2010年9月4日 大杉忌
- 2010.08.28
「the lovin' spoonful/do you believe in magic(1965)bmg74465 99730 2」 2010年8月29日 小沢
- 2010.08.22
また追記
- 2010.08.22
再考
- 2010.08.22
「peter ivers/terminal love(1974)wou2804」 2010年8月22日 一二三
- 2010.08.14
「yes/tormato(1978)atlantic #19202」 2010年8月14日 敗戦忌
- 2010.08.12
また追記
- 2010.08.08
追記
- 2010.08.07
「the junglers/live at yonago one make(2010)」 2010年8月7日 廣島長崎忌
- 2010.08.01
本日休載
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「lauren weinger/silo(2002)rer」 2010年9月4日 大杉忌
くさくさ、むしゃくしゃして漫画やら何やらを連れてかえる。専ら小生の作文用として連れて帰ったパソコンもいつしか高度な仕事させられるようになって命が縮んだのか、何するでもてこでも動かぬ頑迷固陋ぶりに辟易、重い腰上げて新しくPC購入。膨大なデータやソフトの引越しという難儀な仕事は家人にまかせっきりなれど、難航している様子を傍で見るに付け、身勝手なやきもきが納まらぬ…だから嫌なんだ…と、繰り返すが自分が手を下しているわけでも無く自分ではどうにもならぬのに不安でいっぱいだ…ウインドウズXPで動いていたソフトが、何ゆえウインドウズ7になると動かないんだ…コンピュータが現代人に与える理不尽による人生の浪費にはもう耐えられない…たとえ自分の人生時間が浪費されているわけでもなく、自分は書見なんぞを満喫する時間が確保されいながら、家人の四苦八苦の傍らに居る結構な身分にも関わらず、見ているだけでこらえきれぬ苛立ちで集中出来ぬ…このままでは、ホームページ作るのに結局、激重の旧PCを使用せざるを得ず、何のために新PCを大枚はたいて買ったのか分からないではないか…
他人事の盛者必衰に岡目八目ほくそ笑む邪悪にも心底では飽いたと言いながらもニヤリとはなるのだが、この漫画が持ち上げていた大分高校の書の甲子園に纏わる不祥事(部員以外の書道巧者に作品書かせて作品数水増し、あるいは篆刻の印を使いまわしての尋常ならざる作品数水増し、そして発覚、謝罪、受賞辞退…)でも有名となった書道ラブコメ漫画「とめはねっ」の最新刊が出ているはずなので本屋行ったらなくて、変わりに下記を連れて帰る。
漫画
福満しげゆき「僕の小規模な生活」2巻と3巻
福満しげゆき「生活」完全版
佐々木倫子「チャンネルはそのまま!」1巻と2巻
高野文子「黄色い本」
ライトノベル
一柳凪「ラブコメ禁止ですの!」
雑誌
炎芸術 特集「半泥子の無茶」
季刊 銀花
福満氏の私小説漫画が滲みる…あくまでも低姿勢の卑屈かつ気弱な振る舞いから繰り出される唾のようにしたたかな、ぎりぎりの保身とその懊悩、些細な事で躓くことができる生活苦が自ずと研ぎ澄ます芸の、衆に恃まぬ栄光の独立…初のストーリー漫画「生活」もよい…街のコンビニや明るいところで屯する、男のくせに眉毛整えた目に余る若者どもを金槌で殴り倒し橋に吊るし上げる自警団の、いやな感じの興亡史。自警団といえば、9月1日関東大震災における自警団による朝鮮人や沖縄の人の虐殺を思い出す。日の本の私小説運動は、フランスのヌーボーロマンやアメリカのミニマリズムに先駆けたり時を同じくしたりしながら、共に、虚構(フィクション)あるいは物語というものへの鉄槌ともいうべき絶望と批判の実践であったことをもっと評価すべきだ。弱者の組織化による街の悪の排除=自警団=国家の原初=利権力による街の悪の再生産。
やはり、川喜田半泥子の茶陶は、よい…こと茶碗に関して言えば魯山人など話にならぬほどの破格の人にして本阿弥光悦の再来というのもさもあらん、である。今日、これから、携帯電話の機種変更した途端請求額が不当に高くなったように思えるので、携帯会社に文句言いに行く。気が重い。
またやる気が失せた。小生が温めてきた、さして中味が無いかも知れぬロック論説の開陳など、所詮かっこよさ自慢(村上龍がその小説や言説で支える中田英寿的生き方の推奨)に収束するみたいで、もう、出来ない…こういうときはとんちきフィールドレコーディング即物。アメリカ。ずばり、サイロである。トンネル掘削機ほどもあろうかと思わせる巨大コンプレッサーの非人道的なドォードォー作動音や、圧送空気で移送される穀物が配管内を高速で摩擦するシャーシャー音を丁寧にレコーディングする律儀かと思いきや、それだけでもなく、何故か夕暮れのマンボが労働者とその家族の集いのどよめきと共に陽気に挿入される椿事。備蓄され終わった穀物の、ほっこら芳しい豊穣なる静寂も閑々と録音する。
自分を攻撃的に研ぎ澄ますために、自分の中の怒りを絶やさぬために、今宵も愚民テレヴィ番組「会社の星」を睨み付けるように視聴。
「the lovin' spoonful/do you believe in magic(1965)bmg74465 99730 2」 2010年8月29日 小沢
もう、ここまでくれば、たとえば観世流あたりが、新作薪能「小沢」といった演目をやるべきだ…。その真意はまた後ほど。小沢氏の執念…。
選挙前なら頻繁であるが、朝の駅前で、時折、政治家の人が党旗一棹持って、勤め先に無表情で急ぐ群衆の流れの脇で延延と演説している様が見受けられる…ありふれた風景かもしれない…朝と言えど、既にうだるような猛暑の中、お疲れ様である…立ち止まって聞き入る人など一人もいないのに、演説している…ただその演説の内容、政策的な事は大衆には小難しいと慮っているのか、小沢氏がどうのといった政局的なことばかり喋るのはいかがなものか…全然国民が関心を持ちえぬことを…しかし、それでも、朝、暑い中寒い中、大衆を前に、己の主張を一人で言い続ける忍耐には、感銘を受ける…芸能や思想、哲学などに主張を持つ者も、この際、直接庶民に向かって毎朝街頭演説するくらいの攻撃的しゃしゃり出が必要なのかもしれない。自分も見習うべきなのだろうが、勇気が無い…
飯室トンネル前の交差点で、天理教の、中肉中背の熟年男性が、毎朝拍子木を叩きながら何か叫んでいる。車の中にいる小生には何を言っているのかは分からない。天理教の紺の法被着て、天理教の教えを染め抜いた幟を担いでいる(おかげさま、がどうのといった文言…)。毎朝だ。お勤めお疲れ様である。人通りが少なく、資材や機材や作業者を満載した現場系の車がびゅんびゅんするだけの山間部の荒んだ往来、皆窓締め切って運転中だから耳を傾ける人が居るはずもないのに、彼は、不毛ともいえる宗教上の勤めを止めようとしない。
鮨のねたでは何よりも貝類を好む小生。煮ハマグリ、とり貝、つぶ貝、そして帆立貝…。しかし、上等の鮨店なら兎も角、小生が足繁く巡礼するような三流店で、貝類が旨い店は皆無といってよい。激マズ系の店が扱っているネタで、最も不味いのは、決定的に貝類である。しかし、小生は貝類が好物なので、とことん干からびた貝類の鮨ばかり食すのであるが、不味いものは不味い。それでも貝類をつまむ小生は、もう、本当に貝類が好きだ…そんな自分であるから、近所の、頗る個性的な惣菜には目を見張るものがあるが魚介類の鮮度は著しく悪いスーパーで、何度も痛い目に遭っているのでここの刺身は不味いと分かってはいても、帆立の刺身を購入…そして、不味い…酒で飲み下しても後に残る、臭みの強いぬめ感…。
あっという間にやる気が沈滞した。また低迷に振り出し。氷の中でダブダブ響かすしゃかりき陰湿メランコリーポップスをかつて所持していたが当時はその新味が分からず手放してしまったがもう一度聴きたい、しかしバンド名忘れてしまった…(後で、それはゾンビーズであることを思い出した)兎も角そんなバンドかもしれないと思ってお助けしたのが何故かラヴィン・スプーンフルであった。全然ゾンビーズではなかった…後学のため、スカコアの代表的な、ケムリというバンドの音を聴こうと思って、ケムリのコーナーに置いてあったCDの内の一枚をよくよく確認した上でお助けしたら、ハッピイなレゲエだった…どうしていちいちしくじるのだろうか…今はちょっと気分的についていけないアメリカン・グットタイム・ポップロックであった。
john
zal
joe
steve
「peter ivers/terminal love(1974)wou2804」 2010年8月22日 一二三
まず激マズ寿司に直行。またしても不味かった。一体何時間廻っているのだろう、カツオの握りのネタが、乾燥してシャチホコのように、というと誇張だが兎も角反り返っている有様…。
あんなに楽しくも充溢したお盆休みが終り。今日まで休みなのに、明日から仕事、という現実が理解できない、途方もなく受け入れ難い吐き気のような気持ちであった。朝、目覚まし時計に起されてすごすご出勤するのと、同じく朝、特高の任意の呼び出しに応じて出頭するのと、どうちがうのだろうか…と思うが、よく考えると全く違う…。思えば休み期間中の弛緩した時間では、さしたる重要な読書は出来なかった気がする…昔からそうだ…学生の頃、試験前になると強烈に己のための読書をしたくなり、すると、熱烈な思想体験するのだった…こたびの休みの終わりには、日本プロレタリア文学集(全40巻)の第一回配本 初期プロレタリア文学集(新日本出版社)と、ドイツ神秘主義叢書 ゾイゼの生涯(創文社)が、夜明けまでの切羽詰った短時間で即効性を発揮してくれた…この即効性は、専ら小生の生活状況如何によるものと推測する。
甲子園、小生が思わずほくそ笑んだのは、鹿児島実業(鹿児島) 対 九州学院(熊本)であった。九州学院勝利の報に、思わず、西南の役の、越すに越されぬ田原坂(たばるざか)、という俗謡を思い出す…鹿児島は熊本には勝てないのだ…という根拠のない妄執…。
年端もいかぬ高校生の所業だからいちいち目くじら立てることでもないと思いつつ、怒りが勃発。所さんの笑ってこらえて、というテレヴィ番組で、高校の吹奏楽部が大会出場するレギュラーを廻って汗と涙頑張る、といった感じだった。(ダーツの旅はよい…)部員数が、大会に出場できる既定の人数より多いため、予め部内で、出場者(レギュラー)を決めるテストをするというのだ。顧問の教師が、誰が演奏しているか分からぬよう生徒に対する思い込みが評価に混じらぬよう壁を隔てて生徒に演奏させ、聴いて判断するという趣向。選ばれた者がレギュラー、選ばれなかった者が補欠、と規定され、選ばれなかった者が泣く、ということ。頑迷固陋な教師の、有体に言えば頭の悪い、ある許容範囲の美意識などこの際どうでもよい。問題なのは、既に吹奏楽部の者らが、こうした、自分の頭で再考されたことが多数決的に殆どないがために流通した、ある厳然たる収まり具合あるいは美意識に対して、既に、揃いも揃って盲従する惨めをさらしているということ…そのことは、レギュラーになれなかったからといって泣くトランペット担当の部員の愚が証明している…あの部員は文字通り図らずも、かような承認済みの、人間製の美意識(作品性)の増強に加担する役割を担ったのであった。
音楽に、レギュラーも補欠もあるか。なんとなれば、大会本番でなくとも練習でもよい、選別されたレギュラーどもが安心して、大衆にとって無害安全な楽曲を小奇麗に奏している最中、己のトランペットを、例えばブギャギュギュブワワブツツブギョギョインブグワアといった獰猛な音を吹きまくればよいではないか、しかしこれを実行するのは多少勇気がいるだろうが、せめて、これぐらいの反骨を思いつくことが出来れば、補欠の烙印押されたからといって泣くことはないだろう、泣いたという事は、従って、ブギャギュギュブワワブツツブギョギョインブグワアといった手に付けられぬ獰猛な音を、レギュラーたちの乙に澄まして統制された演奏をバックに無茶苦茶に吹き鳴らせば愉快な音楽になるに違いない、という芸の知が働かなかった証拠なのである、あの、補欠部員は…。この意味で、この補欠部員は、まさに音楽という芸道に照らせば真の意味で、補欠なのであった。あるいは、いずれ誠の音楽を本番する可能性があるという意味でも補欠であった。レギュラーどもは、教師に承認されたがゆえに音楽的に何の価値も無い奴隷である。
いまだ、悪趣味とは何か、系譜とは何かつまびらかにはせぬが、ともかく見切り発車で既成事実を飛び火させるべく悪趣味の系譜編。ピーター・アイバースという殿方。珍妙。アメリカ、1974年作。男声か女声かも判然せぬ、情けなくもおおっぴらに調子を外すのを厭わぬ声を気ままに、噎せるブルースをピンピン鋭利にエフェクトさせながらもアシッドフォークの、黒く静かな野獣の底なしの口腔に覗かれる、間が悪くだらだら間延びした暗闇。小動物が姑息にタガを外して工夫の効いた小さな音が控え目に逃げ出す苦み走り。ひよひよした自由。聴きながら車を運転していると、暑熱で少し頭がやられていたのもあるが、この愚駄愚駄リズムのアシッドミュージックのおかげで自律神経中枢がおかしくなったのか、2回も出会い頭で事故しそうになった、生き急ぎたくないけれども危うい音。
peter ivers :vocals & harmonica
buell neidlinger :bass & string bass
paul lenart :guitar
alice de buhr :drums
marty krystall :saxophone
kathy appleby :violin
sherlie matthews, marti mccall, lisa roberts, andra willis, jackie ward, dean rod :background vocals
「yes/tormato(1978)atlantic #19202」 2010年8月14日 敗戦忌
連日の第二次世界大戦特集NHKスペシャル。この時期での集中的放映のみならず、シーズンでない時でも断続的にこの手の特集をきっちり組むNHKにはこうべを垂れる思いで、毎回釘付けです。話には聞いていたがシベリア抑留者どうしの、文字通り命がけの吊るし上げやソ連思想教育の実態や、大本営の玉砕発表の影で、玉砕から生き残った人々が少なからず存在した事実、そして彼らが憲兵から受けた扱いや彼らの思い…わらわし隊のミスワカナ、大事なことを伝えてくれてありがとう。ただ、多くの場合、筆舌に尽くし難い戦争の悲惨さをぼそり、ぼそりと、生き残った軍属や非戦闘員の人々が自分の言葉で述べるのであるが、そうした悲惨な大状況に、自分ではどうにもならぬ力によって巻き込まれてしまった、という受け身の、非当事者的感覚でしかあの戦時体験が語られず、後の世代にもそのようにしか継承されないならば、今後何度でも、ファシズム的状況が発生するだろう。民主主義とは有権者一人一人が歴史の当事者であり、政治の失政の結果を蒙りながら、且つ、その失政の責任があるのは有権者自身であるからだ…国民すべてに責任があることは即ち責任の所在が不明であるという、戦後民主主義と戦時天皇性が共通する、大いなる無責任の体系…歴史に通底する民主主義…この辺について語れば長くなるし小生の思想の根っこに当たるので、今宵は出し渋ります。NHKの集金の熟年女性がピンポン鳴らして来る度に、息を潜めて居留守使う我が家庭ではありますが、毎月郵送される振込用紙は捨てずに取ってある…そろそろ払うべきか…。
最近書いていないからといって、あの、バカボンのパパ風のファッションをした、向かいの家の熟年男性による、小生の車庫入れに対する監視が終わったわけじゃない。今も、車を車庫に入れるたびに、陰険そうな監視を受けている…何か言いたいことがあるならはっきり言ってほしい…
最近、小生がプロデュースし、細君にデザインしてもらった手作りTシャツは、ナチュラル系フリーマーケットでも売れた実績のある品物である。まだまだ作らなければならないデザインがあるが、ここで、小生にとってのTシャツとは何かを考えた。Tシャツとは、着る掛軸である。茶の湯における掛軸はその茶会のテーマを示す物であるが、Tシャツもかくあるべし、と思う。その日その時のレジャーや遊びの主題を明確に示しうるようなTシャツ。
地元の特産品、熊野筆の、目に適った品をお助けした。硯で擦って使う墨も、購入。早速、以前骨董市でお助けした、海の周りに雲竜が浮き彫りされた硯で墨をすり(似非古伊万里の、こいつめ!と弾きたくなるような野暮ったくも可愛い水滴も使用)、書道の練習がてら、小生が10年以上かけて育てた結果ようやく古格を帯びてきた紙に、知人への書状を書く毛筆の楽しさを堪能。墨には青墨と茶墨があるのだが、小生好みの茶墨を選択。文人気取りか!
細君に隠れて、趣味の盆灯篭収集も実行に移した。雪見灯篭型の大内行灯と、御盆前の廣島のコンビニには欠かせない、紙と竹でできた灯篭(その年に身内が亡くなった家族用の白いものと、そうではない通常の彼岸参り用の、色紙をふんだんに使ったものの二種)を購入。書斎の中の、増えに増えたる盆灯篭群を見るにつけ、我ながら不気味であり、自分の不謹慎による不幸の襲来を恐れる日々…。
ガセネタであると思うが、スーパーモーニングという朝のニュース番組で、「はだしのゲン」が絶版、というテロップが一瞬、表示されていた…どういうことだろう…自分の勘違いだろうか…平和関係の表現は小説、詩、映画、展示等々ある。生き残った方による語り部活動というのも重要である。しかし、ゲンに勝るものがあるのだろうか…生ぬるい平和教育でお茶を濁す前に、8月は、国内外で、「はだしのゲン」を流しまくるべきなのだ…自分は決して見ないが…この漫画とアニメは、今でも小生のトラウマである…いずれにせよ、たとえこの世からはだしのゲンが絶版になっても小生だけは所持している状況を作るために、全巻、買うつもりだ…、無論、買ったとて、ページを開くつもりは全く無い。
そろそろ低迷から脱出せねば、しかし、またキツめの生活が始まれば速攻で低迷にぶり返す可能性大なれど、一歩進みたい、「悪趣味の系譜」編へと。本当は、以前語りそびれた10ccから始めるべきだが、構わず、本作にて。イエスのトマト、1978年、である。イエスはコンプリートしているので最終的には全アルバムを語らなければならないが、なぜトマトを?と思われる節があるかもしれない。イエスのアルバムの中では、プログレ絶頂期が過ぎた頃、パンク/ニューウェーブ/モダンポップへの独自解釈を施したアルバムであるが、そのへんを軟派だとして一部のプログレ好事家からは否定されがちなアルバムではある。無論、イエスの、プログレ性を真率に体現した諸作品も至宝であるが、小生は、このアルバムの隙間産業的重要性に耳が離せない。また、悪趣味の系譜ということを考える上で、こうした、境界線上の音楽への過敏が必要であった。
まずこのジャケット。名前忘れたが金属探査しているような紳士の白黒写真に、トマトが小汚く殴り付けられている…血痕ではなくトマト、という馬鹿馬鹿しい脱力…本当にどうでもいいんだという荒れた制作姿勢が伺える…メンバー間の仲も険悪だったらしい、本当にどうでもいいんだという捨て鉢な気持ちで作られたと伝えられるこの作品の、なんというきめこまやかさ…。プログレバンドによる、プログレ末期におけるパンク/ニューウェーブ/モダンポップ受容、という現象はイエスやキング・クリムゾンなど多くの有名無名バンドに聴かれるが、単純に十把一絡げには出来ない各々の事情を聞き取らなければならない、他ならぬ、残された作品を注意深く聴くことによって。イエスのモダンポップ化とキング・クリムゾンのモダンポップ化だけ聴いても全く別の現象である。正確には、イエスのモダンポップ化ではなくて、イエスは、一般にモダンポップと云われながら収束しえないようなそれでも茫洋としてあるようなモダンポップ音楽とは別種の、珍妙な音楽の頂きを、イエス台地の上にそびえさせたのであった。(キング・クリムゾンについては別稿を要する)
なだらかな上り坂を天使的な光速で駆け上がるがあまりになだらかなため、地上とは隔絶した天上には至れぬ、それ故にいつまでも続く爽快感がどこまでもパストラルでスペーシーなのが決定的にイエス。パンクモダン系のツッパリやヒネクレは皆無でありながら、プログレ的技術主義とは異なる、小粒ながら技の精巧が透けて見える根付的モダンポップアレンジの偏執的妙境が、楽器の多さを厚かましく感じさせないバランスを保っている。プログレとモダンポップの分水嶺(泣き別れ!)に位置する本作は、孤立を余儀無くされる悪趣味の系譜の道標でもある…。
ジオットの宗教画と同等に、天使というものの存在を強く感じるアルバムである。
余談ながら、「僕の地球を守って」という漫画を友人に貸した時に、スペーシーなこの漫画に相応しい音楽として、このCDをいそいそ録音したカセットテープも一緒に渡した、うれし恥ずかしの記憶ありあり。
jon anderson:vocals and alverez 10 string guitar
steve howe:gibson les paul custom, gibson 'the les paul' , spanish guitar, martin 00045 fender broadcaster, gibson elec. & ac. mandolin and vocals
chris squire:harmonised rickenbacker bass, bass pedals, gibson thunderbird bass, rickenbacker bass, piano and vocals
rick wakeman:birotron, hammond organ, harpsichord, rmi, and polymoog
alan white:drums, military snare drum, glockenspiel, cymbal, bell tree, crotales, drum synthesizer, gong, vibraphone, percussion and crotales
「the junglers/live at yonago one make(2010)」 2010年8月7日 廣島長崎忌
下線部追記
「見てくれた人に感動を与えられるようなプレーができるよう頑張ります」
たわけが…、と怒りが勃発。予め承認された規則の中であれこれすることしか能が無い奴隷的スポーツ人間どもの愚かな言動を真似て、昨今では学徒出陣保存会の呈をしめしている高校球児までもが、かようなコメントをテレヴィに晒す始末である。もういっそのこと、選手入場は甲子園ではなく、雨の日の明治神宮でやったらどうか。宮崎の球児があのように言っていたのだった。感動というのは受け手が自ら産出するものであって他人から与えられるものではないことをわきまえておれば、仮に芸能者や競技者が、受け手に感動してもらいたいと思っていても口に出来るものではない。どこまで恥知らず、どこまでおこがましいんだ…愚かな大人のスポーツ選手が必然的に恥を知らぬから、子供まで真似る無恥の継承。しかもその、キャプテンらしき球児は、自分らのプレーで、口蹄疫で苦しむ畜産農家の方々が元気になってくれれば、などと言っていた。風が吹けば桶屋が儲かるじゃあるまいし、全力で白球を投げて打って捕るのを見ておれば、全頭殺処分され、一時的であって欲しいがともかく財産の殆ど、生産手段のほとんどを失われた畜産農家が救われるとでも言うのだろうか。承認された枠組み内で健気に頑張る自分らの奴隷根性を見せ付ければ、畜産農家が助かるとでも?こうした甚だしい勘違い、思い上がりがまかり通るのが、承認というものである。
甲子園の選手宣誓は数年前から選手自らが文言を考えるらしい。恐らく、また、かような、おこがましい事を絶叫するに違いないと底意地悪く期待して、賓客の長い挨拶に冷房の中で耐えながら見ていると、結局、何を叫んでいるのかさっぱり分からず、興醒めではあった。自分らのことを球児、と呼んでいる薄気味悪さが気になった。人々からそう呼ばれているから、自分でも自分のことをそう呼ぶようになったのだろうが、根本的に馬鹿にされているのが分からないのか。自分らが、球児という、観賞用の枠組み奴隷として扱われていることが…。観客を何一つとして危うくさせない安全なペットとして扱われていることが…。平日の真昼間から、開店前のなじみの居酒屋に入り浸ってビールをあおるおっさんらが酒の肴に見るのが、高校野球なのだ…。高校野球のこういった側面は、意外にも、タッチの作者が描くマンネリ野球漫画でわりとよく描かれていた。ここまでくれば球児という言葉は汚名に等しいが、これを本名にしているプロ野球選手も居た…。不遜を承知で申せば、かように理不尽に直面したキツめの生活を送る者の、まことに以って頼り無い、希望の無い救いになりうるのが、スポーツなどではなく、先鋭的な思想や音楽や文芸、絵画といった諸芸能ではなかったか。枠組みを批判的に見据えつつそれを芸道の糧にする思想や芸ではなかったか。
連日の猛暑、いかがお過ごしでしょうか。炎天下の畑で、老人が亡くなられた。自転車の籠に花を一杯に残して…。その心中推して知るべくもないが、熱中症の事例として済ますには惜しい、幸せな死であったと勝手に偲びます。真夏の死。
そして夏フェス…胸糞悪い…。大江健三郎も引用していたから孫引きになるが、彼の、あの言葉を思い出す…。
直射日光もきついが、インダストリアルな暑熱というのもキツめである。250℃の熱風が吹き洩れる真夏の工場内は風も避けるのか、熱気のみがぐんぐん圧密されるようで、気がつけば小生の作業着の肩から背中にかけて、白い結晶が波紋の痕のように固着していた…汗だ…汗が噴き出ては水分が蒸発、噴き出ては水分が蒸発を繰り返した結果、汗の中の塩分が波紋のように残留したのだ…インダストリアル恐るべし。
室内で生温く愛玩されているのだろう、狆(チン)が、国道脇の草の上で小指ほどの脱糞。飼い主の、森茉莉のような人が、こしゃまくれた狆の尻の穴をかいがいしく拭き上げるのを目撃、泣きたくなるような愚かしい滑稽に襲われ、思わず般若顔。
小生はノリが悪い。人々の集団的、あるいは個人的熱狂を斜に構えて否定するつもりもなく、ノリのよい音楽に乗って踊ったりするのも、多いに結構だと思う…。この程度のことをファシズム的熱狂などといって大上段に批判するつもりは無い。ノリについて考えないといけないと思うが、今日は深入りしない。しないが、しかし、ライブ会場で、聴衆が、繰り出される音にノっている様子を見るにつけ、居心地が悪くなるのは確かだ…以前、この自分の居心地の悪さを正当化しようとしてどうでもよくなって止めた事があるが、いまだに馴染めない…。多くの聴衆がノリノリな中、夫婦二人、椅子に座って固く縮こまる様子を演者に見咎められ、名指しで怒られて排除されでもしたらどうしよう…気弱な自分はそうならないよう、取り繕うかのように申し訳程度に体を小刻みに動かしたりしたが、今となっては恥ずかしい…球児を批判する権利など自分には無いのだ…仮に排除されようとしたらむしろ上等じゃないか、理論的にきっちり反駁すればよかったのだ…みじめだ…。演奏者と直に対峙しながら音を聴くことも大事だろう、作品という物に収まるレコード媒体のみ相手にしていては、いけない。作品として物化されぬ、何しでかすか分からぬ人間としての演奏者との対峙が何となく重要に思いもしつつ、一方で、演者と聴衆という図式に反吐を催している小生が居る。ならば聴衆である自分も、演者の演奏に割り込んで何かやらかせばいいのであるが、何だか悪いような気がして…。一方でこの居心地の悪さの要因は自分でも分かっている。自分が、身体を承認していないからだ…。世界を、意識、身体、自然の入り乱れとして捉え、そのそれぞれをさらに意識と自然の階層で捉えるフッサール的な小器用あるいは明晰がままならない小生だから、意識の優位から脱却しえず、性懲りも無く、身体を否定している本音がある…。
それはさておき、そうはいうものの、レコード媒体には収まらず、この他ならぬライブにて、小生が聴くべき音楽が生み出されているとしたら、たとえ居心地が悪かろうが、脚を運ばなければならなかった。
ジャングラーズ。兵庫県。米子でのライブを聴いた。最高だった。素性が悪そうな四人の男たちが凶暴を晒す、演奏の上でのそれぞれ感が、よかった。四人がそれぞれ、横並びで己を丸出しながら、轟音をやりたい放題やっている感じ。小生が以前掲げたサイケデリア項目の一つ、「男たちの顔が、みな異なる」に匹敵した。とはいうものの、彼らは皆、頭部を黒革でびっちり覆っており、目と鼻と口の最小限のみをチャックから除かせ、とりわけ口元に不敵な笑みを浮かばせる。この、それぞれ感を、ベンヤミンはこう云っている。「すべて本質的なものは、完全に自立して、互いに触れ合う事無く実在している。諸現象からも自立しているのみならず、とりわけ、互いからも自立して。」無論、この自立は無価値、非価値であり、小生が言うところの、点在性の一側面である。遊び心とやらにも、余裕という欺瞞を見出している。この覚悟は、繰り出される音だけでなく、競馬馬のように視野を狭くした先述の装いにも現れている。研ぎ澄まされた、切実に追い詰められた生活苦が、キツめの暴音ににじみ出る。
煎じ詰めれば、ハードロックとは何か、という、小生の抜き差しならぬ長年の課題を、忘れかけていた課題を、再び思い起こさせるに至った。キャプテン・ビヨンドなどの後期ハードロックやメタルが至った様式をきっちり批判的に忌みながら、密室ゆえにかくも圧密された爆音を轟音のまま明け透けながらよく練られたノリで繰り出してくる…こんなことができるのか、と思った。荒んでいるとはいえ、マッスル(筋肉)仕事のようでもあった。マッスルは直ぐに、様式に回収されるのが常道、しかしジャングラーズの場合、マッスルがマッスルのまま、安住様式に至らず、積極的に忌避しながら、荒みを獲得しようとは…。繰り返すが、こんなことができるとは、思っていなかった。こんな荒みが可能なのは、あくまでも、がさがさに乾ききったシシャモの巨大な頭がしゃしゃりでるような、後先考えぬガレージの尖った凶暴、もう、パンクと区別せぬが、そういった骨の凶暴が捨て身で、自信なさげに手探りで、盲人の手引きのように(ブリューゲル)力を暴発させるのを冗長させる胆力を厭わぬハードロック、というのを夢想していたのだが…。しいていえば、ジャングラーズは、マッスル頼みでないにしても、そのマッスルが如何せん禍してか、上手かった。自らの音楽性に安心しながら音を出すものだから聴く方も安心して聴ける類の安住とまではいかなかったが、やはり、ぎりぎりのところで、安心して聴けたのが、残念であった。音の重心がどっしりと低いからか…リズムの取り方が確実だからか。そうであってみれば、やはり、いまだ聴こえざる、あらゆる方法に安住する事無く、そして方法に頼る以前に捨て鉢なガレージの凶暴に軸足置きつつ浮き足立った、リズムも破れかぶれに、ブレにブレたハードロック、というのに賭けるしかない、と考える。
唐突な印象を受けるかもしれないが、分かっていただけると思うから、書く。ライブは、人間の尊厳が問われる場、であった。
なんとなれば、夏フェス。長くなったので詳細を論ずる気にはなれぬが、趣味的奴隷段階のマスコミ公認音楽を、野外で際限なく資本主義のように広げることできちんと音の暴力を損なわせる、慢心祭り。こんなニュースやこんな音楽は聴かなければいい、テレヴィやファストフードやファミレスやコンビニと縁を切ればいいのだが、小蝿のように、意識してしまう…。暗く狭い、防音がしっかりしているため、空間的のみならず皮肉にも世間的にも音が広がらないかもしれないライブハウスの中で、至高の、問題意識の高い切羽詰った音楽が生み出されている現場を思えばこそ、なおさら、彼の言葉を切実に思い出す。
彼の言葉を、衷心より書き記す。
「わたしらは侮辱のなかに生きています。」
中野重治 作 「春さきの風」より