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 ロック史を体系的議論から解き放ちながら、サイケデリアの土着性とハードロックの非継承性を論ずる。主要1000タイトル、20年計画、週1回更新のプログ形式。
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「/」自粛桜

 駄句一つ。

 去りし後もブランコ揺れる桜待ち

 お笑い芸人がラーメン屋のバイトする番組の中で芸人さんが店員にヒステリックに言われていた事に対する自分なりの返答を、無闇に突出する怒りに任せてふつふつと考えていた事どもの一説。ハーマン・メルヴィルの、代書屋バートルビ風。

 店員「分からない事があれば私に確認してくださいっ!。自分で勝手に判断して行動しないでくださいっ!。」
 小生「あなたとなるべく関わりたくないからあなたへの確認を拒否します。分からないことがあればあなたに確認しません。自分で勝手に判断して行動します。責任は取りません。でもここに居ます。」

 今日は上田宗箇流の茶会に出席…心の腰が砕けるほどの激しい体験は無かったが、これもまた近々に茶会記に詳細を述べたいと思う。備忘のため記載すると、小生が最も興をそそられたのは、上田流が独自に用いている茶筅であった。通常、細い鯨の髭の如き箇所が、上田流では、熊手かと見まごうばかりに太く少ない粗さ荒さなのであった。この創意は小生も見習いたいと思う。

 このほどは数寄の方面ばかりに気が散っており、天変の地異に端を発しての雑々の社会物事などが目につくにつけ思うところ種々あれど、何とはなしに小生にとっては気が向かぬ…目くじら立てての指摘ごっこに左見右見するせせこましい気持ちにはもううんざりだ…変わって、数寄にまつわる創意に関しては泉のようにさらさらととめどなく溢れ流れ去る心境…よってロック史についても今宵は休筆します。
 あらたな茶事装束としての新作牡蠣殻ループタイが、技術の未熟ゆえに装着中に壊れてしまった落胆が思いの外大きいのかもしれない。きっちり改善してやる。磁石に吸い付いた砂鉄をもっさり毛羽立たせたループタイを創意した以上は、これもまた出来るだけ早く実作するだろう…かような創意と物欲がどこまでも低調ながらも百足(ムカデ)のごとく無思慮に遂行していく自分の有り様は百足のように最早止まりそうにない。茶会の構想も、いつもいくつも妄想している。道具はある。会の組み立ても出来ている。いないのは客のみ、という致命的な茶人生命である。

 細君が選挙がらみで休みが取れないこともあって、来週は、小生ひとり、海が見える桜の木の根元で、先走る惜春を相手に静かに酒を酌み交わそうと思う。
 

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微々たる反響

大阪の近鉄百貨店阿倍野店での第十回へうげ十作展での茶会の模様が、主催者のフェイスブックで写真にて公開されていた。先述のリンク先のオフィシャルブログ中のvol 831の中のフェイスブックへのリンクをクリックしていただければ。小生も少し写っていた。しかしながら、小生が勃発させた茶会の様子はこれでは全く分からないこと請け合い。今のところ、小生の茶事はまったく黙殺されているようである。自分で茶会記に書きます。

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「the remains/a session with the remains(1966)sundazed sc 6069」太閤忌



 どうしてこう、広島のラーメン屋は豚骨系ばかりなんだ…小生は、ラーメンなどというよりも、いわゆる中華そばというべき、小ざっぱりと素朴な醤油系のラーメンを好むのだが、周りには「豚骨一筋」みたいなドロ系の、舌がひりひりする過剰な味付けのラーメンが多く辟易である。底冷え厳しい早春の夕、濃厚すぎるドロドロラーメンを胃に入れるというよりも肺に詰めこんでいるが如き息苦しさで何とか完食する。

 ザ・シーズについて言い残した事。ザ・シーズに限らぬが、かようなガレージサイケの源風をびょうびょうと吹かすあまたのバンドの演奏を聴くに、自ずと、演奏が終わった後の無残というものに思いが馳せるものである。それは音としては乾いた残響を尖らしながら茫洋と浮遊するファズやディストーションといった電気処理に起因するのだろうが、贅言に過ぎるが、彼らは無音無明の底で音を発散しているのである。さすれば、彼らが演奏を止めた時、無音無明の黒縄地獄が寒々と訪れるのである。彼らの音を聴く者はその事を痛感するものだから、その、演奏が終わった時に訪れるであろう容赦ない閉門の如き闇を紛らわすようにして、彼らの音を再生し続け聴き続けなければならなくなる。そしてその事自体が、既に闇を聴き続けている証左でもあるのだ。

 「へうげもの」の最新12巻を、定価を支払って家に連れて帰る…。この物語における茶陶の解釈は、少しでも日の本の陶磁史や茶陶史に思いを致すものならばさして目新しいものではなかったが、こたびの、「ビードロの華と侘びた風情を併せ持つ伊賀水指」というのは、全く新しい解釈だと思う。伊賀まで現地調査した小生も思いつかなかった。自分もまだまだである。

 本業ならぬ横道にこそ燃えるは人の常…先週は自分でも消化しきれぬほど本当に色々なことがあった。色々な事件があり過ぎて横腹が痛くなりしばらく大阪天王寺公園のフラミンゴの前でワナワナと蹲る、という事もあったほどだ…大阪での「へうげ十作展」での、今を時めくハードエッジな今焼の諸相を展覧購買、そしてこのイベントの一環で催された、とある現代アーティストを亭主とする一客一亭の茶会に労農茶人たる無名の小生が闖入、頼まれもせぬのに独自の創意を勃発させたゲリラ茶会を決行し難波の愛陶家たちの度肝を抜いてきたのだった…必殺必笑の牡蠣殻ループタイを装着したループ待庵主でもある小生は、その、三陸産特大牡蠣殻を装うことで哀悼の意を無言で祈りつつ、その創意までもが、やはりそれ相応に文化的精神を感度よく保っているのだろう今焼の陶人らには顕著に響いたようである…いささか誇張してしまったが、事の顛末はとてもこのブログでは網羅しきれないのでいずれ日本焼物紀行と茶会記の両方できちりと開陳したい。現在は西成地区(あいりん地区)の職業安定所となっているが、かつては細君の一族の係累のルーツである家が所在した場所も探訪…分かってはいたものの日雇い労働者たちの中心街であるその場所にて、ドストエフスキー的な神的暴露ともいうべき、かの地の実情を丸出しにした事件にも遭遇してしまった。このことも含めていずれ実録したい…。

 そして、金継ぎ修理に出していた高麗彫三島盃が、ついに戻って来たのであった。己の創意が形になるとき、まさかこれほどまでの逸物へ至ろうとは…心の腰が抜けてしまって今は何も云えぬ…この事についてだけも、きっと、語り出せばきりがないのでいずれ日本焼物紀行番外編として一編をものしたいと思う。

 そして、来週は上田宗箇流の茶会に出席予定…何だか茶会続きでまるで茶人みたいだが何の事はない、特に昵懇の間柄として招かれた訳でもなく結構な金額の上納金を合意の上ぶん捕られて道具を拝見するついでに茶弁当と抹茶を頂く算段なのである…それはいいのですが、送られてきた招待状に、上着にネクタイ、さらに白い靴下を履いて来い、とまである。いい年した大人が、小学生じゃあるまいし白い靴下など履けるか、と早くも怒り心頭、金払っているのに門前払いされたら馬鹿らしいので茶会までに白い足袋でも買うか…茶会にネクタイなどというのも下らぬ…紋付袴なども、現在となっては沖縄の成人式での地元のヤンキー(ジモヤン)の正装へと堕している故、情けないので着る事あたわず…さすれば、己は己のフォーマルを貫くのみよ、と決然、プロトタイプ壱号とは趣を異にする新たな牡蠣殻ループタイ作りに着手する…一方で、かつての、安土桃山の創生期での上田殿の茶の湯はともかく、現在の既成規制寄生茶道と成り果てたに相違ない茶会で自分が何やったところで破壊的に感応する数寄者など周囲には居ないだろうし、小生としても既成茶道を革新する労力を提供する気持ちは全くない、どうでもよいと思っている…要は自分としての有り様を覚悟するのみである。

 ザ・リメインズ。多分アメリカ。ブリティッシュ・インベンションに対するアメリカの受容云々といったことはどうでもよい。この当時、多くのバンドが、稽古のようにしてR&Bの古典をカヴァーするのだろう。そして、よくカヴァーされる楽曲が固定化されるが、このバンドさんも、定番の古典をがむしゃらにやりおおす…あくまでも楽曲の構成が踏みにじられない程度を余裕を以て護持しながら、それでも、執拗に激しくやりおおす…音圧のバランスなど力任せに無視するようにしてドラムのドスが丸出しに連打痛打するに負けじと、ベースの音圧もギターの音色も精一杯前に出てくる性急さがもどかしい。というのは、かように愚直に激しく無闇に力まかせにやりおおす中から、ホンの数秒のみしか、荒みが聴取されないからである…四人全員が地声で絶歌唱する調整感覚の無さは貴重である。リメインズというバンド名から、ツェッペリンの、ソング リメインズ ザ セイム(永遠の詩)を想起するのも、あながち実質が無いわけではない。こういう音楽を聴くからと言って小生が元気のある力のある音楽が好きだといえるのではない。そもそもロックにおける力や激しさは世間で肯定愛玩される元気とは異なる、闇雲なる無駄な力なのであってほとんど非力に等しい。
 残念ながら誰がどの楽器やっているのか手持ちのCDに記載無し。

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「the seeds/the seeds(1966)hyca-2032」坂上忌



プログレ聴かなくなって何年経ったのかな…などとしんみりしながら丹波海老徳利と粉引高坏盃、肴に焼鳥(鳥皮)で独酌の時間…。特に時局的ゆえにという訳でもなく常日頃、心定まらずテレヴィのチャンネルを数秒おきにパシパシ変え続けてしまう落ち着かなさや苛立ちは、それが今日びの事なのか確言するつもりは毛頭ないが天変地異を横目にどこか、負い目すら捨てて安堵してしまう。昨日から腹の具合がよろしうなく、ゴキュルと水っぽいのが続くのは何としたことか…。それでも冷酒を胃に腹に注ぎ、消化の悪そうな鳥皮を食むのを止めるつもりもない。そして、朝になると、決まって、もう、二度と酒は飲みたくない、などと激甚に後悔の念を催す始末。心のケア、という言葉…どこまで人を莫迦にすれば気が済むのだろう、と思う。自分が我慢ならぬような書物をこそ、強制的にでも読みこらえ、視野や世界観を広げるなどといった生ぬるい保身とは隔絶した境涯を得るのも必要なのだろう、そうすれば、~できる人できない人、などといったハウツー本や推理小説などを無理してでも読了せねばなるまいが結局そこまで殊勝にもなれず、ニーチェしか読まぬ…今、ニーチェが分かるということ…それはかつて読んだ事による影響ではない。特に、自分の何かしらの達成を誇示したいがためにかような事を浅はかにも吹聴しているのではない。結局、ニーチェのような思想や傾向などは、理解される対象ではなく、専ら自分自身で生み出すという仕方でしか読めぬのであろう…。まさにニーチェである己が書くという仕方でしか読むことができない類である。ニーチェにしても、そして小生が考える、他ならぬサイケデリアにしても、決して伝播・継承・影響されるものではなく、その都度、勃発・点在・生成されるものである、と、幾度も記述したことに再度撞着する酔いの癖…。

酒と云えば今更ながら、現像した思い出写真眺むるにつれ、人生の赤恥をあまりに拭いがたく残す羽目になった体たらくを思い、まことに情けない、惨めな気持ちになった、過日の金沢物見遊山の顛末…。ああっ、と気付く、そう、日の丸の赤というのは、恥の赤だったんだ、と。目も当てられぬほど恥ずかしげも無く白い地に、これまた目も当てられぬほど赤い丸…。いつもの事といえばいつもの事であるが、旅先、朋遠方より来る、加えて遠方に共に出かけるとあって、浮かれ調子著しく、楽しかったため、自制足りず、羽目を外し、泥酔乱心無礼の不様をさらし、記憶にないが朋に迷惑を掛けたようなのである。以下の文はいずれ、九谷焼紀行前編に所収するつもりでいるが、反省と後悔の意を込めて、備忘のため、記憶にある事と無い事を記す。記憶にないこと、というのは、酔いのため、記憶が飛んだ状況下での小生の言行を、後に細君から聞かされた諸事である。

金沢料理を供する地元の居酒屋で場が温った後、友人が薦めるウイスキー・バーで、あまりの旨さに節操なくウイスキーを煽るにつれて見境なく多弁となり…

・溺れる者のみが掴める栄光の藁(わら)=文化、について話す→記憶あり
・萩焼、そこにある土で作ってしまったズタ襤褸→記憶あり
・カント・ショーペンハウアーと大乗小乗との関係について話す→まあまあ記憶あり
・NHKビズスポという番組は最低だ、この国には文化はないのか、と怒る→うっすら記憶あり
・初対面に近い細君の友人に…生臭い事=文化的なことをしているのか、と不躾に難詰する→記憶なし
・細君についても何か難詰する→記憶なし
・厠に行こうとして店の厨房に迷い込み、細君に連れ戻される→記憶なし
・お開き。コートを裏表逆に着ようとしてうまく着用できず悪態をつく→記憶なし
・その時、鍵を落とす。鍵が無いことに何故か気づき、細君を詰(なじ)る。そして隣のお客さんが鍵を拾ってくれる→記憶なし
・泥酔しているにも関わらず、むしろそれ故に、まだ何も語っていない、などと喚き、次の店に行きたがる→記憶なし
・バーからホテルまでの帰路→記憶なし
・ホテルに着く。鍵穴にうまく鍵を差し込めず、鍵が開かないと言ってホテルの廊下で騒ぐ。駆けつけた友人に開けてもらい、何とか部屋に入れてもらう。その際友人はオートロックの部屋から閉め出され、フロントに自室の鍵を開けてもらう、といった迷惑事の発端となる→記憶なし
・部屋の中で小一時間ほど、バタンバタンとうるさくする。恐らく嘔吐中→記憶なし

朝、ガンガンする頭で目覚めると、枕元がおが屑(多分、吐しゃ物が乾燥したもの)で埋まっていた。衣類にもべっとりと付着していたのであった…。情けなくも惜念の情がこみ上げるのは、記憶を飛ばしたことにより、遠方の朋との会話の時間を自ら泡沫に帰す羽目になったことであるが、後悔したところであの時間はもう戻ってこない…。

来週、時局の悪化が最悪にならぬ限り、大阪で催される「へうげ十作」で御大尽する予定。時局が時局だけに、きちんと開催してくれるかが不安であるが、そもそも、天災の有無に関わらぬ、いつ何がどうなるか分からぬキツメの生活の中での渇望が数寄なのであって、かような時局でこそ、数寄の祭典は開かれるべきである。小生としても、普段の生活に対する危機意識そのままに、きっちり参加したいと覚悟する。何とかしてぎりぎりでもいいから生き抜いて、数寄の現在を味わいたいと思う。有料なのがせこいが、茶会もある模様。否、金に汚いのも数寄者の業なのだろう。一介の数寄者として、へうげ十作と対峙するだろう。あわよくば己の数寄を表出する覚悟も辞さぬ勢いである。よって来週は休載します。時局で思い出したが、近々、鳥肌実が広島に来るようだ。

さて、ザ・シーズのファーストである。1966、アメリカ。英国の荒み、米国の荒みを堅苦しく峻別する理由はないが、ことサイケデリアの荒み、あるいは、結局同じものを別の技術的側面から捉えたに過ぎないガレージの荒みということを思えば、米国の荒みは、宗教的には顕著にフードゥーという概念がある。英国の荒みに飽き足らず手っ取り早く米国の荒みを学ぼうとしてフードゥーに飛びついたのがローリングストーンズだったという事もある。このフードゥーという宗教体系/歴史的側面を改めて洗い出すことも、サイケデリア勃発を生成する一助となろうが、たとえ回り道になろうとも、その迂回こそがサイケデリア精神史の実際の道筋だったと思えばこそ、専ら音源を聞き込むことから得られる他愛無くも如何わしい妄想に没入することでサイケデリアの下腹をじっくりまさぐりたいのである…。

罅割れて痩せた大地にびっしり生える麦を表土ごと抉るように、下顎を土と平行にして食い荒らす獰猛な草食動物のような、あくまでも底辺の地べたで当ても無く暴れるスカイ・サクソンの濁声がよい…。豊かではない、殺伐とした闇の肋骨を伸びきった不潔な爪でジャラジャラかき鳴らすと思いの他ヒョウキンであり、こんなにも惨めでありながらも愚かしいぐらい明るい、その明るさは光に依存せぬ明るさなのだ…。どこまでもおどけながら恐ろしいくらい不逞の輩の、脱臼しながら北朝鮮軍並みに行進する千鳥足…。場違いにドリーミングなピアノの拙い音色も、夢と現の区別がつかぬなどといった生温い認識論の高みに、ミルクを零すようにマサカリを振り落としかねない平和なる凶暴の証しなのである。

先週、ザ・13thフロア・エレベーターを評して、救いの無い笑いということを指摘したが、サイケ/ガレージの源薫漂うあまたのバンドにしても云える、当然ザ・シーズの音楽に対しても。しかし、これも先週述べたが笑いもルサンチマンやイロニーと同様に批判すべき落とし処なのであって唾棄すべき安全への希求である…だからどうだというわけではないが、危うさの綱渡り、乾きを医するに水でなく砂を嚥下するしかない研ぎ澄まされた心は、経済と文化が唯一合意を見出しているが如き笑いを、たとえ救いという概念を解毒しきった笑いであっても、ギリギリの処で捨て去ろうとするのだろう。サイケ/ガレージを血肉としたハードロックという音楽は、前者が依拠していた笑いを、捨てるという様式ではないけれども、ギリギリ中庸化した上で成り立っていると小生は考える。そういう意味で、やはり、ハードロックという音楽は途方も無く先鋭的なのであった。ハードロックが、笑いを捨てるという明確な様式を採用した時、へヴィメタルという音楽が生まれると云えよう。かつてサイケ/ガレージがフードゥーという、アメリカ土着神とキリストとの如何わしい関係で揺らめいていたのに対し、メタルは、キリスト教との結託(反キリスト的悪魔主義も結局はキリスト教圏内の内輪揉めに過ぎぬ)に顕著に傾いたのも必然なのである。

最後に、スカイ・サクソン氏への、遅ればせながらのお悔やみ申し上げます。素敵な音楽をありがとうございました。以上の文は、ささやかながら貴方の音楽を「try to understand」した東方の一リスナーの気持ちであります。合掌。

lead vocal:sky saxon
piano,orgun melodica:daryl hooper
guitar,lead rhythm,twelve strings:jan savage
bass:sky saxon
drums:rick andridge
harmonica:sky saxon

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「manfred mann/the best of the EMI years manfred mann(1964~)tocp-3246」小沢



 大意の変更が求められるほどでもないけれども、瑣末なことに関して下線部追記訂正しました。(3/6)

 いつものことながら、深甚にクサクサしている…。世の中にはもっと苦しい生活している人がいるに違いない、などと本当に下劣なことを思いつつ慰撫されもせず気持ちが晴れぬ。季節の変わり目はいつも心が塞ぎ込んだりするが、しかし、季節の変わり目でない時期などあるのだろうか、季節はいつだって移っておる…しかるにや小生の鬱屈は無常にして常日の態といえよう…。家族と話しながら突飛にハッと心発作(こころほっさ)に苛まれ心も心臓も動悸する…得体が知れぬゆえだとは分かっていても得体の知れぬ恐れが鋭く突き破ってくる。ニーチェだけ読めばよいのではなかろうかと、思い至る。自分が考えていたことの殆どが、再読中のニーチェの書に書かれてあることを、今更ながら気付く…。かつて読んだ事があるのだから当然といえばその通りなのだが、今となっては、彼の言葉の端々までが、体中の細胞壁を滞りなく突き抜けるように、徹底的に分かってくる。間接的には何がどう作用するのか予想しようもないが直接的には人の命に関わるわけではなく、極めて限定された条件関係内での出来事に拘泥していても残された人生の時間が無駄だと分かっていても中途半端な社会性ゆえに心中クサクサしている。極めて限定された状況を生きるのが生活でもある、などと、心底下らぬことを惰性で徒然する惨めだ。会社というのは案外しばしば人が死ぬところである…社員の家族の訃報連絡は週に1、2件は飛び交うし、なんとなれば、つい先週の金曜日まではいつもどおり机に居た人が、月曜日になると亡くなっていた。クモ膜下出血、脳梗塞、脳卒中、心筋梗塞…自分の食生活を省みれば決して他人事ではないとビクビクしている。酒のやりすぎによるビタミン不足のせいなのか口内炎&舌炎に一ヶ月ほど苦しめられ、食事中の痛みを麻痺させるために酒で口内を麻痺させると称してまた酒を呑むから直りが遅いのだろうかと思って蜜柑摂取&ビタミン剤服用するが酒は決して止めないので痛みは悪化、ビタミン剤服用しだしてからはいたずらに蛍光黄色の濃い尿が迸るのみ…この濃い尿色…九谷焼の黄を思わせ、ああ、九谷の黄と緑という配色は、実にサイケデリックであるな…九谷の青手は、サイケデリックにささくれ立った小生の心情に添うてくるものよ…などと余談止み難く。下顎の前歯を支える歯肉炎もずうっと、こらえ難く痛。軽い中毒なのか、昼、一人になる機会があるごとにマクドナルドに通ってしまう…いつも、フライドポテトをLサイズにきちりと指定してしまう。するめを酒と共に味わうように奥歯でかみ締めながら芋に滲み込んだ油の旨味を執拗に味わう。そしてその晩、憂さ晴らしにポテトチップスを暴食、必ずや2週間後に口内炎になる。(小生は、ポテトチップスを食べると2週間後に必ず口内炎になる)既に高脂血症と診断されている小生、こんな生活習慣続けていたら必ず生活習慣病になってしまうことを恐れ、何となく体によさそうなもずくの酢物にしがみ付く…もずくに頼る自分…音楽を聴く…こんなにも頼り無いものにしか頼れないしこんなにも頼りないものにしか頼ろうとは思わない。そして、充実せぬ人生ゆえにこそ、いたずらに長生きしたいと浅ましく思う…出来るだけだらだらと生きながらえたいと切望するから健康にも気遣いつつ、気遣うのみで具体的にはほぼ、せぬ。何もせぬ、の何も、もないほど、せぬ。ああ、歯茎がシムシムと痛む…。歯茎をガバッと剥ぎ取って氷水に漬けて十分冷やした後、元の場所に装着したい。日の本の腐った健康恥部番組、会社の星とデジスタティーンズを連続視聴憎悪憤怒高揚後、チャンネルをすぐさま日の本の至宝、タモリ倶楽部、今宵はヒレ酒に合うヒレ選手権…しんみりと楽しすぎる…過去の、魚の皮選手権も、実に旨そうで面白かった。この、屑番組と至宝番組との落差は何なのだろう。

マンフレッド・マン。英国。白人たちのダンパやブロムなんかで盛り上がる程度のR&B楽曲ばかりかと思いきや、抑制があるからこそノリがいい、気忙しい荒みも繰り出す往時の気骨は確かである。否、英国のR&B受容は、米国のティーンズのダンスパーティ音楽などといった生ぬるいものではなく、地下のカフェやパブにおける先鋭的なものであったことが、その後のロックという音楽の方向付けを決定的にしたのだろう。その事は、このバンドの、一聴して他愛無い穏やかな陽気の最中で奏でられる不穏なリズムにも聴き取れる。独自の底辺を、黒人音楽に対する卒の無い解釈という本通りで生き抜いている。誰もが、スパイダースもモップスもゴールデンカップスもがカヴァーした、そのバンドの試金石たるガット マイ モジョ ワーキングも全力で演奏している。モジョって何なのだろう。テレヴィを無音で流していると、地元のバンドの紹介番組が始まった…少し音を聴くと、やっぱり、生ぬるいガールズバンドの音に辟易…本当いうと、最近は、最近でもなく昔からでもあるが、13フロアーエレベーターしか聴いていない。笑いというのは結局肯定されており肯定はまた肯定されている承認の犬に過ぎぬから小生は笑いやユーモアに対してもルサンチマンに対するのと同様に批判的であるが、かような、坂口安吾が云う物語のふるさとという意味でのサイケデリアのふるさと(安住を許さぬ…)を地獄車で延延と下りながら吠え演奏する彼らのかような音を聴くと、救いのない笑いだってあるんだ、と痛烈に気づかされる。

マンフレッド・マン:ピアノ?
マイク・ハッグ:ドラム
ポール・ジョーンズ:ヴォーカル、ハーモニカ
マイク・ヴィッカーズ:サックス、ギター
イアン・フェンビー:トランペット
トニー・ロバーツ:テナー
ドン・フェイ:バリトン
デイヴ・リッチモンド:ストリングベース

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「the golden cups/ the golden cups album(1968)cp8339」小沢


 金沢から、残雪が地に還るのを待つ北陸路通って帰ると、あ、春。エジプトやリビアやバーレーン情勢やニュージーランド地震や松木政務官辞任など色々あったようだ。高校球児や若い野球選手のように眉毛を整えた男は信用できない。社会的には小生よりも信頼に足るそつの無さを有するのだろうが、人としては軽侮に値するに違いないと思い込んでいる。近所に屯する若い男らのゲヘゲヘした笑い声が我慢ならぬ。多分、眉毛を整えているに違いない。
 
 結局のところ自分の責任だとして受け入れたり飛び出したりするのも最早西洋近代史観の範疇に過ぎぬのではないかと早とちりさせるのは、春の訪れと共に激しい北アフリカや中東の反独裁運動なのだろう。あの運動をネットのおかげだという認識で理解したつもりになっているのはあまりに西洋近代から抜け出ぬ浅薄なる見方なのだろう。産業革命以前から底流するイスラムや諸民族が強固する習いや文化が、経済的窮乏を引き金に、西洋民主主義の別の顔である独裁制(イスラム王権や部族長制と異なる…)に叛旗を翻したのだろう。
 
 くどくどしく、きっちりと、種々の事情が交錯した複雑な現状に対し論理や非論理含めてなされる説明を忍耐強く理解する能力に欠けた者(=大衆、といってもよかろう。もう遠慮しないぞ。)に限って、愚かしくも、説明責任や道義的責任、などといった曖昧で幾らでも歪曲可能な概念を、概念特有の単純化統帥化の危険性に無自覚に、馬鹿の一つ覚えのように振りかざす。大衆は自らをあざ笑うものに傾く、あざ笑われているのにも気付かず…。目くじら立てる程の事でもないがメイド喫茶や、意識的なキャラクター化(人間を統制化する概念がその必然として物化したような…)著しいライトノベルに傾く者らは、自分で自分を虚仮にしている。その事に気がついたところでロマン的イロニーという退廃の姿に陥るのが関の山である。

 小沢氏問題。取り合えず名目上だけでも法治国家であるこの国において、裁判が結審し罪状の内容あるいはその有無が確定したわけでもないのに小沢氏に社会的制裁を加えることに賛成する首相、国会議員並びに、権威に率先してカイライされるマスコミによる、政治的民主的意義を問われたことすらない怠慢のまま猛威を振るう世論調査で反小沢を言う大衆は、自分らがやっていることの意味を考えた事があるのだろうか。(このPC、かいらい、という漢字が出ない…頑張れば出るのだろうが…この言葉は、中国における「天安門」という言葉並みに、検閲されるべき危険な、そして事態の本質を射る言葉なのだろうか)
 首相は、推定無罪の原理、疑わしきは罰せず、という司法の司法たる理念の重要性を高々と、きっちり国民に改めて演説すればよいだけの話ではないか。国会議員としての道義的責任…そんなものは犯罪したのかしていないのかという事実が確定しない限り問うことは出来ないのであって、本人がやっていないという以上、それ以上何を説明するというのか、説明責任もくそもありはしない。国会に犯罪の有無を明白にする能力はないし、そもそもそういう場所ではない。
 何となく疑わしい、何か悪いことやってそうな噂のある人物を、その、疑わしいという、あまりに脆弱な非論拠に基づいて社会的制裁を加えることを公認する、しかも内閣総理大臣が…裁判が結審するまで党員資格停止、というのは途方も無い詭弁であり本末転倒甚だしい。現状の刑法の本質も実はこれと変わらないのであるが本当に全く治安維持法の復権を認めるようなものである。
 国会議員らは、このことの意味が分かっているのだろうか。小沢氏のこの件の現状を許せば、戦前や戦時中の日本の国会や在郷軍人-隣組制度、あるいはソヴィエトのスターリンやカンボジアのポルポトのような、密告粛清社会を容認するものである。火など要らない、人の口から幾らでも出てくる煙をかぎ付け、気に入らない奴のことをあやしいあやしいと言い立てれば、言い立てられた者は制裁される、法的承認も得られれば拘置所にぶち込むことも可能である。推定無罪の原則が適用されず推定有罪で罰せられる小沢氏の処遇を許せば、公認すれば、いずれその報いは国会議員や大衆自身にも及ぶだろう、あることないこと云われ少しでも何かしら思想信条を持つ者は処刑されるだろう。そのことを、議員や民衆は喜んで受け入れたということだ。それは歴史上いくらでも類例があるではないか。親小沢として党内離反した者らも、なぜ、推定無罪の原則に基づく現状批判をきちんと演説しないのか。立法府の議員たる者が、心情的な不平を幼く言うのみで、いまだその権威はぎりぎり失われていないだろう推定無罪の原則、裁判が結審するまでは有罪か無罪か確定されぬという当然すぎる原則をなぜ云わないのか。マスコミがそうした議員のまっとうな発言を抹殺しているのか。

 今、能は同時代性を獲得するために、新作薪能「小沢」をぜひとも上演するべきだと思う、と能楽関係者に強く言いたい。なんだったら小生が能「小沢」の台本を書いてもよい。

 朝、出頭命令のような目覚まし時計のデジタル音に起され、何も喰えず、鬱屈したまま、特高からの呼び出しあるいは飢えへの恐怖による生命維持に応ずるかのような出勤への支度もだらだらと、テレヴィ見ていると、厳しい就職活動に右顧左眄するフレッシュ学生たちの映像…。大変そうだな、気の毒だな、と思うしかない。最近の面接では、寸劇やダンスまがいのことまでさせたり(その会社は寸劇しながらアイスクリームを売ることを業務にしているから仕方ないが…)、人事の面接担当者が学生とスターバックス的な所で面接する時、店に入って出るまでの、担当者への所作や気配りの有無までがチェック項目となっている事などを、どろぉッと噴出する怨嗟と共に睨みつける…面接官よりも高いコーヒーを頼んだ学生は減点…ああ、私達はどこまで馬鹿にされればいいのだろうか…またしても、中野重治のあの言葉を思い出す…「私らは侮辱の中で生きています」たとえ過剰であっても飢えへの恐怖から生まれる生産体制を細分化分業化した職業群と、人間のやりたいことが一致するとは限らぬことから生まれる相克と苦しみそして滲み出る文化…警察官になりたい社会保険労務士になりたいという者は葛藤なきことだろう…それについてけちをつけるつもりはない。そして幽霊になりたい妖怪になりたい茶匙になりたい音楽になりたい屑になりたい野に吹く歌人になりたい…といった、生産と無縁の夢を抱いた者が、ナチス将校によって素手で墓穴掘らされた直後に銃殺され自分が掘った墓穴に蹴り落とされるユダヤ人のような屈辱の仕打ちに合うのが就職活動である…どうせ殺されると分かっていても抵抗してすぐさま殺されるよりは墓穴掘る間だけは生きられるから生きようとする本能的なさもしさがあえなくも掴もうとする生が否定された生の束の間、それが就職活動であり生活である…もっと云えばそんな束の間から洩れ出るのも文化や芸能である…。
 つい以前までの企業は、個性的な人や夢がある人を求めます、などと甘ったるいこといいながら業務上制度上の枠組みに納まる程度の個性の人しか容れぬのでその欺瞞を衝くことも可能であったが、最近ではそんな美辞麗句を弄することも一切無く、とにかく実践能力が高かったり社交能力に長けた人を明確に求人している職場が多いようであり、その形振り構わぬ厳然たる目的意識の剥き出しが、資本の原理として潔くも恐ろしい。
 
 冒頭の、結局のところ自分の責任云々というのは、かなり話が飛んだが、かようなことに思いを馳せたからであった。昨今にあって、先の小沢問題と、職業団体による組織的制度的な人格選別は同根の現象である。

 金沢漫遊記の一節でも書く予定であったが長くなったのでまたの機会に。

 ゴールデンカップス。日本。明治期の日本人による英語のカタカナ表記が、聴いたまんまだから、いわゆるカタカナ英語と隔絶して、まことにネイティヴの発音に近いということがあるが、モップスにしてもカップスにしても、特にカップスは横浜を根城にしていたためか、素直な輸入感が愚直にして好ましい。R&Bやソウルやポップスや日の本のGS歌謡が、それらの素材の持ち味がうっかり混ぜられて殺されることなく各々きちんと表出している。そのような素材の扱い方に日の本ロックの「和臭」をかぎつけるというのは、いささか、美味しんぼの影響が強すぎるというものなのだろう。原曲が誰だったかもどうでもよくなるほど、決してその曲と同時代に聴いたというわけではないが記憶の上澄みで見境なく漂うR&Bやソウルやポップスの古典が、カップスのカバーを通じて、なんだか苦しくなってくるほど懐かしい。
 母がラジカセでよく聴いていた青い影という楽曲は、幼少の小生をして、自分の心臓を泥寧まみれの両手で締め付けたいのか温かく守りたいのか判然せぬ苦しい思いを再発させる。青木繁の、獲物の魚を背負い歩く裸の人々を描いた油絵を、ずっと、皮膚が焼け爛れ目玉が零れ落ちる原爆被災者の群れの悲惨画だと思っていたし、この青い影という曲は、同じく原爆でむごたらしくされた日本人が、持つべき感情すらも奪われたまま、それでものそのそと、空腹と本能に従うように、後に復興として概念化され表彰される大事業の第一歩という高い意識も有り得ぬほどの卑小さで、瓦礫などを片付け始めるおとなしい家畜の惨めな姿の屈辱を誤魔化すような、胸糞悪い穏やかさの美しい楽曲として、小生は、聴いていたのであった。
 地を這い跳ねながらブンブン旋回する加部氏のベース…その如何にもなベースの主張が鼻につく玄人筋もいるかも知れぬが、やはり素敵である。ともあれ、かっこいいという言葉はロックの有り様を誤魔化す言葉に思える。油蝉が憑依したかのようなジージー耳障りな音を確然として繰り出すギターの薄さがよい。一つながりの曲の中に、濃厚に疾風する英語R&B楽曲をやっているのかと思いきや、いきなり他愛無くも大人ムーディな日本語歌詞が湿潤に歌謡されたりする強引な接木構成には驚かされる。はちきれんタンバリン。その形相は五月蝿さでしかないブルースハープ。戦後はやったハワイアンを巧みにアレンジした曲の暢気さはGSだろうが、そのように収まるのを拒否するバンドだろうが共通してある、裏表無さであった。ブルースやR&Bを精進すれば、いずれ立派なるも動揺著しいハードロックが聴こえてくるが、そこに至るには何らかの断絶と乗り越えがあるのかどうかは、今の小生には分からない。良くも悪くも、ハードロックという余計な知恵を齧る前の、楽天的な出来栄えであるような、ないような…。そういえば、ドイツロマン主義者ヘルダーリンのヒュペーリオンという教養小説に、「ブルーッス」という名前の人物が出てきて、夜中、笑いが止まらなかった。
 
 カップスの面々、サイケファッションがかっこいいです。あのチョッキほしい。

 デイヴ平尾:v
 エディ藩:g
 ケネス伊藤:g
 ルイズルイス加部:b
 マモル・マヌー:d

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不調不調

昨年8月購入したネット用の新しいパソコン(NEC LL750/B)の故障再発。いきなり緑色の砂嵐になる不具合。去年11月に一度修理に出し、原因が分からずとりあえず液晶交換されて戻ってきて三ヶ月もたたぬうちにまた緑色の砂嵐に見舞われる始末。今後、NECの製品は絶対に買わないつもりである。
しかたがないから古いパソコン(富士通FMV-BIBLO NB40R)を使うしかないが、これは無茶苦茶遅くて使い物にならぬ…。

緑の嵐といえば、今週のモーニング掲載のへうげもの、ついに緑釉に開眼したようだった。志野の卯の花垣や黒織部の名品の数々を描きあげた末、長次郎の三彩牡丹置上縁瓜図平鉢(東京国立博物館所蔵)の、漢の緑釉や唐三彩に直系する厳かな緑から、へうげた織部釉を創発する、という筋立て…。悪くはないが、できれば、小生が過日見出した上野焼の、戦国の、おぞましくも呪われた緑釉のことまで言及してほしいものだ。

職場から命ぜられ、今更ながらインフルエンザ予防接種を受ける…注射されるとき、隣の患者の熟年女性の、とめどなく続くつまらぬ世間話の相手をさせられながら小生に注射しようとする看護婦の散漫が気になりつつ注射される…一瞬、小生の気のせいかもしれないが、ワクチンの中に0.5mm程度の気泡が入っていたような気がしてならぬ…空気を注射されたんじゃなかろうかと不安で一杯である。こんな下らない医療事故で死ぬのは嫌だと思う。心筋梗塞や脳血栓や癌に襲われ、一命取り留めたもののいつ再発するかもしれぬという日常の不安、というのをべっとり味わう。今のところ元気だが、注射という、一歩間違えると死に至るかも知れぬリスクを強制され反駁する勇気も持てずおめおめと従ってしまったのだ、本来ならば何の法的根拠もない私企業の命令に従ってしまった自分という人間の、みじめさの末路か。権力は常に身近な拘束衣、そこんとこどうにかしなければ会社の星の無邪気な奴隷を笑うことはできぬ…所詮この程度の人間なのだから死んだほうがましなのか、いや、どんなにみじめでも生き抜いてやる…。気泡など、気のせいに違いない…泡(うたかた)の気なのだから。小生は、自分の空間把握能力を全く信用できない。体を一回転させれば自分が向かっている方向(北なのか南なのか)が全く分からなくなる。地図が読めません。

それにしても、ハーバード白熱教室ならびにそれの便乗企画の日本版白熱教室の、公認された愚はどうにかならんのか。本当に目をそむけたくなる。いずれケリをつけたいと思う。

地域のコミュニティと隔絶したところで栄える、見た目にも集落から隔絶した高大な敷地に立つ私企業経営の大型ショッピングモールの靴屋で、イカシタ靴を発見。刹那的に医療事故(という妄想?)による恐怖を忘れる。

憂鬱でどうしようもないので今週はロックについて書けない、パソコンも動かない。来週はよんどころない理由で金沢遊山の旅に出かけるので休載する。

それはそうと、昨年、創意こらした書状にて申し込んで無視された上田宗箇流の茶会に、今年、また、懲りずに申し込んだ。今回はネットでの申し込み完了。抽選なので招待されるかどうか分からぬが、どうなることやら、いずれにせよ一波瀾あるだろう。

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上野焼紀行御開帳御知らせ

いやあ、ひどい。あまりにひど過ぎる大河ドラマ「江」。あまりに恣意的に江を中心に進める話の筋立てなど理解に苦しむががそれも最早構わぬ。利休役を石坂浩二が演ずるのはよい。しかしながら利休が用いておる道具とりわけ茶碗があまりに低劣ではないか。見るに、ここ最近作られたに違いない、5000円、よく見て25000円程度の萩焼の井戸写しに過ぎぬではないか。あんなもの利休が使うか。

スパイダースの黒百合の詩を、浅田真央がフィギュアスケートで踊ればまったく新しい芸能、素晴らしいものが出現すると思う。

先週のダッシュ村のご当地炊き込みご飯特集、境港で水揚げされた黄金蟹を丸ごと、飯とともに釜で炊く。炊き上がって蓋をあけたとき、飯の上に鎮座したまま真っ赤に茹で上がった蟹の、険しい怨念の表情が忘れられない。いつか油絵で描きたい。

上野焼紀行できました。日本焼き物紀行の一番下にあります。読んでみていただければ。後日、もうちょっと文章を磨き上げる予定です…。

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上野焼紀行を前にして

明日、豊前の上野焼(あがのやき)探訪の旅に出かけますので、気が向いたら書きますが基本的には今週のロック史は休載します。利休十哲の一人、細川三斎公の茶の湯三昧御用窯にして遠州七窯の一つ、上野焼の現在は如何に。新燃岳の火山灰は釉薬かなんかに使えないのかな…焼き物大陸、九州の、まさに燃え上がらんばかりの息吹を感じたい。

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「the mops/psychedelic sounds in japan(?)vicl-18212」小沢




 たいしたことではないけれども下線部を後日追記しました。

 タモリ倶楽部、昆虫の脱糞映像特集やっている。吾が邦の至宝の番組である。
 
 近所の豚カツ屋がドライブスルーを始め、マクドナルドは宅配を始めたらしい。毎年恒例の、日本伝統工芸展を見に行く。どうせ手に入らない品々を見るだけ、というのはいたずらに物欲が増せどどうにもならないから鬱屈が溜まる一方でもどかしい気持ちでおかしくなりそうだ。毎年の事ながら鋳物の釜だけは欲しゅうなるものがある。備前焼と萩焼がやたらと多い…備前枠あるいは萩枠という、強固な権力基盤が形成されている模様である。中でもちょっとどうなのだろうと思ったのは、審査員で備前の人間国宝である伊勢崎淳の、牡丹餅の巨大な板皿が展示されているところの近くに、入選者として伊勢崎何某という、淳の係累とおぼしき人物の作品が鎮座してあった事であり、しかもこの作品が、ほとんど先述の伊勢崎淳の作品と同じような巨大牡丹餅板皿なのだ。師匠と同じようなことをすれば入選ということなのか。ちなみに伊勢崎系の人が二名入選していた。どうでもよいことではある。美術館のショップで、リアルに人糞のような形(なり)を荒々しく残す、ホオの木の茶合をきっちりお助けする。

 先週デパート天満屋の美術品部門で目に留まった、呪的文様が刻まれた青磁の平盃と、藁灰釉にタンバンを施した高坏の盃(底に碧の湖が小さく溜まる…)を、一週間考え抜いた結果、今日お助けした。世の既成の評価を自動的に表出する事しか能が無く従って物の良さなど分かるまいと小莫迦にしていたデパートの美術部であったが、偏見はよくないのだろう、よい品はいつどこに潜んでいるのか、全く油断ならぬ。
 
 ザ・モップスのサイケデリック サウンド イン ジャパンである。CDのどこにも、原盤の発売年月日が記されていないのでよく分からないが、当たり前だが恐らく60年代後半から70年代前半のものだと思われる。お揃いの制服GS全盛期のころ、彼らは思いも思いの如何わしい装いで登場した。いわゆるサイケデリックな服やいんちきチャイナ服、インディアン風や闘牛士などの装い…。日の本においてGSという枠組みから外れようとした動きを見せた最初期のバンドらの一つであったと思われる。このアルバムのサイケ観はいわゆる英米の産業サイケを直輸入したようなものでさして目新しいものでもなく、日の本のロックとして英米サイケを換骨奪胎しようとする形跡を認めるのは困難であろう…。この王道なきロック史において再三提唱してきたサイケデリア性の荒ぶる淵源をとらまえることは、出来ていなかった。英米の古典ロック楽曲のカバーの合間に阿久悠作詞の従来型GS楽曲を配置するというところに新奇を聴取すべきかもしれぬがそこまで肩入れする気持ちもしない…最早カバーとオリジナルの区別なども必要ない、先人の楽曲を自分らで改めて演奏歌唱することも全てオリジナルだと考えてなんら支障はないであろう、殊にロックやジャズなどという音楽においては。
 そうはいってもモップスの、特にカバー曲、否、オリジナル曲に聞かれる、下顎諸共内臓吐き出さんばかりの勢いや余裕の無さは、特に孤独の叫びという古典においては白眉であり、奇しくもハードロックに通ずる殺伐たる混沌を呈していた。氷結した雪原を這い回る亀裂のようなジゲジゲのギターの、決して上向くことのない低調のしゃがれ音がイライラとはびこるのがよい。

華厳経の本を読みたいので今宵はこの辺で。

鈴木 ヒロミツ:ボーカル
星 勝:ボーカル、リード・ギター
三幸 太郎:ボーカル、サイド・ギター
村上 薫:ボーカル、ベース・ギター
スズキ ミキハル:ボーカル、ドラムス

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