- 2025.05.14
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- 2011.12.18
リハビリ編「the clash/the clash(1977)ek63882」年の瀬
- 2011.12.11
リハビリ編「the adverts/anthology(1977?~)sdevil904cd」年の瀬
- 2011.12.04
<未完>リハビリ編「tsunami attack!! japanese garage rock'n'roll vol.2(1998?)vscd5495」師走
- 2011.11.27
<メモランダム>リハビリ編「tsunami attack!! japanese garage rock'n'roll vol.2(1998?)vscd5495」談死
- 2011.11.20
今週休載のお知らせ
- 2011.11.13
リハビリ編「the stalin/虫(1983)tkca-72603」
- 2011.11.06
逃亡編
- 2011.10.30
リハビリ編「frank zappa/you are what you is(1981)rcd10536」
- 2011.10.23
酩酊編
- 2011.10.16
「四天王寺太子会紀行」のお知らせ
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リハビリ編「the clash/the clash(1977)ek63882」年の瀬
ああもう年の瀬年の瀬、年の瀬にかこつけて何もしたくない、捨て鉢な気分、生活の節句に頓着することなく襲い掛かる種々の困難を、頭を低めて全てやり過ごしたい後ろ向きな気分はそもそも年の瀬如何に関わらぬ日頃の常でもあるからしてかこつけて、と相成る心の弱さがむらむらとあてどなく怯える始末の悪さである。逃がした魚はまことに大きい、それが最早入手できぬと分かって初めて楔の如く撃ち込まれる激甚なる落胆…筒型に近い小ぶりの梅花天目茶碗…惨惨とようかせて侘びた漆黒の闇に影絵のように浮かび上がっていた梅の花二三片が闇の底に沈みゆく瞬刻をとらまえたそれは、今にしてみれば即座にお助けすべきだったものを、…と後悔冷めやらぬ、かつて立ち寄った骨董市でうっかりお助けしそびれたかの天目茶碗を思うにつけ。茶碗にしては小さすぎるな、という、器気に圧倒され疲れていたとはいえあまりに浅い思慮によってその時は見逃してしまったが、後から考えてみればぐい飲みに至極重宝するではないか…あの乾ききった闇に滔滔と酒を満たせば、揺らめく梅の花なぞさぞ興をそそるだろうに。しかし後の祭りだった。しかし(擬)天目茶碗など市に行けば定番の品でもあるし、似たようなものにまた巡り合えるだろうとたかをくくり、且つ、つい先日行きつけの中小企業会館で日本海骨董市があったのでいそいそとお出かけ…結果、目に適うくだんの天目茶碗には出会えずじまい、となったのである。代わりに…(今回の獲物について話し出すとまたきりがないのでここらで打ち止め)
捨てる神あれば拾う神あり…先週、流木が欲しゅうなって、汐に洗われ、名も知らぬ遠き島より流れよる…よう乾いた白骨のような流木を、所持している雲助形藁釉流し掛け壺に投げ入れて、その冷たい骨=枝に帽子なんぞを掛けてみたい…という、人として浅ましい、内的満足に閉じこもる浅ましいインテリア的欲望に目覚めて…流木屋なるところまで行ったのである。海岸を歩いて自分で流木をゲットしようかとも考えたがこの寒空、そうやすやすと流木が見つかるとも思えず、恥ずかしげも無くネット検索、福山にあったので、高速道路使って往復5時間かけて行ってきたのである。行くと…店の雰囲気が何か馴染めず、サーファーのような人がサーファーグッズの販売の片手間としてやる気なくやっている風で、1畳ほどの流木コーナーの入り口には荷物があって入れないし、窓から除く流木もさほど種類もなさそうですりこ木程度の小枝ばかり…店員も、我々が入店しているのに、外でキャンピングカーを洗っている、無関心ぶり…流木なんかを求めてわざわざこんな処まで来てしまった恥を見透かされた気持ちでいたたまれず、逃げるように収獲も無く帰った翌々日、今年最後の粗大ごみの日…アパート前のごみ置き場に行くと、剪定されたばかりの、まことに獰猛な枝ぶりの樹の枝枝や根っこが、冬をこらえる気丈が静かながら不動にも暴発しかねぬ生気をいまだに放ちながら無造作に鎮座しているではないか…ご近所の手前、めぼしいものを素早く選んで自宅に持ち帰った。「流木なんか欲しがって、お前大丈夫か」と、当の流木屋の店員に暗に言われている気がして、あまりに限定された、それにしては大掛かりな巧妙な罠に掛かったかのような小生の存在がこらえ難く恥ずかしい。流木を欲しがる人(小生)→恥を忍んで流木屋に行く→蟻地獄のように構える流木屋が、流木がうまく手に入らないという恥を小生にかかせる、という…馬鹿馬鹿しい。
疑いようのない、徹底した人間への不信においてしか人への優しさは生まれないのかもしれない。
「米朝が食糧支援の協議」というヤフーニュースの見出し…人間国宝、桂米朝ではなく、アメリカと北朝鮮のことだと合点するのに時間がかかった。
剥製が欲しくなったらおしまいかもしれない。螺旋状に角を振りかざすやさぐれた、毛並みが脂ぎった黒毛の野牛の首が壁からぬうと突き出ていたら…玳瑁(タイマイ)でもよい。小生の庵は湿度が異常に高いので剥製の維持管理に不安が残るが…黴が生えたり…ネットで剥製屋で値段を調べると結構なお値段である。何とかしたい。物欲の空しさというのも知り尽くしてはいるが…機械男爵に捕まった母親が、男爵の応接間を飾る剥製にされており、男爵を伝説の銃でぶち殺す鉄郎、屋敷ごと火を放って、メーテルと共に銀河鉄道999に乗って旅立つ鉄郎…を思い出した。剥製というものの残忍をこれほど伝えるエピソードもあるまい。
ザ・クラッシュ。何も考えたくない時に聴くのにちょうどいい音楽であるゆえに、この音楽について何か考えるなど荒唐無稽である。如何なる時も突っぱねる、小気味良いチンピラ。いつも前傾姿勢という訳でもない中途半端な優しさ。この世をぶっ壊せないなら、せめて己だけでもぶち壊す奇妙な、笑えない反社会的責任感。もうこれぐらいでいいだろう。
mick jones:guitar,vocals
joe strummer:guitar,vocals
paul simonon:bass guitar
tory crimes:drums
リハビリ編「the adverts/anthology(1977?~)sdevil904cd」年の瀬
師走に入れば街の雰囲気もどこか気もそぞろ、年末に向けて諸事加速するげんきんなものでして、街の雰囲気に気の早さ云々あるのか分かりませぬが勝手に感じてしまったからいけません、新年の早朝のような、何も解決していないけれども取り合えず改まった、妙に目出度い清明なる落ち着きすらもあるようなないような。いやはや気の早いものでございます。月の和名には如月だの文月だの風情あるものでございますが、遠く仏蘭西には革命歴というのがございまして、これがなかなか趣深いものでございます。革命成就を記念して時の共和政府が詩人の何某にこしらえさせたものでして、花月、霧月、風月と、仏蘭西人もなかなかやりおるわいと感銘いたすこの頃でございます。最もこの革命歴、以前のグレゴリオ暦に慣れた庶民には不評でして十数年で途絶え、一度、パリ・コミューン樹立の際に復活を遂げましたがコミューン壊滅以後は使われなくなっております。人の世の儚いものでございますが、思えば亜米利加人が本邦初の大河ロマン源氏物語の翻訳に一等困惑したのは登場人物の名前が花や虫や気候から借用したものであったことでありまして、葵上、末摘花、桐壷、夕顔…などを植物辞典片手に真正面から米語に翻訳していたところとんだチンプンカンプンな迷訳になってしまったとか。この挿話からして一般に欧米人には人事に草木の自然を見る心あらざらんやと残念至極に痛感していたところ、意外や意外仏蘭西人はかような仕儀、思い込みはいけないものですな。
慣れない落語調で枕話を書くのもちと疲れたのでここらで打ち止め。ジ・アドバ―ツについて…多分英国のパンクバンド…話変わって、金曜日の晩、殺伐とした、重くキツメの気持ちでラーメン屋にぶらり入る…店内には80年代アイドル歌謡とツッパリ系ロックンロールが吐き出されている…そして餃子セット(飯付き)を注文…魚介系の芳ばしい、といえば聞こえはよいがいささかやり過ぎ感のある焦げくさい臭いが一閃、しかし素直な醤油ベースで、なんかホルモン並みに固い豚の背脂が浮いている、なんちゃって尾道ラーメンである。上下関係の無い組織は無いのだろう…何故自分が他人の命令を受けなければならないのか、金のためなのか、ある日突然営業運転中の新幹線の運転席に座らされた鎌倉時代の人、みたいに、全く何処から批判してよいかすらも見当がつかないまっさらな、あどけない心境である、いまだに…。組織にあらざる、上下関係の無い関係というのがあるとすれば、友、ということになるのだろう…そういえばドゥルーズもブランショも、晩年、しきりに、友(アミ)ということを云っていた…それはさておき、ともあれ、嫌な事をするめのように引きずる金曜日のくさくさした気分のおもむくままに、寒さに襟を立ててラーメン屋に入ったのであった、そして麺を啜るのであった…荒れた心には、クリスタルでトロピカルな舌足らずアイドル歌謡や直情径行ツッパリロックが心に沁みる…片手には魁!男塾…!同じく荒んだ客の手垢と飛び散るラーメンの汁の滴に塗れた漫画本を片手でめくりながら、ラーメン、餃子、飯、ビールという、体に悪く男臭い週末を送ってしまった。それだけのことである。休日は腹が減る…おにぎりせんべえ一袋たちどころに平らげたところで空腹は癒されぬ…一杯の飯で事足りるのだが…飯を茶碗によそう→食べる→茶碗と箸を洗う必要性の出現、に耐えられなくて、我慢する昼日中、昼寝して誤魔化す。次亜塩素酸による茶渋取りに嵌る…専ら自分の中で格式高い、伝 永楽善五郎の染付猪口の見込みの釉薬がはぜた箇所に黒い物が沈着していて気持ち悪かったので塩素浸漬すると気持ちよくきれいに!味をしめて同じく黒色汚れが気になっていた古い猪口に同じ処方すると、今度は、その釉薬のほつほつした点状窪みに沈積していた黒色汚れが貫入著しい釉薬の下に薄墨のようにまだらに広がって全体的に何とも薄汚い姿に!替わって茶渋がひどかった、切り立つような轆轤さばきで極端に薄作りの萩焼の煎茶器、これは窯だし当初の、匂うような桜色の悠遠と夕間暮れの翳りが再生されて歓喜ひとしおである。古い陶磁器の塩素洗浄には悲喜こもごもある。暢気な、古いポンプの作動音のような単調なポスポスのドラムが、その単調に飽きるという人間的な説明や理由抜きで獰猛に連打される激烈も突発する油断のならない音作り…急こう配の階段を、足がもつれながらそれを解消させる余裕も無く兎に角一挙に駆け降りるどさくさな無茶苦茶な慌てぶりがとんでもない楽曲が目白押しである。切れの悪い悪態だけは絶叫する。併録されたライブ版、スタジオ版に聴きなれたせいか、尋常ではない。それにしてもこの、もっさり黴っぽい、恐ろしく埃っぽい音質は何なのか。電気楽器で黴っぽい音って出せるのか、と思わず瞠目した。楽器の音の録音バランスが著しく欠けており、他のメンバーは英国の、よう使い込まれた地下のライブハウスでやっているのにギターだけ、カスピ海の島から、同期化困難な同時生中継によって音を送り込んでいるようなちぐはぐな、ベースと判別しがたい不鮮明な小さい音を送ってくる。どうしようもなく変態的に半音、突拍子も無く上がったり下がったり予測不能の、しっかりまとまらぬリズムが居心地の悪さを悪びれず音楽を生々しくぶつけてくる。馴れ合っていない、当日偶然出会ったばかりでとるものとりあえずろくな準備も無く妙に急き立てられて兎に角バンド演奏しなければならない赤の他人の集まり、互いへの不信に満ちた各々の楽器や声のぎこちないこの爆発に言葉を与えるとしたら、「人間」、としか言いようのない、生の音楽=人間を示して余りある。素っ頓狂でぐねぐね、そして人に優しいポップもあって。ありがとう、と思わず合掌する。この一か月ほど、ほぼ毎日、このアルバムを聴いていました。
gaye advert:bass
T.V.smith:vocals
howard pickup:guitar
laurie driver:drums
rod latter:drums
tim cross:keyboard
paul martinez guitar
rick martinez drums
<未完>リハビリ編「tsunami attack!! japanese garage rock'n'roll vol.2(1998?)vscd5495」師走
いきなり下線部追記しました。12月4日 21:30
どうも書く時間が良くない。土曜日の深夜でないと思考が鋭くささくれ立つことがなく、ふわふわと漠然たる不安を持て余すのみの日曜日の午後である。数時間たったら地獄への出頭がまっているというに…ランボオの地獄の季節を精読…やつれて荒んだ魂の、ずたぼろの雑巾の妖怪じみた熱っぽさ…腐乱した熱の絢爛…思えばこの熱を、小生は、利休の茶、芭蕉の、蕪村の、一茶の句の鼓動として読む度に同期していたのだった…冷え枯るる侘びとは言い条、茶会記を読めば読むほど、句集を読めば読むほど、尋常ならざる、己の身体から飛び出さんばかりの熱っぽさを感じるのだった…こういうのを魂と呼ばずして何と呼ぶのか。とりわけ蕪村の、とりわけ牡丹の句などはその激情が安易な運動を許さぬほどの、どっしり沈痛した深みのある油絵の静物画のごときである。並べてみれば分かる。
牡丹ちりて打ちかさなりぬ二三片
閻王の口や牡丹を吐かんとす
地車のとどろとひびく牡丹かな
ちりて後おもかげにたつ牡丹かな
牡丹切って気のおとろえし夕かな
山蟻のあからさまなり白牡丹
広庭の牡丹や天の一方に
牡丹を見る蕪村…しかしそれは蕪村が見た牡丹の絶対の固有性をゆるがせにしないままに、何か別の物がしっかり見えている感じ…こういうのを魂であるとか本質であるとかイデアであるとかいうのは簡単であるがそこには認識の限界をも批判しうる別次元の心身が要求されるのだろう…思えば今更小生が発見したわけでもなく、古来からつづく問題ではあった…否、自力で歴史をやり直すくらいの忍従も必要なのだろう…ようするに認識と信仰が未分化だった仏教しかり、政治と言葉の季節によって合理的に離れてしまった認識と信仰を合理的に結合しようとする信仰的努力のようなトマス・アクィナス以降の近代哲学の系譜しかり、哲学、科学、芸能を一挙に風呂敷に包んで信仰を臨んだショーペンハウアー…彼らが何を大切にしようとしていたかに思いを致さぬのであればニーチェを読んで神が死んで悦に入る資格は無い。無論、仏教の信仰とキリスト教の信仰は相違はあるのだろうが…いずれにせよ、私たちは、目があるから見えるのではなく、目があるにも関わらず、見えてしまう(ベルクソン)のだろう…フランス人の皮肉な言葉ではある。実際には、目があるにも関わらず見えてしまう者はどれだけいることか。目があるゆえに、見えていない。目を耳、と変えてみてもよい。
ライブの模様がユーチューブですかさず録画公開となり、垣間見た小生の嘔吐感、までは先週記述した。なんてことはない、いわゆる実存体験なんぞよりもはるかに卑近なる体験ではあるが、卑近ゆえにありふれた、日頃では意識せず素通りしてきたような事に、重大な陥穽がある…自らが墓穴に住まっていることに今更気づくような。ユーチューブに乗せることを非難しているのではない、今日びの振る舞いとして至極当然であろうし、単純に良い演奏をデータとして残しかつ広めたいという私心のない、ほとんどふとした好奇心に近いくらいの他愛ない仕草に過ぎぬことに何を目くじら立てているのか、と自分でも思う。思うがしかし、言いたいのはただ一点である。あのライブの模様をユーチューブに乗せたとき、あるいはそれを見て楽しんだ人は、「ちりて後おもかげにたつ」と歌える心があるのか、いいや、無いだろう、ということであった。かようなことに目くじらを立てるのであれば問題はユーチューブにはとどまらず、当然ながら録音ということにも広がるだろう…録音ということの恩恵をたっぷり受けているロック聴衆…おかしくなっているとすれば既におかしくされているのが現代の聴衆である。おかしいもおかしくないもない、既にそれは異変ですらない常態に過ぎぬとしても。ライブをじかに聴くということは、録音聴取漬けによって命の感覚がおかしくなったのを目覚めさせる良い機会、とするならば何とも馬鹿馬鹿しい、言わずもがなの結論であるが、だいぶ行き詰った…。「ちりて後~」と歌える心は、散った命の一回性の、無意味な壮絶を云いながら、記憶による再生しか見る事あたわぬもどかしい限界を端的に歌うのみではあった無告の、歌うことを自らに許さぬ詩歌でもあった。絶望の描写にこそ情趣が生まれるが情趣とは絶望に過ぎぬ。ネットやレコードその他もろもろによって行き着くところまで至ったかもしれない最底辺における麻痺という絶望は救いの声を上げることなく最底辺での生活を日常化する…新しい荒みの世紀の到来…現代の芸能者や思想者にとって、これほどの「最高=最低」の「舞台=生活」があろうか。以前にも書いたが、「待ちに待った閉塞感」である。いや、いつだって、如何なる時代も過酷に困難である。あらゆる現在が「最高=最低」の「舞台=生活」である。
話が変わるが「地獄の季節」の事を思いながら駅の中のつまらんコンビニをうろついていると、砂糖やケチャップといった、うっかりスーパーとかで買い忘れた人用の日用調味料が並んでいる棚の上にあったラジカセからのラジオ放送が、フランク・ザッパの「ジャズ フロム ヘル」(地獄出身のジャズ)を流し出した…気が立っていると、現実のほうから、頼みもせぬのに意味や符号をまき散らしてくることはよくある。アンドレ・ブルトンの「ナジャ」という小説は、シュールリアリズムやらオートマティズム云々言う前に、かような現実における意味(啓示)の奇跡を主題にしたものだった。
ライブ演奏…個々に向き合うべき固有の問題はあろうが、過ぎ去ってしまった今、無自覚の慢心、ということを思わざるを得ぬ…無論、これは小生自身にも向けて責め立てている言葉である…聴衆の慢心、ということもある…音楽の現場における聴衆の慢心、とは、己を聴衆であると自己規定してはばからぬ民主主義的大衆の一形態である。無責任ながら権力はあるうえに口は出す、あるいは無言かつ無思想の購買行動によって経済の動態となる…人と同じことをすればそれが世の趨勢となって自らの利となる、市場原理と科学が結託した政治形態、民主主義の産物=大衆。何度も書いてきたことであるが人間万事徒手空拳…音を出せば音が出て、音を聴けば音が聴こえると思っている自明などありはせぬ。決まりきった方法など無い、しかし創造などという大げさな仕草に創造すらあり得ぬ、絶えざる身近な日常の創意工夫しかないのだ…演者も聴衆も。創意工夫は、自分が良いと思っている音楽性を、自分が良いと思う演奏で再現する安心からは生まれてこない。これは本当に良いのだろうかという不安の相の下でふっきれぬ捨て鉢の引っ込み思案が暴発するしかない…しかるにあの時の現場には、自分がよいと思っている音を自分がよいと思いながら演奏、尚且つ自分がよいと思っている音を自分がよいと思いながら聴く、という、無邪気な、罪の無い、慢心安心した楽しい状況が呈されていた…創意工夫というのは、先の述べた、一回限りの生ないしは事への手向けであり、おもかげに過ぎぬとしても営まれる情けない祈りである…音を聴く者の振る舞いとして、未熟ながらも思案工夫した小生が打ってでた挙行も、それ自体力不足の工夫ではあったが、聴衆の何となく踊る有り様を批判するものでもあったにも関わらず、殴られたり詰問されたりすることもなく「少し変わっている人」という具合に安全認識の棚に陳列されただけであった…それなりに切実な音楽への祈りと演者への励ましの所作のつもりであったが…よくあることだ。次はもっと本気でやるしかないのか。そこまで渇望している小生の状況にも何の価値もないのだから上記の批判は一切の説得力を放棄していることを注記したい。ただしいろいろ矛盾したことを書いているが、書くべきことというのは言語を絶したところにしかないのであるからかような表現になるのも致し方ありませぬ。
欺瞞と正直さは不安においてこそ同居しうる。
城と云うのは下手に鉄筋コンクリートで再建するよりも、石垣のみ、礎石のみ、が往時を偲べて、よい。米子城の城跡を登頂してそう思った。戦国の野面積ほど荒くないが安土桃山~江戸初期の、熊本城のようなきっちり切り分けて接合した石垣ではない、その中間の味わい深い石組み…たまらぬ。山の上の天守跡から望む日本海、中の海、米子の町…蕪村の句の後でまったく烏滸がましいが、小生の、長屋のご隠居の手すさび程度の旅中吟をいくつか。
またまたと水のひた寄る秋の岸
黒色の向日葵立ち枯れて土を拒否
石垣のさびに染まりし死に蟷螂
城山や伯耆の不二は雲隠れ
暗雲の底に轟く道の音
土曜日の夜何してたかというと、先週、神戸の三宮まで行って買い付けてきた電燈の設置作業。先カンブリア紀あたりの地層から出土した琥珀の巨塊のごときが宙に浮いてその光輝たるや…夜になれば小生の書斎は濃厚馥郁たる蜜の光で満たされる…マイ・ルーム作りなぞ、先ほどまで「荒み」「慢心」云々と鼻息荒く述べていたのが恥ずかしいばかりだが、どうしようもありませぬ。自分好みの物を飾り立てて慢心しています。なんだかんだでNHK年末ドラマの坂の上の雲が気になるなあ…。
<メモランダム>リハビリ編「tsunami attack!! japanese garage rock'n'roll vol.2(1998?)vscd5495」談死
…と、ここまで書いたところで、ぱったりとこれ以上文章を書けなくなってしまった。日曜日の夕方、という憂鬱すぎる時間帯ゆえであろう。致し方ないので小生が備忘のために走り書きしておいたメモランダムの箇条書きでお茶を濁したい。無論、箇条書きだと分かりづらいし誤解も多くなる恐れがあるので次回、ここで示された骨子を再構成することで如何なる論旨となるか文章できっちり行間を埋めていきたい。分かる人にはわかるかもしれませぬが…
・ふとしたきっかけで先週のライブの模様をユーチューブで一瞬垣間見る…吐き気を催す…昨今ではごく普通のことだろうに、否、専ら個人的な問題だろう、専ら自分の心の状況…軽々しく録画、録音してはならない…自分が過敏すぎるのだろうか…たいしたことじゃない、よくあることだと自分に言い聞かせても心の動揺おさまらず。
・じゅんこたる、いとおしい時間のこと。
・もう、レコードが聴けない、ライブ演奏しか聴けない心になってしまったのか。
・なんという冒涜だろう。
・小林秀雄に言われるまでもなく、何もせずじっとして聞いていることを強いられたことから始まった近代音楽の思弁性。かような聴衆の誕生が近代以後の音楽にも影響を与えた、ロックもしかり。
・ジゲンオルガン…その崩れ、ハードロック性…録音のほうがよいかも…ハンナ・アーレントによるヘルマン・ブロッホ論(「暗い時代の人々」所収)…詩人になりたがらなかった詩人、その小説…ライブを希求すれどライブでは分かりづらい音楽性かもしれぬ…録音を再生した音でこそ滋味が広がるだろう、しかしその荒みはスタジオにこもることを自らに許さぬ、だがいまだ野にあらず粗にあらず卑にあらず浮遊…そこを聴くべきなのかわからぬ…その固有の芸能が抱えた矛盾…大衆性と前衛性…古来仏教における、大乗と小乗への分離に見られるように、古くて新しい、退屈な、のがれがたく苦しい視座…経済という実力の前ではポスト近代の言論もその場しのぎのごまかしに過ぎぬ…大正期…菊池寛の凡庸作家論…昨今のライトノベル論よりもはるかに…否、これは歴史哲学ではなく、専ら芸能固有の問題である…ハードロック=リフのえげつなさが足りぬ。はかない本願であり専念であり一途であることが同時に無明不安たる、物語なき現実でもあって。今のままでもよいかもしれん。ノリのいい、しかし危うい生活苦を無神経に背負う聴衆の踊りと共にあればよいかもしれない。切り捨てるべきは小生のような聴衆かもしれない、決して高級なものを求めてはいないし屑が屑について考えたところで自我を持った屑にすぎぬとはいえ…
・ザ・フライ…本題しかない。工夫や装飾といった媚び無し。ブルースのリフというのは本来、人の気持ちを魅惑しよう、ノリをよくしようというような誘惑と関わりない、自然の造化に近いぶっきらぼうなむき出し。その辺の石ころや板切れに等しい…魅力的なリフ、そんなものは存在しない…歌のサビやメロディとは断絶…ブルースのリフ=ハードロックのえげつなさ…そうしたものこそが聴く者の心を燃やす。さらさらときれいな灰。恥知らずの乗り出し…しかしめでたくも確立せるその達者な芸能の安泰に今後の音楽の可能性はありやなしや。
・基底に亀裂が走る、追い詰められ問い詰められる鳴動…小生も共に追い詰められている。
・ゴーデビルス…ロックをきっちり教則通りに演奏するだけでもロックという音楽の劫火を延焼させてやまぬ…しゃがれ声。よかった。ジャニス・ジョプリンやあふりらんぼを引き合いに出して女性が歌うロックの絶望的な荒みへの至らなさ、ドスの効かなさという、偏見に満ちた寂しいことをいつか論じるつもりでいたがそのことを一度は思いとどまらせた。さっそく買ったCD録音を聴くといまいち…
・ジャパニーズ・ガレージというくくり…聞いてみると、舶来ロックのGS的受容を出るものではなかった…ロックという音楽のこらえがたい欺瞞と矛盾を専ら音楽的思考と実践によって体現しえたガレージの、正直と欺瞞がおかしなことに同居した獰猛という根暗な相克が皆無であった。あまりに日本的な、近代的自我にとらえられることのない、搾取も虐殺も天災のように受け入れる日本大衆の祭りなのか…新しいのやら古いのやら…手のひら返したように民主主義を受け入れた戦後…その素地は明治以前からあった…蜘蛛の糸…我欲のために切れても切れても、たった一人の渇望せる貪欲な心のもとに垂らされるのがロックだろう…ロックに垂直構造は似合わぬが…大衆を救う音楽ではないのは確かだ、そこのところ肝に銘じたい。
立川談志の芝浜における二日酔いの演技は、聞いてるだけで胸焼けがするほど秀逸に真に迫っていました。合掌。
「安全神話」「原子力村」などといった決まり文句を使ってはばからぬ者こそが、「安全神話」「原子力村」的なものの構築に率先して加担する。意図せずして。
リハビリ編「the stalin/虫(1983)tkca-72603」
普段使っているネット接続用のパソコンでは無い、古いパソコンを引っ張り出して入力開始…マウスの股のような所にあるスクロール用のコロコロのゴムが妙に油っぽく表面にブリードしている…キーボードも水死した人間の白蝋化を思い出したかのように黒光りしている…空気の芯あたりからこれまた滲むように広がる冷えは湿度を伴って、奴の繁殖をしきりに促すようだった…奴…未虫が…極微の米粒のようなものが手足など無いのに(小さすぎて見えないだけだが)うじゃうじゃとうじゃけている。未虫は人間の脂を餌にして繁殖するのだろう。その途絶えを気付かせること無く虫の音が途絶えてしまった晩秋の、日曜日の、陰惨な、予見的労働によって既に汚れきって疲労が焼け爛れた皮膚のように垂れ下がる夕暮れに書き始める。いつもは土曜日の夜更けではあったが、期日変更の理由は特に無い。意外にもったりとさえない感じで始まるスターリンの「虫」…夜の象亀の、雄どおしの、傍目にはのんびりした、しかし当事者にとっては文字通り命がけの厳しい決闘…引っ繰り返された象亀は元に戻ることが出来ずそのままのんびりじたばたしながら決定的に死に行くという。蔵書を整理していたら思いの他アナボル関連の書籍がうようよ出てきて、一箇所にまとめると禍々しさもひとしおではある。実家にいた頃、マルクス・エンゲルス全集を小生が所持しているのを親に見咎められたこともあったし、先刻訪れた客人の一人も、本棚の一角を占めるML(マルクス・レーニン)文献を、小生のしつらいやもてなしにはさほど興味を持たずに激しく注視していたのを思い出す。ソ連崩壊して幾星霜、この資本主義社会にとって、有効かどうかという実践的議論はともかく、禍々しさというのを失っていないというのはあるのかもしれない…誰も殆ど制御できないししようとする意志をも禁ずるのが唯一の主義たる所以である資本主義を、人間性の確立と啓蒙思想の復権を根城にして批判にさらし理論を構築した所業が、禍々しくないはずはないのだろう…デリダが「マルクスの亡霊たち」で書き綴ることにつながるのだろうが、この辺について論じ始めたら夕餉が喰えないので打ち止め。MLに比べればスターリンなど、ネロだの始皇帝だのポルポトだの有史以来輩出されてきた大量虐殺を旨とする独裁者の一人に過ぎぬので思想的には恐れるに足らぬのか、政治手腕のしたたかさは際立つが…。ともあれ、ミチロウたちのスターリンと、歴史的スターリンはほぼ関係ないだろう…類推の悪魔に唆されて駄弁を弄したまでである。どのみちレコード音楽やエレキ音楽などは私有財産の最たる所産ではないか、そんなもので無産者のなにがしを歌われても欺瞞甚だしいというものではないか。そうした矛盾を抱えながら欺瞞承知で苦しみながらそのありのままを表現したところで、そうした表現も表現である限り所有という同じ穴のむじなとして難詰してくるのがマルクス主義ではあった…音楽を聴きたい人の前で音楽を生で演奏するというライブの一回性の姿が辛うじて無産たりうるのか。きりがないのでこの辺で打ち止め。ずっしりと質量が濃く重いドラムが、パンク・ガレージにありがちな明け透けな蓮っ葉感をも戒めるように過度にストイックではある。自分としてはいま少しバカバカに抜けた明るいドラムが好みではあるが、音楽を聴く上で自分の好みなどどうでもよい。時に急加速するリズムは、後ろにのけぞりながらのワン・ツゥーを速射させながら(小生が妄想したドラム奏法表現。一般的かどうかは分からない。一般と一致していたら気色が悪い)大きいうねりを地べたで煽る…愉快だ…極度の意識で短絡された、切り詰められた悪態雑言の破片は崩壊する高層ビルから降り注ぐガラス片のように鋭く肉にパパパパッと突き立ち、容易な除去を許さぬ。比類なく美しい「天プラ おまえだ 空っぽ」。これ以上に美しい詩句がこれまで存在しただろうか…埴谷雄高の「薔薇 屈辱 自同律 つづめて云えばおれはこれだけ」という独白も天プラの前では鼻持ちならない趣味性を帯びてくる。美という観想は満足した堕落の着地点であると断じこの概念を避けることも出来ようが、あえて美の側から申し出るとすれば、かような歌をこそ美しいと呼びたいものである。朝の社会社への出頭中の車で聞くと、これは、独居房ないしは懲罰房で聴くべき音楽、と思った。本当に何も所有していない、まわりにも何もないし壁に激突して自殺しようにも自殺防止の緩衝材が壁面を覆う、光と音の少ない状況であり、尚且つ一切の文化的教養から断絶した者でも、ぼんやり見える壁を見続けるとその微細すぎる濃淡にすら何かしら面白味を見出すように、しかしそれよりは幸運にも懲罰房でこの「虫」が再生され続けるのであれば、はじめは何の事やら分からなくても、いつかガッと括目させるものがありはしないか。そのことを音楽の力、などとしたり顔でいうのはたやすいが、音楽の弱さ、かもしれず、予断は許されない。芸能は他の芸能との相対化により成り立つのであって、それしかないという仮定は楽観的で感傷的な詭弁かもしれないが、そんな教養上の取り繕いなどはどうでもよい。少なくとも「天プラ」は、参照すべき知識財産ゼロの無産者の音楽である。冬眠して越冬する虫もいよう。しかしこれは、春に羽化して初冬に死ぬる、その一生に一度きりしか春夏秋冬を謳歌できぬ虫の歌である。ミチロウ氏と、グラウンド・ゼロの大友良英氏が画策した音楽関連福島イベント「プロジェクトFUKUSHIMA」。テーマを決める時、ミチロウ氏が、往年の尖りで、「原発ぶっ壊せ」的なテーマを提案すれど、大友氏が、「問題はそんな単純なものではない」と、大人的対応なのか、テーマを、曖昧に大きい、しかし鈍磨した馴れ合いのような、広く大衆に受け止められるような感じに仕立て直す、という場面があったのが記憶に新しい。
ミチロウ:vo
タム:g
シンタロウ:b
中村貞裕:dr
ケイゴ:dr
逃亡編
リハビリ編「frank zappa/you are what you is(1981)rcd10536」
暗い処で目を閉じていても闇すらも明るすぎて眠れない時もあった。先週襲われた激甚なる憂鬱状態はついにある一線を越えた感があった。著しい虚脱感と投げやり、このまま突っ切って逃げ切る覚悟も無いままに真っ暗な緞帳で簀巻きにされる圧迫感が気腔をぐいぐい底上げしてくる動悸のような妄想心身が虚実被膜を搔き混ぜるように打ち寄せ打ち寄せ、何事も無いような…敷布団と掛布団に首から下を挟まれつつ、枕で丁重に支えられた頭部のみ、淀んだ部屋の空気にさらしながらカーテンを閉め切った薄暗闇でカッと目を見開き続ける日中の不動があった。もう既に、吐き気を催すためにそこに行くとお金をもらえるところでしかない賃金仕事における比較的重要な案件…数を数える能力が別れを告げて久しい自分には最早数え切れないほどの多くの人間関係を調整しながら見かけ上自分が計画を主導してきた事柄を実行に移すというその当日に、何もかも嫌になっていきなり休むという暴挙に打って出る、体はピンピンしている馬鹿馬鹿しさながら次の日も仮病ついでに休む…こうしたことはこれまでも頻繁にあったが、今回特筆すべきは、家にいても、生活上発生してくる様々な片付け事が一切できなくなった、ということだろう…できない、というこの感覚…前日食べた肉の味が残っているかもしれないので少し舐めてみた箸を台所に持っていく、といった程度の一寸した事が、どうにも、できない、という滑落した精神の萎え…その辺の畳の上に箸を投げ散らかす、という事になる…何もしたくないので空腹を我慢してなるべく動かないようにしていても、一寸した整えができないと家の中と云うのは隠微に乱れていくものである。典型的な鬱病の症状ではあるが、そんな社会承認などどうでもよい。いっそ、承認されれば楽なのか…分からない。いままでは心の風邪で賃金仕事を休んでも家の中ではしてやったりとしめやかに楽しむこともあったが、今回の憂鬱は、本当に何もできなかった…鏡で己の顔を見ると、これまで職場で何人か見てきた、鬱病で長期休職になった人の顔、になっていた…びっくりした。腐りもせぬし使い込まれてもいぬ、つまらぬ板切れのような…後日、ぎりぎりの社会性によって社会社へ出頭すると、修羅場を通り越して、取り返しのつかない破綻が待っていた。
ぼちぼち、リハビリ編ということで、ロック史考究に復帰したい。ロックに歴史はあるのか、あったのか、という疑問もありはする…王道なき、と冠している以上語弊はないかもしれないが、ロックでいうところの歴史とは限りなく雑事に近い謂いなのかもしれない。歴史とは関係性の解釈ではない。いつ修復不可能な心的恐慌がぶり返すかもしれないが、いつだって生活は見切り発車ではあろう。「吾つまるところ己なり」セコイアの年輪のようにぎっちり圧密された声の多重録音その他の音数の多さは、目の細かい紙やすりのように聴く者の聴覚心象を磨滅してゆきつるつるの一個の球体になさしめる。男たちの、他人の糞でたっぷりの腹からそれを逆流させるオエオエの嘔吐声の重低音絞り出しを、悪意に満ちた丁寧さでぎっちり重ねてくる重厚がまことに耳にきついが、そんなことにはお構いなしに、かような汚く重い歌唱をやたらと手の込んだ変節珍曲に練り混ぜて高速でぶちまける事全20曲がノンストップで繋がれている。余白や余韻といった馴れ合いとは無縁のポップの炸裂である。「うる星やつら」の先駆的けたたましさのプラスチック感もある。下半身がつるんと剥き出しの少女がえんえん泣き止まぬのに、うろたえるばかりでうごうごと互いを無能に傷つけるしかない太った、下卑た白人の男どもがいたいけな少女を囲繞しながら上の口と下の穴から他人の糞を噴出させながら純情な嗚咽と雄叫びをぶちまける変態ミュージカルといった悲惨絵図。やたらめったらとやかましく、無性に明るい。そんな彼らのメッセージはただ一つ、コール アンド レスポンスでしぶとく繰り返される煽り文句「we're gonna be free,gonna be free,gonna be free…!」
frank zappa:lead guitar and vocals
ike willis:rhythm guitar and vocals
ray white:rhythm guitar and vocals
bob harris:boy soprano and trumpet
steve vai:strat abuse
tommy mars:keyboards
arthur barrow:bass
ed mann:percussion
david ocker:clarinet and bass clarinet
motorhead sherwood:tenor sax
denney walley:slide guitar
david logeman:drums
craig twister:stewart harmonica
guest vocalists:jimmy carl black,motorhead sherwood,ahmet,moon,denney walley
酩酊編
リビアのガダフィ大佐が拘束後殺された地はリビアの地中海沿岸の都市シルトであったようだ。シルトといえば、ジュリアン・グラックの「シルトの岸辺」を思い出す…ちょっと本棚見に行けば分かることではあるがそれすらも面倒なので当てずっぽうに記すが、どこぞの文学全集にM・ブランショの「アミナダブ」と一緒に収録されていた茫洋小説である…グラック氏が高校教師を定年退職後に書いた小説らしい…横山大観らの朦朧体とは異なる…こんなことはどうでもよい…もう、既に酔いは深まっています。室内で、午前1時20分。
勤労後の疲労困憊、心身共ににっちもさっちも行かぬどん詰まりの果てに度が過ぎた飲酒止められず最近の人間ドッグでは過去最悪の結果を更新しつつ秋深まるにつれ酒はウヰスキーから日本酒へときっちり移行、備前五大老を揃えし今となっては新入りの備前徳利を育てるがためという浅ましい背景もあって備前徳利にしきりに酒を湛えては粉引高坏盃に注ぐ。就寝前の貴重で希少なる時間すらも速攻の就寝ゆえに読書にあてがえない困難である今となっては、わずか十五分の電車通勤時間しか時間がない…通勤電車…生ぬるい心情的にはアウシュビッツ‐ビルケナウへの護送列車にすら等しくなっている、精神が絶望的に切り立った地獄の15分…泣き言がましいが事実ではある。それゆえか、その瞬刻を読書時間に当てると、腰痛なんかの緩和治療に使われる針治療のように鋭く的確に小生の心にあらゆる重要な書物がピンポイントで劈き入ってくる。口腔で酒を巡らせるようにして執拗に味わっていると酩酊によりそれすらも瞬時に忘却、口腔に酒を含んでいる事すら忘れた結果、なんかの拍子に不意に酒が喉を落下、自律神経すら正確に判断できず気道に酒が入りかけてゴッホゴホむせぶ。今週襲われた激甚なる鬱状況について語ろうと思ったがそれすらもどうでもよくなってきた時間という時間…出まかせに、十一世紀ペルシャの詩人オマル・ハイヤームの、妙にいさぎよい厭世四行詩(ルバイヤート)を三つ刻む…こういうのを滑稽と云いたい。苦み走った…何の悟りも無い…
幾山川を越えて来たこの旅路ではあった。
どこの地平の果てまでもめぐりめぐった。
だが、向こうから誰一人来るのに会わず、
道はただ行く道、帰る旅人は、見なかった。
もともと無理やりつれ出された世界なんだ、
生きてなやみのほかに得るところあったか?
今は、何のために来たり住みそして去るのやら
わかりもしないで、しぶしぶ世を去るのだ!
酒をのめ、マハムードの栄華はこれ。
琴をきけ、ダヴィデの歌の調べはこれ。
さきのこと、過ぎたことは、みな忘れよう。
今さえたのしければよい―人生の目的はそれ。
「四天王寺太子会紀行」のお知らせ
四天王寺の縁日「太子会」に繰り出したときのことを発表します。
下記をクリック!
「太子会紀行 ~強欲回廊巡礼記~」
昨日、至高の徳利を求めて、こらえきれずに備前焼祭りに参戦してきた。いつになるかはわからぬが後日、「備前、ふたたび… ~生涯の友を求めて~」を発表したいと思います。思えば「備前焼紀行 ~無釉の驕り」から始まった小生の日本焼物紀行…ここにきて新たな転回点を突破、らせん状に舞い上がる日の本の焼物たち…