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「the remains/a session with the remains(1966)sundazed sc 6069」太閤忌
どうしてこう、広島のラーメン屋は豚骨系ばかりなんだ…小生は、ラーメンなどというよりも、いわゆる中華そばというべき、小ざっぱりと素朴な醤油系のラーメンを好むのだが、周りには「豚骨一筋」みたいなドロ系の、舌がひりひりする過剰な味付けのラーメンが多く辟易である。底冷え厳しい早春の夕、濃厚すぎるドロドロラーメンを胃に入れるというよりも肺に詰めこんでいるが如き息苦しさで何とか完食する。
ザ・シーズについて言い残した事。ザ・シーズに限らぬが、かようなガレージサイケの源風をびょうびょうと吹かすあまたのバンドの演奏を聴くに、自ずと、演奏が終わった後の無残というものに思いが馳せるものである。それは音としては乾いた残響を尖らしながら茫洋と浮遊するファズやディストーションといった電気処理に起因するのだろうが、贅言に過ぎるが、彼らは無音無明の底で音を発散しているのである。さすれば、彼らが演奏を止めた時、無音無明の黒縄地獄が寒々と訪れるのである。彼らの音を聴く者はその事を痛感するものだから、その、演奏が終わった時に訪れるであろう容赦ない閉門の如き闇を紛らわすようにして、彼らの音を再生し続け聴き続けなければならなくなる。そしてその事自体が、既に闇を聴き続けている証左でもあるのだ。
「へうげもの」の最新12巻を、定価を支払って家に連れて帰る…。この物語における茶陶の解釈は、少しでも日の本の陶磁史や茶陶史に思いを致すものならばさして目新しいものではなかったが、こたびの、「ビードロの華と侘びた風情を併せ持つ伊賀水指」というのは、全く新しい解釈だと思う。伊賀まで現地調査した小生も思いつかなかった。自分もまだまだである。
本業ならぬ横道にこそ燃えるは人の常…先週は自分でも消化しきれぬほど本当に色々なことがあった。色々な事件があり過ぎて横腹が痛くなりしばらく大阪天王寺公園のフラミンゴの前でワナワナと蹲る、という事もあったほどだ…大阪での「へうげ十作展」での、今を時めくハードエッジな今焼の諸相を展覧購買、そしてこのイベントの一環で催された、とある現代アーティストを亭主とする一客一亭の茶会に労農茶人たる無名の小生が闖入、頼まれもせぬのに独自の創意を勃発させたゲリラ茶会を決行し難波の愛陶家たちの度肝を抜いてきたのだった…必殺必笑の牡蠣殻ループタイを装着したループ待庵主でもある小生は、その、三陸産特大牡蠣殻を装うことで哀悼の意を無言で祈りつつ、その創意までもが、やはりそれ相応に文化的精神を感度よく保っているのだろう今焼の陶人らには顕著に響いたようである…いささか誇張してしまったが、事の顛末はとてもこのブログでは網羅しきれないのでいずれ日本焼物紀行と茶会記の両方できちりと開陳したい。現在は西成地区(あいりん地区)の職業安定所となっているが、かつては細君の一族の係累のルーツである家が所在した場所も探訪…分かってはいたものの日雇い労働者たちの中心街であるその場所にて、ドストエフスキー的な神的暴露ともいうべき、かの地の実情を丸出しにした事件にも遭遇してしまった。このことも含めていずれ実録したい…。
そして、金継ぎ修理に出していた高麗彫三島盃が、ついに戻って来たのであった。己の創意が形になるとき、まさかこれほどまでの逸物へ至ろうとは…心の腰が抜けてしまって今は何も云えぬ…この事についてだけも、きっと、語り出せばきりがないのでいずれ日本焼物紀行番外編として一編をものしたいと思う。
そして、来週は上田宗箇流の茶会に出席予定…何だか茶会続きでまるで茶人みたいだが何の事はない、特に昵懇の間柄として招かれた訳でもなく結構な金額の上納金を合意の上ぶん捕られて道具を拝見するついでに茶弁当と抹茶を頂く算段なのである…それはいいのですが、送られてきた招待状に、上着にネクタイ、さらに白い靴下を履いて来い、とまである。いい年した大人が、小学生じゃあるまいし白い靴下など履けるか、と早くも怒り心頭、金払っているのに門前払いされたら馬鹿らしいので茶会までに白い足袋でも買うか…茶会にネクタイなどというのも下らぬ…紋付袴なども、現在となっては沖縄の成人式での地元のヤンキー(ジモヤン)の正装へと堕している故、情けないので着る事あたわず…さすれば、己は己のフォーマルを貫くのみよ、と決然、プロトタイプ壱号とは趣を異にする新たな牡蠣殻ループタイ作りに着手する…一方で、かつての、安土桃山の創生期での上田殿の茶の湯はともかく、現在の既成規制寄生茶道と成り果てたに相違ない茶会で自分が何やったところで破壊的に感応する数寄者など周囲には居ないだろうし、小生としても既成茶道を革新する労力を提供する気持ちは全くない、どうでもよいと思っている…要は自分としての有り様を覚悟するのみである。
ザ・リメインズ。多分アメリカ。ブリティッシュ・インベンションに対するアメリカの受容云々といったことはどうでもよい。この当時、多くのバンドが、稽古のようにしてR&Bの古典をカヴァーするのだろう。そして、よくカヴァーされる楽曲が固定化されるが、このバンドさんも、定番の古典をがむしゃらにやりおおす…あくまでも楽曲の構成が踏みにじられない程度を余裕を以て護持しながら、それでも、執拗に激しくやりおおす…音圧のバランスなど力任せに無視するようにしてドラムのドスが丸出しに連打痛打するに負けじと、ベースの音圧もギターの音色も精一杯前に出てくる性急さがもどかしい。というのは、かように愚直に激しく無闇に力まかせにやりおおす中から、ホンの数秒のみしか、荒みが聴取されないからである…四人全員が地声で絶歌唱する調整感覚の無さは貴重である。リメインズというバンド名から、ツェッペリンの、ソング リメインズ ザ セイム(永遠の詩)を想起するのも、あながち実質が無いわけではない。こういう音楽を聴くからと言って小生が元気のある力のある音楽が好きだといえるのではない。そもそもロックにおける力や激しさは世間で肯定愛玩される元気とは異なる、闇雲なる無駄な力なのであってほとんど非力に等しい。
残念ながら誰がどの楽器やっているのか手持ちのCDに記載無し。
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