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「the golden cups/ the golden cups album(1968)cp8339」小沢
金沢から、残雪が地に還るのを待つ北陸路通って帰ると、あ、春。エジプトやリビアやバーレーン情勢やニュージーランド地震や松木政務官辞任など色々あったようだ。高校球児や若い野球選手のように眉毛を整えた男は信用できない。社会的には小生よりも信頼に足るそつの無さを有するのだろうが、人としては軽侮に値するに違いないと思い込んでいる。近所に屯する若い男らのゲヘゲヘした笑い声が我慢ならぬ。多分、眉毛を整えているに違いない。
結局のところ自分の責任だとして受け入れたり飛び出したりするのも最早西洋近代史観の範疇に過ぎぬのではないかと早とちりさせるのは、春の訪れと共に激しい北アフリカや中東の反独裁運動なのだろう。あの運動をネットのおかげだという認識で理解したつもりになっているのはあまりに西洋近代から抜け出ぬ浅薄なる見方なのだろう。産業革命以前から底流するイスラムや諸民族が強固する習いや文化が、経済的窮乏を引き金に、西洋民主主義の別の顔である独裁制(イスラム王権や部族長制と異なる…)に叛旗を翻したのだろう。
くどくどしく、きっちりと、種々の事情が交錯した複雑な現状に対し論理や非論理含めてなされる説明を忍耐強く理解する能力に欠けた者(=大衆、といってもよかろう。もう遠慮しないぞ。)に限って、愚かしくも、説明責任や道義的責任、などといった曖昧で幾らでも歪曲可能な概念を、概念特有の単純化統帥化の危険性に無自覚に、馬鹿の一つ覚えのように振りかざす。大衆は自らをあざ笑うものに傾く、あざ笑われているのにも気付かず…。目くじら立てる程の事でもないがメイド喫茶や、意識的なキャラクター化(人間を統制化する概念がその必然として物化したような…)著しいライトノベルに傾く者らは、自分で自分を虚仮にしている。その事に気がついたところでロマン的イロニーという退廃の姿に陥るのが関の山である。
小沢氏問題。取り合えず名目上だけでも法治国家であるこの国において、裁判が結審し罪状の内容あるいはその有無が確定したわけでもないのに小沢氏に社会的制裁を加えることに賛成する首相、国会議員並びに、権威に率先してカイライされるマスコミによる、政治的民主的意義を問われたことすらない怠慢のまま猛威を振るう世論調査で反小沢を言う大衆は、自分らがやっていることの意味を考えた事があるのだろうか。(このPC、かいらい、という漢字が出ない…頑張れば出るのだろうが…この言葉は、中国における「天安門」という言葉並みに、検閲されるべき危険な、そして事態の本質を射る言葉なのだろうか)
首相は、推定無罪の原理、疑わしきは罰せず、という司法の司法たる理念の重要性を高々と、きっちり国民に改めて演説すればよいだけの話ではないか。国会議員としての道義的責任…そんなものは犯罪したのかしていないのかという事実が確定しない限り問うことは出来ないのであって、本人がやっていないという以上、それ以上何を説明するというのか、説明責任もくそもありはしない。国会に犯罪の有無を明白にする能力はないし、そもそもそういう場所ではない。
何となく疑わしい、何か悪いことやってそうな噂のある人物を、その、疑わしいという、あまりに脆弱な非論拠に基づいて社会的制裁を加えることを公認する、しかも内閣総理大臣が…裁判が結審するまで党員資格停止、というのは途方も無い詭弁であり本末転倒甚だしい。現状の刑法の本質も実はこれと変わらないのであるが本当に全く治安維持法の復権を認めるようなものである。
国会議員らは、このことの意味が分かっているのだろうか。小沢氏のこの件の現状を許せば、戦前や戦時中の日本の国会や在郷軍人-隣組制度、あるいはソヴィエトのスターリンやカンボジアのポルポトのような、密告粛清社会を容認するものである。火など要らない、人の口から幾らでも出てくる煙をかぎ付け、気に入らない奴のことをあやしいあやしいと言い立てれば、言い立てられた者は制裁される、法的承認も得られれば拘置所にぶち込むことも可能である。推定無罪の原則が適用されず推定有罪で罰せられる小沢氏の処遇を許せば、公認すれば、いずれその報いは国会議員や大衆自身にも及ぶだろう、あることないこと云われ少しでも何かしら思想信条を持つ者は処刑されるだろう。そのことを、議員や民衆は喜んで受け入れたということだ。それは歴史上いくらでも類例があるではないか。親小沢として党内離反した者らも、なぜ、推定無罪の原則に基づく現状批判をきちんと演説しないのか。立法府の議員たる者が、心情的な不平を幼く言うのみで、いまだその権威はぎりぎり失われていないだろう推定無罪の原則、裁判が結審するまでは有罪か無罪か確定されぬという当然すぎる原則をなぜ云わないのか。マスコミがそうした議員のまっとうな発言を抹殺しているのか。
今、能は同時代性を獲得するために、新作薪能「小沢」をぜひとも上演するべきだと思う、と能楽関係者に強く言いたい。なんだったら小生が能「小沢」の台本を書いてもよい。
朝、出頭命令のような目覚まし時計のデジタル音に起され、何も喰えず、鬱屈したまま、特高からの呼び出しあるいは飢えへの恐怖による生命維持に応ずるかのような出勤への支度もだらだらと、テレヴィ見ていると、厳しい就職活動に右顧左眄するフレッシュ学生たちの映像…。大変そうだな、気の毒だな、と思うしかない。最近の面接では、寸劇やダンスまがいのことまでさせたり(その会社は寸劇しながらアイスクリームを売ることを業務にしているから仕方ないが…)、人事の面接担当者が学生とスターバックス的な所で面接する時、店に入って出るまでの、担当者への所作や気配りの有無までがチェック項目となっている事などを、どろぉッと噴出する怨嗟と共に睨みつける…面接官よりも高いコーヒーを頼んだ学生は減点…ああ、私達はどこまで馬鹿にされればいいのだろうか…またしても、中野重治のあの言葉を思い出す…「私らは侮辱の中で生きています」たとえ過剰であっても飢えへの恐怖から生まれる生産体制を細分化分業化した職業群と、人間のやりたいことが一致するとは限らぬことから生まれる相克と苦しみそして滲み出る文化…警察官になりたい社会保険労務士になりたいという者は葛藤なきことだろう…それについてけちをつけるつもりはない。そして幽霊になりたい妖怪になりたい茶匙になりたい音楽になりたい屑になりたい野に吹く歌人になりたい…といった、生産と無縁の夢を抱いた者が、ナチス将校によって素手で墓穴掘らされた直後に銃殺され自分が掘った墓穴に蹴り落とされるユダヤ人のような屈辱の仕打ちに合うのが就職活動である…どうせ殺されると分かっていても抵抗してすぐさま殺されるよりは墓穴掘る間だけは生きられるから生きようとする本能的なさもしさがあえなくも掴もうとする生が否定された生の束の間、それが就職活動であり生活である…もっと云えばそんな束の間から洩れ出るのも文化や芸能である…。
つい以前までの企業は、個性的な人や夢がある人を求めます、などと甘ったるいこといいながら業務上制度上の枠組みに納まる程度の個性の人しか容れぬのでその欺瞞を衝くことも可能であったが、最近ではそんな美辞麗句を弄することも一切無く、とにかく実践能力が高かったり社交能力に長けた人を明確に求人している職場が多いようであり、その形振り構わぬ厳然たる目的意識の剥き出しが、資本の原理として潔くも恐ろしい。
冒頭の、結局のところ自分の責任云々というのは、かなり話が飛んだが、かようなことに思いを馳せたからであった。昨今にあって、先の小沢問題と、職業団体による組織的制度的な人格選別は同根の現象である。
金沢漫遊記の一節でも書く予定であったが長くなったのでまたの機会に。
ゴールデンカップス。日本。明治期の日本人による英語のカタカナ表記が、聴いたまんまだから、いわゆるカタカナ英語と隔絶して、まことにネイティヴの発音に近いということがあるが、モップスにしてもカップスにしても、特にカップスは横浜を根城にしていたためか、素直な輸入感が愚直にして好ましい。R&Bやソウルやポップスや日の本のGS歌謡が、それらの素材の持ち味がうっかり混ぜられて殺されることなく各々きちんと表出している。そのような素材の扱い方に日の本ロックの「和臭」をかぎつけるというのは、いささか、美味しんぼの影響が強すぎるというものなのだろう。原曲が誰だったかもどうでもよくなるほど、決してその曲と同時代に聴いたというわけではないが記憶の上澄みで見境なく漂うR&Bやソウルやポップスの古典が、カップスのカバーを通じて、なんだか苦しくなってくるほど懐かしい。
母がラジカセでよく聴いていた青い影という楽曲は、幼少の小生をして、自分の心臓を泥寧まみれの両手で締め付けたいのか温かく守りたいのか判然せぬ苦しい思いを再発させる。青木繁の、獲物の魚を背負い歩く裸の人々を描いた油絵を、ずっと、皮膚が焼け爛れ目玉が零れ落ちる原爆被災者の群れの悲惨画だと思っていたし、この青い影という曲は、同じく原爆でむごたらしくされた日本人が、持つべき感情すらも奪われたまま、それでものそのそと、空腹と本能に従うように、後に復興として概念化され表彰される大事業の第一歩という高い意識も有り得ぬほどの卑小さで、瓦礫などを片付け始めるおとなしい家畜の惨めな姿の屈辱を誤魔化すような、胸糞悪い穏やかさの美しい楽曲として、小生は、聴いていたのであった。
地を這い跳ねながらブンブン旋回する加部氏のベース…その如何にもなベースの主張が鼻につく玄人筋もいるかも知れぬが、やはり素敵である。ともあれ、かっこいいという言葉はロックの有り様を誤魔化す言葉に思える。油蝉が憑依したかのようなジージー耳障りな音を確然として繰り出すギターの薄さがよい。一つながりの曲の中に、濃厚に疾風する英語R&B楽曲をやっているのかと思いきや、いきなり他愛無くも大人ムーディな日本語歌詞が湿潤に歌謡されたりする強引な接木構成には驚かされる。はちきれんタンバリン。その形相は五月蝿さでしかないブルースハープ。戦後はやったハワイアンを巧みにアレンジした曲の暢気さはGSだろうが、そのように収まるのを拒否するバンドだろうが共通してある、裏表無さであった。ブルースやR&Bを精進すれば、いずれ立派なるも動揺著しいハードロックが聴こえてくるが、そこに至るには何らかの断絶と乗り越えがあるのかどうかは、今の小生には分からない。良くも悪くも、ハードロックという余計な知恵を齧る前の、楽天的な出来栄えであるような、ないような…。そういえば、ドイツロマン主義者ヘルダーリンのヒュペーリオンという教養小説に、「ブルーッス」という名前の人物が出てきて、夜中、笑いが止まらなかった。
カップスの面々、サイケファッションがかっこいいです。あのチョッキほしい。
デイヴ平尾:v
エディ藩:g
ケネス伊藤:g
ルイズルイス加部:b
マモル・マヌー:d
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