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「the seeds/the seeds(1966)hyca-2032」坂上忌
プログレ聴かなくなって何年経ったのかな…などとしんみりしながら丹波海老徳利と粉引高坏盃、肴に焼鳥(鳥皮)で独酌の時間…。特に時局的ゆえにという訳でもなく常日頃、心定まらずテレヴィのチャンネルを数秒おきにパシパシ変え続けてしまう落ち着かなさや苛立ちは、それが今日びの事なのか確言するつもりは毛頭ないが天変地異を横目にどこか、負い目すら捨てて安堵してしまう。昨日から腹の具合がよろしうなく、ゴキュルと水っぽいのが続くのは何としたことか…。それでも冷酒を胃に腹に注ぎ、消化の悪そうな鳥皮を食むのを止めるつもりもない。そして、朝になると、決まって、もう、二度と酒は飲みたくない、などと激甚に後悔の念を催す始末。心のケア、という言葉…どこまで人を莫迦にすれば気が済むのだろう、と思う。自分が我慢ならぬような書物をこそ、強制的にでも読みこらえ、視野や世界観を広げるなどといった生ぬるい保身とは隔絶した境涯を得るのも必要なのだろう、そうすれば、~できる人できない人、などといったハウツー本や推理小説などを無理してでも読了せねばなるまいが結局そこまで殊勝にもなれず、ニーチェしか読まぬ…今、ニーチェが分かるということ…それはかつて読んだ事による影響ではない。特に、自分の何かしらの達成を誇示したいがためにかような事を浅はかにも吹聴しているのではない。結局、ニーチェのような思想や傾向などは、理解される対象ではなく、専ら自分自身で生み出すという仕方でしか読めぬのであろう…。まさにニーチェである己が書くという仕方でしか読むことができない類である。ニーチェにしても、そして小生が考える、他ならぬサイケデリアにしても、決して伝播・継承・影響されるものではなく、その都度、勃発・点在・生成されるものである、と、幾度も記述したことに再度撞着する酔いの癖…。
酒と云えば今更ながら、現像した思い出写真眺むるにつれ、人生の赤恥をあまりに拭いがたく残す羽目になった体たらくを思い、まことに情けない、惨めな気持ちになった、過日の金沢物見遊山の顛末…。ああっ、と気付く、そう、日の丸の赤というのは、恥の赤だったんだ、と。目も当てられぬほど恥ずかしげも無く白い地に、これまた目も当てられぬほど赤い丸…。いつもの事といえばいつもの事であるが、旅先、朋遠方より来る、加えて遠方に共に出かけるとあって、浮かれ調子著しく、楽しかったため、自制足りず、羽目を外し、泥酔乱心無礼の不様をさらし、記憶にないが朋に迷惑を掛けたようなのである。以下の文はいずれ、九谷焼紀行前編に所収するつもりでいるが、反省と後悔の意を込めて、備忘のため、記憶にある事と無い事を記す。記憶にないこと、というのは、酔いのため、記憶が飛んだ状況下での小生の言行を、後に細君から聞かされた諸事である。
金沢料理を供する地元の居酒屋で場が温った後、友人が薦めるウイスキー・バーで、あまりの旨さに節操なくウイスキーを煽るにつれて見境なく多弁となり…
・溺れる者のみが掴める栄光の藁(わら)=文化、について話す→記憶あり
・萩焼、そこにある土で作ってしまったズタ襤褸→記憶あり
・カント・ショーペンハウアーと大乗小乗との関係について話す→まあまあ記憶あり
・NHKビズスポという番組は最低だ、この国には文化はないのか、と怒る→うっすら記憶あり
・初対面に近い細君の友人に…生臭い事=文化的なことをしているのか、と不躾に難詰する→記憶なし
・細君についても何か難詰する→記憶なし
・厠に行こうとして店の厨房に迷い込み、細君に連れ戻される→記憶なし
・お開き。コートを裏表逆に着ようとしてうまく着用できず悪態をつく→記憶なし
・その時、鍵を落とす。鍵が無いことに何故か気づき、細君を詰(なじ)る。そして隣のお客さんが鍵を拾ってくれる→記憶なし
・泥酔しているにも関わらず、むしろそれ故に、まだ何も語っていない、などと喚き、次の店に行きたがる→記憶なし
・バーからホテルまでの帰路→記憶なし
・ホテルに着く。鍵穴にうまく鍵を差し込めず、鍵が開かないと言ってホテルの廊下で騒ぐ。駆けつけた友人に開けてもらい、何とか部屋に入れてもらう。その際友人はオートロックの部屋から閉め出され、フロントに自室の鍵を開けてもらう、といった迷惑事の発端となる→記憶なし
・部屋の中で小一時間ほど、バタンバタンとうるさくする。恐らく嘔吐中→記憶なし
朝、ガンガンする頭で目覚めると、枕元がおが屑(多分、吐しゃ物が乾燥したもの)で埋まっていた。衣類にもべっとりと付着していたのであった…。情けなくも惜念の情がこみ上げるのは、記憶を飛ばしたことにより、遠方の朋との会話の時間を自ら泡沫に帰す羽目になったことであるが、後悔したところであの時間はもう戻ってこない…。
来週、時局の悪化が最悪にならぬ限り、大阪で催される「へうげ十作」で御大尽する予定。時局が時局だけに、きちんと開催してくれるかが不安であるが、そもそも、天災の有無に関わらぬ、いつ何がどうなるか分からぬキツメの生活の中での渇望が数寄なのであって、かような時局でこそ、数寄の祭典は開かれるべきである。小生としても、普段の生活に対する危機意識そのままに、きっちり参加したいと覚悟する。何とかしてぎりぎりでもいいから生き抜いて、数寄の現在を味わいたいと思う。有料なのがせこいが、茶会もある模様。否、金に汚いのも数寄者の業なのだろう。一介の数寄者として、へうげ十作と対峙するだろう。あわよくば己の数寄を表出する覚悟も辞さぬ勢いである。よって来週は休載します。時局で思い出したが、近々、鳥肌実が広島に来るようだ。
さて、ザ・シーズのファーストである。1966、アメリカ。英国の荒み、米国の荒みを堅苦しく峻別する理由はないが、ことサイケデリアの荒み、あるいは、結局同じものを別の技術的側面から捉えたに過ぎないガレージの荒みということを思えば、米国の荒みは、宗教的には顕著にフードゥーという概念がある。英国の荒みに飽き足らず手っ取り早く米国の荒みを学ぼうとしてフードゥーに飛びついたのがローリングストーンズだったという事もある。このフードゥーという宗教体系/歴史的側面を改めて洗い出すことも、サイケデリア勃発を生成する一助となろうが、たとえ回り道になろうとも、その迂回こそがサイケデリア精神史の実際の道筋だったと思えばこそ、専ら音源を聞き込むことから得られる他愛無くも如何わしい妄想に没入することでサイケデリアの下腹をじっくりまさぐりたいのである…。
罅割れて痩せた大地にびっしり生える麦を表土ごと抉るように、下顎を土と平行にして食い荒らす獰猛な草食動物のような、あくまでも底辺の地べたで当ても無く暴れるスカイ・サクソンの濁声がよい…。豊かではない、殺伐とした闇の肋骨を伸びきった不潔な爪でジャラジャラかき鳴らすと思いの他ヒョウキンであり、こんなにも惨めでありながらも愚かしいぐらい明るい、その明るさは光に依存せぬ明るさなのだ…。どこまでもおどけながら恐ろしいくらい不逞の輩の、脱臼しながら北朝鮮軍並みに行進する千鳥足…。場違いにドリーミングなピアノの拙い音色も、夢と現の区別がつかぬなどといった生温い認識論の高みに、ミルクを零すようにマサカリを振り落としかねない平和なる凶暴の証しなのである。
先週、ザ・13thフロア・エレベーターを評して、救いの無い笑いということを指摘したが、サイケ/ガレージの源薫漂うあまたのバンドにしても云える、当然ザ・シーズの音楽に対しても。しかし、これも先週述べたが笑いもルサンチマンやイロニーと同様に批判すべき落とし処なのであって唾棄すべき安全への希求である…だからどうだというわけではないが、危うさの綱渡り、乾きを医するに水でなく砂を嚥下するしかない研ぎ澄まされた心は、経済と文化が唯一合意を見出しているが如き笑いを、たとえ救いという概念を解毒しきった笑いであっても、ギリギリの処で捨て去ろうとするのだろう。サイケ/ガレージを血肉としたハードロックという音楽は、前者が依拠していた笑いを、捨てるという様式ではないけれども、ギリギリ中庸化した上で成り立っていると小生は考える。そういう意味で、やはり、ハードロックという音楽は途方も無く先鋭的なのであった。ハードロックが、笑いを捨てるという明確な様式を採用した時、へヴィメタルという音楽が生まれると云えよう。かつてサイケ/ガレージがフードゥーという、アメリカ土着神とキリストとの如何わしい関係で揺らめいていたのに対し、メタルは、キリスト教との結託(反キリスト的悪魔主義も結局はキリスト教圏内の内輪揉めに過ぎぬ)に顕著に傾いたのも必然なのである。
最後に、スカイ・サクソン氏への、遅ればせながらのお悔やみ申し上げます。素敵な音楽をありがとうございました。以上の文は、ささやかながら貴方の音楽を「try to understand」した東方の一リスナーの気持ちであります。合掌。
lead vocal:sky saxon
piano,orgun melodica:daryl hooper
guitar,lead rhythm,twelve strings:jan savage
bass:sky saxon
drums:rick andridge
harmonica:sky saxon
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