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 ロック史を体系的議論から解き放ちながら、サイケデリアの土着性とハードロックの非継承性を論ずる。主要1000タイトル、20年計画、週1回更新のプログ形式。
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第五政治問題の証明

日増しに劣悪化を辿る時局なれど…梅雨入りとは名ばかりでこうも爽やかな週末を過ごしていると…殊更に気色ばむ前のめりの義憤もまた萎えもするし…其れに輪を掛けて…過日の茶会で堪能した数奇三昧の風雅交流の余韻が未だ冷めやらず…早朝には鶯がホーホケキョ、御昼時には雀がチュンチュラ囀る長閑に間の抜けた直近の状況、いつもだったら速攻でイラつきの逆鱗に触れようものを、通奏低音のようにしてどこからともなく草刈のエンジン音が小さく響き続けるのさえも国土の豊穣を想って好ましい風情にさえ感じられ…因縁の札幌ドーム日ハム戦でカープ三連勝で折しも楽天戦でも初戦を白星で飾るし…脳みそが生温かく神経が鈍麻した安穏を決め込むにつれ…生けとし生けるもの全てを言祝ぎたい心境である一方、底辺から時局に噛みつく鋭意は失墜免れず…仕方がないから恐らく思索に汗かかなくても何にも考えなくても解けるであろう、残りの証明問題を解いて御茶を濁したい…

此処数年で証明して来た第一~第四政治問題の題目を整理すると…

1.憲法は国の未来像を語るものではない。憲法で国の未来像を規定するならば、其の像は思想・信条の自由の範疇であるので、ある種の固定された思想・信条を規定する事になるので、思想・信条の自由を否定する事になる。云うまでも無い事だが憲法とは基本的人権(=国民主権あるいは平和主義)で以て国家権力に制限をかけるものである。

2.憲法21条の表現の自由に、公益及び公の秩序を名目にして制限をかけることは、公益云々を政権が恣意的に解釈し運用できるため、重篤なる表現の自由の破壊である。表現の自由は民主主義の根本である。従って、1.と同様に、表現の自由を否定する政権は民主主義を破壊する事を政治的目的としている反社会的集団あるいは組織的犯罪集団として、共謀罪で有罪とされなければならない。表現の自由を否定する者(レイシスト、ナショナリスト等)の表現の自由は否定、制限、禁止しなければならない。

3.選挙に行かない人間は自ら政治的主権を放棄し、自らを奴隷階級として宣言したに等しい故に、選挙に行かない人間からは基本的人権や公民権、主権を剥奪して奴隷階級に落とさなければならない。

4.国家主義者は原理的に利己主義者であり、反社会的存在(刑法的犯罪者あるいは社会契約違反者)である故に、国家主義は否定、制限されなければならない。
※国家主義者とは、国民主権を否定し、国家に政治的主権があるとする思想。反ルソーにして親ホッブズ的考え。あるいは、選挙の時だけ国民主権であり、選挙が終われば、選ばれた代議員に、国民の主権が「移譲される」として国家主権を正当化する者。
※ルソーによれば、国民の主権は「移譲」も「分割」もされない。「主権」が「主権」であるためには主権は国民のものでしか有り得ない。此の事は社会契約論で証明されている。

さて、第五政治問題として、以下を挙げ、今から証明したいと思う。

5.奴隷根性=特権意識
奴隷根性とは特権意識であり、特権意識とは奴隷根性であり、此の両者は人間の一つの相を二つの側面から云い表している過ぎない。もしくは、言い換えても結局同じ事だが、奴隷根性は特権意識を肯定し、特権意識は奴隷根性を肯定し、相互補完の関係にある。

此処で云う奴隷根性とは…現実として国家権力やその他諸々の階層における集団的体制による権力が生殺与奪の実力を行使して言論の自由を弾圧する全体主義状況において、其の状況に政治的抵抗を示す勇気が無い者、を意味しない。事が其処まで進行した場合には、人間個人の資質的心情に由来するような事で奴隷根性と規定するのは不可能であろう…しいて云えば、そうした全体主義状況の中で、状況から期待され強制される以上に、殊更に率先して其の状況を増強、加速させるような翼賛行動に邁進するような扇動的阿諛追従の輩は、奴隷根性と見なしてよいかもしれない。

しかし此処で更に着目するのは、むしろ、全体主義状況が完成していない状況、あるいは全体主義状況の網目がまだ覆い被さっていない階級らが示す行動にこそ、奴隷根性と規定すべき特徴が顕在化するのであって、そして、此れから証明される事になるが、「全体主義成立以前において奴隷根性を行動で示す者ら」こそが、(日本のように)政治的多数派を形成しがちな傾向であると、より広範なる全体主義の礎として、全体主義の完成に決定的に寄与するのである。

此処で改めて定義すると、奴隷根性とは、「全体主義成立以前」において、全体主義体制の現前化を先取りして構想し、其の妄想による不安(体制による弾圧を先取りして恐れる妄想)から、妄想が妄想を生む起点と動機となって際限なく現体制に率先して媚びへつらう輩、であるとしよう。こうした輩は、現体制に、全体主義を成立させる正当性を暗黙の裡に与え、全体主義完成を草の根で主導する大勢となるのである。全体主義の現前化の構想が先か、不安が先かはどちらがどうと云う訳でもなく、同じ現象が同時に起こると見てよい。

こうした奴隷根性の発生要因は、いつになるか分からないが次回の、第六政治問題「安心のインフレーション」に譲りたい。此処では、奴隷根性の現象的分析を続けるとして…此処で疑問が生じるのは、そもそも、全体主義の完成と、未完成を、区別できるのか、と云う問題である…客観的には、治安維持法あるいは其れに類する法律制定(共謀罪、憲法での言論の自由の否定、緊急事態における内閣の特権強化…)を以て、全体主義完成と見なされるが…社会状態の、絶えざる全体主義への移行現象と云う政治的現実を踏まえたら、其れは事を安易に捉え過ぎであろう…全体主義とは畢竟、常に先走る予感であり不安の先取りであって、体制の完成の線引きなどできない曖昧さこそが体制の本質なのだから…ならば、如何なる駆動力で全体主義へと決定するのかは、繰り返しになるが第六問題に譲るとして…

兎も角奴隷根性とは…自分は体制による弾圧の餌食になりたくない、あるいは勝ち馬に乗りたいと云う社会的不安と野次馬的功利主義を何にも増して先走って構想する結果…体制に媚びる行動を其の都度自動的に行い…そして、先走る不安が内的に構想する事で皮肉な事に其れの実現性すらも潜在させてしまっている全体主義が、文字通り不安の中で内的に肯定されている事を核としつつ、率先して媚びる行動の小さな積み重ねが…政治的感度に長けた体制側にとっては、そこはかとなく、一般大衆による全体主義肯定の雰囲気を読み取らせるのであって、そうなってしまえばもう、大衆の潜在的承認を得たと確信した体制側は、少しずつ統制を強める施策を小出しに大衆に承認させては、全体主義への反感を鈍らせる大衆鈍麻を施せばよい話だから、大衆と体制の区別の無い結託が熟成しつつ、後は単純な排除の論理と多様性の否定が進むのみである…心理的に説明すれば、むやみやたらな不安が全体主義を内的に構想する事が文字通り全体主義を潜在的に存在せしめ、其の潜在的存在は顕在化への欲望に反転して、無意識に現実化を欲望する事で全体主義を肯定させると云う話で、起こって欲しくない不安な事を構想して不安で居続けるのに耐え難い精神が、別の後天的原理で働く理性を取っ払って、いっその事現実になってしまえば安心にすっきりする、と云う人間精神のサガ、とも云える…

其の一方で、絶対的正義とか理性とかどうでもよい、兎に角自分は体制の餌食になりたくない、と云う奴隷根性の保身欲求は、一旦体制側についた途端、愚かにも体制の餌食になった者らとは違って、自分は巧い事やって体制の餌食にならないように振る舞えた、体制にへつらう事で刹那的に惨めな思いをした事はあったけど一旦体制側についたら其れ相応の幸福をゲット出来た、あの、無意味に反体制を気取るお高くとまった連中とは違ってな、と云う特権意識を生むようになるであろう此の奴隷根性による特権意識が、取りも直さず全体主義の駆動力の一つであろう。そして、此の奴隷根性による特権意識が、体制に異議を唱える者を時に残虐に弾圧する正当性の根拠となっているのである。

多数派による多数派としての特権意識を奴隷根性と云ってもよい。

以上は、奴隷根性から始まって特権意識に至る道程を示したが、特権意識から始まって奴隷根性に至るのも、似たようなものである。まず、特権意識に二つあるとする。一つは、既に体制の中で特権を享受しつつ、特権意識を持つ者、二つ目が、一般大衆の中にあって特権を享受していないにも関わらず特権意識を自我の中で育んでいる者、である。

一つ目の特権意識について。此処で注意したいのは、特権とは、多数派側に存在するのではなく、多数に承認された少数が所有すると云う事である。多数派の「中」に存在する少数が特権を享受する。実際に特権で利益を受けるのは多数派の中の少数であり、其の少数を承認する多数派は直接的には特権は享受できない、と云う差がまず駆動力、奴隷根性へ至る駆動力として潜在する。こうなるともう、特権を実際に享受する少数派は、多数派の承認が無いと其の特権を維持できないから、多数への媚びへつらいを行動原理として表す事になる。いわゆるポピュリズムであるが…こうなると此の特権意識は、実際の特権自体を根拠としているために、其の特権自体を維持するために、多数派の思惑から外れたら命取りになると云う不安に先走って、率先して多数派に媚びへつらうようになる。いまだ多数派からの支持は失っていないのに先走って多数の意識を構想し、其の不安のままに多数のへつらうために多数からの少数の排除の原理を働かせるのは既に奴隷根性と等しいと云える。従って一つ目の特権意識もまた、排除の論理によって成立した多数派による全体主義から排除され弾圧されるのを「全体主義成立以前」に先立って構想し、不安のままに媚びへつらうのだから、其れは其のまま奴隷根性と等しくなると云える。別の云い方をすれば、特権を享受する少数の特権意識は、多数の中にあって多数からいつやり玉に挙がるか分からないと云う不安と恐れを心理と行動の原理とするから、上記と同じ帰結となる。

二つ目の特権意識について。今現在、特権を体制から享受していないにも関わらず自分だけは体制の餌食にはなりたくないし、体制の餌食になるはずがない、と思っている特権意識は、結局、自分は体制からの弾圧を回避できる特権を有していないのだから、此の者の特権意識を維持するためには、率先して体制側に入る事でしか、其の特権意識を守れないのである…体制からの弾圧を免れて、己の非力な特権意識を維持するためには、率先して体制の中に入り、体制に媚びへつらうしか道はないと云う皮肉なる帰結となるのである。従って、此の二つ目の特権意識もまた、「全体主義成立以前」に全体主義を構想して、全体主義から弾圧されるのを先走って不安がるのを心理と行動の様式とするために、奴隷根性へと帰結する。

奴隷根性と特権意識に共通するのは、全体主義を先走って構想する不安にまかせた、排除の論理と多様性の否定である。そして、全体主義を先走って衝動的に不安にまかせて構想する奴隷根性=特権意識が、取りも直さず、全体主義を現実化させる原動力なのである。
奴隷根性による特権意識、そして特権意識による奴隷根性の成れの果ては、他者の排除と多様性、基本的人権と国民主権の否定である。
よって、奴隷根性=特権意識である。Q.E.D.

まとめられなかったメモ

全体主義肯定=国家主義=利己主義=特権の肯定=基本的人権の否定
全体主義状況での勇気=特殊的勇気=英雄的勇気
全体主義未満での勇気=一般的勇気=良識の範囲=独立した自己=市民

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仄々斎不吉
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 数寄の天下を獲らんがため号するは、仄々斎不吉。

 三千家(裏千家・表千家・武者小路千家)及び諸家茶道流派に例外無き教条点前に豪を煮やす一方、近代数寄者(益田鈍翁、高橋掃庵等)以上に見立ての幅が広がった現代茶会に更なる侘びの新風を吹き込むべく研鑽を積む。

 利休の、無産有産といった階級をも併せ飲む侘びの骨頂に根ざしながら、そうはいってもありがちなブルジョア金満足だけは厳に慎みたい労農茶人。

 草木に臥してなお風雅を愛でる仲間であるために、茶の湯だけでなく、路上観察、テレビ跋渉、音楽及び納豆評論、 30人31脚批判もこなす趣味人にして愛陶家。 猫舌。


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