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 ロック史を体系的議論から解き放ちながら、サイケデリアの土着性とハードロックの非継承性を論ずる。主要1000タイトル、20年計画、週1回更新のプログ形式。
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岩の国から

麗らかな五月晴れ、連休の事始を飾るに相応しく、錦帯橋祭に馳せ参ずるのは、祭り本体が目的ではなく、其の協賛事業として催される掘り出し市であって…葉桜も既に色濃く、日差しは初夏の眩しさの中、橋を渡る強風は何か透明な一匹の竜神の腹が無造作に擦り付けられている程、長く、強靭な風に苛まれつつ…目当てにしていた逸物にはたいして出会えなかった意気消沈…来る茶の湯に備え、旅先まで持参するのに茶筅を保護するために、いわゆる茶筅筒、あるいは其れに見立てられるイカシタ品物との度肝抜く邂逅を期待して物を漁る晴天の午後なのだが…茶筅筒其のものはおろか、見立て可能な、お誂え向きの品物に遭遇する事は無く、丁度良い大きさであっても錫製で重過ぎるし、材質の軽さは良くても茶筅が入りそうに無いなど、帯に短し襷に長しの態で…最も、茶筅筒目的というのも目的が特殊に過ぎたのであろうとも自戒しつつ…分解可能な白木の天目台と、透かし彫りとエキゾチックな着色が施された印度の真鍮の器を連れて帰る…持参した手作り弁当を、錦川の清流や大名行列などの賑わいを眺めながら、黙々と頂く至福の時…次の目当てである岩国屈指の古本屋、文化教材社を数年ぶりに再訪…数年前、道教系の書物をお助けして誠に勉強になったから、其の時買い渋った、同じシリーズの道教系書物を全巻買い上げようと云う腹づもりだったが、そんな都合よく残っている筈も無く逃した魚の大きさに身悶えしながら、其れなりに満足出来る出会いを齎した諸諸の古本を連れて帰る…絶対に面白いに決まっている安岡章太郎の「流離譚」、中国古典新書の「唐宋八家文」と「画論」、戦前の物理学雑誌と、同じく戦前の女子用修身の教科書(「二の一 隅ツル子」と記名有り…一瞬、ライブハウスのオーナーさんの御先祖かと早合点したが字が違うので他家の方だろう…無責任な国粋扇動家、徳富蘇峰がイカツイ大言壮語で、「今」に通じる空虚な国家観を披瀝しているよ)、東洋文庫「光悦うたい本」の復刻版、ぶっ飛んだ構図が往時の少女マンガの自由を再確認させる、竹宮恵子のSFサイコロジック少女浪漫「ジルベスターの星から」、それから、三島の「英霊の声」…2.26事件を夢幻能に仕立てた台本も所収…誰も付いて行けない、きちがいじみた三島の創意の炸裂…と、此処で小生が書く時点で、三島の、皮相なる現代社会に対する内的憤りの核みたいなものは、其の良し悪しは別としても、理解は出来る気がするのである…とても付いてはいけないとしても…総じて三島が恋い焦がれて止まない青年将校というのは、非現実的で実戦感覚が全く感じられない、ある意味独自過ぎる故に歴史的にも社会的にも民衆的にも容易な解釈を拒む不可解な美意識の産物であるが…其れは兎も角として、今日の尖兵右翼が、三島ほどの気概と覚悟と学識と造詣を併せ持つのなら一聴に値しようものだが…実際の昨今の国粋扇動者らの浅薄なる体たらくと云ったら酸鼻を極めるほど貧相で惨めな、凡そ論評に値するものではない下劣である…森友学園は…学園への天皇行幸の事実など存在しないのに(宮内庁がはっきり否定している)、天皇陛下が学園に行幸したと云う事実を捏造して公表、吹聴したり、更には、補助金詐欺やら何やらで理事長辞任に追い込まれた会見の時、ぬけぬけと何ら悪びれる様子も無く「耐え難きを耐え」などと、昭和天皇の終戦の詔を平気で引用してうそぶき…自身の、補助金=税金詐取が原因で理事長を辞めざるを得なくなったと云う、身から出た錆びの、あまりにチンケで小汚い反国家的所業の結末に対して、右翼扇動家からすれば畏れ多い聖断であるはずの、そして苦渋の決断が忍ばれるはずの、終戦の詔という神聖なる物を引用する事は、彼らが日頃天皇陛下万歳と唱して敬愛して止まない皇統を愚弄する事に他ならないではないか。恐らくそうした不敬其のものが彼らの本質だからこそ、其れを全く意識せず無自覚に、あの場でああした発言がぽろっと出るのであって、即ち、自称天皇崇拝者のうっかりミスなどではなく、彼らの主義の原理的本質が露顕したと言う事なのである。いわゆる君主主義者というのは表層的には君主を尊崇し滅私奉公も厭わぬと大言壮語して憚らぬばかりか滅私奉公と大政翼賛を他人に正当化しさえもするが、其の本質として、原理的に、必然的に、彼らが表層で大事にしている君主の存在を軽侮し、愚弄し、嘲笑し、私腹を肥やすための道具として利用しているに過ぎないし、利用している事になるのである。君主主義者だけでなく国家主義者も同じ帰結である。その証明は既に数週間前に書いたので此処では繰り返さない。

慌しくホテルにチェックインし、フジグランで買い込んだ酢豚弁当と青菜の白和えをベッドの上で一人もそもそ腹ごしらえ…此れから苛酷な、長時間に渡る音圧地獄(岩国ロックカントリーでの4/29のライブイベント「超次元ロック」)に耐え抜くために、自覚的にしっかりと酢豚を腹に溜め込む…話は変わるが前衛芸術家の故 赤瀬川原平氏のエッセイで、非常に興味深い記録がある…1960年代のある日、氏と其の仲間達でネオダダイズムオルガナイザーズと云う美術集団を立ち上げる最初の会合の時、会場の一室があるビルの外階段に通じる出入り口の擦りガラス越しに、何やら怪しげな人影がうろうろしているのが見えていたらしい…気になって開けてみると、当時既に気鋭の評論家だった瀧口修造氏(澁澤龍彦氏かも?)がばつの悪そうに立っていたと云う…喜んだ赤瀬川氏らは、せっかくだからぜひともお入り下さい、と勧めるのだが、瀧口氏は、いえ、自分は此処で結構です、と言い残して中に入らずそそくさと帰っていったと云う…翌日の新聞で、瀧口氏は、ネオダダイズムオルガナイザーズ結成と其の美術的意義についての記事を発表していた…赤瀬川氏が思ったのは、瀧口氏は、この1960年代の日本において、本当に「ダダイズム」の名を冠した美術団体が旗揚げされたかどうか、此の程度の事なら伝聞を事実として認識しても事足りるのに、わざわざ、自分の目でしっかり「確認」するためだけに足を運んだのだ、しかし其の会合に自分が参加する事は美術の「歴史」に影響を及ぼすことになりかねない、と云う批評家独自の奥ゆかしさ故に入室は遠慮しておきながらも、「結成された事実」だけはきちんと「確認」すると云う、実に控え目ながらも、些かいやらしいほど強烈に生真面目な瀧口氏の批評魂を赤瀬川氏は感得したのであって、其れを読んだ小生も、瀧口氏の奥ゆかしいのと同時に貪欲な批評のあり方の不気味なおかしみと、その事をきちんと嗅ぎ取る赤瀬川氏の鋭敏な感覚の邂逅に、素朴な感動を覚えるのであった。

瀧口氏の研究熱心には及ばないにしても、此度のライブで小生としてわざわざ立ち会ってまで「確認」すべき事は、予め明確にしていた。何故ならば、日頃時局について書いてばかりいるように見えても、其の影ではいつだって音楽について思いを廻らしているから、自分が聴きたい音楽のあり方と云うのは否が応にも造形されるのであった。

確認事項はこうであった。
「楽器を演奏する事で音が出ているのかどうか」
「楽器を演奏する事で音を出さなければならない」

要するに、楽器の演奏が聴きたいのではなく、楽器を演奏する事で音が出ているかどうかが試されていると考えているのである…此れだけでは大変わかりづらいので以下説明すると…当然ながら、此処で云う「音」と云うのは、通俗的な意味での音波としての音ではない、演奏すれば音波としての音が出るのは当たり前なのだから、此処で言う音とは、其れとは通底しつつ隔絶した、「本質的な音」「根源的な音」であって…楽器を小器用に巧みに演奏する事に執心して没入し、其の外部で鳴る根源の音を予め体制的に排除したような、社会的歴史的に愛玩され承認されたような、うまいこと演奏された音、きれいな音というのは当然飼い馴らされ媚びへつらって来る宮廷のデザートに過ぎない…其れはクラシックや歌謡曲のみならずロックバンドといえど楽器を扱う以上は逃れ難い陥穽であろう…しかるに本質的な音とは…まず以てうるさいものであって、断末魔や産声のみならず、とりわけ動物が音を立てる時というのは切迫した状況で止むに止まれず「出す」のであって…畢竟、其の音は根源的に、状況への「抗議」であり「異議」であり「抵抗」であり…其れは、始点を産声として終点を断末魔とする、抗議でしかありえない、誠にうるさい、耳障りな、しかし其れゆえに耳をそばだててしまう「音」なのである。ならば、こういった本質的な音はどうやったら出るのか、ただ楽器を演奏するだけでは駄目ならば、例えばわざと下手に、あるいは天然で下手に演奏すれば其れが本質的な音なのか、兎に角大きい音ならば其れが本質的な音なのか、と云うと、そんなマニュアルが存在するはずも無く、元来マニュアルどおりしたら出る音なぞ本質的であろう筈が無い。どうすれば本質的な音が出るのか一聴衆の立場から云えば皆目見当がつかないけど此の現場では本質的な音が出るかもしれないと期待するからわざわざ相応のチケット代を払って確認しにやって来るのである。

其れでは何故に「楽器を演奏する事で」なのか。本質的な音云云ならば、市場や歴史において洗練され承認された楽器よりも、その辺の任意の自然物や非楽器の器物や道具から音を出したほうが、本質的な音が出やすいのではないか、と考えるのも普通である。確かに其の可能性は否定しないが、しかし、時折ワークショップだとか、観客参加型で似非民主主義気取りのスマートな、しかし空虚な自己満足に過ぎぬエコなイベントなどで遭遇しがちかもしれないし、竹輪で尺八のような音を出したり、シャベルを叩いて津軽三味線風の音を出したりといった目くじら立てるほどでもない大衆演芸の他愛の無いものもあるかもしれないが、兎に角、自然物を使って、流通する楽器のような音を出す事ほど醜悪なものはないと云い置けば事足りるであろう。既に形容してしまったが即ち楽器とは、市場的歴史的社会的に許認可された発音装置であり、そういう意味では体制に飼い馴らされた道具である。しかし、其れが音を出す道具である以上、其の音は常に、本質的に顕現しうる可能性を秘めているのであって、とりわけ、体制内道具に過ぎない楽器から、体制への異議を原理的に申し立てる本質的な音が出た時、此の発音行為は必然的に体制内革命と云う社会的意義を持ち得るし、其れが過大な意味付けだと云うならばあるいは「異議=意義」を生成させて社会との格闘の現場に初めて立てるとも云えるだろう。また、楽器で音を立てることを反体制云云と云った社会科学的意義に押し込める事をせせこましく感じるならば、斯様な音の社会性は、生そのものや人間そのものに由来する世界への異議を根源とすると考えてもよい。まとめると、「楽器を演奏する事」で「音を出す」事の意義は事のほか重大だと云わざるを得ないのである。特にロックは、電力と云う、文明と資本のリンパ液(文明と資本の血液は貨幣としておく)によって音を増幅変調させる事を基礎としているのだから、いよいよ以て電気楽器を使って音を出すという事に意味と責任が生じるだろう。だからこそ、此の御時勢も意識しつつ、「楽器を演奏する事で音が出ているのかどうか」確認しに来たのである。

時局が切迫した社会的人間にとっての優先順位をまとめるとこんな感じである。

自然物による本質的な音 △
自然物による飼い馴らされた音 ×
楽器による本質的な音 〇
楽器による飼い馴らされた音 ×

Dead Vaginas…パンキッッシュな力相撲で押して押して押しまくると表の曲とリズムが汚く摩滅して、自ずと空中に赤裸々になる核心のリズムが直接聴衆の脊椎と強制的に共鳴して背骨をバキバキに折れ兼ねない方向性を示しつつ…こうした方向性で云えば、比較に意味は無いとしつつも、山口住のめがほんずの方がより徹底的に高速で構造を築きつつ同時に破綻させる膂力あるいは馬鹿力において勝っていたと思い出すのであった。結果としては、恐ろしく凡庸な力技による物凄い遠回りによって、ごくごく刹那的に、「楽器を演奏する事で音が出ていた」。あるいは、「本質的な音が出ていた。」其の意味では誠に痛快であったが、斯様な力技を駆使するバンドは幾つか散見されるようで…例えて云えば…常温常圧では起こり難い化学反応を無理矢理起こすためにガッツリ設備投資して高温高圧条件下で無理矢理反応させる、其の効率の悪さを愛すべき聴き処とすべきなのは分かってはいても、此の反応系ではあまり此れ以上可能性が無いのではなかろうか、と思う次第で…似たような論旨の事は過去にも書いた事があるが…可能性と云うよりも多様性が制限される凡庸さと云える。

そして、前のバンドさんが後片付けしつつ、次のバンドさんがしつらいを整えるインターバルの、御歓談の時間に…誠におぞましくも…野太く過敏な暗闇を執拗に爪弾く、聞き覚えのあるギターに俄然神経が興奮を抑制しきれないままに…脅迫的に逼迫の度合いを徐々に加速度的に増すドラムが地獄の夜明けを告げては…ポンキッキのガチャピンじゃない方の、毛むくじゃらの化け物ムックがじわりじわりと首を絞められつつある野性のきちがいじみた声が断続的に此の世の悲惨を告知しつつ、別の彼方では小さな蒟蒻の妖怪みたいなのが猿轡かまされながら手が付けられぬほど場違いなはしゃぎを遠くから揚げている時点で此れはあれだ、小生の精神の核の一部を形成しているthe 13thフロアエレベーターに違いないのであって…何度も聞いた事があるのに再度新鮮な気持ちで半ば聞き惚れながら今まさにムックが絞殺される寸前の断末魔が揚がる、一番盛り上がる最も聴きたい箇所に差し掛かった処で、此の、BGMとしては格が高すぎる13thフロアエレベーターの名曲が容赦なくぶち切られ、ジゲンオルガンが始まったのであった。

たまたまなのだろうがあのエレベーターの名曲をぶち切って此れから聴かせてくれる音に一体どれ程の自信があっての所業なのかと一瞬憮然とした気分を持て余しつつ確認作業に入る…音量、音数は此れまでよりも控え目ながらも…最早、音量、音数にいたずらに依存する事無く…しかし誠に的確に「無駄な音」が出ていると云うべきか…今回聴いた限りでも、去年か一昨年に聴いた時に小生が感得した、ジゲンオルガンが達した境地の本質は維持出来ており、其の実相は去年か一昨年に記述しているので過去のブログを確認願いたいが、其の本質は維持されていると云う事は、確認の結果は、「楽器を演奏する事で音が出ている」のだが、今回特筆すべき事は、「無駄なく無駄な音が出ている」、と云うべきであった。…此処で云う「無駄なく」と云う意味は、下手な鉄砲を数撃てば当たるではなく、的確に自覚的に、ある意味狡猾なまでに冷静に的から外すと云った強烈な意志の現れであって、其れによって出ている「無駄な音」と云うのは、「的=飼い馴らされた音=ただの楽器の演奏」、ではなく、即ち「本質的な音」なのであって、此の本質的な音は生命の根源でもあるのだが、其れを何故無駄と云うのか、其れは常に生命が根源であればあるほど己の無価値を告発され続け、あるいは異議し続けると云う偽らざる現実、あるいは偽り続けるしかない現実と対峙する事そのものが生命の根源の姿であって音の本質だからである。もっと云えば、生命あるいは人間が感じないと存在しない音の本質だからである。無駄である事を隠蔽しないからこそ無駄でしかないのが無駄な音の謂いであり、此れが、音の本質である。このように本質的に無駄な音と云うのが、はたして盲滅法に、偶然任せで出るだろうか。其れは原理的に不可能であって、それこそ、生命の根源と、逃げずに対峙し、自覚し得る明確な意志、ある意味凡庸なまでの、当たり前の意志があって初めて無駄な音が出せるのである。なぜならば此の意志は普遍的に生命の根源=異議申し立て其のものだからである。無駄な音とは、余計な音、なくてもよい音と云う意味ではなく、自ら無駄の底辺に身を置く事で無駄でしかない状況を暴露する音、其の暴露を隠蔽する宮廷の音を告発する音である。

此の凡庸此の普遍性は、先述のデッドヴァギナズの凡庸とは方法を異にしており、例えば極端を云えば、デッド~が、高温高圧での火力発電で、大掛かりな設備で水を液体から気体に変えて其の蒸気でタービンを回して電気を作るという力づくで遠回りながらも汎用性の高い方法であるのに対し、ジゲンオルガンは、水素と酸素を反応させて水と電気を直接作るという、実に明快で直接的な、在り来たりな物質を使った方法なれども、いざ実用化となると難易度が高いのか汎用性が低く希少性ばかりが目立つと云う事がある。例えば水は、地球の生態系において欠かすことが出来ないが同じ分子量の物質と比較すると様様な特異性を有する奇怪な物質と云わざるを得ないが、其の水を、ロック、として照応させると…デッド~は、其の起源が問われないまま受容された、既にある水(=ロック)に外部から無理矢理エネルギーを加えて相変化させた上で其の変化を力学的エネルギーに変えてタービンを回して電気(=音)を作る。対して、ジゲンオルガンは、まず其の現場で自らは触媒として働きながら、水素(=ガレージ)と酸素(=サイケ)の爆発的反応を起こして、水(=ロック)と電気(=音)を生成する訳で、ジゲンオルガンの凡庸さは凡庸ながらも、其の時其の場でガレージとサイケと云うロックの起源を明示しつつ、ロックと言う本質の音を生成しているのだから必然的に其の水(=ロック)も電気(=音)も新鮮そのものであるし、新しさしか存在しないのであろう…本質的な音というのは新しさでしかないのだから…いや、そこまでではないかもしれないが…

わけが分からなくなってきたが其れは兎も角として、ベースは常に挑戦的に何しでかすか分からぬ手が付けられない変態弁才天としてライブごとに本地垂迹しては悪ふざけにも程がある親切な、人懐こい天衣無縫であるし(ベースが弁財天の琵琶に見える)、また、他バンドのような、バランスよく様様な太鼓への打撃を八方美人に配分するリズムへの依存あるいは自堕落をきっぱり排除した此のドラムの叩き分けは、時として執拗に、目的があって目を付けたある太鼓のみを執拗に叩く事に平気で傾倒し、時として捨て鉢に色んな太鼓にばらける感じで、時に無駄な一撃を入れるべきタイミングを、楽曲の破綻寸前まで虎視眈々と一瞬待つ事も厭わない老獪な余裕(=しくじり寸前)も聴き取れて、かと言って音なら何でも云い訳でもなく、此の音が求めるべき音か、あるいは宮廷のデザートになっていやしないか常に峻別する社会的意識も要所で布石しつつ…両者とも緩急自在に開かれたやり口だからいつ聴いても新しく、可能性と多様性が開かれる無駄の底辺で暴れるのを怠らなかった。ジゲンオルガンが其処までの境地に至ったか否かは実際保証できないにしても(本質とは、保証されるものではない。常にぶれているものだ)、こうした希望的観測を書かせるに足る可能性と多様性を開いている演奏であったのかもしれなかった。思い切りやるときは自身も痛みを伴いながら相手のほっぺを思い切りはつり、相手の肉を集中して叩く残忍も憚らず、流す時はいい加減に開いて寛ぐ様だったのを緩急自在と云っているが、だからといって上手い演奏という訳ではないのはもう説明する必要は無いだろう。当事者から云われるまで、今回は、あの脳天をつんざくキーボードが故あって無かった事に気付けなかったのは小生の痛恨の不覚であった。思えば、キーボードを足蹴にして音を出すと云うあのスタイルも、人手不足と云う事情故なのは分かってはいても、西洋の伝統(=キーボード=音階の統制的配列)に対する、尾崎紅葉の金色夜叉的演劇(熱海海岸で貫一がお宮を足蹴にする名シーン)にも見えるのはあながち比喩的な意味では済まされない本質が露呈している気もする。

とすると、Radical Faceはどうだったのか…立派な手練れでありつつロックの本質は十分滲み出せていながら…やはり、其の修練への生真面目さが、楽曲の破綻を恐れる壁になっていたのは否めなかったのか…

計5バンドを体感後…将棋でいう処の感想戦に入る…初夏の地下のライブハウスでのビール旨し…海老蔵は一刻も早く、自身の事件を材に取った平成歌舞伎18番「六本木酒場過誤」(ろっぽんぎさかばのしくじり)を上演すべき事、さもなくば伊藤利尾介との決着をつける事で朝鮮半島情勢の緊迫を鎮静化させるべしとの衆目一致をみる…頃合いを見計らって、一度炎上したが近所で復活を果たした居酒屋さんで五橋のヌル燗を嗜みつつ、時局批判に怪気炎…目玉焼きを乗っけた焼きそばが、酒で疲弊した胃を癒す…他愛のない料理ながら、こんなものでいいのですよと心の中で熟した快哉を叫ぶ…二軒目たぬ吉に潜入…一件目と同じく、誠実な御店…五橋の冷やともろきゅう、そして雅な品名が心ときめかせる「磯の松原」(海苔の上に梅肉と納豆を乗せたもの。自分で巻いて食べる)を注文…心に沁みる一時…翌日になって、たぬ吉で提案すればよかったと少し悔やんだが、改めてしめやかに…ムッシュかまやつとTHEEE BATの女性メンバーの方の御霊に…、献杯…。

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