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 ロック史を体系的議論から解き放ちながら、サイケデリアの土着性とハードロックの非継承性を論ずる。主要1000タイトル、20年計画、週1回更新のプログ形式。
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区切り、そして生活問題の山積への苦渋

最早小生の内的生活における浅ましい、卑屈な、つまり卑しい愚痴のはけ口に堕した感が否めないこのブログであるが、早々に打ち止めにすべきか、それとも、いかなる状況でも続けるという意志に花を持たせて惨めを承知でじりじり続けながら何とかまた本来の王道なきロック史への軌道まで復調するを待ち続けるか。いまだ優柔不断だが、今日は番外編ということで勘弁願いたい。過日、テレヴィ番組で、「集団行動」という番組をやっていた。その名の通り人間の集団が一つの統率のもとに、回れ右したりぶつかることなく交差したりといった軍事教練を競技化したようなものを小・中・高・大学生らが、指導者が張り上げる脅しや怒鳴りやしごきに耐えながら、要求される集団行動を完遂させ、統率者のおめがねにかなったことに感極まって泣く、というパターンである。最早、こちらが何かを読み取る必要もないほど権力側の主張というのが露骨にせり出してきている昨今である。権力とか国家というのは対象化できない、己と他者との関係性のあり方をいうのは分かってはいても、権力のむき出し、という表現をせざるを得ない。「集団行動」の権威とされる日体大のお偉いさんの言葉も、極めて明瞭である。「集団行動には面白さはない。ここに個人の自由というのはない。皆の動きについていかないと集団行動にならないからだ。しかし、達成した時には感動がある」テレヴィ画面のテロップで示される、「見よ!芸術的な行進を!」全く北朝鮮の事が笑えない、ぞっとするほどのおぞましさである。芸術的な行進・・・にわかには信じがたい矛盾である。芸術も馬鹿にされたものである。権力側は、もう、誰にでもわかりやすいほどの直接行動に打って出ているというわけだ。小生も、せめて、言葉という、精神の直接行動をやらなければならぬ。

細君が読んでいるバクーニンの「神と国家」を横から読んでみて思ったこと。自由というのは、その行為の内容のことではない、内容が陳腐だろうがなんだろうがどうでもよい、やるかやらないか、という自由であると。アナキズムは実存主義に先立つ。バクーニンのいう自由とはサルトルのいう実存である。メモランダム。細君:内的=時間、外的=空間。バクーニン:内的=観念、外的=社会。

ここ数か月の、まさしく生きる糧にしてきたことが終わってしまって、げっそりと愕然としている。もう、生きる糧がなくなってしまった、と。親愛なる友人の結婚式のことである。翌日の観光での、渡辺美術館でのげっそり、も大きい。これから先、何を糧に生きていけばいいのだろうか、結婚式があるからということで先延ばしにしてきたが、ふと足元を見れば、己の生活上の、いかんともしがたい問題が山積、その早急なる処理を家人から求められ、いたずらに苦しいのみの、生活能力の欠如が明るみになる。それを解決したところで何がどうなるのか、喜びもあれば苦しみもあるそれだけのことになるのは分かっているそうしたことが現状とどう違うのか混乱の拍車ばかりだが、愛する者のためだけには何とかしなければならない。賃仕事進退問題彫刻進退問題文筆進退問題住居進退問題子孫進退問題の概ね五重苦が互いに雁字搦めにその問題の深刻さをきつくするのを核としてその他もろもろの些末な問題ゲリラが小生の毎日を覆う。それらすべてを後回しにする口実が、この度、終わってしまったのだから絶望の幕引き以外見えない。真っ黒な緞帳の向こう側を何とか透視する滑稽な努力を続けるしかない。微細な星の光を集める己の眼球の焦点をその緞帳に合わせて、焦がして穴をあけるしかない。穴が開いたところで何が見えるか、何も見えない可能性が大きいことも承知しつつ。

もっと友人先輩と話すべきことがあったような気がするが、持ち前の即興性の無さで、後になってこういえばよかったと思うことの1%も言えずじまい、いつもながらの後悔である。次を頑張るしかない。翌日、ホテルで、所定の階に行こうとしてエレベーターに乗り込んだものの、うまくいかず、エレベーターの中で小生よりも他人の意志が優先されてうまく所定の階に止まることができず所定の階を何度も通り過ぎながらエレベーターで上下していると、新郎とその父君?に救出された、という不条理に出遭った。奇しくも、エレベーターに乗る前、朝食バイキングで、そのシステムを瞬時に理解できず、あたふたと意味不明の行動をしていた後でもあった。気が狂えるものならいっそ発狂したい、発狂すらできぬ虫けら以下の存在(「地下室の手記」より)。何にせよ、楽しみは自分で作るしかない。苦渋に鞭打たれながら、さしあたってまた茶会を企てるしかない。先輩が結婚するというからそれも抜け目なく生きる糧にしなければやっていけない。

新郎から頼まれて余興あるいは祝辞を読んだが、自分が何を言っているのか自分でも訳が分からなくなっていた。声が白紙になるというか、自分では声が出ているつもりでも実際には声になっていなかったのではないか、と不安で仕方がない。幾人から好意的な感想をいただいたが、気を使ってくれているだけの裸の乞食なのかもしれない。一応、余計なことだと思い知りつつ、以下に、祝辞の全文掲載。小生の声を聴いた方は読む必要なし。
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 ○○君、○○さん、ならびにご列席の皆様、近在遠方より一つの祝福が集まる今日という日に私も参加することが出来て喜びもひとしおでございます。申し遅れましたが私、新郎からのご指名により余興の座をお借りしました△△と申します。秋はいい季節です。とはいえ夏の名残忘れがたく、琥珀色に呪われた液を嚥下するに思い出すのは蕉風勃興の機運を地図のように眺めながら独自の句風を吐いた江戸時代の俳人上島鬼貫という伊丹の酒豪でありまして、人口に膾炙する発句、「行水の捨て所なし虫の声」。行水と言えば漱石の猫で盛り上がる俳劇談議の一場面、花道から俳人高浜虚子がステッキを持って、白い燈心入りの帽子を被って、すきやの羽織に薩摩絣の尻端折の半靴というこしらえで出てくる、着付けは陸軍の御用達みた様だけれども俳人だからなるべく悠々として余念のない体で歩かなくっちゃいけない、それで虚子が花道を行き切っていよいよ舞台に掛かった時、不図句案の眼を上げて前面を見ると、大きな柳があって、柳の陰で白い女が湯を浴びている。はっと思って上を見ると長い柳の枝に烏が一羽とまって女の行水を見下ろしている。そこで虚子先生大いに俳味に感動したという思い入れが50秒ばかりあって、「行水の女に惚れる烏かな」と大きな声で一句朗吟するのを合図に、拍子木を入れて幕を引く、どうだろう、こういう趣向は、なんぞいう愉快な場面が思い出されますが鬼貫の行水は豆絞りの褌で尻を角ばらせた鯔背な男の野辺の行水だろうと推察されます。鯔背な男が片田舎ののっぱらで行水するかどうかは話が長くなるのでそれはさておき。

 秋の気配が結露すると虫の音となってころころと夜風に散り急いでおりまして昼間の草いきれの残りを綿掛けする野原のただ中に盥を置き水を張ると早速、満月が生卵のように揺れている。行水する男は虫の春秋に頓着せぬたちだからざぶざぶと、青いジョロウグモの彫り物が月にさえる白い肌を洗うのであるが、ふとよぎる夜風の肌寒さ、すかさず季節の移ろいを慮ったところ、無心に鳴く虫に冷や水浴びせかけるを躊躇して、盥に残った水を捨てがたく憮然としている、可憐なためらいにこそ移ろいが宿る、鬼貫の句はそんな句です。

 有明の月も遠のけば、石灯籠ぐんぐん高く伸びあがる秋の朝空、夜露を吸って根の国までどっしり湿った土には曼珠沙華の花が直に生えている。満々と水平にまで水を湛えた海でありながら水が乾ききっているように見える海の崖っぷちには浜防風が咲き乱れ、誰にもその文字が読まれる事がない、しかし誰もが諳んじることが出来る文字が刻まれた石碑の陰が立っている。水が乾いている海というのは水が干上がっている海という意味ではなく、水が乾いているこの感じが秋だと感ずるわけであります。半ば駆け落ち同然に、神話の国から神話の国へ、行き暮れて辿りつく二人でもあり、国体護持の国防婦人会初代会長アマテラスと出雲系カウンター神にして荒みの祖神であるスサノオとの板挟みで、八百万の神々が顔つき合わす夜、非生産者にして芸能の神たるアメノウズメが、はじめは、淫らにも滑稽な仕草をオカメ面で繰り出しては嘲りを含む神々の喝采をとっていたものの、その内、アメノウズメが底光りを踏み抜くがごとき力強い足踏みをそろそろと刻みだすに至ってはビートの導火線に火が付いた、拍車うつリズムへの期待感に神々はうずうずしている。天岩戸の中で拗ねたアマテラスを引っこ抜くべく待ち構えるタヂカラオは、不穏きわまりない思いつきに独り、苦しんでいる・・・いっそのこと、アマテラスをこのまま岩戸の中に閉じ込めてやろうか、精神と時の部屋で引きこもる根性も無く人恋しくなって顔をのぞかすような中途半端な奴の言いなりになることなんかない、黄昏の神々の喜びようはなんだ、そう、みんな、全てを明るく照らし出す光など必要としていないのだ、全てを照らし出してくれる便利そうなものに頼ろうとするから媚びたりへつらったりが生まれる・・・国が生まれ奴隷が生まれる・・・如何に闇夜であっても自前の松明で目の前の人の顔をしっかり確かめたり自前のたき火で煮炊きすれば肉も魚も米も単純に旨いではないか・・・ツクヨミがいるから夜でも風情があっていい、一足先に狂乱の態に走ったアメノウズメが胸乳も露わに反り返りながら膝高々と力強く地面を踏み鳴らす轟にすべての樹木が飛び上がって頭から地面に突っ込むと剥き出しの根っこをバチバチさせながら煽りに煽り、腰砕けのダルマ落としで一晩中踊りに踊りぬいた神々は眼が座っていて獰猛なまでに静かだ、待っている凶暴が葦原の漣をも平定する息をのむ熱望の瞬間はあまりに長く興奮の度合いが募りに募り、神々は、生活が大の字に寝ている与太者の心拍が思いの外ずたずたに荒んでいるのがアンプリファイされた起死回生のロックバンドを出現するより前に渇望している。外の突発的喧騒と奇妙な静寂に誘われ物欲しげな表情で岩戸の隙間に指を掛けてきたアマテラス、その遠慮がちな動きを察知したタヂカラオは、素早い残酷さで指諸共力任せに岩戸を閉じてつっかえ棒、明けることの無い夜の中へすたすた走りさった。耳鳴りする足踏みを閃かせながら事切れたアメノウズメが道化のオカメを脱ぎ捨てて不敵な笑みを薄暗くこぼしながら稲妻直結で人間を真っ二つに切り裂いたベースに憑りついてベロンベロンの音を増幅爪弾く爛れの余韻ひき切れぬうちにしたたか速い気まぐれもすっ飛ばして生爪重ねるように次々リズムを更新していく。タヂカラオが血抜きしないニホンカモシカとニホンオオカミを供え物の御神酒の樽に詰め込んだだけの粗末なドラムセットを即席でDIYしたタヂカラオは几帳面なこだわりを注いだドラムのセッティングをようやく終え、聴覚のみぞおちに工夫無く体ごと連打、一撃で霧島連峰から阿蘇山までぶち抜く爆音で熊襲に自覚をうながしながら野放図に裏へ裏へとリズムの裏へと先回りするえげつなさがガンガン軽く嵩張りながら心の臓にドロドロ窮迫するビートを、疲弊しきった間の抜けに押し込めるがさつさだけが無闇に牙を剥くハードロックの編成からも開き過ぎて肋骨がポチョムキンの階段になると土が一斉に浮足立ち神々も爆発して踊り狂った。意外にもクリアなトーンを選択したギター担当のスサノオは虫のいいリズムでのたうちまわりながらもリズムに拮抗し創意を叩き上げる場違いに身を投じて本邦初の歌声を苦し紛れに絞り出すだろう。枯草をむしゃくしゃにするサイケデリアの炎が眠りながら死肉をむさぼる荒みの歌声はあまりに有名だろう。「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣 作るその八重垣を」天岩戸に挟まれた指がかすかに動いて否がおうにもリズムに乗っているアマテラスは、己という光に閉じ込められて何を思うのだろうか。密閉されているがその中だけは異様に明るい部屋のインテリアはこだわりでいっぱいだ。すると、何食わぬ顔で朝日が昇り始めた。閉じ込められているのは一体何なのか。単なる人違いか。そんな宮崎という土地から、平和という現代の神話が、まさに神話の効能である隠蔽工作が戦後民主主義体制の元に形作られた広島という爆心地で学問を修めた後、ついに、出雲系カウンター神の出身にまつろう鳥取へと居を定めた二人は、あの、誰にも読まれることは無いが諳んじられている、つまり刻んである文字と諳んじられる文字が異なる可能性のある石碑の陰で結婚を誓ったのであった。電磁波でできた座卓で湯気を立てる、茶柱が倒れることもできないほどびっしりつまった膳所焼の湯呑がさながら香炉でもある。

 自分の魂に自信はありますがこんな感じで、新郎のひととなりが少しでもお伝えできていればと思います。とはいえ、なんですからすこしばかりのエピソードをご紹介いたします。○○君はまことに仁徳の高い男でありまして、たとえば、高野山まで一緒に物見遊山に出かけた折、電車に座っていると、率先して御年輩の方に席を譲っていました。とうてい私にはできない親切でありまして、私などは、駅の構内で乗客たちが長蛇の列で電車を待っていたとしても、毎日疲れ切って余裕がないために、押しの強い中年女性をけたぐり倒して背中越しに罵倒が聴こえようとも席に座ろうとしますし絶妙なるポジショニングゆえにその成功率は情けないくらい高いのです。世間の椅子取りゲームは苦手でも電車の椅子取りゲームには負ける気がしません。徳の高さの違いが分かろうかと思います。もう一つ、これは○○君の人格とは全く関わらないですし彼が自分の意志とはかけ離れたところで関わっていることゆえにそのひととなり以上にむしろ凄みがあるといえるのですが、奇妙な状況について申しますと、○○君から何かしらの連絡、たいていは飲みや遊びの御誘いだったりするのですが、そうした連絡があった時の前後には必ず、私の生活がかなりぎりぎりにまで追い込まれ目をそらすことができないほど生活の欺瞞を直視させ、私に何かしらを覚醒させてしまうのです。その状況は普通に考えると専ら私自らが蒔いた種に過ぎないのですが、そうした偶然の符号が幾度となく続いておりまして、この度結婚の知らせが来た時は事の重大さからして覚悟はしたものの、やはり、その知らせの重要度に応じていまだかつてなく厳しくも肝心な事がありました。その中身について話すことは、まさにスサノオが機織り娘たちの前に生皮剥いだ馬を転がす様なものなので自粛します。しかしながら、自分の意識とは関係なく、純然たる偶然で以て、何故か私をして生活を括目させ、ある種の覚悟を求めてくる、というのは○○君以外には見当たりませんし、私事ではありますがそうした矮小なる艱難辛苦を、彼と他愛のない酒を飲むことで乗り越えてきた節があります。私は広島、○○君は鳥取と、中国山地を隔てた形ではありますが、こういう事は○○君が鳥取に就職してからですので、やはり、スサノオの鼻息が鳥取という土地から分水嶺を越えてこちらまで吹付けているためとしか思えません。

まあ、そんなことは気になさらずまた誘ってください。面白い道具を手に入れたので大山に雪が降るころ、私からも、また、茶会に誘います。

大杉栄は、思想に自由あれ、行為に自由あれ、そしてさらには動機にも自由あれ、と言いましたが、前の二つはたいして重要ではありません、最後の、動機にも自由あれ、というのが一番、ぞっとするほど恐ろしくも重要な事だと、おかげさまで、最近、分かりました。○○さん、○○君をよろしくお願いします。

生臭い話ばかりしてしまいましたが、挙句に、蕪村の夏の句で清めたいと思います。「ところてん逆しまに銀河三千尺」結婚おめでとう。

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