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 ロック史を体系的議論から解き放ちながら、サイケデリアの土着性とハードロックの非継承性を論ずる。主要1000タイトル、20年計画、週1回更新のプログ形式。
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荒み茶会記 ~荒みの時代がやってきた~ 下書き、あるいは素描

 もう、ほとんど、こんな駄文をシレシレと薄気味悪く書き連ねている時間も無いし状況でもないという切迫した焦熱の上で転げ回るようにそれでも書き連ねるといった事態にしか執筆の動因が無いという静かな平衡である。他にやらねばならぬ事がてんこ盛りだというのに…隔週連載だというのに最近連載が滞っているのを心配していたモーニング掲載のへうげもの、このほど江戸編突入ということで連載再会、胸を撫で下ろす…と同時にコミックス最新⑮巻発売もあって、連載を毎号欠かさず読み込んでいるので中味はしっかり心に刻み込んでいて知り尽くしていようとも早速第1刷を買う。桃山最期の徒花、狂熱の関ヶ原…虚実の境に山田先生の創意が炸裂、気持ちよく抱腹絶倒させていただきましたが、やはり、桃山の終焉、そして物語の終焉の陰がじわりと滲み出ざるを得ず、山田先生ゆえ必ずしも史実(織部切腹)そのままにはなさらぬかもしれぬが気の早い寂しさにもう堪え切れぬ思いも嵩じ、前々から沸々していた、小生が講談社編集部に建白いたしたき儀、というのも早々に動かねばならぬと肝を冷やしている。そう、連載終了を記念して、「利休妄魂」(織部が利休の忌日に、死者を偲ぶ茶会した時に掲げた扁額)ならぬ「織部妄魂」の扁額を掲げた、北野大茶会の興業である。日頃の、へうげもの絡みの陶芸展なども悪くは無いが、最後は、あの北野大茶会の現代的再生をせねばならぬだろう。北野天満宮を貸し切って、世界中から数寄者を招聘し、前代未聞の空前絶後の茶会を開く数寄の祭典を、ぜひとも編集部主催で行ってほしいのである。当然ながら小生も、在野の労農茶人、数奇の壮士として馳せ参じるであろう。現代的意義を鋭く抉る「荒み」(すさみ)の美を世に広く披露すべく、既に、織部妄魂の北野大茶会における小生の茶事、というのも創意はほぼ完成している。あとは直接行動あるのみである。無論、賢明なる編集部諸氏におかれては既に同じ思いで構想しているとも思われる。余計なお世話と思いつつ、喫緊で編集部に書状にて正式に進言いたす所存。

 と、殊に数奇に関しては鼻息荒いが、その私生活は、陰惨な苔を舐めるさえない縮こまりである。暗黒の月曜日の朝、公休取得せし妻がうらやましうなった途端、気付いて、休めばいいんだと、気付いて、心折れ、心の風邪で、社会社を欠勤して詠める…

 鳴り止まぬ電波の追手に耳を塞ぎエアコンのバリアの彼方油蝉わめく

 母を気遣う寝言一声妻の夕にぎやかに芋の転がるカレーを作る

 一瞬、鼓膜が羽ばたき始めた。物凄い轟音…それは、外界からの音を摂取しているのではない、専ら鼓膜自身が激しく闇雲にばたついている、手の付けられぬ感じ…独自の意志を格納した鼓膜が耳を離れて耳道を飛び立とうとしている感じ…こういうのを耳鳴りというのだろうか。目の瞬きだけで空を蝶のようにクラゲのように浮遊する、軽い軽い夢も見る。

 画伯、という尊称ほどいんちき臭いものは無い。

 夏の京都でハモの湯引き、ほど俗なものはない。  山岡 士郎

 以下、「荒み」に関するメモランダム。 

○侘びや寂びはある種の美意識による排除と抽象によって成立する。しかし荒みは、全てを含みはせぬが排除はしない、あるがままに生活する言葉である。とすると窮極的には全てを含む故に言葉や意識からも解放されうる…そんなことはない。それでいて平和や平穏、安泰、安全から隔絶した、まさに生活そのもののようなふしだらな言葉である。

○荒みの相を便宜的に分けるとするならば、1.荒んだ生活、2.荒んだ芸能、である。しかし、これは説明しやすくするための仮設であって、本当は分かたれない、というよりも混沌である。荒みは説明および説明責任を暗殺する。註:仮説、ではない。真理を不当に誘導し既成事実とする手先としての観念的エンジニアリングではない。

○生活…目先の諸事に汲々している血眼。未来、展望、真理といった理念など雲の上の御伽噺。今日、明日をいかに生き抜くか、切り抜けるか、にしか頭を使わない思考の筋肉性。権力を構想せぬしその暇も無いので腹が空いたり腹が立ったら目先の弱者を引っぱたく弱者の坩堝が限りなく濃く煮詰まっている。無論、思想もする。形而上学もやる。そして思想も形而上学も人間であり生活である。まとまりはせぬ、思弁と生活反射労働の分極が身体論を破綻させるまでに。そこに生活の出鱈目な基底がある。

○芸能の荒みは生活の荒みをますます荒ませる。荒れた皮膚炎を堪え切れず掻き毟る救い難い刹那的即ち生命的楽。燻る熾火をかき立てるがさつな前衛。生活者の生活を思弁的に否定もしなければ肯定もしない、むしろ拍車をかける、生きている人に心肺蘇生を施す余計な御世話の如く。ただの、これ以上底意の無い、下りきった現状認識=基底である根本的無益にして非構築的だから、階級意識や権力構造を明らかにする思弁的抵抗や反撃には組しない。あらゆる構造や構築、組織とは無縁に、勃発するささくれ。とはいえ、反構築ゆえに構築からスマートに脱しえるかというとそうではない。荒みは、自分の身を汚さず論理的正しさに引きこもり、生活の矛盾を悟り顔で馬鹿にするカッコ良さ自慢の小綺麗な脱構築を否定する。というかそれさえも飲み込む。清濁合わせ飲み、清濁合わせ吐く。荒みは評価され得ぬ暗愚でもあるから、その時々で階級闘争も行動するが結局その闘争が当初の高邁なる理想を遠のけ更なる地獄を再現してしまったとしても、そうした失敗すらも最早恐れはしない。否、恐れながらも、なんとなく、うっかり、分かっていながら、だらしなくやってしまう。どしどし誤謬する。思想も芸能である。芸能たる思想は生活の失敗を後押しすることで最早失敗も誤謬も出まかせな浮き草となって、しかし、沈痛なる燻り、遣る瀬無い怒りは癒しを拒む辛うじての誇りである。生活と芸能が行為と思弁をこき混ぜた、善悪と好き嫌いが無効となったところに泥臭い荒みがある。清らかな大白蓮華がすっと伸びて花咲くのを許さぬ、毒の汚泥こそが荒みである。火宅の中でカラオケを熱唱するのが肝の据わらぬ間抜けとしての荒みである。

○荒みは、いざとなれば、肉を切らせて骨を断つ覚悟で、それでも速攻で孤立しながら組織だった階級闘争もすれば一人一殺のテロといった時代遅れの古法も辞さず、村の中で一人、思弁的アジテーションもわめく、床に飾る茶花を選ぶし、珍奇な芸能や思想を各地で開陳勃発させ、こせついた生活に絞られもすれば蓬原の滴に映る日月を愛で、流行のアーティヴィズムにおいて街の統制をおちょくることもする。たとえ、それらが、過去に幾度となく繰り返された茶番であり自己満足だと揶揄されようとも、反復とか永劫回帰とかいうよりも単純に物忘れして繰り返す。そして、歯噛みする思いで何もせずくすぶることも辞さない。行為者と非行為者が価値なき生における同一線上で綱渡りする危うさを有する。

○荒みは、変哲無き生活そのものとして生活を負うという意味で命を殺めてしまうこともあるかもしれないが、統一されぬ矛盾において、命と物とそれらとの出会いを極力大事にする。

・・・続く・・・

テレヴィ番組は面白くなくてもよいものほど面白いものである。タモリ倶楽部しかり、ちい散歩しかり…今テレヴィつけたらやっていた、有吉くんの正直散歩、面白い。しいていえば、ゲストはいらない。有吉のみでよい。

贔屓しているヴィレッジバンガードで、以前から目をつけて、他の客に買われないように他の品物に埋もらせて隠していた電燈を購入する。しかも、二つ。琥珀化したゴーヤのような電燈と、エミール・ガレ風のPOP蛙の電燈…支払を終え梱包してもらって店を出てぼんやりしていると、店の人が追いかけてくる…聞くと、他の客に渡すはずの商品と間違えたというのだ。全く、小生が何となくぼんやりしていたからよかったものの、足早に帰って、袋を開けたら、自分が欲さぬ品物がっ!という最悪状況に、あわや、なるところであった。油断ならない、しかし、むしろ油断していたから、件の、自分が欲するところの電燈をお助けすることが出来たのである。一寸先の闇が本当に空恐ろしい。やり場無くまた、心が殺気立つ。

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