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「靖国考 ~天皇制 その不在の中心をめぐって~」
鷲に掴まれ空飛ぶ魚薄笑う
恒星太陽の核融合反応が少しばかりくしゃみをしたら地球は吹っ飛び生命絶滅、究極的にひ弱な人間社会をふと思い起こしてはびくついている。今年はズートルビのデビュー40周年。ネオダダの篠原有司男氏の健在ぶり、御家芸のボクシング・ペインティングを御年82歳で披露する元気ぶりをテレビで確認。篠原夫妻のドキュメンタリー映画がアメリカの何かにノミネートされたらしい。60年代、やれアンフォルメルだ、次はアクションペインティングだ、と、当時欧米で流行る美術潮流をいち早く嗅ぎ付けてはそれに託けてやらかそうとする「がさつな前衛」の急先鋒篠原氏の著書「前衛の道」は小生も蔵書している。氏のボクシングペインティングにならって以下に書き殴る靖国考、主に、よくありがちな天皇制について兎も角、自前の頭を使って考えてきたが、ぐちゃぐちゃに混乱して自分でもわけが分からなくなった、頭がおかしくなりそうになったのは否めない。自分の頭の悪さと迷妄を晒すだけとなった。飽くまでも「私にとっての靖国」に限って進めたらよかったと反省しているが、「私にとっての靖国」と「私が考える、日本人にとっての靖国」「私が考える、戦勝国にとっての靖国」がごっちゃになってしまったから、不可解となったと、事後、反省するものである。その事を予め承知の上であら探しでもしてもらえたら幸いです。
積日の鬱屈と憤懣を詳らかにせぬ事には解消せぬ卑しげな捌け口に萬の言の葉を使役するには忍び難い、叶うならば小春にそよぐ冷たい微風の行く先の爛漫の花づなに心馳せたく思えどもふと此処で起されるは皇軍末期卯月の決死行、戦艦大和を旗艦とする第二艦隊の出撃とその末路の壮絶を切実に「報告」する形で文体ながら敬礼の状を醸す吉田満「戦艦大和ノ最期」を深更読み砕くに夜通し切迫、自ずと研ぎ澄まされるのは戦争というものを、思弁で片付ける表層でのやり取りをこなすに限られた痴戯に瞞着させず、思弁がそのまま感覚と感情にまで、即ち心が身体性を帯びてくるまでにやり場無く割り切れぬ臨場で以って彷彿させる。ゆえに、その現場、即ち死の現場、に居合わせなかった者たち、それは後から生まれた者もさることながらその現場に居合わせながら辛くも生き残ってしまった者までも奇しくも含まれるのであるが、そのようにして戦場での死に居合わせぬ者が、切実に、口伝でも優れた記録でも媒体は何でもいい、兎も角その戦場を思う時何が出来るか、己は図らずもどうなってしまうのか、といえば、膝を屈して愕然とこうべを垂れ目は括目して静謐、ただ、祈るよりほかあるまい。この事は何も戦場だけに限らないが、己をして決して震撼なさしめようとせず飽くまでも安全安心な理屈的高所から情報を仕分けする事で利益を得んとするに汲々なる浅薄の徒、志なき保身にのみ反射的に自働するだけの心無き情報化人間奴隷に、この深甚なる祈りの切迫と誠など腑に落ちるはずも無かろう。詳しくは先にあげた著作を読めば分かるが米軍の猛爆の中戦術上の理由で兎に角一刻も早く艦を水平に戻さねばならぬ、それには片側の舟底の機関室にポンプ注水せねばならぬがそこには数百人の戦友が油まみれで何も知らされず奮闘している、一応退避ブザー鳴らすもその区画全員の退避を確認する暇など戦闘中あるはずもない、もうきりが無いから時間が無いから、必死で上に上がろうとする戦友の頭を蹴り飛ばしてハッチを閉め注水、数百人の下士官の命を犠牲にして何とか艦を水平に戻すもそんなこととて劣勢を覆すには足りよう筈も無い些事、こんな悲惨事がごまんとあった、狂気だの不条理だとかなんとかの片言でおさまるはずもない、人類世界でおよそ5千万人の死者を出した未曾有の世界大戦の事を思えば、こそ、とりわけ他者を踏みつけて生き残ってしまった、そうせざるを得なかった者に残された最底辺の、ぎりぎりの生の所作とは何か、それは、唯ひたすらに心が流されるだろう祈りよりほかあるまい。かような祈りの底辺に思いを致さぬ者ら、ここまで論が至ってはこの時点で特筆する要は抹消されたも当然なれど過去の記事の脈絡を重んじて云えば例えば春香クリスティーンの戦勝国史観を代弁したという立場での発言「靖国神社に首相が参拝するのはドイツの首相がヒトラーの墓参りするのと同じですよね」や、その論を支持する旧戦勝国は何にも分かっていないのだろう。戦争というもの、ついには人間というものを何にも分かっていない、と云いたい。もっと云えば旧戦勝国がこしらえた戦勝国史観に便乗する鼻息のさもしさを隠そうともせぬ無恥極まりない中韓の、件の史観に承認されたがゆえに盲滅法に振舞うのが可能になっていて手がつけられぬ、己を利する雰囲気に浮かれるのの披瀝(ここ数年の尖閣、竹島、アメリカでの慰安婦像乱立等々)などは本来語るに足らぬ下賤といってよい。中韓即ち遅れて来た帝国主義国家の時代遅れな僻みと嫉みの言い掛かりの悪ノリが嫌がらせの落書きのように日日報道されるのに一喜一憂する愚かしさを思えども、それを書いてもそれが彼らに自分のものとして意志として感応されはしないと早合点する絶望のあまり恬淡として静観しながらも最底辺の熾き火がぐつぐつ煮えたぎるを、ともすればその熾き火を掻き起こせば忘我の業火に炎上するを堪えながらでも最早到底我慢ならぬ仕儀ゆえに、このことを、これから、書かないことには暮らしが荒れて生活に支障を来たすので書かなければならなくなった。そして靖国問題は、最早、私のものともなった。これは飽くまでも私の靖国問題であるから、政府間の外交姿勢のあり方を論ずるものではない。
戦勝国史観とは戦勝国の占領政策で綱領された、敗戦国への押し付けの思想の一であり、上層指導者層を戦争責任者として裁きの対象に認定し、その他国民一般は何ら戦争被害の責任を負わぬとまでは云わぬまでも指導者に唆された全体主義の被害者でもあり、かような全体主義の被害者でもある敗戦国民の解放者として戦勝国による占領政策を正当化し容易化するものであり、それが戦後70年近くなってなお遺制として残る、中韓が便乗する処の戦後の国際秩序である。この史観は日本に先立つドイツ占領においては的を射ていたというべきである。特にアドルフ・ヒトラーという特異点が独裁の頂点にあった極めて独特なる独裁とそれによる惨禍において、むしろ例外的に正鵠を射ていたともいえる。ユダヤ人絶滅政策とその実行というものの度し難い人間蹂躙の極端性且つ独自性の責任をドイツ一般国民全てに加担させるには、ヒトラーは政治家として国民性から突出し過ぎていた、スターリンと同じく、である。古来から欧州文化圏においてユダヤ蔑視は底流していたし、他方のユダヤ人の思想にしても旧約を読めば多民族への絶滅政策を「聖絶」という概念で肯定していた歴史は確かに存在する。新思潮の芥川は斜に構えて、思想というのは実行された時に初めて危険思想と呼ばれるというが、前者を実行したのがヒトラーのユダヤ絶滅政策(「最終的解決」)、後者が現イスラエルによるパレスチナ人絶滅政策である。翻って大日本帝国、近衛文麿や東条英機に至るまで戦時中目まぐるしく変わった首相連とその内閣は、果たして国民から乖離できるほどの独自の性質があったか、否、ないだろう。彼らはむしろ、(ある部分を除いては)ごく一般化しうる全体主義国家の進行に流された、あらゆる人間と同じく矮小なる道標に過ぎない、風立ちぬでいえば「あの時代を懸命に生きた」律儀な小役人の風采でしかない。従って、近衛や東条は国民から分離し難い存在であり、彼らのみを抽出して戦争責任者として措定するのは単なる的外れであるばかりか日本軍国主義の実相を隠蔽する破目になる。日本軍国主義で重要なのは、先に括弧付けで記した、(ある部分)である。云わずと知れた、天皇制、である。天皇制とは何か、それはもう論を俟つ必要もなかろう、大いなる無責任の体系である。帝国大元帥であり帝国憲法にあって陸海軍の統治者でありながら、自らは神聖不可侵ゆえに、戦争というおよそ俗事の中枢という意味で汚れた陸海軍を触る事ができず、即ちよく統治しえなかった。下の者らは、大元帥への責任に成りかねない決定的な政治的軍事的失態を、あまりにありがたい現人神ゆえに人間世界の俗事で汚すわけにはいかないから責任が先天的に解除された大元帥の威信を損なうためその責任を負わせまいとするあまり報告を過小に誤魔化したり、あるいは大元帥を表向き敬う言辞を弄しながらその行動は全く大元帥の勅に反するのを平気でやってのける個人の突発的皮相なる欲得が統帥部(陸軍参謀本部と海軍軍令部)の仲間内あるいは前線の佐官クラスごときで勇猛果敢と褒め称えられ、大元帥への底意の侮蔑もあるのか妙に統制されたフリーダム、大元帥は大元帥で統帥権がありながら臣下の上っ面の言上に辟易しながら大局を断ずる権を行使する気力も無く喃喃と下からの具申をその日暮らし的に追認する始末で云われるがままに議会や閣議承認を経ぬ超法的勅令で以って軍事拡大と体制護持政令を乱発、その大権をやっと勇躍振るったのは国際的には御家騒動でしかない2.26事件のみという卑小、その辺の著作は世に山とあるのでそちらを参考いただきたい。尊崇と侮蔑は紙一重、被差別最下層民の流浪の非人=稀人=鬼あるいは神、という中世民俗の古層の事例を紐解いてもよいがここでは割愛する。宗教権力と政治権力の混淆という中世封建社会の継承と二重権力による責任の非在と曖昧化を云ってもよい。このあたりを掘ればこんな半端な指摘程度ではすまないがここは割愛させていただく。
そして結局、理由は諸説あるのだろうがこの戦勝国史観においては何故か天皇自体は免責されてしまった。日本軍国主義の責任の中心を問うことが可能なのは唯一天皇制のみであるにもかかわらず、そこが免責されたための齟齬が国民の心情に戦後も底流することとなった。ヒトラーという陽の特異点とそれを中心としたナチズムは断罪されたが、天皇という陰の特異点とその中心なき日本軍国主義は、天皇免責でもってその戦争責任という概念は宙吊りとなった。天皇免責によって戦勝国史観は破綻しているのである。繰り返すと、日の本で戦争責任者というのがもし存在するとしたら天皇のみである。そうでないならば一億総懺悔である。しかし、戦勝国側も調べたのだろうが、先の戦争で、その推進に当たって最終的には玉璽の詔書を形式的に天皇が出してはいるが、何かしら天皇自身が強烈な意志でもって戦争した、という形跡がないのだろう。それは結局、目まぐるしく変わった首相にしても同じである。その時々で決定的な方針や法律が出されているがそれがその当時の首相の強烈なる意志の発現、というよりかは、何か分からぬ、それこそ雲を掴むような、周囲の、あるいは無責任な下位の者らが何となくせり上げる雰囲気の熱気に気圧されての事であって、首相が強烈な意志で以って状況を切り開くために方針を決定したというよりも、その時々の決定の時点に、歴代の首相らがたまたま「居合わせた」、まるで道祖神のように、という解釈が正しいと思う。「おれがこうあるべきだと思うからこうすべきだ」と言い張った、政治的形式上責任ある上層部は一人も居ない。戦時中の、無責任な連中の野次紛いの雰囲気作り、経済恐慌や冷害飢饉といった外的状況から導出される理屈ごときに己を委ねて自分の意志を樹立しない雰囲気作りが大局を形成するこの大いなる無責任の体系こそが天皇制という中世からの遺制によって「象徴」されることで暗に機能していたのであった。戦後の象徴天皇制は、戦時中から何も変わらぬ戦後の遺制への、薄気味悪く極めて鋭い皮肉でもあった。これを戦勝国が意図してのことだったらむしろ天晴れである。案外、GHQも白洲次郎なんかも戦後の天皇象徴制の皮肉を自嘲的に分かっていたのかもしれない。昔の人はそういう肝要を丹田できちんと分かっていたと思う。天皇制についていえば、戦後の象徴天皇制は戦時の帝国憲法の運用実態をより正確に記述し、継承したものともいえよう。日本人のこうした深層での了解が戦勝国による天皇免責によってますます無意識に護持されることとなった。(そういえば昔、吉本隆明を読んでいてしきりに彼が遺制という言葉を使っていて全然意味が分からなかったが、今、自力でその意味が分かった、やっと到達した。)以上のような無責任五里霧中体系の日本人が自ら天皇の責任を抽出し明確にする思想が大勢になりえない。あるいは、戦後湧出した一億総懺悔は戦争責任論に加えて、戦時体制の把握という観点からも正しかった。しかし、正しすぎた。正しすぎて、結局何にも決意したことにはならなかった。戦後になっても戦時の同語反復しか出来ぬことを表明した大いなる無為であった。それは現在も続いている。戦勝国史観が成立しえたのは「マイン・カンプ(我が闘争)」と、専ら己の意志を強烈に示した独裁者の存在ゆえである。
そして、靖国である。戦勝国認定のA級戦犯が合祀された靖国神社への、日本政府首脳の参拝を非難するは全く的を射ていない。前述のようにそもそも日本への戦勝国史観自体が日本の実態からしたら荒唐無稽な虚構の、ほとんど意味不明な理屈の押し付けに過ぎず、そのことを、国民国家に対して超越的にずば抜けた精神を持ったコスモポリタンならいざ知らず、民族文化の文脈で生きている日本の民草ならば知っており、かような戦勝国史観への棘のような違和感はどこまでも拭いきれないだろう。本来あるべき戦勝国史観の最もシンプルな形は天皇有罪であった。それをしなかったのはその場しのぎ的な遠慮ではないだろう。戦勝国が日本人の古層を読み解くにつれ天皇制という逆鱗に気づき、ここを犯して戦後処理を荒立てるのは面倒だという恐れと配慮があったのか、天皇制は犯さずに、トカゲの尻尾切りで本質的ではないが形式的にA級戦犯指定で事を納めるのは日本人への配慮と寛大なる赦しであるという戦勝国側の日本人への表明ともとれる。戦勝国による、そうした物語の提示だと日本人が頭で受けとれたとしても、身に付いていないから、如何せん天皇制という大きい流れで生きる日本人は分かっちゃいるけど止められない天皇制だからついつい分別せず参るわけである。また、上記のように物語が提示されたというふうに括弧にくくって虚構を取り扱うほど気が利かなかった多くの日本人は、戦勝国が措定した官僚風情の村一番の秀才出のA級戦犯なんぞに戦争責任が所在するなどとは、全く思わないまでいかなくても、結局の処、確信が持てないのである。「全く思わないまでいかなくても」というのが前述した無責任体系のミソである。少なくとも小生は、戦勝国史観が提示した物語を全く拒否するものである。それでもあえて戦勝国史観が国民の代表としての責任者を追及するならば天皇こそがそれである。しかし天皇は戦勝国史観でさえも免罪されているではないか。天皇制を非難しないならばA級戦犯の靖国合祀とそれへの参拝は許されているといってもいい。参拝を非難する前に、日本人が天皇制を引きずることは戦時の反省がないからだと非難するのは正しい。しかし、かたや天皇制については全く不問に付しながらも、天皇制の五里霧中にただ翻弄されながら天皇制の主役を演じ、天皇制の護持に努めたA級戦犯を非難するのは筋違いというもので、了解したい論理が無茶苦茶に破綻している。戦勝国から押し付けられるかような矛盾に引き裂かれた居心地の悪さに業を煮やした日本人の一部が短絡的なナショナリズムに走るのはまだましだが、かような矛盾に引き裂かれるのを先んじて恐れるあまり、あるいは、単なる歴史へのあっけらかんとした無知によって助長される隷属性によって(これも無責任体系の流儀の一つだが)、分かりやすい方に、即ち、天皇制を都合よく捨象した単軸の戦勝国史観におもねて保身に走るのである。物をよく見ない、読まない、聴かない、己を脅かす芸能や思想を殊更に忌避して、戦勝国側に裏では馬鹿にされながらもそれへの隷属を誓っている情けない状況にも気づかないのが如実なのが春香クリスティーン発言である。(これも結局天皇制=無責任体系の流儀の一つだが)いろんな事情による釦の掛け違いがもどかしさを募らせて相互不信を生み出す。天皇免罪による国体護持を許してやったのだからせめてA級戦犯の刑死を敬うようなまねはやめろなどと戦勝国と、その利に便乗すること抜け目ない中韓がいうのであれば単に恩着せがましいというものであり、戦時の体制の本質を見誤る誤謬へと誘うことで戦後の状況をより複雑化させた戦勝国史観に従属する必要はない。国民から戦争責任者を抽出して断罪するという戦勝国史観のコンセプトは極東軍事裁判においては天皇制を捨象したことによって破綻している。従って内的に壊れている戦勝国史観にこれ以上拘泥する必要もなく従属、受容する必要も無い。あえてこの言葉を使うが英霊はA級戦犯ごときのために戦死したのではない、あくまでも名目は天皇の名の下に戦死したのである。この空っぽの名目があくまでも実質として機能したのが天皇制全体主義なのである。
それに加えて、冒頭に示した祈りへの切実が、A級戦犯とその他英霊との分別などという俗事を超越した全的な祈りになってこその誠実に傾く。戦争の全相を一身に受け止めるこの祈りの観点からは、形式的戦争指導者と軍人軍属、銃後を区別して祈るなどは小賢しい欺瞞でしかない。かような祈りにおいては、たとえば戦争への否定も肯定も無効になる。死者は生者に死というものを身を以て教えるという一点において尊ばれるのであって、この死者への儀礼は生前の所業によって軽んじられることは祈りの切実からいって原則あり得ない。早急な口吻だと思うが、死んでしまえばそれで終わりという日本の死生観と、敵の墓を掘り返して晒してまで死者を辱めることも辞さない中韓の文化との違い、といってしまえばあまりに俗耳に心地好いのだろう。
更に、中韓がいまだに、現在の日本人にまで加害者意識に発する謝罪とへりくだりによる自己卑下を要求するのであれば、これはあくまでも小生個人の立場だが、人間の尊厳に立脚して拒否する。戦後生まれた小生は当然加害者でもなんでもない。ただ日本人に生まれただけという、己の責任に帰せられない、出身、民族、門地などの理由による隷従と差別は、個人としての人間の尊厳の一言で以って、近代国家であるならば否定できるだけである。「千年経っても日本人の罪は消えない」などという現在の韓国大統領の公言は、国連憲章でも謳われている個人の尊厳をないがしろにし、一人の人間の罪が一族郎党子々孫々まで伝播継承されると考える近代以前の封建制をいまだに声高に宣言している時代錯誤に過ぎない愚かな無恥である。
と、ここで、ここまで窮屈に嵩張りながら進んできながら一つの矛盾に撞着するのに気づいてしまう。中韓の今日の施政を担う者らが受けた反日教育は、自国が一方的に日本軍に攻められ占領と支配を受ける被害者意識の中で、日本軍の兵站見通しの甘さを挽回する現地調達と反日ゲリラへの怯えによって促進される綱紀紊乱の蛮行をつぶさに、それこそ切実に記録し、後から生まれた者に授け、後から生まれた者はその情報と理屈を己のものとして切実に受肉し、己の感情にまで見事に誠実に昇華せしめた可能性がある。それならば、昨今の中韓の、執拗な反日政治は、国家間で締結した条約を無視する無軌道非礼なる反日政策は、冒頭に記した、戦死した皇軍兵士への祈りと同じく、正当化されてしかるべき、となる。冒頭示した祈りの切実も被害者意識に発するのかもしれないが、被害者意識は切実に継承されるが加害者意識は継承されないという都合のいい人間感情の組み方にも、この靖国問題の源泉があるのだろう。今回はこのへんで一旦しめて、日を改めて靖国問題に再挑戦すべきか。かなりきつい。
「burnsubvertdestroy/burn(2007)asr006」
己の底無しの、機に応じて敏なる、日和見の、浸食性の怠惰が恐ろしい。土日などゆっくり休んでいる暇なぞ本来抹殺すべき状況であるにも関わらず…底無しの言い訳に付け入っては怠ける、要するに布団に入って惰眠するに、そしてやおら、己を試す処、世に問う処皆無なこのような駄文に限られた人生を蚕食されるを許す…いっそ血反吐吐きたくなる憎悪が…ともすれば安穏に錆びついておもねがちな己の意識の地金を削って魂という鋼を研ぎ出す天然の砥石としてロックという音楽視聴は日々欠かせない、とりわけ車中での誰にも邪魔されぬ切っ先集中の研ぎ出しは…これもどこぞのハードコア屋さんでお助けしたどこの馬の骨とも知れぬバンドさんのアルバム…メタルの構築色は薄く、ハードロックの変異勃発として徒に激しいハードコアの自爆する地雷音の、荒野を暴彷徨する野趣溢れるが順調な速度も保って…と、ここで、脚が痺れた…負の世界遺産「朝鮮民主義人民共和国~共産主義体制による経済的困窮の極限状態を今に伝える世襲独裁体制~」としてユネスコに登録される妄想していたら、糞忌忌しい、怒り狂って胸骨ぶち抜いて己の心臓掴みだしたその拳で以て殴りつけたい程の我を忘れた怒りに駆られてしまうあのテレビ番組の宣伝を知って…今夜6:56から「集団行動2時間スペシャル」…「日本体育大学『集団行動』。一糸乱れぬ行進で観客を魅了する究極の行進パフォーマンス。72歳の名監督と73人の男女学生が挑んだ171日間の汗と涙の日々に完全密着!」自分が王蟲なら単騎でこの集団行動に突っ込んで滅ぼしてやりたい程吾を忘れるほど猛る憤怒が…全く北朝鮮のマスゲームを笑えない事実がこの国の内実であることを知らしめる…まだ往年のファシスト、ナチ、在郷軍人隣組の方がましに思えるほどの、現代の気違いども…何に小生が怒り狂っているか、いちいち言わなくても分かるだろう…最早己が奴隷である事すら意識できなくなった、完成された奴隷とその所作自慢の画一…その完璧を寧ろ皆が尊崇の念で感心したりする無垢で無欠な奴隷制の伝播の平和なおぞましさ…結局、理屈じゃない、奴隷に何言ってもそれで満足しているのだから何言っても無駄、という存念に襲われるがこれは先述の怠惰に通ずるのだろう、まだ、奴隷どもに、そこまでの言葉を懸命に尽くしていないのではないか、と…とはいえ、奴隷の奴隷としての完成を見てしまっては、もう、その奴隷を人として愛せないゆえに、言葉を尽くそうとする努力が先立って、くったりと、失墜してしまう…親愛なる者らは思弁を尽くさなくても分かってもらえるのだろうが、親愛ならざる憎悪の対象者は、自分にとってどうでもよい存在であるから思弁を訴えようにもその思弁のやる気の根っこが失墜する…この矛盾、この陥穽からどうすれば解脱できるか…それにかかっているのか、先週の心のボヤ、靖国問題だってそうだ、糞忌忌しい胸糞悪さに苦しく疼きながらも、対象への愛が抹殺されたがゆえに、言葉をふんだんに織り上げて捧げようにもやる気が失脚してしまい、しかしやる気が失脚していようともまさにやり場の無くなった憤懣が、言語化して捨てる事が中止となった半端事のせいもあって、懊悩として溜まる一方、苦しくて苦しいから解消のために一刻も早く捌け口(=言葉)に吐き出すべきだろうが、苦しすぎてわなわなと思索が震え、徒にむしゃくしゃした動悸と怒気が堪え切れぬ。落ち着きたい、せめて、鹿の角に懸架した抜き身の刀身のように…いまは、柄も鍔を捨て去ってさらしで両腕に括り付けた抜き身の日本刀をぶん回しながら往来を独楽のように暴れている風情、満腹の雀を枯草の土手に転がして遊びたい。鑑定団。司会の今田氏とアシスタントの吉田さんが結婚、仲人は石坂浩二、という目出度い妄想を幻視する。先週土曜日の鑑定団はキツメだった、二本立て再放送だったが、昼の一時から二時までは通常の再放送、しかし二時から五時までが放送?千回記念の三時間スペシャルの再放送で計四時間の視聴を強いられた。昼食後の眠気に耐えながらもあって血反吐が出そうな苦しみと充実と退廃感覚に蝕まれ…また脚が痺れた、筋の通った言説の披露にすっかり情熱を失ってしまった故、やりかけのハードロック論その他も頓挫、いい加減な妄想と感想で希少なる刹那の茶を濁すのだが、靖国イシューも…少し時間が経ってしまえば怒りも萎え、ならば落ち着いたから書けるかと言えば殴り書きの覚書を読み返すと途端に詰まらなく、今更な、ありふれた訴えにも腑に落ちて、やる気が失墜すれど、憤懣の熾火は消えずの火のようにちょろちょろと灰から舌を出す始末…、この鬱屈が溜まりに溜まった処で何が噴出するかに賭けるしかないのか。創世記を読めば分かるが家畜は人間よりも先に生まれている。サザエさんが終わって、怖いもの見たさでちら見してしまった、集団行動が始まった。吐き気がしてすぐチャンネルを変える。まだるっこしい子役時代をさっさと切り上げてくれたので大河の官兵衛は楽しみにしているが、近代的なヒューマニズムの生ぬるい甘ったるさで戦国時代を汚してほしくないものだ。靖国イシュ―に関して取りあえず、鬱屈を溜めさせてください…申し訳ない…
「malkovich/the foundation rocks(?)lkw062」
年が明けたら桜が恋しいこの季節。酒の牙が肝臓をごっそり半分ほど食い千切ったが如き体への損傷が重い。年頭から時間がない。故あって一時間で書き上げなければならないから言葉を選ぶ時間がない。最早いつとはいえぬ遠い過去にハードコア屋さんで入手したマルコヴィッチというバンドの音…デスメタル…差し出された餌肉をすっぱり切り裂く牙の群れがゴシックの柱廊の音像を確かに幻視させる構築がくっきりした構造の音ながら凶暴にたたみ掛けられるデス声は天蓋遥かなるゴシック内陣の奥底に埋葬された剛毅なる暖炉で燃え続ける炎が…カタコンベを装飾する無数の人骨が無造作にオブジェ化された呪の殺伐、その、暖炉に一見納まって見える炎に、冷え切った手足を温めようと無用心にかざそうものならすぐさま手足が無残に食い千切られる凶悪がまさしく救い難い…寝苦しい、胸底からどうにも沸々と煮え滾る熱い怒気と憎悪の感情に苛まれて苦しい夜を過ごさざるを得なかったのは春香クリスティーンの、結局は彼女が欧米での論調を代弁するという形であったとしても春香クリスティーンのある種能天気な発言に、苦しんだのであった…「安倍総理が靖国参拝するのはドイツの首相がヒトラーの墓参りするのと同じですよね」つまり戦勝国史観…かつて太宰が、川端康成から意味不明なこき下ろしを受けて「寝苦しい夜だった。刺す。そう思った。」という御し難い感情が、春香クリスティーンに向けて鋭利に、思ったのであったから、苦しかったし、今も苦しいのであった…靖国問題…春香クリスティーン…きれいな、とっぽい顔して、何にも分かっていないんだろう…白人とのハーフだからとかではなく最早昨今の戦後世代の大半であっても、何にも分かっていない、この、恐らく若年層の大勢に蔓延する痴愚と隷従、犬ぶりが…あと23分で書けるか…煎じ詰めれば天皇制というのを全く分かっていないのだ…そして天皇制は、いわゆる戦勝国史観から隔絶している…どこから論ずるべきか…、もう…時間がない…もっと詳述したいが、糞、落ち着かない…この問題は、言葉のきれっぱしをハイエナのようについばんではぶつけ合う、小生が思うところの「情報の荒み」を如何に超克するかにかかっているが、そんな事ができたためしは歴史上、ない、理路整然と人間の尊厳に立脚して参拝の義を樹立することは出来るのであるが…そうした理や義が通ったことがあるのだろうか、旧戦勝国や中韓の既得権益である戦勝国史観を覆すのは、宗教裁判にかけられたガリレオの立場と同じ困難と絶望が立ちはだかるだろう…だからこんなに苦しいのだ、小生がいくら義と理の言説を打ち立てようとも、物をきちんと見ない、言葉をきちんと聞かない、読まない、非人間的な現実をとらえることを駄々こねて拒否する、他者を踏み台にした利権が曇らせる蒙昧なる雰囲気づくりの集団的傾斜の、浅い浅い条件反射的反応がその全ての行動様式におさまる雰囲気作りはその作りの主体に不利益が生じない限りはいつまでもどこまでもその雰囲気を濃くする努力に傾けられる…この絶望状況を先取りしてしまうから寝苦しい絶望に苛まれる…くっそ、もう、時間がないから、後日、もっとつまびらかにしよう…題して「靖国考」
覚書
意志とは目的の無い欲望である。
欲望とは目的に統帥された意志である。
およそ歴史と社会は人間の意志と欲望のばら撒きである。
自然の偶然性は既に意志と欲望の中に内発的に組み込まれている。
「輩‐yakara-/砂上の思想(2007)to-001」
実は緊急告知として12月24日(火)にも記事を公開していたので未読の御方は先にそちらを通覧いただきたい。もう手遅れの可能性が高いけれども…。
妻帯以来車内でしか音楽を聴けない境遇なので運転しながらこの音楽を聴いていると2、3曲目で助手席から細君が泣き叫ばん限りに「もうやめて、お願い」と言うてくるから結局2、3曲しか聴いていない。資本主義というものは主義でもイデオロギーでも何でもない、人間が意志を樹立した独立の営為ではない、要するにただの惰性だ、しきりに無意識に隷従されたがる人間の社会化=奴隷化された本能あるいは欲望に過ぎない、社会化された食欲、社会化された睡眠欲、社会化された性欲、といった類である。歴史上、人間が意志を樹立した成果としての経済態とはコミュニズムのみであった。だからどうだということを書くと長くなるのでここでは割愛するが昨今は労働者あるいは労働組合というものの存在を無かった事にしようとする権勢がどぎついほど強圧的で下劣だ。ブラック企業の見分け方と称して新卒向けに企業の表層的な特徴ばかりあげつらっているメディアが殆どであるが労組の有無を指摘するマスメディアが皆無というのは胸糞悪いぐらい奇怪だ。ブラック企業かどうかは基本的に労働組合の有無で判然するという歴史上明々白々なる事実をこれ見よがしに隠蔽し労組の存在を無かった事にする資本への追従が最早、おぞましいほどになってきた。労働組合というのはそもそも資本の論理によって必然的に劣悪化する労働条件を、体制内の反体制組織としての労組が団体交渉や争議を武器に改善を進めるのであるから…労組の無い企業がブラック企業になるのは必然である。この程度の問題意識すらも痴愚扱いで払拭される歴史の後退を目の当たりにするのももううんざりだ…スズキの新車、ハスラーっていう車、かっこいいなあ。ダイハツのコペンもいい車だった、街中でコペンに出逢うと縁起がいい、と思っている。鍋のシメ、という言い草にクっと怒りの鋼が研ぎ出されたので年末気分も汚れた憎悪で早速台無しの捨て鉢なので今年最後なれどやっつけ仕事で手短めに済ます。鍋のシメにうどんやパスタ、ラーメンを入れる、といった工夫が、不意にボッとケチの火がついてちまちまと我慢ならぬ…オコゲ信仰にも当り散らすここだけの憎しみが…輩、というバンド、ゴミのように投げ遣りなネーミングが乙、ハードコア屋で昔お助けした代物…カッターナイフの替えの刃がばらばらっと無造作にぶちまけられる鋭利と臓腑に打ち込まれる凶悪な肉圧の爆音と腐乱に声を嗄らす絶叫で塗り込める待った無しの圧密時間、スマートな高速鉄道の横腹を蹴散らして雑多な生活を細大漏らさず巻き込むささくれと剛圧が、もしも侮辱されたらすぐさま直接的な暴力が反撃という意味付け諸共に限定的に殺戮する一過性の、ただ耳を駄目にするのを目的として五月蠅かった、という刹那の記憶が脳幹に刺された針のように残るも、空しい。鼬鮫…年末のスペシャル番組…巨大人喰い鮫を捕獲するために海に仕掛けられたハエ縄の目印の浮標に立てられた旗が、奇しくも、黒旗だった…。何が欲しいのかずっと思い出せないでいたが思い出した、ミラーボールだ。唐突に、暗愚堂、という俳号の御方を幻視する。頭にぐんぐん血が上って両の耳たぶが熱い。いたずらに濃縮される怒気と憎悪が結局よくありがちなネット特有の露悪趣味へと下世話に傾斜する例に漏れぬ事で衆愚と大愚が渾然となった底辺へと至るのか。駆け足でここでぺヤング論。ぺヤングの焼きそばを好むが、あ、もう、書けなくなった…テーラーにツイードを仕立ててもらいたいものだ。ネルヴァルの幻視者を読むと…鏡が心底恐ろしくなる。どぎつい物騒がロックの醍醐味である。
gt:tetsu
vo:iga
dr:nara
ba:tommy
「梁塵の間にまに」
「back from the grave volume three/raw' n ' crude mid-60's garage punk!」
眼が痒い…前髪が眼球面にちらちらいがり入ってきて痛ませるこの執拗…部位の名が分からぬが目の端の眉間側の睫毛をつまんで引っ張って抜ける睫毛は抜けるに任せ、睫毛を引っ張ることで浮き上がる目蓋と眼球との隙間に冷気を入れてやる事で眼球の充血の熱を逃がそうとする…食いっぱぐれそうになって嫌々ながら入ったしゃれ乙のロコモコ屋で冷やを飲むと…予め過敏に腫れた鼻腔内膜に、冷水を飲むことで冷気が流入するのが刺激になって、モリアオガエルの卵のような鼻水が止まらなくなる苦しみに襲われた。日の出と午前11時の、日に二回しか日が入らぬ部屋の、窓ガラスの結露をなめ続けて黒黴が増殖中のレースカーテンに洗濯物の影が…今週のリーガル・ハイ…法廷での古美門研介の民主主義批判演説に小生…泣いた。最強の多数弱者の安楽死=現状肯定を保証する民主的制度に包囲された四面楚歌のぎりぎりで奮発される不都合な事実の提唱…いつでも独裁=全体主義の崖下に転げ落ちる狭い尾根をいくしかない言説の妙を古美門が炸裂…新しい論点ではないともいえるのであるが…民主主義運用の質は人間の質と同じく古代ギリシャからなんら変わっていない現状であれば…物事の真理という他者的絶対(かつての、科学性)と、それを経験する人間による内輪の相対化の理屈である多数決民意との相克…そんな論争はギリシャのポリス社会で既に諤々であったし、責任を負える格を持つ有能な人が、隙に付け入ること口さがない無責任な無能連中にこき下ろされる民主劇が古代ギリシャ~ローマで腐るほど演じられたのを、此度の猪瀬知事の件でも想起せられる。ソフィスト必須の弁論術が昨今のビジネスブルジョア子弟がスマートにこなすプレゼンテーションとやらへお色直し、何となれば紀元前、スパルタとアテネとのぺロポンネソス戦争はそのまま第二次世界大戦のひな型といえよう。中央集権的農本的陸軍国家スパルタと自由主義的商業海軍国家アテネとの覇権争いは枢軸国と連合国への対応を思わせる。云わずもがなであるがちなみに勝敗の結果は第二次大戦とは逆であり、いろいろあって、寡頭政権のスパルタが急進民主制アテネを打ち負かす。かような歴史の本を読んでいるが、読んでいると頭が悪くなる気もする…出来事の羅列を何にも考えなくともどんどん理解できて読み進められるから知識がついた収穫感という錯覚がある。通常の読書は、たとえばその理解というものの造作なり基底なり習慣なりを覆すものだから要するに理解が破壊されながら理解せねばならぬ苦しい困難が伴う、これが読書であるがよくある歴史本はそんな心配がないから楽ちんだ、読めば読むほど頭が悪くなる気がする、心の老いた人が歴史本好きになる安全安心への堕落に思いを致す。年の瀬通り越してもう新年気分、心の中で…停滞する内心、うちほどけた事態、取り返しのつかぬ鬼心、べったり開いた平たい大愚の心持が…一切のやる気を抹消…人間の意志を頑迷に許さぬとち狂った生産=家族制度とその手先の国家からの追手が忍び寄るのをすこぶる妄想する妄想の影が暗い部屋の中で濃く増殖する週末…年の瀬、何をしたわけでもなくもう追手を返り討ちする気力はない、綱渡り生活…影と云えば…たまたま遭遇した夕暮れの水戸黄門…ドラクロワかレンブラントを髣髴する脂ぎった光と影の劇的輪郭が、何とも薄汚い、否、濃汚くて…そのワンカットだけでペラいNHK大河ドラマを一蹴するキツめの荒い誠実画質であって諸国漫遊する黄門様一行の人員がどんどん増えているのも福福しくて面白い。一代ながら手仕事せぬ甘い階級だったため軟弱を恥じ入るばかり、印刀を押す親指の爪が割れるダメージが…割れの広がりを防ぐため割れてない深さまで生爪を切ると、印刀を押すと指先が痛む軟弱な事態に辟易しつつ固くタフな丈夫な爪が伸びるのを待つじれったさ、ばんそうこうや凧糸もクッションにならず…なんとかなるとはいえ集中が難しい…メガショッピングモールのイオンだかのテーマソングに起用されたのかドリカムの歌が影を駆逐するモールの中で間断なく響き渡り繰り返され耳について頭がおかしくなりそうだ…歌詞はよく聞き取れぬが…恐らく…「どんどんうまくいく、これからますますよくなる、なにもかもうまくいく、すごくよくなる、なにもかもこれからも、ぜったいによくなる」といった内容に相違なくて、且つ、ボーカル女声が圧搾する奥行の無い繊維質の声のかすれにおしゃれな伸びを感じさせる無理やりな出来具合に気が狂いそうになるがいそいそとそこで買い物してしまう己の怠惰の従順への疑念も商品へとプリントされて廃棄される一切の無事へと加工されるに及んで、目先の便利に額づく…そのモールの焼き鳥はきちんと炭火で焼きながら醤油ベースのタレつけながらで香ばしくうまいから…焼き鳥はもう、タレでいいと思う、塩もいいのは舌では分かるが、何とも説明つかないがもう倫理的にはタレでいい。焼き鳥に塩という選択肢はもう、要らない。
また墓場からの帰還、ただし第三弾だ。過去に第一弾、第二弾と紹介したが第三弾、結局感想はこれまでと変わらない。出来はいい。ここでいう出来というのは荒みの心度合であり、小生が聴いた中であえて順番をつけると、荒み←第一弾>第三弾>第二弾>第四弾→おもねり、となる。事後の慰めの音楽ではない、耕作どころじゃない火薬の荒野に落雷した時、雲を落盤させる火柱の度胆の地団駄の今である。爪を数時間おきに確認してもなかなか伸びない。忘れたころに爪は伸びるのか。いずれにせよまだ月曜日は軽く憂鬱だ。ガス性の便秘を解消しようと小生にとっての特効薬のヨーグルトを夜に摂取すると夜中の3時ごろまで激苦痛の腹痛が…腹がねじ切れる、生汗だらだら、厠で震えながらおもわずいきり上げているとついに出てきたのが霧笛のように長い放屁、そしてどこかの火山島の鬼押谷というのか鹿の糞の如きごつごつころころした乾きもので、これらが出口をふさいでいたのであるが、雪隠と布団との難儀な往復の後、軟便への推移を感ずると今度は大腸一式を便器に提出せんがごとき勢いの怒涛の下痢でげっそりとなったのが先週のこと、磐梯山型のガス爆発、富士山型の軟便土石流、キラウエア火山型の下痢溶岩流がいっしょくたにやってきたのだ、一つの腹の中で…そして、今、また、例の便秘に…そして、冷蔵庫には、この便秘を良くも悪くも解消してくれる唯一の処方、ヨーグルトがある…また、今宵、あの苦しみが繰り返されるのか。家の中が廉価なトップバリュー商品ばかりに浸食される言い知れぬ感覚の有無で、君が人間かどうか試される時代になってきた。空腹と腹痛の区別がつかぬ休日のひもじさが、新生コタツの温もりから出られぬ事で助長される。
生活反歌(たんか)を一首、
骨にしむ氷雨黒猫家灯りシメジへし折る今日の炒めに
近所に住まう菊花趣味の独隠居、初霜のあたりにあわせじとて花じまいいたす処を一句、
厚物の房ごと落とす翁の譜
「david bowie/heroes(1977)tocp-65315」
まず腹が立ったのはこのアルバムのCD付録の解説のどこにもこのアルバムの発表年月日が記載されていない事であり、隈なく文字を虱潰しした挙句蟻の頭の半分ほどの大きさの文字で辛うじて西暦が記されており、やけっぱちになって己の心臓を掴みだしてこのアルバム生産の責任者に命を賭して叩き付けたい毛羽だった怒りがまだ呼吸が荒い。鼻水が止まらないせいもあるのかもしれない、脳みそが熱い鼻水に置換せられたが如く、何にも考えられないし、この即物的で瞬発的なイラつきは…風邪ではないと思っている、冷たい空気が過敏な鼻腔を撫でたからだと信じてやまぬ、肥溜めに沈む鬼瓦のような情けない怒気がまだ火を噴く。もう、彼が演ずる半沢と古美門の彼方に織部を強烈に幻視している…いまだ実現ならぬ切望が凶悪な強請へと、いたたまれぬ。来年と再来年は官兵衛と吉田松陰の妹だから、三年後の大河ドラマではへうげものが実写化されるのだろう、この計画はもう水面下で進んでいるといえよう…思えばへうげもののアニメは低劣な出来であった…ただ単に原作の漫画をアニメに起こしただけ、というやさられ仕事感が否めず、アニメならアニメとしての独立した創意工夫が全く惹起されていぬ…かような創作の意志の必然性はそれこそ原作を己のものとして理解し尽くしておれば自ずと醸成されるものを…それに対して赤毛のアンと、これをアニメに仕立てた名作劇場の赤毛のアン(高畑勲 監督)との関係では、アニメでの創意が原作を契機によく奮発されてアニメもアニメとして楽しめる佳作なのであった…オープニングの歌の作曲が現代音楽畑の三善晃、繰り出される発想を次次巻き込むふくよかなその楽想は従来の子供向けアニメのレベルを遥かに超えて豊穣極まりない楽曲なのである。ベニシアの暮らし上手ぶり、ナチュラル過ぎだろーとどす黒く突っ込みたくなる。鬱屈した藪睨みでベニシアのナチュラルな暮らしぶりを呪うように愛好する…細君がフィギュアスケート好きだから小生は嫌々ながら視聴するのだが…女子のコスチュームの、大きく開いた胸元や背中を隠す肌色の肉襦袢とその不自然な皺みたいなのがどうにも目に余るほど無粋である…演技後半の楽曲のノリやすいところに付け入る、そういう種類の自堕落な依存性が発露して演技を台無しにする観客のダサい手拍子にも我慢ならぬ。この一週間、死にそうなほど充実した生活をしている。この一週間でこれまでの一年過ごした程の危険極まりない充実ぶり…あまりに個人的に充実している故に、他人のそういうのに敏感な奴隷=国家=官憲から目ざとく感づかれて、逆恨みの摘発を受けるんじゃないか、小生のこの充実ぶりをいぎたなく妬む奴隷階級が小生の自由を奪うべく官憲を差し向ける、あるいは懲罰の意味も込めて赤紙を送りつける、あるいは充実させないように生活を破綻させるべくピンポイントで重い租税を課してくる…そんな恐怖も現実味を帯びてくる…まっさらな地獄に括目した小生であってさえも…もう、充実しすぎて声を失いそうになっている。発声能力から出家しつつある…それを引き止めんがため細君と辛うじて言葉を出すが、声が空気に溶けて波立たず、掠れ、声が空振りするのにも慣れっこ。こんな生活が長続きするはずがない。一週間で一年ぶんの充実だから早死にするとも思われる。
デヴィッド・暴威(ボウイ)とかギリシャ哲学者列伝(ディオゲネス・ラエルテイオス著)とかと遭遇すると、民主制の欺瞞へのあきれを通り越して封建制を指摘する以前に封建制の不徹底にまで思いを致し、ついには奴隷制こそが人間社会のあるべき姿、真実の姿のようにも執念する…結局人間は、他人や制度や社会や生産や文脈や空気の言いなりに無意識になる生まれながらの奴隷性格=奴隷階級と、己の意志で以て文脈の有無に関せず創作する魂の創造者の二種に収斂されるのであれば…承認と物語に餌付けされ支配されたがる奴隷に権利を与えても行使する意志を持ちやしないので奴隷は奴隷らしく創造者の身の回りの奉仕に徹すべし、そして一切の承認を蹴散らす創造者はひたすらに天衣無縫に創作に励む…そんな事を度を越して納まり処を喪失したヤケクソが心する…インダストリー(産=業)とキャピタル(資本)の只中で、共同体への帰属呪縛を商品の消費が宥めすかす卑しさが勃興した19世紀末への郷愁が現状認識にもなる悪ふざけが一切切断せられたこの音は…退廃とか豪奢でもいいが…金が溶ける、金が錆びる。岩と鉄の巨塊の地滑りが声になって一切を押し流す怒涛の中での而立の詩…独断たる創作者としてのボウイ…まあ、いろんな人の協力もあるのだろうがそんなことはどうでもよい…ボウイはボウイだ。他は奴隷、その冷酷、その腐敗の美を垂れ流す…そんな超封建的音楽が…サイケの資質を脱退したパンクに対して階級闘争の無為を断罪する?
意志はなにものにも所有されない。私にも人にも神にも自然にも意志は所有されない。私の意志、など無い。
david bowie:vocals, keyboards, guitar, saxophone
carlos alomar:rhythm guitar
dennis davis:percussion
george davis:electric bass
brian eno:synthesizers keyboards, guitar treatments
robert fripp:lead guitar
daid bowie, tony visconti, antonia maass:backing vocals
件の、三善晃も今年亡くなった。ネルソン・マンデラも亡くなった。黙祷…
「primus/frizzle fry(2002)psr 0004-2」
貧相にべたつくクサクサ感は日向の残雪のようにすいすい氷解したとはっきり言えやしないクサクサ感の変態は否めないにしても物忘れのように一呼吸置いた感あり、思えばさながらいかついばかりであった殺伐なるイラつきも足の踏み場をなくしてきょとんと滑落するぞっとする恐怖へとすげ替わる事に及んで、常に冷たい底辺とのつま先立ちではあった怒気の振幅性活発から、さらに腹這いになって底辺を彷徨う呆けの怖気立ちへと遷移しつつある…そして頭の悪い弱者をぶん殴りたい邪も生ずる、人間だから、という保留無しで。なけなしの、本当に何にも依拠できぬ真空へと投げ出され、あるのは己の、こわれものの信念のみ、社会的承認はおろか神学的価値すらも期待できぬ荒唐無稽に投企する虫唾の走りが深刻と底抜けの呆けとのあられもないだらしなさへと至り、処構わず当り散らす怒気の後ろ盾なぞ木っ端みじんになる前に無化せられ…熟れ過ぎた柿が線香花火の末期の姿、薄皮一枚下は繊維が溶けてどろどろに、ぼうっと火照るようにしてぱんぱんに充満して透光している…皮を剥こうと包丁を入れるとぐちゃぐちゃにぶしゅっとなるから手が付けられず、持て余す。異種の手の付けられなさ、従わなさ、扱い辛さ感が尖るふなっしーの歌がやはり、ちゃんと聞くと、きちんとロックという音楽の出方が分かっているハードロックであった。もうたいていの感情はなし崩しに骨抜きにされる麻痺に襲われているが…それでもくっといきり立ったのはある古本屋での事…ベンヤミンのパサージュ論の全集の一巻をつまみ読みしていると続きが読みたくなったので、全五巻揃っているのを小生が知っている古本屋に行って、別の巻を一冊レジに持っていくと店主が、これは揃いで買ってもらわないと売るわけにはいかぬと頑なな事をいう。特に五冊まとめて紐でくくってあったわけでもないのに客に恥をかかすとは…機転が利かぬ愚鈍ゆえその時はそうですかとすごすご店を出たがよく考えるといかがわしい義憤と綯い交ぜになった異議が頭をもたげ…ベンヤミンという人は形式的には論文の形をしたものも書いているが(その内実はまさにアカデミックへの暴力的な書きぶりだが)寧ろ全体性への奉仕を批判し些細な咄嗟な社会的形象をスパークさせる断章、断片、メモランダムでの稲妻=認識こそ本領であろう…それを全巻まとめて買わないと駄目などというのは…ベンヤミンの思想を分かって売っているのか、そんな売り方がともすれば本屋としての矜持を堕落させる可能性を自覚しているのか、いや、しかし…パリでの渾身のパサージュ論執筆に没頭するあまりぎりぎりまでパリに滞在したがためナチス侵攻から免れるに遅きに失し、山脈を超える途中でゲシュタポの影が伸びるのを察し、ゲシュタポに捕まるを潔しとせず自裁したこの20世紀を貫く思想家の残した草稿の散逸を何とか防ごうとしたバタイユやアドルノやその他多くの人々の尽力を思えばこそ、全巻まとめて買うのが正しいのか…異議を吹っかけようと一瞬憤ったが結局、萎えて、翌日、おめおめと全巻まとめ買い…いい本があるこの古本屋と事を荒立てる勇気もなく…剥き出しの爬虫類が革靴の底で踏みつけられ内臓がはみ出ながら終わらない断末魔あるいは呪的読経を歌う…切れ上がって狂ったような精確のリズムが呪的祭りを決して終わらせない…生産体制との相克が野生でもあった、体制との雑種ながらも親族=媚びにはならぬサイケデリア~ガレージの血が天然としてハードロックへと土俗するかしましい市井の獰猛音楽である。ハードロックの一つの精華である。サイケデリアの本質としての飛び火がザッパからヘンリーカウへと飛び火、精密機械が汚れた土から播種されるように発芽する土から生える毒牙が行方不明になった時、葬儀後にひょっこり通りの角から現れてもおかしくない、腐ったどぶろくが駆け込み乗車でいきり立つちんどん屋が暴道する狭い車両の中で骨と殻と臓器のぶちまけ、怒り、神輿を高下駄にする奮戦と闊歩が緑色と黄色の血をとめどなく流す…ねじ切られた真鍮の涙。元に戻らない壊れ方が確固としていて凄い。うがい用のコップの中に毛髪が入っていたがためにうがいした時に喉に髪が絡まる特級の不快である。
tim alexander:herb, drums
larry lalonde:electric guitar, acoustic guitar
les claypool:electric bass, electric fiddle bass, string bass, vocals
付け入りの休載
病みつきの休載…
岡倉天心の歌を引いて締め括り。
谷中、うぐいす、初音の血に染む紅梅花、堂々男子は死んでもよい。
奇骨侠骨、開落栄枯は何のその、堂々男子は死んでもよい。
もう一つ引用…
南無大煩悩、南無大光明、春ならば花にやならえ、夏ならば杜鵑、若葉の夢に迷はん…(中略)…星は涙か天の河、流れ尽くせぬ三千大千世界。南無無量慈光、南無大無明。