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 ロック史を体系的議論から解き放ちながら、サイケデリアの土着性とハードロックの非継承性を論ずる。主要1000タイトル、20年計画、週1回更新のプログ形式。
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「frank zappa/ waka/jawaka(1972)rcd10516」 2009年10月11日 野分晴


 またしてもNHKの「青春リアル」や民放の「カウントダウンTV」を、消音して、深酒のため薄汚れて瞼が厚ぼったく垂れる半眼でどす黒く睨み付けるようにして見ながら、赤ワインつぎつぎ、執筆中。

 アメリカ合衆国大統領のオバマ氏がノーベル平和賞という茶番、多くの日の本の民にとっては違和感だろうに、中には歓迎の意を示す街角インタビューの市民もおり、情けない思いである。その理由は既に多くの新聞やネットで公開されているもので事足りるのでここで言う必要も無いが、オバマ氏は、賞を辞退して、広島・長崎の歴代市長の代表として現市長に受賞させるよう呼びかけるならば、大した男である。彼がプラハで今年一回だけ演説した内容は、毎年、両市長が国内外に向けて演説している事と同じ内容であり、人々を改めて歓喜させるような、そして受賞理由に値するような新しい内容は全く含まれていない。日の本だけでなく、いわゆる貨幣経済が流通している多くの国家にまで、何となく大きいもの、(軍事)力を持っているものへの、先方から頼まれもせぬ媚びへつらい著しい醜態が蔓延している。それにしても、オバマ氏の反核声明に便乗するかのような広島市の、オバマジョリティなるキャッチフレーズには開いた口が塞がらない。(オバマ+マジョリティ(多数派)の造語)オバマジョリティ音頭なるものまで作ってなぜへつらう。占領終了後この方途切れる事無く反核都市の中核の一つを曲がりなりにも自らに担ってきた広島市が、なぜ、愚昧この上ない大統領ブッシュ二世の次に就任した、少しはマシな大統領の、それはそれで立派ではあると認めるが特に実績も無い者の動静に便乗しようとする卑屈を演じるのか、理解に苦しむ。オバマ氏が広島市長崎市に対して、自分(オバマ氏)の言う事にさも追従するような態度を取れ、まるでオバマ氏が反核運動を歴史上初めて始めたかのように称賛してくれ、その証としてオバマジョリティなるキャッチコピーを愚かな日本人に広めるがよい、そのために日本人に親しまれた盆踊りのリズムでオバマジョリティ音頭を作って保存会の女性らに躍らせろ、さもなければ真っ先に広島市長崎市に大陸間弾道ミサイルを落としてやる、と脅したならば、その通りにするのも肯ける。しかし、オバマ氏がそこまでする権能を有しているとは考えられない状況下で、つまり特に権力による積極的直接的な圧力があったわけでもなく、市民側が、積極的に、権力っぽいものに対して率先して媚びる、おもねる、といった醜悪が遍在している。うろ覚えだが、小泉政権時にも、似たような事があった。先方から頼まれもしない、大衆の大衆による無自覚に率先した、力らしきものへの媚びの蔓延にはもう我慢ならない。そうした媚びだらけ状況が、奇しくも、この、オバマジョリティなるコピーで全て言い当てられている単純さも、むしろ気味が悪いぐらいだ。実績というよりも今後に期待、という解釈もあるようだが、その期待とは、率先して支配されたいという期待ではなかろうか。生物の遺骸と違って、人間の人間性の腐りというものはどこまでも歯止めが利かないようだ。

 さて、嗚呼!回転寿司血風録!である。小生、仕方なしにではあるが、ファストフード店に足繁く通う身分である。元来人見知りでできるだけ人とは言葉を交わしたくない、特に知らない人とは話したくない、他人と話すことで何かを得ようとも思わないし得たとしてもほとんど無いと思っているだけに、店の、店員とのコミュニケーションは避けたいと思っている。可能な限り、小生の意中の品物と、小生との、閉鎖的内的対話に没入したい、よく知らぬ人間とは関わりたくない、何となくかっこいいものとして承認されている他者との関わりとそれによる不安とそれによる鍛えなどどうでもよい、外国で外国人と他者的交友をもって人間として国際人として向上云々、なんかはどうでもよい、糞食らえ、承認された事を承認された通りにやって自信を持つ安住した無恥には付き合いきれぬ、それならばいっそ井戸の蛙で結構、井戸の中から、少ない確率で望まれるだろう月でも愛でて楽しみたい、没交渉の閉鎖系の中で呆けて和むほうがましだと思っている。なんとなれば鎖国して、大根めしと日本酒があれば生きていける、と勝手に思っている。否、日の本には能ある鷹は爪隠すの格言があるように、他者との交渉能力をひけらかさない人もいると思うのでひがみに過ぎるというものだろう、と小生も反省する。また、人と関わりたくないというこうした言説を言葉で表明することは、相手を念頭する言葉ゆえに他者の拒絶にはならないというブランショの指摘も重々承知している。時には人と話すのはためになるし楽しい、ただ、店員とは話したくない、ということだ。
 ようは、現場の状況とは無関係に、他者との交流という概念をしきりに持ち上げる雑誌やコンサルタント的な意見に異議を付けたいだけである。そのように煽り書き立てるという行為が、既に他者性を失ったマジョリティの陥穽へと落ち込むことを認識すべきだ。
 そんな自分にとって、ファストフード店は、最低限、メニュを注文しさえすれば、あるいはメニュを指差したりするだけで声を店員に向けて出さずに目的は達せられるので、食文化上の貧しさは犠牲にするにしても、有り難い。
 中でも回転寿司は、入店して席が空いていれば勝手に座り、近寄る店員に、取り合えずメニュの生ビールを指差し、後は回転する皿を取るだけで、文字通り黙々と、言葉を言わずに済むので重宝している、原則的には。江戸時代に対する錯誤なのか、カウンター越しでの活きのいいイナセな板前とのやり取り、などといった面倒くさいことから開放される、皿が回ることによって。この発明、大いに称賛したい。
 しかしながら、現実はそうでもなかった事もあった。小生が行くようなレベルの低い回転寿司屋での出来事。多くの回転寿司でも当たり前ではあるが、ベルトコンベアの中に居るバイト職人に、客が直接、食べたい寿司を頼む、という制度がある。
 客の中の、服をほとんど買ったことが無いのでよく分からぬがスェットというのだろうか、だぼだぼした、口にするのも恥ずかしいがいわゆるパジャマのような上下お揃いの服を召してよく肥えた首には金の鎖をジャらつかせ、足はゴム草履、といったいでたちの、中肉中背の50代男が、回っている寿司には一切手をつけず、若者バイト職人に直接矢継ぎ早に次から次に注文しまくるのである。コンベアには割と多めの皿が流れているにも関わらず、である。全く理由が分からない。なぜ皿を取らないのか、この男が注文するネタは眼前で回っているはずなのに。回転寿司の何たるかが全く分かっていない不届き者であった。回転寿司とは原則として回転しているものを食する処であり、店員に注文するのはあくまでも例外的な措置、どうしても食べたいネタが無かったら、会計ぎりぎりまで待ってもそれが出てこなかったら、最後の手段として店員に頼む、という奥ゆかしさが重要ではなかったか。
 そうした回転寿司の作法を傍若無人に破戒するだけでなく、さらにこのゴロツキ風のししおき男は、しきりに店員に、如何にチャチなチェーン店であってもそぐわぬ酒とタバコの絡んだ野卑な大声で話しかけ、悪いことに馴染みなのか、店員も盛んに受け答えしている模様なのである。回転寿司とは、店員とのコミュニケーションをなるべく拒絶する、専ら品と客との関係に専念させる唯物空間ではなかったか、それをこの男は、これ見よがしに店員とのコミュニケーション能力を大声で大仰に晒す体たらくなのである。いちげんさんお断りのような、近所の顔見知りしか来ない馴染みの小料理屋でそれをするなら勝手にすればよいが、ここはそんな人間臭い有り様が正統のように許される場ではない、ただ人間が寿司を腹に詰めるところだ、そうした唯物的割り切りの成立が、回転寿司屋の真骨頂でもあり美学でもあろうに、場をわきまえぬ事甚だしい。
 加えて、ゴロツキが注文しまくるものだから肝心のコンベアで流れなくなり、あるのは河童巻きと、いつ握ったのか分からぬ、干からびたアジくらいである。そうした状況下で、他の客までもが、我が我がと血なまこで自己中心的に、店員に直接注文し始めるのだから、激マズのネタしか回ってこない。回転寿司という、利益優先の企業文化が生んだファストフードの儀礼と長所をそれなりに汲み取って重んずる小生が、悔しい思いをする羽目になった。憤懣やる方なし。
 それにしても、回転寿司屋で羅列し押し合いへし合いする客の、皿を追う目の殺伐としていやらしいこと。欲深さがそのまま目つきに表れるあの浅ましさを大人の客はどれほど自覚しているのだろうか。無論小生とて例外なく、皿を追う目は救いがたいほどのさもしさになっていると思われるが、これもまた回転寿司屋の出現によって初めて学ぶことができる人間の真実である。この真実、きちんと受け止めたところで清々しさは一切無い。物欲の受容には勝手ながら爽快感があるのはやはり物欲が人間特有の文化的営みの源であるためと思われるが、食欲は、より生に密着するためか、食欲むき出しの人間の目のむさぼり具合というのは、何とも救いがたい荒んだ底辺である。ラーメン屋の客がラーメンを啜る姿はどこか薄暗くて不幸せそうだ、これはアジア人の後ろ暗い悲しみの歴史を背負うからだというのは「美味しんぼ」の卓見であったが、回転寿司屋の、隠し立てされぬ卑しさは、資本主義を無定見に信ずる体制的自然状態に起因するだろう。それはそれでよいとも思う。
 こうした回転寿司屋に、小生が学童の頃は考えられなかったが、時代というものだろう、親子連れが多数入店することがある。子供は節操ないから、あのような、食べ物をそれなりに自分で獲得しなければならないようなある種の自然において、最も鵜の目鷹の目で卑しい目つきで露骨に皿を、時に身を乗り出してまで皿を見送るが、どうしたものか、と思ってしまう。恐らく、あれが自然な姿なのだろう、とも諦めるが、しかし、子が甲高い声で、大人の店員に、直接注文するのだけは許しがたい。親のすね齧る分際が、それで生計立てている大人の店員に金で指図するように注文するとは何事であろう、何様のつもりなのか、おこがましい。子はあてがわれた物を文句言わず平らげればよいのに、こんな我侭を許す親も親である。朱子学読みすぎか。
 あと、どうでもよいが、客が、会計を頼む時に、如何にも慣れている感じで「おあいそ」というのが小生気に食わない。そんな文化で生きてないだろう我々のような21世紀の、行き着くところまでいったような文化も糞もない時代の者が、こんなときだけ如何にも濃厚な文化の中で生きているかのような単語を使うのは恥ずかしいばかりか欺瞞である。小生は、きっちりと、「会計お願いします」という。すると店員は、「○番様おあいそで~す」と連呼する…。どうしようもない。

 以下、簡単なトピックス。

1.〇〇寿司(駅ビル内):小生が経験した中で最悪、激不味の回転寿司。ネタは、乾ききって不味いか、乾いてなくても根本的に不味い。全部不味く、旨いネタは一切無い徹底ぶり。しかも、コンベアにほとんど流れていない。あったとしても鉄火巻きとか卵焼きとかマンゴープリンとかがほとんどでどうしようもない。仕方ないから店員に頼んで握ってもらっても、必ず不味い。ネタもシャリも最悪。なのに、駅ビル内という好立地のためゆえに、客はそこそこいる。外国人もよく来ており、気の毒なばかりか、国の恥のようにも思う、国辱寿司屋である。行けば絶対後悔するのに、小生、何故か、何度も何度もこの店に通った、便利ゆえに。もう決して行くまい、なぜなら不味いから、と決心しても、便利だから、また行ってしまって、必ず後悔する、不条理寿司。不条理なのは自分なのだが。もう行くまい、でも、また行くのだろう、世界一不味い寿司屋へ…。

2.すし〇(JR××線△△駅付近):中程度。近年流行の炙りもの系の握り寿司の開発に余念が無い。炙りものは確かに一工夫二工夫もされていて美味しい。ノドグロも旨い。冬時、ネタの乾燥がひどい時があって、小生が、お客様の声アンケート用紙に、その旨を記載したところ、次週、湯気のようなものを出す保湿機を導入していた。その対応の早さに感銘する。独身貴族の時、よく通っていた。先ほどの50代男の一件の舞台はここ。

3.名前忘れたが、JR線の××駅近くの、国道沿いの回転?寿司屋:ここは、入店した時に、名前を聞かれる。店を出るとき、全店員が、大声で、「○○様ありがとうございました!」と叫ぶ。何かあるごとに、大声演劇団員のように発声練習したのか、豆鉢巻の男どもが、腹の底から大声で反応する、しかも全員で口々に連呼するから、客の我々の臓器に絶えず音圧を与えてくるので、落ち着かない。一部の寿司屋は、どうも、イナセという美学に捉えられているようで、どうにも困る。イナセというのは魚河岸などで働く男たちの活きの良さの美学なんだろうが、寿司を握る職人と魚河岸の働き手と混同しないで欲しい、関係ないだろう、しかもそのイナセを、何か体育会系的なものと勘違いしている節もあるから、尚更うっとうしい。静かに食べたいのに、客の鼓膜や腹がびんびん腫れ上がるほど、常時「ありがとうございました!」「いらっしゃいませ!」を大声で、鍛えられた発声で叫ぶものだから、礼儀正しさも過剰である。猛省を促したいが、品の握り寿司自体はどれも、確かに旨い。相当旨い。声の音量をもう少し落として。

4.〇〇三昧:中程度。子連れが多く、子の野性ぶりが観察できる、眉を顰めてしまう場面が多い。シジミの赤味噌汁を所望するも、殻ばかりで身が殆どなかった。

5.名前忘れたが、〇〇駅北口を出て少し△△駅方面に行ったところの回転寿司屋:最悪の〇〇寿司と、中程度の寿司屋の中間ぐらい。コンベアには殆ど流れていない。基本的に不味い。

 柳沢きみお「大市民日記」、林芙美子「放浪記」、ジェイムズ・ジョイス「フィネガンズ・ウェイク」の三つ巴を読み続ける日々。
 
 さて、ワカ/ジャワカである。さほど言うべき事はない。ザッパが理不尽な聴衆の暴力によってステージから叩き落されて、ギター演奏能力が絶望視される中必死のリハビリの末に復活したアルバム。ロック室内楽の逸品である。この復活が無かったら、70年代80年代の傑作群が生まれなかったかと思うと身の毛のよだつ思いだ。

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仄々斎不吉
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自己紹介:
 数寄の天下を獲らんがため号するは、仄々斎不吉。

 三千家(裏千家・表千家・武者小路千家)及び諸家茶道流派に例外無き教条点前に豪を煮やす一方、近代数寄者(益田鈍翁、高橋掃庵等)以上に見立ての幅が広がった現代茶会に更なる侘びの新風を吹き込むべく研鑽を積む。

 利休の、無産有産といった階級をも併せ飲む侘びの骨頂に根ざしながら、そうはいってもありがちなブルジョア金満足だけは厳に慎みたい労農茶人。

 草木に臥してなお風雅を愛でる仲間であるために、茶の湯だけでなく、路上観察、テレビ跋渉、音楽及び納豆評論、 30人31脚批判もこなす趣味人にして愛陶家。 猫舌。


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