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 ロック史を体系的議論から解き放ちながら、サイケデリアの土着性とハードロックの非継承性を論ずる。主要1000タイトル、20年計画、週1回更新のプログ形式。
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「the soul children/genesis(1972) pcd-4433」 2009年11月1日 円楽時雨


 国産ワインを嗜好する小生。このほど好飲している、県北は世羅郡世羅町産の「せらワイン」、大変満足している。そして今も飲んでいる午前1時20分。先週のモーニング掲載「へうげもの」も、面白かった。詰まらぬページが一ページたりとも無く、感服。そろそろ、小生が考える、実写版「へうげもの」のキャストを公表すべきか。毎週、サラダのために、レタスを買うが、小生、レタスの効能をほとんど信じきれずにいる。瑞々しい嵩張りだけでしかないようなあの葉っぱに、本当に栄養があるのだろうか、と。「サラダの本質とは何か、それは、人間とは基本的に生野菜が嫌いなのだ」とは、美味しんぼの雄山の至言ではあるが、レタスへの不審が高まる小生、レタスやトマトやパプリカやキャベツやかいわれ大根やキュウリや水菜以外で、頼りになるサラダ野菜を欲するも、そうすると、もう、サラダ、というものへの疑念もふつふつである。ちなみに、小生は、美味しんぼという漫画、大嫌いで、この漫画の絶望的な保守性、海原雄山=北大路魯山人、を芸術の最高峰とするあまりに狭量な世界観に辟易しているのだが、料理知識につい引き込まれて、1~70巻は所持、読了している。岩倉具視がダンジリの連中によって道頓堀のどぶ川に突き落とされる夢。山奥の現場に行く途中の県道で、狸の轢死体を多数避けるはめに、秋の深まりを感じ入る。

 さて、もういつのことだか忘れたが横尾忠則氏の一件である。NHK日曜美術館での出来事。
 横尾忠則氏が、とある美術館内で、観衆の前で絵画するという。美術史において欧米で1950~1960年代ほどに、アメリカのアクションペインティング(ジャクソン・ポロックなど)やフランスなどのアンフォルメル(ジョルジュ・マチウやサム・フランシスなど)といった潮流で流行った絵画ライブである。
 観客も結構居た。横尾氏の今更ながらのそうした試み、例え美術館という箱物制度に守護されているとはいっても未だに刺激的に思われてしまう企みを、わざわざ見ようとする人々なのだから、それなりに文化的意識の高いのだろうが、皆、黙って見ているだけであった。
 思い出すのは映画「ニュー・シネマ・パラダイス」。映画は、老若男女別なく、わいわいがやがや好き勝手に騒ぎ放題で映画や別の事に対する野次や賞賛の声が上映中に構わず叫ばれたりひっきりなしに物が飛び交う雑多な中で上映されており、それでも、映画の中で事が起こると、別のことでの騒ぎもありながら、観客総出でどよめいたり、何とも猥雑な、そして望ましい幸福であった。
 従って、野次や怒号の一つもあっていいと小生思うが、しかし、品よく文化的意識の高いこのプチインテリゲンチャらは、おとなしいばかりか、横尾氏を理解の目で包む生温かい連帯を演じており、また媚びか、巨匠への媚びなのか、と思い絶望した。野次を飛ばす柄の悪い、無理解な市民も居てしかるべきである。しかし、そうした連中が美術館に足を運ぶべくも無いのは横尾氏も承知のはずである。横尾氏ほどの画家であるならばそうしたおとなしい媚びに気付かぬはずはなく、そして容赦ない、言論界で安住する批評性が全く無い野次や声援を求めているのではなかったか。ならば横尾氏は、自分の絵画ライブを盛り上げるために、観客の中にさくらを仕込むことも辞さず、多いに罵詈雑言させるべきであったろう。やさぐれの、出来れば本宮ひろしの「男樹」のような、ずたぼろの学ランのズボンを縄で縛っているようなヤクザ男(劇団員でも可)を仕込んで、横尾が描く線の、色の一つ一つに薄汚い文句をつけさせるべきであったろう。
 以下、小生が望む野次や応援の妄想である。
 (横尾氏がキャンバスで何かやるごとに・・・)
 「陳腐だあ」
 「つまんねー」
 「まだかー」
 「まだやるんか、おい」
 「そうだあ」(国会風の賞賛)
 「拍手かよ、くだらねー」(観客の品よい拍手に対して)
 「納得できねー」
 「終わったら完成じゃねーのかよ」(横尾氏の「作品は終わりますが、完成ではありません」の発言に対して)
 「そんな説明もとめてねーぞ」
 「黙れ」(野次ヤクザに対して、ようやく芽生えた一般観客の反応)
 「一人で描くことと、人前で描くことの違いをどのようにお考えでしょうか。そこには社会的観点を想定しているのでしょうか。」(野次ヤクザがいきなり真顔で言ってもいいし、このヤクザに触発された良識市民の声であってもよい)
 そうこうしているうちに、美術館の、横尾氏の仕込みであることを知らされていない、物の分からないキュレーターに指示された警備員にその野次ヤクザが取り押さえられ、会場から野良猫のようにつまみ出されながらも、なお野次ヤクザ(劇団員)は憎まれ口を叩き続け、承認された範囲内で文化的意識を高めているぬるま湯観客の頭上に、不穏に汚れた文句を雹のように浴びせかける。
 「おい、どーする横尾ぉ!」
 「いーのか、これで!」
 ・・・そんな荒れた情景が、NHK日曜美術館で放送されたら、小生、くさくさしがちな日曜日の朝でも、すっきりするだろう。 
 プチインテリゲンチャ観客の構成要員のほとんどが団塊と団塊ジュニアであるからしてその絶望的な保守性を慮って、横尾氏はそこまでやるべきであったのだ。いや、むしろ小生がこの絵画ライブの日程を知っていたならば、観客の一人としてその現場で多いに野次や声援を発散することが出来たのに、残念である。そうすれば、60年代の加藤氏のゼロ次元や現在の会田誠の一派の試みとは違った意味で、面白いハプニングとなっただろう。
 
 ソウル・チルドレンのサード。1972年。アメリカ。ソウルという音楽も経時や地域、あるいはレコード会社の差異による種々の方向性を明確にした音楽であるが、これはスタックスレコードにしてディープ・ソウルの名盤、既に人口に膾炙するところであろう。ブルースなどの音楽だけに限らないがソウル・ミュージックにおいても、北部と南部に差異が想定され、即ち北部のモータウンに対して南部のスタックス・レコードがある。殊更に峻別する必要もないし出来もしない模糊とした部分ではあるが、モータウンの、白人好みにステージ上での振る舞いや仕草まで矯正の対象となるショウビジネス色の強い、ノリよく踊れるリズムナンバーやメロウ趣向とは一線を画すように、スタックスは、ソウルという音楽に肉迫するべく、どこか内に籠った意固地な愚直な有様を選択した。そうすることで、ソウルという音楽の肉付きとでも言うものが炙り出され、即ち、ブルースのみならず、ゴスペルという、これはこれで大きいテーマとなりうる音楽の血流をソウルに聞き出すことができる。ディープソウルと云われる所以である。当たり前の話である。ただ、ジャズやブルーズやゴスペルが如何にしてソウルという音楽に結実したか、は、結論を述べる以上に難しい話である。しかしながら、ロックという耳から考えると、何が分かるか。何も分からないかもしれない。
 ソウルの演奏面はR&B的な手法や歌謡ジャズやビッグバンドジャズ的要素により構成されるとすると、ソウル的歌唱は何なのか。これはブルースの本来の、ただのおっさんのだみ声からも出てこないし、ジャズ歌謡の洗練とも違う、ゴスペルに近いものがあるかもしれないが、ゴスペルの、やはりキリスト教らしく人を垂直へ導く煽りはソウルには聴き当たらない。ソウルにとって、スタックスがモータウンよりも本質的だ、とする理由は何も無く、むしろモータウン的な音楽こそが廻り巡ってソウルの有様が直に表されていることが後で分かるが、兎も角、何でもいい、この、ソウル・チルドレンをしんみり聴くとすると、ブラックフット(黒い足)の歌唱が凄まじければ凄まじいほど、白人が黒人を模倣したロックという、激しさを志向する音楽の中で白人が演じた黒人の、過剰な黒人性というものが聴こえてこないか。黒人の黒人たるを証明するようなソウルフルな声、というものは、白人にとっての黒人のイデアを当の黒人が受け継いだものではないか。ロックという形でブルースやR&Bといった自分らの音楽までもが白人どもに侵略される中で、それへの抵抗としての黒人性の立脚とすべく創発されたかもしれないソウルが、まさに敵である白人の妄想を基盤としていた可能性を、小生、拭えぬ。ソウルと紐帯分かち難いゴスペルにしても、事情はどうあれアフロキリスト、黒人単独が創った仕組みではない。
 そういう意味では、一聴するとスタックスは黒人による黒人のためのソウルというものをより本質的に追究をしているかのように聴こえるにしても、実は、白人への意識、悪く言えば媚び意識が高いモータウンの方がソウルという音楽の情勢を如実に示しているのかもしれない。
 ただ、以上の事はうがった聴き方というもので、当のソウル音楽の素晴らしさを損なわせるものではない。そうした、歴史と因果からの飛躍が音楽の、只ならぬいかがわしさというものである。
 男二人、女二人が容赦なく互いのヴォーカルをぶつけ合う。特に黒い足の声は、無味乾燥なベニヤ板をも噛み砕き、冷凍庫から出したばかりの肉塊をついさっき円盤のこぎりでスライスした凍った肉板を、がっと両腕で引き伸ばさんとする獰猛な、前歯むき出しの声である。そして、手数少なく、地味ながら飽くまでもバックに徹して唄を盛り立てるリズム隊が、華やかさをこそぎ落として、滲みる。コクのある演奏である。他愛無いバラッド楽曲が多いが、それが、唄を真っ直ぐに際立たせ、聴く者聴かざる者全てに心優しい。夜気の中、まだ蓄熱した土壌に寝そべると背中を通して伝わる温もりや耳元で蚊初める微音の、人からなのか自然からなのか問う必要もない逞しい慈しみに包まれる。パファっと割った、湯気立つ鳴門金時焼き芋の黄金の断面に、小さくなった小生がソウルの巨人につままれて木釘のように叩き込まれる、そんな熱い音楽を、魂の子らが惜しげもなく歌う、畢生のソウルアルバムである。
 
 ジョン・コルバート(J・ブラックフット):ヴォーカル
 ノーマン・ウェスト:ヴォーカル
 アニタ・ルイス:ヴォーカル
 シェルブラ・ベネット:ヴォーカル
 ザ・メンフィス・グループ:リズム

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