- 2025.05.14
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- 2015.05.16
余白の荒野へ
- 2015.05.10
今週も休載…
- 2015.05.03
今週休載
- 2015.04.26
「sailor/trouble(1975)esca7861」
- 2015.04.19
「チャーリー・コーセイ/ルパン・ザ・サードの歌(1971)」
- 2015.04.12
「the rascals/the very best of the rascals(1966~)amcy-2201」
- 2015.04.05
「squarepusher/big loada(1997)srcs8417」
- 2015.03.29
「岡山ペパーランド(2015.3.21)」
- 2015.03.19
お休み
- 2015.03.15
「technosport/-(1996)srcs8097」
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余白の荒野へ
胸苦しいような、自ら無闇に締め付けるので動悸の輪郭が内部から異常に強調される胸騒ぎが疼き…この胸苦しさの正体は結局、脱糞前の体の催し、に過ぎなかったという馬鹿げた事情なのだがそれは兎も角…最早…己自身がとことん試されるような、自分自身がとことん追い詰められるような文章以外書く気が起こらない肝の据わった心が…人生への布石と称して徒な道草や遠回りに甘んじたり出し惜しみしたりするのにも力無く、しかしどこか異様なほどの丹田の沈着に、己が執拗に渇望しながらいざそれが定着すると忌まわしい呪いとしか思えぬその重厚なる覚悟が備わってしまった今となってはやはり、それを、意図せずして、としか云いようのない代物なのだ…しかしその代物は己との乖離や疎外が皆無な、どうにも揺るぎない一如の覚悟なのである…それは、世界の歴史的には恐らくざっと大目に見積もって百人未満の果敢者たちが芸術の必然によって一度は足を踏み入れながら、経済的条件と云うよりも寧ろ己自身を蝕む所業ゆえ歩き続ける事がかなわずに以後なんだかんだ芸術上の、しかしその内実は世俗上の理由を付着させて忌避したりした、しいて云えば名付けえぬもの、あるいは意味の余白とでもいうべき不毛の、実りが及ばぬ荒野なのだが…人知れず小生はその余白の荒野を一周してから、件の如く種々の、遠回りと称する一級の近道を歩んだ結果、幾らでもその余白の、無意味の、不毛の荒野を闊歩し続ける魂魄になってしまった事に覚醒したのである…見果てぬ荒筋が目先を霞んで未だ喰らえぬのは小生の不徳の致す処、今は何処にも逢着せぬ、ある枠組み内の、いまいちその限界を突破できぬ無駄な演算をひたすら繰り返しているのは百も承知、しかしこの上はいずれ、数学や物理で云う一般化の問題(ex.天動説/地動説の問題が、ニュートン以降、万有引力による天体運動の問題へと一般化されたように)とは異なって、何かしら開ける予感の疼きだけは、あの、便意の催し前の動悸にも微かに混じっていたはずだと断言できるのである…この無駄な演算の不毛な耕しが沃野を荒野に還すように…しかるに新しき礎とは、既に目の前にある陳腐に他ならず…また来週。
今週も休載…
現代美術館には結局、週を挟んで二回訪問する破目になり…赤瀬川源平の芸術原論展…去年の逝去により奇しくも回顧展、追悼展となったが…充実の展示内容で認識を新たにさせられる事多し…ネオダダと云えど画家本来の観察眼とそれを写実する技量は一通りのものではない際立ちを再認識…初期の抽象画にしても丁寧な線描に手間を惜しまぬ自然な根気が見て取れるし形態をとらえる技術は切れ味が冴えわたっており、何より、欲しくなる。変質者的なダダ的立体造形物も造りが丁寧だからか、なんだかんだで今となっては鑑賞に堪える、という…ダダ的観点からすれば「鑑賞」「作品」という枠組みの破壊を目論むものが、皮肉にも、根強く底流していたらしき妥協を許さぬ物作りのこだわりも手助けして、「鑑賞」や「愛玩」に耐えるようになってしまっているという、ダダからすれば耐え難い残酷な年月の経過でもあろう…初期から晩年までの仕事をよく網羅して資料的価値の高い今回の展覧会カタログでは没年が記されていなかったので、2014年に急逝される以前に企画されたのが伺える此度の展覧会…ダダも路上観察も展覧会という枠組みに収容された現在を、どのように思われたか…その日は件のカタログと、新書「利休 無言の前衛」を買って帰ったが、一週間経って、やはり、初期の文章も欲しいと思うようになり、改めて美術館に行って必要書籍を数冊買い上げてきたのであった。尾辻克彦名義の小説を長い間親しんでいた小生…そのほどよく抜けて且つ明晰な文章の卓抜で以て、読売アンデパンダンやネオダダの活動を渦中の本人が活写してくれているのだから他人の評伝より価値はあるだろう。案の定、まず「いまやアクションあるのみ!『読売アンデパンダン』という現象」を読むと…創生期からの主催者や評論家、作家群の思惑や志や諸事情が記録されて往時の沸騰した状況の暴発がよく分かる…読売新聞の中の組織人でありながら「日展を頂点とする団体展や公募展を潰す」という攻撃的で先鋭的芸術的意志を明確に持った主催者の海藤日出男、未知の芸術の発生を逸早くとらえて目撃者に徹する慧眼の批評家瀧口修造、お仕着せの、上からのとはいえ闇雲に支配的な民主主義への行動熱という時代背景、そして有名無名の有象無象の作家群…送辞として小生が云いたいのは…「ダダよ、そしてネオダダよ、あなた方のおかげで、私たちにはもうやる事がなくなってしまった。そして、しかし、やる事がなくなった処から始める事が可能になったのである。最早見かけ倒しの枠組みに拘泥する手間は、あなた方のおかげですっきり省けたのであった。やる事が無くなった爽快なる不毛な荒野で、否が応でもアンデパンダン=インディペンデント=独立せざるを得なくなったのである。」
もはや「ジャンク・アート」という名前にさえ戻れないような気がした。
赤瀬川原平 著「いまやアクションあるのみ!『読売アンデパンダン』という現象」
この国の投票率の低さには頭に血が上って丁寧に考えられないけれども…兎に角、選挙に行かず国民主権を行使せずこれを自ら放棄する者は、国家権力から何されても構わないと公表しているも同然なので、公民権を即刻剥奪して財産没収して憲法の埒外に置いて強制労働させて使い殺せばいいと思う。投票や議会政治だけが主権の行使にあらずと断ずる、高邁なる勁草の士におかれては、論文執筆や街頭デモも主権行使活動と見なして先述の奴隷化から除外する。番組のスタジオでアホな識者風情が「投票に行けというよりも、投票に行きたくなるような環境整備が必要」などと、聴いてるこっちの頭がおかしくなるような頓珍漢な事を云う始末に激昂…この、国民の態度を代表するらしき言説の、「そんなにいうなら投票に行ってやってもいいけれどもその前にやる事があるだろ」的な、何重にも勘違いした態度は一体何なのか…要するにこの言説は「人間であれ、と云われても、こっちは元元奴隷でも構わないんだけれども、まあそんなに云うなら仕方ないけれども人間になろうとしても構わないよ、こっちは奴隷でもちっとも構わないのだけれども」という、卑屈なんだか高慢なんだか意味不明な意志表明であることを分かっているのだろうか。こんな、何重にも愚劣な愚民の蒙を啓く努力など時間の無駄だから、そこまで云うなら即刻奴隷階級に落としてやればいいと小生は思う。病気とか介護といった事情があるならいざ知らず(そのような、投票に行けない理由を日本国民は全て国家に申告すべき)、そうでもないのに何となく、行っても分からないとか意味がないとかいう浅薄な存念で投票に行かない日本国民は上記の通り奴隷にせよ。
前述の、日本の1960年代のネオダダの各種宣言文など読んでいるとどうも浮き足立ったお祭り騒ぎ気分であるな、という感想が生ずる。20世紀初頭の西洋の本家ダダや未来派の文章は冗談が混じっていたとしても何か隙が一切無い意志が貫かれているというかガチなものが多いが…かといって日本ネオダダに意志が無いという訳ではないのだが、浮き足立っているのは確かだ。だからどうだという事をここで分析するつもりはないとしても。
どうもブラタモリの開始時間がいけないというか、土曜日の午後7時半って意外にいろいろ雑用があって中々間に合わない口惜しさがストレスを溜める…日曜日の13時頃の再放送がメインとなる。
今週休載
郊外庭付き一戸建てリヴィングルームで定年間際(再雇用決定済み)の親父と専業主婦の母親に好ましく見守られながらフレッシャーズスーツ姿を披露する新卒の男どもが入社式会場のディズニーランドで、まるで「新機種スマホ発売日のような祝福」の雰囲気に満ちながら率先してチクロンBを吸入したがる、集団ガス室送り。それがセカオワの音楽…。彼らが大正琴やアコーディオン、といった楽器編成の工夫を如何にこらそうと、その本質はそういう事である。
四月初頭…
「全国で入社式」
「全員の遺体を収容」
というニュース題目が並列されており混乱を来しつつ納得する…後者はドイツの格安航空機墜落事件のことをいっているのは時間差で感得されるが…両者の題目の自然な繋がりに納得したとしても異論は無い。
「sailor/trouble(1975)esca7861」
頁を開けば青インキ臭が噎せるような、60年代モンキー・パンチ先生のルパン三世原作漫画を強く彷彿させる、1971放送開始アニメのルパン三世第一シリーズでは何処とも知れぬがルパンが手にする、地名がローマ字表記の地図によると日本のどこからしい、得体の知れぬ荒野、例によって木という木は地中海沿岸のオリーブの古木のように太く短く枯れており日本離れも甚だしく…先週も書いたが第一シリーズでよく見られた、生活感無しの洋間に無造作に飾られた、荒んだ抽象画を堪え難く欲しくなるのは、続けて視聴した、1977放送開始の第二シリーズへの失望が否めないからでもあって…まず、次元がいけない。第二シリーズの次元は鼻が長すぎるし何より目つきがふやけて締まりなく、帽子からの露出機会も無神経に多過ぎなのがどうにもいけない…第一シリーズの次元の、誠に稀に帽子から垣間見える、殺意と虚無を孕んだ乾いた眼光に魅力の要が宿していたのを、第二シリーズになった途端あんな風にキャラデザされては台無しもいい処である。そうした腑抜け具合に関連して第二シリーズで散見される絵画も、花や馬などのふやけた具象画に変質しており…馴れ込んでてどうにもこだわりの無い惰性が鼻に衝くのである。加えて第二シリーズでは不二子の不二子性が脱色され過ぎて丸く収まり過ぎており、いざとなれば単独でも事をやりおおせる女の骨気がすっかり消え失せてルパンの秘書風情という聞き分けの良さに甘んじている体たらくなのである。舞台装置も、不可解な荒野から、書割りエキゾチック海外旅行JALパック、といった感じ。ところが、第二シリーズがDVDで全26巻(一巻につき6話収録だから全156話)もあるからちょっと飛ばして第三シリーズに手を付けてみると…これが意外にも面白いのでもあった。第二シリーズの功績といえばせいぜい、オープニングの音楽で、あの有名な「ルパン三世のテーマ」を創出した事は特筆すべきだが…第三シリーズはやはり80年代バブルの洗礼を免れぬのか…第一シリーズでの深みやエグミ、サイケデリックに暢気な間や奇怪は一切無いが寧ろその徹底した薄っぺらいデラックス感に、突き抜けた感があって、それが図らずも好ましい先鋭を齎しているのである…舞台の書割エキゾチックにネオンのぎらつきも加わって享楽性を増したルパン世界…第二シリーズで長すぎた次元の鼻も第三シリーズでは元に戻り、目つきも多少は鋭さを回復、不二子の扱いは魔性への回帰ならずとも開けっぴろげな御色気担当で全裸サービス、という割り切りもこの際潔くていい。ただし第三シリーズでは五右衛門の目つきがぱっちり丸くなったのは如何なものか。第一~第三シリーズ通してルパン、次元、五右衛門の声優が同じ、というのは救いである。不二子の声優のよさの順番は第一シリーズ>第三>第二である。第二シリーズの不二子声は男に媚び過ぎ大人し過ぎでよくない。
今、欲しい物…これらは、小生の思索や展望をより具体的に構築するために是非とも己の側に置くべきと思われるのである。
○ルービックキューブ⇒入手済み
○ミラーボール⇒入手済み
○赤毛のアンのセル画⇒入手不可能なので、パズルを入手済み。アンがマシューの馬車で初めてグリーンゲイブルスに向かう途中、リンゴの花が咲き乱れた「喜びの白い道」で、感動の昇天中の名場面を、1ピースずつ組み上げていく悦び…好きなアニメや映画の名場面や絵画を1ピースずつ地道に組み上げていくまどろっこしい行程による自虐に、パズルの存在意義を見出した。
○綾波のフィギュア⇒入手済み。綾波は男のたしなみ、持っていてもよかろうと思う次第。
○スパゲッティ・ナポリタンの食品見本⇒入手できず。西餅の漫画でのセリフ「永遠のナポリタン感」に触発されて…
○荒んだ抽象画⇒入手できず。
○来客用の、煎茶碗五客揃い(出来れば九谷のいいやつ)、あるいは、紅茶カップ五客揃い⇒入手できず。滅多に客は来ないが、お客さんが来た時に、こうしたものがないと恥ずかしい年頃になってきたという事か…
○カーッ、という感じの音を出すあの楽器⇒入手できず。楽器名が分からないが、よく、物の怪の類の出現の擬音などに用いられるあの楽器…。
→名前が分かった。キハーダだ。キハーダは馬の下顎を用いたものらしいので、入手困難な場合はヴィブラスラップという楽器で代用するらしい。
○和本⇒入手できず。江戸時代あたりの木版印刷が欲しい。黄表紙でもいいが出来れば、きれいな絵が掲載された園芸関係や本草学の和本を欲す。
○琴⇒入手できず。琴に寝技を掛けて荒々しく奏するために…。
セイラーのトラブル。彼らのセカンドアルバム。この、ネオンの流麗な残像がその場限りの享楽を甘味付ける割り切りデラックス感を存分に発揮した音楽としては、音楽地図によると70年代後期モダンポップ/ロック…一方でジェネシスやクイーン、デビッド・ボウイなどの芝居がかったゴージャス世界観提示もありつつ、そうした世界観というよりもより生活に密着した住宅建築のモダン化緻密がセイラーであって、殊にセイラーは、芝居が終わればあっという間に片づけられて更地になる書割風情の大航海時代珍道中膝栗毛、シチリアーノからモロッコ、上海、ボリビア、ペルーの民俗へと賑やかに洒落込みつつ、多彩珍奇な舶来楽器構成で極彩色のモザイク画を撒き散らすように構築するし、その勢い余ってけたたましい先鋭は至って健在、悪趣味の系譜を点在させつつ、場末の盛り場で場違いに歌い上げるシアトリカルな俗悪歌唱はボウイなどの宮殿閉鎖の大仰な馬鹿馬鹿しい退廃とは打って変わって小粒に効かせるアレンジの妙、手際の良さが彼らの身上であった。英国滑稽趣のぎとついた徒花。イカサマ近未来の視点から過去の大時代を懐古する未来完了形音楽。時制デラックス音楽。化粧した男の顔が欠かせない頃の…こそばゆい、玉虫色のバブル。プロ野球のドラフト会議で、妙に鼻にかかった甘ったるい声を出す男の司会者がいるだろう。そいつがだぼだぼの真っ白い背広来て髪はポマード撫で付け、精一杯気取った仕草でしゃかりきに歌っているが楽曲自体だけは異様に緻密な上手物、を想像してもいい。話は変わるが団塊スタイル(D’sスタイル)によると小椋佳は去年の生前葬コンサートを終えた現在、胃癌摘出で衰弱した体をおしながらも月3、4本のコンサート活動をこなしつつ、自宅では、「白装束の作務衣」で過ごしているらしい。他界しながらも仕事のやる気満々という事か。小椋佳のやる事為す事から目が離せない。ああ、黄色の雲から灰色の歯が生えたような捨て鉢な抽象画が欲しい。小生、ニッケルオデオンへの憧憬は強い。欲しくはないが…。何かしらんがエンゲルスの「家族、私有財産と国家の起源」(古本)を読んでいたら毛根の弱そうな、産毛のような細い髪の束が頁に挟まっていて、気持ち悪かった。
と、ここで、散々酷評したルパンの第二シリーズの、恐らく151話以降を見てしまったら…前言撤回せざるを得ないほど、アニメ技術の創意工夫、脚本、すべてが遥かに面白く出来上がっていた事を至急報告したい。第二シリーズでは1話~6話を見ただけで、書き割り書き割りと揶揄してきたが少なくとも151話以降だと脚本も場面設定、絵コンテも創意に満ちていた!何よりも第二シリーズ初期での長すぎる次元の鼻がいつの間にかいい感じに修正され、目つきも多少は鋭さを取り戻し、無闇に目を露出する機会も抑制され、次元が元通り、いやそれ以上にぎゅんぎゅんかっこよくなっていた!不二子もましになっていた。
grant serpell:drums, percussion and vocals
phil pickett:bass nickelodeon, guitarron, piano and vocals
henry marsh:nickelodeon, accordion, piano, marimbas and vocals
georg kajanus:12-string guitars, charango, veracruzana harp and lead vocals
「チャーリー・コーセイ/ルパン・ザ・サードの歌(1971)」
思えば数年前に、政治好きを自称するモデル上がりのハーフ風女性タレントが情報バラエティ番組で「日本の総理大臣が靖国参拝する事はドイツの首相がヒトラーの墓参りする事と同じですよね」といった内容の発言を耳にしたのに端を発した憤激の念…これが一層こらえ難かったのは、こうした理屈に横たわる、此の国のみならず戦勝国にも蔓延する罪深い誤謬と欺瞞への忿怒であり…漠然と小生が抱いていた、戦時の日本軍国主義と西洋ファシズムとの「差異」というのに改めて思いを致すきっかけになった結果、自分なりの、拙い思索で以てその「差異」の決定的な青写真を折に触れて書いていたつもりであったが…不勉強ゆえの遅ればせながら最近出会った、丸山眞男氏の、戦後直後に立て続けに発表した時局的諸論文を胸苦しい興奮のままに蒲団の中で赤熱しながら貪り読むと…そこには、小生も勘付いていた先述の「差異」を、学問に求められる普遍的正確さで以て縦横に豊富な典拠を明示しながら際立たせている成果が既にあって、少し肩の荷が下りた感もありつつ、一方で、丸山氏のお蔭でこの「差異」が明確になったお蔭で、小生としては、目下現代において補完進行形と云える「純正全体主義」の、過去との参照では説明尽くされぬ性質を有する「新規性」までもが改めて浮き彫りになるのであった。先述した興奮性の疼きの根拠は此処にある。丸山氏の「日本政治思想史」を途中まで読んで懸架にて熟成を待っていたが即効性という意味では先にこの諸論文を読んでおけばよかった。小生の不勉強と、戦後70年たってやっとこの諸論文を所収した岩波文庫の怠惰が今更ながら恨めしい。無論、日本軍国主義を特徴づける「大いなる無責任体系」についての指摘は巷間に散発的に披瀝せられてはいるが、丸山氏の、「超国家主義の論理と心理」「日本ファシズムの思想と運動」「軍国支配者の精神形態」は、発表年代の早さ(1946~1949)と、問題点をあらかた抽出し尽くす感度の良さ、複雑な事象を明確な理解で関連、系統づける論理的胆力、そして何よりも西洋ファシズムと日本軍国主義との「差異」を明確化した事により、戦中戦後論を考察するにあたって最も重要な基本論文であるのは小生が言うまでもない。場当たり的な端切れの思いつきの、その場限りの才気に走ったプレゼン上手の言説が、先の論文で示された問題点を自明として論説を組むなら兎も角、まるで丸山論文をあえて無視する蛮勇がカッコいいとばかりに無知を晒すのが「その場」ではウケるという少壮評論家=少壮社会学者=コミュニティデザイナー=軽薄デマゴーグどもによって、丸山論文のようにかつては主流を占めた、物事の根本を腑分けしようとする惜しみない思索の持久力の賜物が軽んじられるのはソクラテスならずとも忸怩たる思いは先鋭的に募るのであった。(←破格の一文悪しからず)
戦時の軍国主義と現代の純正全体主義の実相は、結局のところ「民衆」をその「主体」と置くべき「全体主義」である。しかし軍国主義においては、結果として誤謬と欺瞞を戦後にまき散らすのだがトカゲのしっぽ切りのようにして軍部批判、国体批判をやれば名目上は処理された事になった。しかるに今時の全体主義はそれらが見かけ上不在であるがゆえに、更に名目上民主主義政体を取り繕っているがために、主体である民衆自体を免責できないのである。故に「純正」なのである。
丸山論文で網羅された軍国予兆現象(政治家の官僚化、官僚腐敗、世論形成の主体者が世論に動かされる循環的主体喪失、過剰な日本礼賛、原発諸々の既成事実への無抵抗な諦めの大勢、外患、家族主義…国家=企業=家族、等々)は既に現今日本で顕現する現象でもある…しかれども早晩補完される純正全体主義としてはその「草の根」度がかつての軍国よりも浸透していると考えると、露骨な明文化と官憲による弾圧といったドラスティックな遷移ではなく、なだらかに、しかし確実に真綿で首をゆっくり締めるが如きマイルドな変容を呈するだろうと此処に予見しておく。しかし、安倍独裁と見るか純正全体主義と見るか、一考察する手間はあってもよいと現段階では思う。こんなことを云っていても…小生も現実では…例えば細君から、いい加減、メガショッピングモールの会員カードを作れ、と強要されてもいて…会員になればポイントとやらも溜まるしクリーニング代が20%オフになるから、などと…此れは思想の問題だから一考させてくれと申している状況なれど時間の問題…一方で裁判員制度の裁判員が心の負担を抱えているという報道にも憤怒の念がこみ上げるし…裁判員制度自体は司法に有権者の意見が入るよい制度なのに、裁判員の主体となる一般国民自体の「権力への意志」(ニーチェ)があまりに小市民的に軟弱だから、心のケアがどうのといった問題に転化され、その事が、司法から国民を排除したい特権階級による反動勢力による、裁判員制度反対論の手先になっている事が分からないのだろうか。常日頃から人が人を裁く事に思いを致しておれば裁判員になって犯罪の実態や司法の現場にびくつく事はないものを、権力の切実を有権者自身が思わないから、心の負担だとかいった、うろたえた不様を示すのであり、司法からあらためて有権者を放逐しようとする特権勢力を補強する、自分で自分の首を絞める愚昧なる惨めを呈するのである。
虎視眈々と9条改正のどさくさに平成翼賛体制の布石を打つ懸念が払拭出来ぬ自民党に以下の言葉を送り付けたい。誰の発言かよく考えよ。
「国家が人間のためにあるのであって、人間が国家のためにあるのではない。」
アドルフ・ヒトラー『我が闘争』
次元大介はコンバットマグナムの早撃ちでルパンの危機を頻繁に救うが…小生は俄かにお出ましになったミスターGを駆除すべく部屋の八紘にキンチョーのコンバットを緊急配備する体たらくで…前述のようにテレビを漫然と流していると純正全体主義予兆ばかりにうんざりなので、DVDレンタルして、ルパン三世のテレビアニメ第一シリーズを毎晩熟視聴するのであった。掲載の写真はモンキー・パンチ先生の原作漫画コミックスの表紙だが…今宵は原作漫画については激賞したい事盛り沢山なれど触れない。アニメのエンディングの歌についてうっとり余韻を馳せたいだけである…しかしこの歌の題名が「ルパン・ザ・サードの歌」で歌手が「チャーリー・コーセイ」氏なのかアニメ(以下、動画という)での記載上、はっきりしない。それはさておき、コーセイ氏(歌の発音から、日本人と推測)の大声やかまし歌唱が朗朗とがさつでよいのである…何やらGS仕込みを思わせる無手勝流の、教育されざるソウル歌唱が手が付けられぬ気ままに、劇中歌としても野放図にシャウトする…ブルー・アイド・ソウルならぬイエロー・スキン・ソウルと云うべきか。ルパン三世という希代の物語についてもその骨格について述べるつもりも無い…ただただ今は、その世界観の断片を深腸で以て味わいたいだけである…毎晩、酒が進んでしょうがなかった。あっという間にワインを空ける…キレギレなる場面の断片のはかなくも美しい鮮烈を思うだけで…初期の頃の、無国籍の荒野を舞台にした、ハードボイルド度がコミカル度よりも高い頃の荒みと切れ味が忘れられず…木という木が全て、太く短く枯れている褐色の荒野に横臥したルパンと次元…戦闘の合間…黄色の空に紫の雲、赤とんぼを眺めながらゆったり過ごす大人の間合いが滋味深く…そうした荒野に点在する、馬鹿でかい空家の洋館に仮寝するルパンと次元…生活感の全くないだだっ広い大広間には、投げやりな感じの抽象画、マントルピースと木の椅子と、大ぶりのソファのみ、いつもの背広のまま次元はどっかと、たいていそうしたソファに足を投げ出して盗みの日々に眠るのであってルパンはルパンで木の椅子に馬乗りになって手筈を巡らすのである…頓智と周到、意表の効いたスピード重視の盗みの「仕事」の合間に設けられた、余裕の暢気が飄逸で味わい深い。小奇麗なCGを如何に駆使しようとも筋を追うのに汲々した昨今の粗悪アニメにはない合間が、味わい深いのであった。得体の知れぬ奇術師や時間旅行者、山岳ゲリラ的シンジケートや隠遁した偽札職人といった、およそ社会と隔絶した連中と、社会と隔絶した場所で丁々発止やりあう鋭い目つきのルパンと次元、時々不二子だったが、時代が経つにつれて…豪華客船とかモナコといった華やかな舞台へと、コミカル度も増しつつ移行するのだが…初期の、荒涼としたハードボイルドを懐かしく思うのだった。あの、ルパンたちが巣食う、生活感ゼロの洋間に掛けられた、ペンキを三刷けほど無造作に叩き付けたが如き投げ遣りな抽象画が欲しくなった。自分でも描けるが、そうすると自分臭がするので、やはり他人が描いたのが欲しい。あと、キューバが米国と国交回復しつつあるが…キューバで現役である、重要文化財級の、ルパンたちが愛用する昔の「古き良き車」たちが、資本主義圏との大っぴらな交流によって、乗り心地や燃費はよいがデザインが民主的市場的卑屈に丸まった最近のつまらん車に駆逐されねばよいが、と懸念する。
歌詞を上げておく。寄る辺無き稼業を生きる男たちの人生の無常を歌い上げる…
足元に絡みつく
赤い波を蹴って
マシンが叫ぶ
狂った朝の光にも似た
ワルサーP-38
この手の中に
抱かれたものは
全て消えゆく
さだめなのさ
ルパン三世
ルパン三世
いーーーーーーっ
「the rascals/the very best of the rascals(1966~)amcy-2201」
涼やかな春の夕風に誘われて、三蔵法師よろしく街に書物を買いに出かける…すると今年2015年の2月にようやく丸山眞男の思想の原点にして現代日本の基本文献とも云える「超国家主義の論理と心理」が岩波文庫に所収された事を知って驚愕、早速代金を御払いして耽読と行きたい処だが初っ端から一言一句が小生の問題意識の経絡秘孔を衝きまくるから動悸と息切れが激しうなって容易には読み進められぬ程で殆ど眠れなかった、という具合なのである…30数ページ程のこの小論文は終戦間もない1946年5月に雑誌発表されるや否やそれこそ敗戦日本人の知識層を思想的に鷲掴みにしただろうし、その後恐らく1960~70年代までは広汎に読まれて戦後日本人の思想的基盤となっていただろうがいつしか読まれなくなったが為の現在のこの体たらく、この腐敗した(腐敗も出来ぬ)チンケで卑劣な政治状況なのだろうか…小生が、無知ゆえの自力ながらそれなりに自負を以て、何度も、西洋の独裁制やファシズムとは内的構造の相違によって「峻別」できるものとして日本における「純正全体主義」を提唱し、現在はその補完への進行形であると説いてきたのだが…既にして「超国家主義の論理と心理」においても、用語や着眼点は小生と多少異なれども、ほぼ同様の指摘は為されていたのであった。およそ一個の思想家として戦時を生き抜き、下層農民出身の軍人にぶん殴られながら軍国日本の由来と構造を暴くべく思想家としての刃を懲罰的軍務生活の中で研ぎ澄ましていた丸山氏が戦後、時代の火急なる要請への逸早い即応を兎も角の主眼として書き上げられたこの小論文は従って荒削りで歯切れの悪い箇所もあるがしかし構造を捉えるデッサンは飽くまでも精確であるから、思想の役目の8割は果たしているといってよい。それくらいに、小生の用語で恐縮だが「純正全体主義」の実相と、簡易的説明ではあるが歴史的政治的経緯をほぼ浮き彫りにしている…その内容は小生の駄文などかなぐり捨てて今すぐ書店なりネットなりで購入して確認していただきたい。時局に即応せねばならぬ思想の緊急性を習って小生がこの小論文の概要を掻い摘むと…宗教戦争~市民革命といった数百年に渡る政治闘争(内面の自由と国家との闘争)を経た西洋近代は内外の分別を付けるようになり、しかるに内面(思想、信仰)の自由を保障すると共に、国家は社会の外部に存立する法体系に解消される…しかし軍国日本は明治以来、急速な文明輸入を謀る中で内外の分別をつける理(ことわり=事・割り)が醸成される機会もないままに内面(私)が国家化(公)されると同時に、国家(公)が内面化(私)される事になったのであり…公私の相互貫入をして純粋なる「全体」という化け物を生み出したのである。前者が思想信条の自由の禁止や翼賛体制となって表出し、後者は満州事変のように軍人の私的思いつきが公の語法で生成、通用する構造を生み出したのである…要するに西洋民主主義はファシズムも含めて主体が存在するが日本軍国主義には主体が不在である、という真相である。だからこの国では幾ら選挙やっても投票率が低いのである。自分に主体が無いと選択できないからだ。この国に主体がない原因は、それこそ丸山眞男のライフワークである浩瀚なる大著「日本政治思想史」に詳しい。その他、原文には重要過ぎる指摘だらけであるから今すぐ読まれたい。
そして繰り返すが1946年に書かれた「超国家主義の論理と心理」の、希望に満ちた末尾をここに抜粋する。
「日本軍国主義に終止符が打たれた八・一五はまた同時に、超国家主義の全体系の基盤たる国体がその絶対性を喪失し今や始めて自由なる主体となった日本国民にその運命を委ねた日でもあったのである。」
…最早、現代への皮肉にすらならない、笑えない真実が炙り出されるではないか。丸山氏が2015年現在もご存命であれば現代日本の諸相からみて、ぞっとするような情けない絶望を味わうであろう。そう、この国にはいまだに、「自由なる主体となった日本国民」など皆無である事に気が付くからだ。小生が何度も云っているが、「いまだ戦後ではない」のである。テレビのニュース番組や情報バラエティ番組などで馬鹿の一つ覚えでツイッタ―などを恣意的に摘み出して垂れ流す無能無自覚も、そのニュース番組が主体無き衆愚の「全体」の言説と相互是認しているという馴れ合いによる全体主義の熟成過程を小奇麗に見せられるようだから本当胸糞悪い。最近まではdボタンを押せばツイッタ―垂れ流しを視聴者で消去できる配慮があったが今ではそれも絶無で、そうした選択肢も与えられない。SNS如きの素人の断片的でその場の思いつきレベルの言葉の屑が幾ら集積されようともこの国の純正全体主義は解消されないどころかそうした集積がビッグデータ化される事でむしろその補完を増強せしめるだけの、軍国時にはあり得なかった新機軸の全体主義が現在では見て取れる。一方で、書物の形できちんと表現された本物の思想も、さほど流布されず微力に甘んじる、この閉塞感たるや。ところで現代における新機軸の全体主義とは何ぞや。それは、SNSなどの、政治の外で発達した技術要因とは別の事ながらそれらの後押しを受ける具合なのだが…戦時軍国主義批判においては国体論=天皇論を主軸とする事で、戦勝国史観も手伝って、「民衆」を「免罪」乃至は「免責」する事が可能であったが…戦勝国史観とは主体性のある独裁者=悪、民衆は善にして被害者、という西洋思想の産物である。ところがどっこい此の国には「主体」など存在しないのだ…現今の新しい「純正全体主義」においてはもう「民衆」を免罪する事など出来ない。何故ならば純正全体主義とは裏を返せば純正民主主義とも云えるからである。民衆という全体こそが原因であるという本来が如実になる事であるからして、此れも小生が何度も云っているが「民衆という実存」と如何に対峙するかが言論の課題となるのである。全体という結果の原因が全体であるという理性不在の、言葉の屑は溢れども言葉の意味を我が物とする意志の欠如した文盲だらけといっていい此の国に対して理性は何ができるか、という事…風車に突進するドン・キホーテは外から笑って安心できる揶揄でも何でもない、人間が人間であるならば誰しも要求される心掛けである…。言論の危機でもあり、だからこそやりがいがあるから好機でもある。まずは民衆の多数派が全体化する相転移を少数=個の排除という副次的現象の側面からでなく…(長くなるので今日はここまで。)(何も、ツイッタ―での発言全てを非難しているのではない。短文だから駄目だとかではない。寸鉄を射る至言だってあろう。普段の日常事の呟きに目くじら立てているのでもない。要するに政治的な発言をする時はよく考えるべき、くだらん事は書くな、という事で、内容が問われているのである。)
さて、ラスカルズのベスト盤である。ヤング・ラスカルズともいう…往年の、ブルー・アイド・ソウル(青い目のソウル)の嚆矢…フェリックス・キャバリエの元祖さながらなソウル歌唱を味わいながら、声調のスペクトルの境界が際立つコーラスは木質で重厚に流れる。しっかりした演奏でもある。昔、よく聴いていました。なぜ急にラスカルズの事を思い出したかというとカルピス子供劇場「あらいぐまラスカル」をレンタルしたからであって…動画表現としての工夫は乏しいが何と云ってもラスカルの間抜けな阿呆面が憎めないし、主人公の少年スターリングという人物もどこか常軌を逸して、物語として面白かった。蓋を閉めたら真っ暗な小さい木箱の中でスカンクを4匹も飼育している謎も明かにされぬまま御約束の放屁事件を起こして結婚式中の教会に臭気が充満した大騒ぎの挙句、野に放たれたり、ああいう愚昧な暴力男には何云っても無駄、そいつを上回る暴力で徹底的にぶちのめすしかないと日頃の所業で思わせる、生来のゴロツキ根性の菓子屋の息子をスターリングがぶん殴って叩きのめしてくれたので痛快、すっきりしたのであった。この菓子屋の息子は、ラスカル自体が欲しいというのでなく、他人が持っているから欲しくなるという卑しい理由でラスカル強奪を度々謀る度にしくじっており、その度に姑息な暴力を振るう始末、更には勝負に負けた腹いせに無辜の蝦蟇蛙をぎりぎり捻じり踏み潰し殺したりと、その悪行が目に余る次第だったので、ついに旅の黒人ボクサーから勘所を習得したスターリングが鉄拳をお見舞いしたのであった。この黒人ボクサーは黒人ゆえに、試合が判定に持ち込まれると白人審判によって必ず負けとなる状況に甘んじながらも、KO勝ちなら確実に勝者になれるのでKO勝ちにこだわるしかないという過酷な人生でボクシングしている御方である。
日常の俗事にかまけてつい忘れがちだが…たとえ70億人の全人類が賛成する事でも何の正当性も無いし、たとえ70億人の全人類が反対する事でも正当性はありうる事を肝に銘じたい。
「squarepusher/big loada(1997)srcs8417」
尊厳や誇りと云った重厚感あるとっつきにくいものというよりも普段の気持ちをしっかり持って行動しなければ、外部のゴロツキ国家と自国の世襲政治家と経団連といった既得権者の私腹を肥やす具合に幾らでもやられ放題で劣悪化する政治状況、経済状況への疲れ目…徒な過敏による憂国の絵空事に惑わされずに直接己が身に突きつけられた刃にのみ集中すべしと心転ずれば季節は清明の春爛漫、しめやかな下冷えの風に、潤んだ花々が吹分けられて垣間見える新緑の眩しさにこの世の憂さを忘れて太平楽を託つ…
花に風かろく来て吹け酒の泡 嵐雪
彦山の花はひこひこ小春かな 惟然
呑むほどに三日月かかる桜哉 万子
よきものを笑い出しけり山桜 乙由
春雨前線の合間を縫って花見にしゃれこむ機敏もまた春眠足らぬ午睡に妨げられて俳諧の花を興ずる日永一日。馬鹿の知恵は後からで、過去の、市川海老蔵の一件で妄想を膨らます…題して「西麻布酒場之過誤」(にしあざぶさかばのしくじり)…政治家小沢一郎の…平家さながらの自民党幹事長時代から自由党、民主党を経て讒言国策捜査による失脚、原発事故後の夫人からの三行半(みくだりはん)を文藝春秋に紙面公開に至って「生活の党と山本太郎と仲間たち」という、団体名からして何がしたいのか失笑を禁じ得ぬ迷走の顛末は夢幻「能」にすべきだと以前から提案しているが(角栄の幽霊と対話する一郎…)…歌舞伎というのはもともと、徳川検閲当局からの摘発をぎりぎりのラインでかわしながら巷間に広まる話題を逸早くネタにする下世話で以て同時代の庶民を楽しませるのを旨とするのだから、海老蔵のあの一件はぜひとも海老蔵自身が歌舞伎台本に仕立てて上演すべきであって、それでこそ成田屋の面目というか、平成荒事十八番への期待が高まるというものである。草葉の陰で先代団十郎も頼もしく思ってくださるはず。役者はざっとこんなものか。
利尾介の先輩:中村勘九郎
伊藤利尾介:本人
壱河蟹蔵:市川海老蔵 本人
壱河段五郎:団十郎、勘三郎など、歌舞伎界の重鎮が次次亡くなっておられるので…ここは先頃引退を発表した義太夫の竹本綱太夫氏に、親代わりになって頂く。あるいはギャグで、海老蔵と昵懇の中村獅童なら快諾されるだろう。
夜な夜な西麻布の遊郭を荒らし回る、人気役者の跡取り息子の蟹蔵。親の権威を暈に着ての御大尽、女郎総上げで酒池肉林に及ぶ処…月代の黛も青々とした鯔背な火消しの「先輩」が通りかかるのに、蟹蔵が贔屓にしている芸妓が流し目を使うのが気に喰わず、…先輩を座敷に呼びつけては無理難題の因縁をつける海老蔵、間違った、「蟹蔵」であった。海老蔵が灰皿にテキーラを入れて先輩に飲まそうと強要するあの有名な灰皿テキーラの場面は…あろうことか蟹蔵は煙草盆の火入れに清酒をなみなみ注いで先輩に飲まそうとする、という具合に翻案されるだろう。蟹蔵「吾こそは人間国宝、平成の助六なり~わが盃干しやれ~や~」。傍で控える、憤懣やる方ない舎弟の伊藤利尾介、その顔面は、西洋タトゥーのデザインも取り入れたイカツイ隈取りの化粧なのだが…利尾介「あな口惜しや口惜しや、この恨み如何に晴らしてくれようぞ~」などと大見栄切って、勧進帳ばりに蟹蔵をボコボコに打ち据えるのだった。蟹蔵「御止めくだされ御止めくだされ~御堪忍御堪忍~」。事を為した利尾介、団十郎ばりの飛び六方で花道を引っ込む。片目だけ真っ赤な隈取りを施した蟹蔵の謝罪会見というか口上、その次に段五郎の口上「返す返すも愚息の不祥事、偏に親の不徳ゆえ、此の責め一身に御受け奉り候ば皆々様の御赦しを平に平にお願い申し上げ奉りまする~」で幕、こんな感じでよいだろう。山場だらけの大一番だと思う。
スクエアプッシャー。トム・ジェンキンソンだったか。いわゆる90年代ドラムンベースの嚆矢なのだろう…最早人力では演奏不可能の高速複雑ビートを電子機器で以て構築するが、その方法としてドラムとベース音を根幹とした、それが現れたらば受け手にとって馴染みやすいが創作者としてはしっかりした信念が無いと出来ない厳然たる選択によって表現たり得ようとしたものであった。とは言え、騒がしくも精巧に刻まれるビートの骨格を覆うようにして怒涛する背景輻射音のシンセは悲しみに暮れており、悲しみを受容する感覚すらも麻痺してしまった希薄な悲しみが癒える事は決してないとばかりに、イイダコほどの大きさの赤黒い胎児を流産しながら何処か猟奇的悦楽を北叟笑む薄ら寒さをも表出の核に据えている。サンプリングも旺盛で、剽窃の苦労からも逸脱して、ビチビチの下痢便の音もビートに供出される何でもありが啓けた。
秋篠宮系の次女の内親王が衆目を集めているが…異国の神を奉ずる大学に転入するのは構わぬとして、しかし、皇統である以上、その前に、事前にしっかりと、伊勢皇大神宮に参ってその旨を報告し、ゆるしを乞うているのだろうか。古の聖武天皇は大仏建立に先立って、伊勢神宮に参拝して数日籠り、皇祖神と内的に向き合って、産土の御国を取り巻く内外の諸事情を勘案して異国の神を輸入する旨を届け出、天つ神や国つ神の妬みと荒みを和らげ寛容の沙汰がなされるよう古式に則り一心不乱に祈ったという…キリスト系大学への転入が決まったと報じられた「後に」、この内親王は皇室の名代として伊勢神宮に参詣している報道があったのが看過できぬのは小生だけなのだろうか。少なくとも宮内庁は、内親王がキリスト系大学への転入手続きをする前に、伊勢神宮に参拝し主祭神に報告したかどうか、を公にすべきである。およそ近代憲法下において税金で食っている特権階級を庶民が崇めないといけない理由など無く、あるとすれば、外交での効果の源泉でもある、やまと歌も含めた有職故実の文化に通暁している事に他ならないが、しかるに近年の皇統主催の「歌会始めの儀」で披露されるやまと歌の粗悪な事といったら!今上皇后陛下を除けば、他の皇族の歌のほとんどが小学生の標語レベルであり、とても歌とは呼べない代物である。歌学の基本である有心の情というものが全く成っていない、それも、うまく出来ていないならまだしも、端から全く習った事が無いが如き態の、歌学を知らぬ明治以降の素人歌人の空真似レベル以下なのである。歌学を守らず何の皇統か。藤原俊成、定家の嫡流にして今も古今伝授を司る京都の二条家は何故この堕落した現状を黙って見過ごしているのか。
桜日や鶯嬢のけたたまし
熊蜂や鮨一貫の飛来せり
「岡山ペパーランド(2015.3.21)」
つくづくロックという音楽には、最早これ以上のものは存在しないと断言できる音楽が、イデアや浄土ではなく、他ならぬ過去や、とりわ け現在にも確かに眼前に現存する、という奇跡的な現実に、どこまでも現実的な醍醐味があった。
そうした核心を改めて宇宙三輪車はきっちり召喚 してくれた、稀有ながらも自立して突飛突発する勇躍を此処に讃えたい…思えば、これ以上のものはあり得ない、もう十分だ、と思うしかないよう なバンド音楽とこれまでも度々遭遇していたのであった。めがほんず、ジーバット、そして数年前に遭遇した、確か神戸のバンドだったか…悔しい かな如何しても名前が思い出せないモヤモヤした記憶のムカつきが本格的な不快へと、吐く物の無い嘔吐感が石抱きの拷問のように…なんという名 前だったか、いっそ、思い出そうとしなければよかったがこれは苦しい…拙い検索技術を以てしてもどうにもならずどうしても思い出せない、喉元 まで出かかった小骨の正体が…思い出せぬ苦痛が一生続くのかと思うといっそ喉元欠き切りたくなるほどのもやもやした不快感であるがそれはさて おき、もう十分だとしか言いようがないあまりに現実的なバンドの一つとして小生の記憶において宇宙三輪車も起爆する事になったがだからといっ てこれらのバンドたちが一つのグループに収容されるはずも無く、やはり点在して同時多発的に勃発する独立なのであった。余談だがスコッチがお いしいスコットランドの国花でもある薊(あざみ)の花言葉は「独立」である。
通り魔か辻斬りのような遊びの無い悪質ぶりによる小気味良い切り傷を小生に残して去ったつれないバンドが居た…Nameless、という。黙黙たるリ ハーサルからいつの間にか本番に突入し、通常のバンドだったら曲間に自己紹介したり主義主張の語りを入れてくるのだが、彼らは終始無言で、各 バンドやピンの演者が最低限言う主催者への御礼さえも無く…よく訓練された、コントロール室でのオペレーションのような寸分の隙=数奇も無い 職人技的メタル爆音奏法をきちんと構築し終わって即座に去る問答無用、といった風情で…維摩経における「維摩の一黙」という話を思い出す。維 摩居士が文殊菩薩以下錚々たる仏弟子たちに、不二法門に入る要諦を問うのだが…それぞれの菩薩たちは生死、善悪、我と無我、浄と垢、等々の二 項対立をそれぞれの論理展開で否定するのだが真打の、知恵第一と謳われる文殊菩薩がおもむろに全菩薩に向けて「一切法において、言無く、説無 く、示無く、識無くして諸々の問答を離る。これを不二法門に入るとなす」と、特に維摩詰からの最終的な賛辞を期待して大喝するのであるが…維 摩居士は経典での記述曰く「黙然として言無し」、つまり何も言わない。この黙然の意味を悟った(つもりの)文殊が感動して叫ぶ、「これ、真の 不二法門なり」と。不二の法門は言葉に出しては言えないものだという真理を、言葉に出してしまった文殊菩薩に対する、「目の覚めるような批判 」(※1)が「維摩の一黙」、であって、この顛末、この真理を納得する知性の波が、問答に臨場する諸菩薩 や大衆の間にさあっと、まさしく無言で広がり渡る様がぞっとするほど心地よい痛烈な話である…ヴィトゲンシュタインのような事を仏典はとうに 喝破していたのだが、それはさておき、黙然を全うしたが如きNamelessが果たして不二の法門たりえたかどうかは、ここは音楽の現場である以上、 音楽の内容で問われなければならなくて…ついでに維摩経で説明すると…そこでは、世俗の執着にあたふたする愚人の法も否定するが、世俗を超越 して孤高の逸境に籠する迷いの無さ(=小乗)も排斥するのであって、清濁併せ呑む「方便」にこそ菩薩の「行」を説くのであって…Namelessの、 律儀なる様式への充足はさしずめ「小乗」である。無論、小乗、利己であってもその音楽は相当に味わい深く、楽しめた事には変わりない事を申し 置く。という訳で不二法門の大乗の境地に至ったという意味で宇宙三輪車に軍配は上がるだろう…して、その音楽は如何にと問われれば、ここは維 摩の一黙、という事で筆舌に尽くし難いという事で勘弁願いたい。実地に聴いた方にしか分からぬと思う。
幾度も書いてきたが、演劇やライブ演奏 のような、人間が人間の前で直にやる古代的な一回性の芸術は、如何なる世になろうともしぶとく生き続け、人間の人間性を鼓舞し続ける。たとえ 、この国において純正全体主義の補完が絶えざる国民性によって求心的となりデジタルビッグデータがそれを加速させる奴隷天国が来ようとも、人間の地獄を活し続ける事を祈願する。一見すると狭い防音ライブハウス内での表現方法では衆を恃まぬ小乗であろうとも、専ら表現内容においては あくまでも不二の大乗である事によって、硬直した、管理統制済みの浮世の縛を解きほぐさんと悲願するのである。それはそうと在家でありながら その心理/真理において出家していた維摩詰の数々の言行を踏まえた維摩経の存在一つで、百家争鳴を誇る大伽藍の如き仏教の意義全体が救われて いると思うし、その黙然という危うさにこそ支えられてしかるべき仏教のラディカルさ(根本)はいつまでも清新である。
註:「小乗」とは、あ くまでも大乗仏教側からの恣意的な蔑称に過ぎない
※1 旺文社「方丈記」での今成元昭氏解説より
しかし、…小乗と大乗との、不二を廻る根本的問答においては端から俎上に上らないような劣悪な愚行も、同じライブ会場で見受けられた事も、こ こで取り上げぬ訳にはいかぬだろう…宇宙三輪車やNamelessなどとは比較にならぬほどの「粗悪なロック」の見本のようなものも、見受けられたの であった…「その音楽」は、音質はよいし(これはライブ会場の機材のおかげか)、音量も、体に堪えるほどの十分さ、それなのになにかぶよぶよして締まりのない 、貧困の実情を知らぬ傲岸なる満足から発する不様な肥え方をした音塊、どこか馴れ合いの臭う、飼い馴らされた、生温い健康志向の音が繰り出さ れたのである…要するに「その音楽」は「荒んで」いなかったのである。少なくとも宇宙三輪車にしてもNamelessにしてもジゲンオルガンにしても方法 は違えども「荒んで」はいたのである。(←「荒み宣言」を参照のこと)いったい全体どこのどうした音が悪いのか、その粗悪さは体で感覚でしっ かり感じ取れたが認識(言葉)ではいまいちピンと来なかったものの、曲間での演者の語りに、自ずと粗悪要因たる言説が滲み出たのであって聞き 捨てならなかった。文意としては「盛り上がろうぜッイェイ、気持ちいいー」「ミッシェル・ガン・エレファント、みんな好きですよね。俺も大好 き」「ミッシェルの魂を俺は引き継ぐ!」といった言説である。ミッシェル~の音楽性は存じ上げないので引き継ぐ事の是非は問わぬが「荒み」の 観点から云えば「継承性」を奉じた途端、荒みが薄まるだろう。「盛り上がろうぜ!」「~、みんな好きですよね」といった言説一つとっても 鼻白むゲンナリ感は否めず、心の根深い処から嫌悪感が染み出て、…時が経つにつれて、宇宙三輪車のような不二の音楽さえも現存した現場にかような劣悪も同居していた事に即自 的な怒りも否めず…無論、不二の理に、排除の論法は無いのでその雑居ぶりを寿ぐべきなのだろうがいまだ悟り叶わぬ衆生の小生にあってみれば拙 論で以てささやかな露払いに努めとうなる忠義にはやるのも已む無しであろう。「盛り上がろうぜ!」は、要するに、明るい感じ=社会的善、とい う、直線的な、与えられた餌を無批判に貪る無思考の、意志を剥奪された家畜の態であると同時に、そうした生き方を無邪気に他者に強要する事に 何の違和感も感じない、奴隷が奴隷を勧誘する言葉である。奴隷を増やすのは奴隷にしかできないからだ。言葉の意味では、等身大の共感を広く求 める友好的な表明であろうとも、それは、この社会においてロックという音楽が受容され使役され承認され即ち隷従を強いられる一般的言説であり 、それを無意志状態で後ろ盾にしつつ支えている上から目線の強権的な支配者=奴隷を演じているのであるからロックの本義(社会的にして思想的 基底における荒んだ独立)を忘れた下衆(ゲス)の言説と、それを滲ます音楽であるといってもよい。人間は個別の生を生きるのであって一般論を 生きるのではない。しかるに一般論は複数の人間から抽出された概念に過ぎないのに、人間がその一般論に合わせようとする、あるいは人間を一般 論に合わせよう、矯正しようとする強権を蔓延させる愚劣をここで批判しているのである。そうした事例は現在でも歴史上でもそれこそ枚挙に暇が ないであろう(結論ありきによる官憲による自白の強要、冤罪、耐震偽装、STAP…)。音質がよく音量が大きければたいていの音楽は聴けると たかをくくっていたがそんなことはない、ただうるさいだけの音楽は我慢ならぬ事を知った。こらえきれず…自分の人生のかけがえのない時間をこ うした音楽に消費されるのは許し難いから、あと二曲残す処で、外の空気を吸いにライブハウスを出た。
岡山ペパーランドの音質がよい、と書いてきたが、具体的には…何というか、どんなに重低音や先鋭高音であっても音がまろやかで喉越しがよいと いうか、音が、聴こえる一つ先まで伸びるが、耳に障るほど響かない抑制ある深みというのか…身近な喩で恐縮だが、よく塗られた漆の、光がすっ と深く入って、しかしテラテラ反射せず、シンと落ち着いた透明感ある佇まいに似ていて…。経営者の確かな技術的知見と、音楽に向き合う誠意に よるものと推察する。
それにしても、たけし、所ジョージ、爆笑問題と、いわゆる大物司会者たちまでも見境なく日本礼賛番組(日本人は凄い、日本の技術は凄い、おも てなし等々)を垂れ流すとは…それもたいてい、金髪青眼のゲルマン系白人に日本語で礼賛させる、あるいは、あたかも英語圏で放送された番組に 日本語訳を施した体裁に偽装した、手の込んだものであり(日本人は欧米で欧米人に褒められている、という自己演出の、情けない厚顔無恥よ)… 日本人は昔も今も庶民レベルで、立場の弱い民族や個人に対してその場の勢いに乗じて虐殺(南京その他)や人体実験(731部隊)、拷問(特高や憲 兵や現在の警察)や脅迫(特高や憲兵や現在の警察…自白の強要)や自殺の強要(特攻や沖縄戦…自発性の強制)を平気でやってのける、自立した 道徳心が欠如した残虐野蛮な人間であった/あることを忘れるな。それと同期/共鳴するようにして列島警察24時(悪い奴らを懲らしめろ!的な 、救い難い直線的思考)的なのもしょっちゅう跋扈、いよいよ、この国の、純正全体主義が補完の時へ向かっているのか…独裁制やファシズムは、 目に見える独裁者に究極的に権力が集中した時、唯一の独裁者vs一般大衆、という構図が仕上がり、唯一の独裁者が絶対少数者に成り下がった時 、一般大衆の威を借りた周辺者らによる寝返り、謀反、政権奪取が、さながら超新星爆発みたいに、ある意味容易に行われる自滅の連続であるゆえ に自滅させ得る希望は存在するが…純正全体主義は天皇制というからくりによって、目に見える中心=独裁者(主権者)が不在であるから、これを 体制内部から妨げる、あるいは終結させる処方箋は今の処存在しない…。ただし、天皇制が原因ではない。天皇制をなくせばいいという問題ではな い(深沢七郎の風流夢譚!)。いうなれば多数派が少数者を政治的にも心理的に排除する事で多数派=全体へと結晶化し…国民全体がそのまま全体 の原因となっているから全体主義なのであって少数の原因を抽出できないから対策が無いのである。だからこそ、芸能者、思想者として、やりがい のある、キツめの時代、キツめの国ではある。「美術手帖」を出している出版社がいつの間にか民事再生法申請とは…永らく買っていなかったが微 力ながら買い支えないといけないのかな…気骨のある、良質の出版社がどんどん潰れていく口惜しさよ。トーハトのキャラメルコーンはウヰスキー に合う合う。袋の中にコーン菓子だけでなくナッツも混入しているアイデアがよい。
巷にクリエイターとやらが安易に蔓延るが真に創造性を発揮す るのは稀でほとんどが薄ら寒いウケ狙いの一発芸に過ぎぬが…真にクリエイティヴと云える宮崎駿氏の動画作品は初期から連綿と、地震と津波が大 きく扱われているのが気になる…「パンダコパンダ」(1972)では大洪水(津波?)、「未来少年コナン」(1978)でも地震と津波、「風の谷のナ ウシカ」も王蟲による一種の津波だし、「崖の上のポニョ」も津波、「風立ちぬ」では関東大震災、という具合に…安倍公房が云う「御破算」の思 想という事か。風の谷のナウシカと天空の城ラピュタの萌芽が満載の、未来少年コナンを最近見たが、本当に凄かった。改めてその感想に取り組み たい。ちなみに高畑勲監督におかれては、「平成狸合戦ぽんぽこ」でも、「かぐや姫の物語」でも、危篤者のもとへ、菩薩やら如来やら観音たちが わいわい迎えにくる「来迎図」への執念が見て取れる…「火垂るの墓」も、広い意味では「来迎図」とも捉えられる気がする。もっと言えば高畑監 督がかつて演出を手掛けた「赤毛のアン」でのマシューの臨終に際しても天使たちによる「来迎図」とも思える。
ドイツの低価格航空の副操縦士に よる故意の、乗客を巻き込んだ自殺という最悪なる事件…心の病だったという報道もあり、なぜ心の病人を乗務させたのか、あるいはコクピットに 一人で籠城できる仕組みが悪い、などの議論もあるが…一方で副操縦士は労働条件への不満を身近な人に赤裸々にぶちまけていたと聞く…無論、不満があったからとて乗客諸共墜落というのは一切擁護不可能であるが…詳細は分からねどその心の病も、実際に劣悪な労働条件が存在し、それへの 不満があるならば根本原因は劣悪な労働条件であり、航空現場では最高度の安全性が要求され、安全の責任を最終的には人間が負うならば何よりも 人間を安全足らしめるのが必要であるならば良好なる労働環境を整える事が全ての安全の基礎ではないのか、制度や装置を構築し運用するのは何よ りも人間なのだから。加えて、副操縦士は目の病で機長への夢が絶たれていたという情報もあるが病気のせいで機長になれないからといって乗客諸共墜落自殺するという推測は不合理だ。パイロットになった時点で自殺願望があり要観察であったとの情報もあるが、赤の他人に直接迷惑が掛からない自殺方法は幾らでもあるのだから、自殺願望があったとしてもそれをわざわざ飛行機ごとの自殺を選択した理由とすることは合理的でない。兎に角「心の病」を原因とすれば不合理でもなんでもありうるが彼の制度への反感情報がある以上、それを無視するのは、何か別の力が働いていると考えるのが普通だ。何よりも副操縦士は「これからシステムを変えるような大きなことをする。それによって自分の名が永遠に残るだろう」と発言していたという証言があるのだから彼の目的は「システム」の変革であり、それも、労働条件への異議と怒りがあるなら猶更航空会社の体制への異議であり、しかるに社会問題、労使問題として推測するのが合理的だ。従って報道や論評は航空会社の労働条件を検証すべきなのにそれはほとんど為されず、原因をあくまでも副操縦士の心の病、目の病であると規定しそれ以上追及しない風潮は何なのか。この思考停止、奇怪な自粛は何なのか。
何が言いたいかというと、根本原因である劣悪労働条件について詳しく議論されない報道を見ていると、まるで、「劣悪な労働条件に不満を抱く」という、人間にとってごく当然の態度自体が「心の病」として認定され、社会的問題だったのが医学的問題へとすり替えられ、社会的問題が「無かった事」にされてしまう偽装工作が働いていないか、という強烈なる疑念である。人間の意志関係を議論する社会問題が、人間の意志に「病」の烙印を押すことで意志を議論から排除する心理学へと誤魔化される、人間精神への最悪の侮辱である。人間の意志=心の病、であると規定する人間の尊厳の侵害である。巷間の心理学だのカウンセラーだのは政治と資本の犬に過ぎない奴隷商人なのだから心理学が表に出てくる場合はその背後に資本関係が隠密裏に無意識に働いていると思ってよい。「労働条件に異を唱える」即ち「御上(資本)にたてつく」とはもっての外、という、御上(資本)に自発的におもねるこの国が得意とする自粛ムードが働いてないといいきれるのか。私企業のマスコミは大スポンサーである経団連に逆らえるはずもなく、NHKは政府から首根っこ掴まれている以上、昨今では無数に見受けられる、純正全体主義、平成翼賛体制が補完に向かう一事例といってよい のかもしれない。
「technosport/-(1996)srcs8097」
禅味に頓着する、これ菩薩の縛なり。
方便を以て生ずる、これ菩薩の解なり。 『維摩経』
みかへれば白壁いやし夕がすみ 越人
古池や蛙飛こむ水のをと 芭蕉
傘張の睡り胡蝶のやどり哉 重五 『春の日』
深淵はその知識によって張り裂け、雲は露を注ぐ。自分の悟りに頼るな。 『箴言』
知恵ある者は愚かな者より何がまさっていよう。 『伝道者の書』
(イスラエルの民は)先見者にはこう云う。
「私たちに正しい事を預言するな。私たちの気に入る事を語り、偽りの預言をせよ。道から離れ小道からそれ、私たちの前からイスラエルの聖なる方を消せ」 『イザヤ書』
(主はイザヤへ云った。)
「この民が謀反と呼ぶ事をみな、謀反と呼ぶな。この民の恐れるものを恐れるな。おののくな。」 『イザヤ書』
何のことは無い…往時(90年代)に賑わっていたいわゆるテクノミュージックの、かなり大雑把なコンピレーションアルバムである…教育されざる者たちの勃興ともいうべきである。古今東西の民族音楽や古典音楽そして最早ロックという音楽でさえも音楽を志して間もない者=初心者であってみれば古典の教育を授けられたり自ら学ぶにしろ古典を習う即ち倣うという所業を手始めとし、倣いとは訓練乃至は修行を実質とするから倣いの出来栄えを測る管理監督者乃至は、程度の差こそあれ教育者の統制の下に肉体的ひいては精神的統制即ち教育に忍従し教育結果を己の血肉と化す挙句があった。それはロックという、社会統制の在野で産声を上げた音楽においてさえも、社会的身分の高い教育者に服従するという赤裸々な音楽教育から解放されているにせよ、例えば広く伝播された、古典とされるレコード(ビートルズ史観)を聴く事、あるいは実地のライブ活動における対バン経験から、即ち上からでなく横からの影響ではあっても、そうした刺激に発奮して楽器奏法を練磨させる、そうした訓練を自らに課す社会関係を免れないのであった…少ない経験ではあるがロックバンドのライブに聴きに行くと、ロックの古典と同時代に生きている訳ではない年若な世代のバンドでもいわゆるロックという音楽の音作りを「教育」されている、しっかり身に付けている演奏をするのによく出くわす。そうした演奏もそれなりに楽しめるので殊更あげつらうつもりはない。初期電子音楽の実験傾向が一方で大衆分野においてテクノロック/テクノポップという、歌謡の伝統を引きずる中間体を開花させた後、ついにはロックやポップスが内包していた音楽の伝統(ブルース、ソウル、カントリー、…)からさっぱり解離し得た者たち=教育されざる者たちが出現する。この要因として大きいのは電子楽器の一般への普及であって、孤立した個人であっても自宅で音作りができる、しかも人間には演奏できないリズムやパターンも幾らでも、己の知識と才覚一つで実現できるという…これを、社会関係や肉体の鍛錬からの解放と見るか、可能性の縮こまりと見るかも、個人の相対的な選択に任せられるだろう。テクノ勃発のこうした流れなどあまりに当たり前なので今更おさらいする価値は無い。
ここで特筆したいのは、兎も角結果として、伝統的音楽パターンから端から解き放たれている、教育されざる者たちが出現した、台頭した、という事である。教育とは自由意志が前提される者で構成される共同体内で承認された、ある一定の枠組みを、未熟な構成員それぞれにおいて内面化させる事である。教育されざる者たちはそうした一定の枠組みや伝統を一旦度外視し、他者のやる事を権威と見なさず情報として受け取りながら各々が嗜好する音を無審査で放出し始めたのであった。
ここには既にブルースもソウルも無い。そうした状況を現出させた上で、ひとしきりテクノ内部で創意をバブルし尽くす事で、いろいろ飽きたので暇つぶしに改めて古典とされていた音楽を相対の嵐に巻き込み、古典づらの権威を台無しにする(ト―タスなどのポストロック的試み)のも捨て置きながら、更なる純化と拡散へと膨張する希薄になる。デュッセルドルフ、アムステルダム、シカゴ…点在する音楽地図…ほとんど糸遊の如き希薄化衰弱化の残像の極としてオヴァル/ミクロストリアが創意の断末魔した後、…それはさておき、テクノ内部における創意の暴発といっても人間のやる事だから、その内部にはやはり在り来たりな歴史のひな形がフラクタル図形のように確認はできる、しかしそれは古典音楽の成り行きが巻物のように時系列に並ぶ順序は無く、技術がもたらす高速化に伴って殆ど同時多発的に歴史的事件が勃発している事がこのコンピを聴いてもよく分かる。電子楽器に予め組み込まれた音を安易に引き出す無邪気、他の介入を阻止した内面化の果てに独自の音色を求道しようとする私小説的創造者の再臨(エイフェックス・ツイン等)、創造の苦行を虚仮にするDJ、爆撃音のみでリズムを構成する者、音素材の消費の果てに屈託ない電子音の夢を見るNIJI(電気グルーヴ)…この曲で幾度昇天したことか。ロックという現実に還れという呼び声も空しく…ロックという音楽は人対人の、古代的演芸の側面もあるから、演奏者の人格や人気、演奏時の所作やカッコよさやファッション、人生エピソードなども含めての雑多な音楽評価という事も実際にはある。そうしたものは聴者それぞれの判断で無視したり重視したりすればいいだけの話ではあるが…しかしテクノはそうした社会関係を捨象して、専ら出現した音のみで評価しうる比重が高いため、演奏者の人格や人生などはどうでもよい、音にしか興味のない小生にとってはすっきりと楽しめる音楽でもある。
北陸新幹線開業をこぞって祝う祝賀行事と賑やかな報道を見るにつけ…4年前の3/11、東日本大震災当日とガッチンした、九州新幹線開業の不遇を想う…自粛ムードに席巻され、何年も前から準備されていた祝賀行事の全てが取りやめとなり、しめやかな開業に甘んじた九州新幹線の不遇…決して忘れはしない。北斗星やトワイライトエクスプレス最終日にあたって暴動が起きなかったのは不思議だが、トワイライトエクスプレスの衣鉢を継ぐとされる、JR西日本が2017年春に稼働を予定しているトワイライトエクスプレス瑞風、という寝台特急の先頭車両が無茶苦茶かっこよくて痺れている。エグミのある抹茶色のカラーリングに、ウォーズマンやザクのように凶悪そうで得体のしれないグリルというのか柵なのか分からぬ大胆な意匠…JR九州の七つ星は内装の奢侈は兎も角として外観はごてごてしてデザイン性に乏しいが、それと比べて瑞風は、はるかにクールで深みのあるデザインであり、元元、旧国鉄のボンネットタイプの特急車両を好む小生の魂は鷲掴みにされた。
針山に針うずもれて寒戻り
underworld/pearls girl
denki groove/niji
lfo/tied up
the sabres of paradise/tow truck
jeff mills/change of life
the hypnotist/house is mine
aphex twin/digeridoo
hoodrum/alfred
hardfloor/beavis at bat
model 500/the flow
rythim is rythim/string of life ms-4 version
ken ishii/extra
来週は所用のため休みます。次回は3/29です。