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 ロック史を体系的議論から解き放ちながら、サイケデリアの土着性とハードロックの非継承性を論ずる。主要1000タイトル、20年計画、週1回更新のプログ形式。
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今週も休載…

持病の歯軋りによって頸椎の疼痛が頭痛にまで蔓延しコメカミがぎりぎり痛むのに加えて目覚まし時計鳴りっ放しジリリリリ騒音に小一時間悩まされた挙句の思い余っての激昂のままに、所用の手紙をしたため終えたついでに匿名の苦情文を紙にマジックで書き殴り発生源の部屋の郵便受けにぶち込むホトボリが寧ろ己の静穏をキリキリ苛むし、きっと親の金をせびりに来たに違いないバイク男のドルルルル夜中音にもいい加減堪え切れず…今週も如何ともし難く休載と相果てる…

現代美術館には結局、週を挟んで二回訪問する破目になり…赤瀬川源平の芸術原論展…去年の逝去により奇しくも回顧展、追悼展となったが…充実の展示内容で認識を新たにさせられる事多し…ネオダダと云えど画家本来の観察眼とそれを写実する技量は一通りのものではない際立ちを再認識…初期の抽象画にしても丁寧な線描に手間を惜しまぬ自然な根気が見て取れるし形態をとらえる技術は切れ味が冴えわたっており、何より、欲しくなる。変質者的なダダ的立体造形物も造りが丁寧だからか、なんだかんだで今となっては鑑賞に堪える、という…ダダ的観点からすれば「鑑賞」「作品」という枠組みの破壊を目論むものが、皮肉にも、根強く底流していたらしき妥協を許さぬ物作りのこだわりも手助けして、「鑑賞」や「愛玩」に耐えるようになってしまっているという、ダダからすれば耐え難い残酷な年月の経過でもあろう…初期から晩年までの仕事をよく網羅して資料的価値の高い今回の展覧会カタログでは没年が記されていなかったので、2014年に急逝される以前に企画されたのが伺える此度の展覧会…ダダも路上観察も展覧会という枠組みに収容された現在を、どのように思われたか…その日は件のカタログと、新書「利休 無言の前衛」を買って帰ったが、一週間経って、やはり、初期の文章も欲しいと思うようになり、改めて美術館に行って必要書籍を数冊買い上げてきたのであった。尾辻克彦名義の小説を長い間親しんでいた小生…そのほどよく抜けて且つ明晰な文章の卓抜で以て、読売アンデパンダンやネオダダの活動を渦中の本人が活写してくれているのだから他人の評伝より価値はあるだろう。案の定、まず「いまやアクションあるのみ!『読売アンデパンダン』という現象」を読むと…創生期からの主催者や評論家、作家群の思惑や志や諸事情が記録されて往時の沸騰した状況の暴発がよく分かる…読売新聞の中の組織人でありながら「日展を頂点とする団体展や公募展を潰す」という攻撃的で先鋭的芸術的意志を明確に持った主催者の海藤日出男、未知の芸術の発生を逸早くとらえて目撃者に徹する慧眼の批評家瀧口修造、お仕着せの、上からのとはいえ闇雲に支配的な民主主義への行動熱という時代背景、そして有名無名の有象無象の作家群…送辞として小生が云いたいのは…「ダダよ、そしてネオダダよ、あなた方のおかげで、私たちにはもうやる事がなくなってしまった。そして、しかし、やる事がなくなった処から始める事が可能になったのである。最早見かけ倒しの枠組みに拘泥する手間は、あなた方のおかげですっきり省けたのであった。やる事が無くなった爽快なる不毛な荒野で、否が応でもアンデパンダン=インディペンデント=独立せざるを得なくなったのである。」

もはや「ジャンク・アート」という名前にさえ戻れないような気がした。
   赤瀬川原平 著「いまやアクションあるのみ!『読売アンデパンダン』という現象」

この国の投票率の低さには頭に血が上って丁寧に考えられないけれども…兎に角、選挙に行かず国民主権を行使せずこれを自ら放棄する者は、国家権力から何されても構わないと公表しているも同然なので、公民権を即刻剥奪して財産没収して憲法の埒外に置いて強制労働させて使い殺せばいいと思う。投票や議会政治だけが主権の行使にあらずと断ずる、高邁なる勁草の士におかれては、論文執筆や街頭デモも主権行使活動と見なして先述の奴隷化から除外する。番組のスタジオでアホな識者風情が「投票に行けというよりも、投票に行きたくなるような環境整備が必要」などと、聴いてるこっちの頭がおかしくなるような頓珍漢な事を云う始末に激昂…この、国民の態度を代表するらしき言説の、「そんなにいうなら投票に行ってやってもいいけれどもその前にやる事があるだろ」的な、何重にも勘違いした態度は一体何なのか…要するにこの言説は「人間であれ、と云われても、こっちは元元奴隷でも構わないんだけれども、まあそんなに云うなら仕方ないけれども人間になろうとしても構わないよ、こっちは奴隷でもちっとも構わないのだけれども」という、卑屈なんだか高慢なんだか意味不明な意志表明であることを分かっているのだろうか。こんな、何重にも愚劣な愚民の蒙を啓く努力など時間の無駄だから、そこまで云うなら即刻奴隷階級に落としてやればいいと小生は思う。病気とか介護といった事情があるならいざ知らず(そのような、投票に行けない理由を日本国民は全て国家に申告すべき)、そうでもないのに何となく、行っても分からないとか意味がないとかいう浅薄な存念で投票に行かない日本国民は上記の通り奴隷にせよ。

前述の、日本の1960年代のネオダダの各種宣言文など読んでいるとどうも浮き足立ったお祭り騒ぎ気分であるな、という感想が生ずる。20世紀初頭の西洋の本家ダダや未来派の文章は冗談が混じっていたとしても何か隙が一切無い意志が貫かれているというかガチなものが多いが…かといって日本ネオダダに意志が無いという訳ではないのだが、浮き足立っているのは確かだ。だからどうだという事をここで分析するつもりはないとしても。

どうもブラタモリの開始時間がいけないというか、土曜日の午後7時半って意外にいろいろ雑用があって中々間に合わない口惜しさがストレスを溜める…日曜日の13時頃の再放送がメインとなる。

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