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 ロック史を体系的議論から解き放ちながら、サイケデリアの土着性とハードロックの非継承性を論ずる。主要1000タイトル、20年計画、週1回更新のプログ形式。
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「technosport/-(1996)srcs8097」



禅味に頓着する、これ菩薩の縛なり。
方便を以て生ずる、これ菩薩の解なり。 『維摩経』

みかへれば白壁いやし夕がすみ 越人
古池や蛙飛こむ水のをと    芭蕉
傘張の睡り胡蝶のやどり哉   重五  『春の日』

深淵はその知識によって張り裂け、雲は露を注ぐ。自分の悟りに頼るな。  『箴言』

知恵ある者は愚かな者より何がまさっていよう。  『伝道者の書』

(イスラエルの民は)先見者にはこう云う。
「私たちに正しい事を預言するな。私たちの気に入る事を語り、偽りの預言をせよ。道から離れ小道からそれ、私たちの前からイスラエルの聖なる方を消せ」  『イザヤ書』

(主はイザヤへ云った。)
「この民が謀反と呼ぶ事をみな、謀反と呼ぶな。この民の恐れるものを恐れるな。おののくな。」                           『イザヤ書』

何のことは無い…往時(90年代)に賑わっていたいわゆるテクノミュージックの、かなり大雑把なコンピレーションアルバムである…教育されざる者たちの勃興ともいうべきである。古今東西の民族音楽や古典音楽そして最早ロックという音楽でさえも音楽を志して間もない者=初心者であってみれば古典の教育を授けられたり自ら学ぶにしろ古典を習う即ち倣うという所業を手始めとし、倣いとは訓練乃至は修行を実質とするから倣いの出来栄えを測る管理監督者乃至は、程度の差こそあれ教育者の統制の下に肉体的ひいては精神的統制即ち教育に忍従し教育結果を己の血肉と化す挙句があった。それはロックという、社会統制の在野で産声を上げた音楽においてさえも、社会的身分の高い教育者に服従するという赤裸々な音楽教育から解放されているにせよ、例えば広く伝播された、古典とされるレコード(ビートルズ史観)を聴く事、あるいは実地のライブ活動における対バン経験から、即ち上からでなく横からの影響ではあっても、そうした刺激に発奮して楽器奏法を練磨させる、そうした訓練を自らに課す社会関係を免れないのであった…少ない経験ではあるがロックバンドのライブに聴きに行くと、ロックの古典と同時代に生きている訳ではない年若な世代のバンドでもいわゆるロックという音楽の音作りを「教育」されている、しっかり身に付けている演奏をするのによく出くわす。そうした演奏もそれなりに楽しめるので殊更あげつらうつもりはない。初期電子音楽の実験傾向が一方で大衆分野においてテクノロック/テクノポップという、歌謡の伝統を引きずる中間体を開花させた後、ついにはロックやポップスが内包していた音楽の伝統(ブルース、ソウル、カントリー、…)からさっぱり解離し得た者たち=教育されざる者たちが出現する。この要因として大きいのは電子楽器の一般への普及であって、孤立した個人であっても自宅で音作りができる、しかも人間には演奏できないリズムやパターンも幾らでも、己の知識と才覚一つで実現できるという…これを、社会関係や肉体の鍛錬からの解放と見るか、可能性の縮こまりと見るかも、個人の相対的な選択に任せられるだろう。テクノ勃発のこうした流れなどあまりに当たり前なので今更おさらいする価値は無い。

ここで特筆したいのは、兎も角結果として、伝統的音楽パターンから端から解き放たれている、教育されざる者たちが出現した、台頭した、という事である。教育とは自由意志が前提される者で構成される共同体内で承認された、ある一定の枠組みを、未熟な構成員それぞれにおいて内面化させる事である。教育されざる者たちはそうした一定の枠組みや伝統を一旦度外視し、他者のやる事を権威と見なさず情報として受け取りながら各々が嗜好する音を無審査で放出し始めたのであった。

ここには既にブルースもソウルも無い。そうした状況を現出させた上で、ひとしきりテクノ内部で創意をバブルし尽くす事で、いろいろ飽きたので暇つぶしに改めて古典とされていた音楽を相対の嵐に巻き込み、古典づらの権威を台無しにする(ト―タスなどのポストロック的試み)のも捨て置きながら、更なる純化と拡散へと膨張する希薄になる。デュッセルドルフ、アムステルダム、シカゴ…点在する音楽地図…ほとんど糸遊の如き希薄化衰弱化の残像の極としてオヴァル/ミクロストリアが創意の断末魔した後、…それはさておき、テクノ内部における創意の暴発といっても人間のやる事だから、その内部にはやはり在り来たりな歴史のひな形がフラクタル図形のように確認はできる、しかしそれは古典音楽の成り行きが巻物のように時系列に並ぶ順序は無く、技術がもたらす高速化に伴って殆ど同時多発的に歴史的事件が勃発している事がこのコンピを聴いてもよく分かる。電子楽器に予め組み込まれた音を安易に引き出す無邪気、他の介入を阻止した内面化の果てに独自の音色を求道しようとする私小説的創造者の再臨(エイフェックス・ツイン等)、創造の苦行を虚仮にするDJ、爆撃音のみでリズムを構成する者、音素材の消費の果てに屈託ない電子音の夢を見るNIJI(電気グルーヴ)…この曲で幾度昇天したことか。ロックという現実に還れという呼び声も空しく…ロックという音楽は人対人の、古代的演芸の側面もあるから、演奏者の人格や人気、演奏時の所作やカッコよさやファッション、人生エピソードなども含めての雑多な音楽評価という事も実際にはある。そうしたものは聴者それぞれの判断で無視したり重視したりすればいいだけの話ではあるが…しかしテクノはそうした社会関係を捨象して、専ら出現した音のみで評価しうる比重が高いため、演奏者の人格や人生などはどうでもよい、音にしか興味のない小生にとってはすっきりと楽しめる音楽でもある。

北陸新幹線開業をこぞって祝う祝賀行事と賑やかな報道を見るにつけ…4年前の3/11、東日本大震災当日とガッチンした、九州新幹線開業の不遇を想う…自粛ムードに席巻され、何年も前から準備されていた祝賀行事の全てが取りやめとなり、しめやかな開業に甘んじた九州新幹線の不遇…決して忘れはしない。北斗星やトワイライトエクスプレス最終日にあたって暴動が起きなかったのは不思議だが、トワイライトエクスプレスの衣鉢を継ぐとされる、JR西日本が2017年春に稼働を予定しているトワイライトエクスプレス瑞風、という寝台特急の先頭車両が無茶苦茶かっこよくて痺れている。エグミのある抹茶色のカラーリングに、ウォーズマンやザクのように凶悪そうで得体のしれないグリルというのか柵なのか分からぬ大胆な意匠…JR九州の七つ星は内装の奢侈は兎も角として外観はごてごてしてデザイン性に乏しいが、それと比べて瑞風は、はるかにクールで深みのあるデザインであり、元元、旧国鉄のボンネットタイプの特急車両を好む小生の魂は鷲掴みにされた。

針山に針うずもれて寒戻り

underworld/pearls girl
denki groove/niji
lfo/tied up
the sabres of paradise/tow truck
jeff mills/change of life
the hypnotist/house is mine
aphex twin/digeridoo
hoodrum/alfred
hardfloor/beavis at bat
model 500/the flow
rythim is rythim/string of life ms-4 version
ken ishii/extra

来週は所用のため休みます。次回は3/29です。

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