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 ロック史を体系的議論から解き放ちながら、サイケデリアの土着性とハードロックの非継承性を論ずる。主要1000タイトル、20年計画、週1回更新のプログ形式。
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「岡山ペパーランド(2015.3.21)」

梅はほころべど桜は開かぬはざかいの春の日…何かを捉えるガッツが事切れた仄仄とした心情だからふわふわした無感覚の手探り感覚の麻痺のまま に…数年ぶりのペパーランドでライブ鑑賞…連日の快晴で記憶も霞、朦朧として薄曇りの最中に、強烈な感動を残しえた「宇宙三輪車」を賛 したく…

つくづくロックという音楽には、最早これ以上のものは存在しないと断言できる音楽が、イデアや浄土ではなく、他ならぬ過去や、とりわ け現在にも確かに眼前に現存する、という奇跡的な現実に、どこまでも現実的な醍醐味があった。

そうした核心を改めて宇宙三輪車はきっちり召喚 してくれた、稀有ながらも自立して突飛突発する勇躍を此処に讃えたい…思えば、これ以上のものはあり得ない、もう十分だ、と思うしかないよう なバンド音楽とこれまでも度々遭遇していたのであった。めがほんず、ジーバット、そして数年前に遭遇した、確か神戸のバンドだったか…悔しい かな如何しても名前が思い出せないモヤモヤした記憶のムカつきが本格的な不快へと、吐く物の無い嘔吐感が石抱きの拷問のように…なんという名 前だったか、いっそ、思い出そうとしなければよかったがこれは苦しい…拙い検索技術を以てしてもどうにもならずどうしても思い出せない、喉元 まで出かかった小骨の正体が…思い出せぬ苦痛が一生続くのかと思うといっそ喉元欠き切りたくなるほどのもやもやした不快感であるがそれはさて おき、もう十分だとしか言いようがないあまりに現実的なバンドの一つとして小生の記憶において宇宙三輪車も起爆する事になったがだからといっ てこれらのバンドたちが一つのグループに収容されるはずも無く、やはり点在して同時多発的に勃発する独立なのであった。余談だがスコッチがお いしいスコットランドの国花でもある薊(あざみ)の花言葉は「独立」である。

通り魔か辻斬りのような遊びの無い悪質ぶりによる小気味良い切り傷を小生に残して去ったつれないバンドが居た…Nameless、という。黙黙たるリ ハーサルからいつの間にか本番に突入し、通常のバンドだったら曲間に自己紹介したり主義主張の語りを入れてくるのだが、彼らは終始無言で、各 バンドやピンの演者が最低限言う主催者への御礼さえも無く…よく訓練された、コントロール室でのオペレーションのような寸分の隙=数奇も無い 職人技的メタル爆音奏法をきちんと構築し終わって即座に去る問答無用、といった風情で…維摩経における「維摩の一黙」という話を思い出す。維 摩居士が文殊菩薩以下錚々たる仏弟子たちに、不二法門に入る要諦を問うのだが…それぞれの菩薩たちは生死、善悪、我と無我、浄と垢、等々の二 項対立をそれぞれの論理展開で否定するのだが真打の、知恵第一と謳われる文殊菩薩がおもむろに全菩薩に向けて「一切法において、言無く、説無 く、示無く、識無くして諸々の問答を離る。これを不二法門に入るとなす」と、特に維摩詰からの最終的な賛辞を期待して大喝するのであるが…維 摩居士は経典での記述曰く「黙然として言無し」、つまり何も言わない。この黙然の意味を悟った(つもりの)文殊が感動して叫ぶ、「これ、真の 不二法門なり」と。不二の法門は言葉に出しては言えないものだという真理を、言葉に出してしまった文殊菩薩に対する、「目の覚めるような批判 」(※1)が「維摩の一黙」、であって、この顛末、この真理を納得する知性の波が、問答に臨場する諸菩薩 や大衆の間にさあっと、まさしく無言で広がり渡る様がぞっとするほど心地よい痛烈な話である…ヴィトゲンシュタインのような事を仏典はとうに 喝破していたのだが、それはさておき、黙然を全うしたが如きNamelessが果たして不二の法門たりえたかどうかは、ここは音楽の現場である以上、 音楽の内容で問われなければならなくて…ついでに維摩経で説明すると…そこでは、世俗の執着にあたふたする愚人の法も否定するが、世俗を超越 して孤高の逸境に籠する迷いの無さ(=小乗)も排斥するのであって、清濁併せ呑む「方便」にこそ菩薩の「行」を説くのであって…Namelessの、 律儀なる様式への充足はさしずめ「小乗」である。無論、小乗、利己であってもその音楽は相当に味わい深く、楽しめた事には変わりない事を申し 置く。という訳で不二法門の大乗の境地に至ったという意味で宇宙三輪車に軍配は上がるだろう…して、その音楽は如何にと問われれば、ここは維 摩の一黙、という事で筆舌に尽くし難いという事で勘弁願いたい。実地に聴いた方にしか分からぬと思う。

幾度も書いてきたが、演劇やライブ演奏 のような、人間が人間の前で直にやる古代的な一回性の芸術は、如何なる世になろうともしぶとく生き続け、人間の人間性を鼓舞し続ける。たとえ 、この国において純正全体主義の補完が絶えざる国民性によって求心的となりデジタルビッグデータがそれを加速させる奴隷天国が来ようとも、人間の地獄を活し続ける事を祈願する。一見すると狭い防音ライブハウス内での表現方法では衆を恃まぬ小乗であろうとも、専ら表現内容においては あくまでも不二の大乗である事によって、硬直した、管理統制済みの浮世の縛を解きほぐさんと悲願するのである。それはそうと在家でありながら その心理/真理において出家していた維摩詰の数々の言行を踏まえた維摩経の存在一つで、百家争鳴を誇る大伽藍の如き仏教の意義全体が救われて いると思うし、その黙然という危うさにこそ支えられてしかるべき仏教のラディカルさ(根本)はいつまでも清新である。

註:「小乗」とは、あ くまでも大乗仏教側からの恣意的な蔑称に過ぎない
※1 旺文社「方丈記」での今成元昭氏解説より

しかし、…小乗と大乗との、不二を廻る根本的問答においては端から俎上に上らないような劣悪な愚行も、同じライブ会場で見受けられた事も、こ こで取り上げぬ訳にはいかぬだろう…宇宙三輪車やNamelessなどとは比較にならぬほどの「粗悪なロック」の見本のようなものも、見受けられたの であった…「その音楽」は、音質はよいし(これはライブ会場の機材のおかげか)、音量も、体に堪えるほどの十分さ、それなのになにかぶよぶよして締まりのない 、貧困の実情を知らぬ傲岸なる満足から発する不様な肥え方をした音塊、どこか馴れ合いの臭う、飼い馴らされた、生温い健康志向の音が繰り出さ れたのである…要するに「その音楽」は「荒んで」いなかったのである。少なくとも宇宙三輪車にしてもNamelessにしてもジゲンオルガンにしても方法 は違えども「荒んで」はいたのである。(←「荒み宣言」を参照のこと)いったい全体どこのどうした音が悪いのか、その粗悪さは体で感覚でしっ かり感じ取れたが認識(言葉)ではいまいちピンと来なかったものの、曲間での演者の語りに、自ずと粗悪要因たる言説が滲み出たのであって聞き 捨てならなかった。文意としては「盛り上がろうぜッイェイ、気持ちいいー」「ミッシェル・ガン・エレファント、みんな好きですよね。俺も大好 き」「ミッシェルの魂を俺は引き継ぐ!」といった言説である。ミッシェル~の音楽性は存じ上げないので引き継ぐ事の是非は問わぬが「荒み」の 観点から云えば「継承性」を奉じた途端、荒みが薄まるだろう。「盛り上がろうぜ!」「~、みんな好きですよね」といった言説一つとっても 鼻白むゲンナリ感は否めず、心の根深い処から嫌悪感が染み出て、…時が経つにつれて、宇宙三輪車のような不二の音楽さえも現存した現場にかような劣悪も同居していた事に即自 的な怒りも否めず…無論、不二の理に、排除の論法は無いのでその雑居ぶりを寿ぐべきなのだろうがいまだ悟り叶わぬ衆生の小生にあってみれば拙 論で以てささやかな露払いに努めとうなる忠義にはやるのも已む無しであろう。「盛り上がろうぜ!」は、要するに、明るい感じ=社会的善、とい う、直線的な、与えられた餌を無批判に貪る無思考の、意志を剥奪された家畜の態であると同時に、そうした生き方を無邪気に他者に強要する事に 何の違和感も感じない、奴隷が奴隷を勧誘する言葉である。奴隷を増やすのは奴隷にしかできないからだ。言葉の意味では、等身大の共感を広く求 める友好的な表明であろうとも、それは、この社会においてロックという音楽が受容され使役され承認され即ち隷従を強いられる一般的言説であり 、それを無意志状態で後ろ盾にしつつ支えている上から目線の強権的な支配者=奴隷を演じているのであるからロックの本義(社会的にして思想的 基底における荒んだ独立)を忘れた下衆(ゲス)の言説と、それを滲ます音楽であるといってもよい。人間は個別の生を生きるのであって一般論を 生きるのではない。しかるに一般論は複数の人間から抽出された概念に過ぎないのに、人間がその一般論に合わせようとする、あるいは人間を一般 論に合わせよう、矯正しようとする強権を蔓延させる愚劣をここで批判しているのである。そうした事例は現在でも歴史上でもそれこそ枚挙に暇が ないであろう(結論ありきによる官憲による自白の強要、冤罪、耐震偽装、STAP…)。音質がよく音量が大きければたいていの音楽は聴けると たかをくくっていたがそんなことはない、ただうるさいだけの音楽は我慢ならぬ事を知った。こらえきれず…自分の人生のかけがえのない時間をこ うした音楽に消費されるのは許し難いから、あと二曲残す処で、外の空気を吸いにライブハウスを出た。

岡山ペパーランドの音質がよい、と書いてきたが、具体的には…何というか、どんなに重低音や先鋭高音であっても音がまろやかで喉越しがよいと いうか、音が、聴こえる一つ先まで伸びるが、耳に障るほど響かない抑制ある深みというのか…身近な喩で恐縮だが、よく塗られた漆の、光がすっ と深く入って、しかしテラテラ反射せず、シンと落ち着いた透明感ある佇まいに似ていて…。経営者の確かな技術的知見と、音楽に向き合う誠意に よるものと推察する。

それにしても、たけし、所ジョージ、爆笑問題と、いわゆる大物司会者たちまでも見境なく日本礼賛番組(日本人は凄い、日本の技術は凄い、おも てなし等々)を垂れ流すとは…それもたいてい、金髪青眼のゲルマン系白人に日本語で礼賛させる、あるいは、あたかも英語圏で放送された番組に 日本語訳を施した体裁に偽装した、手の込んだものであり(日本人は欧米で欧米人に褒められている、という自己演出の、情けない厚顔無恥よ)… 日本人は昔も今も庶民レベルで、立場の弱い民族や個人に対してその場の勢いに乗じて虐殺(南京その他)や人体実験(731部隊)、拷問(特高や憲 兵や現在の警察)や脅迫(特高や憲兵や現在の警察…自白の強要)や自殺の強要(特攻や沖縄戦…自発性の強制)を平気でやってのける、自立した 道徳心が欠如した残虐野蛮な人間であった/あることを忘れるな。それと同期/共鳴するようにして列島警察24時(悪い奴らを懲らしめろ!的な 、救い難い直線的思考)的なのもしょっちゅう跋扈、いよいよ、この国の、純正全体主義が補完の時へ向かっているのか…独裁制やファシズムは、 目に見える独裁者に究極的に権力が集中した時、唯一の独裁者vs一般大衆、という構図が仕上がり、唯一の独裁者が絶対少数者に成り下がった時 、一般大衆の威を借りた周辺者らによる寝返り、謀反、政権奪取が、さながら超新星爆発みたいに、ある意味容易に行われる自滅の連続であるゆえ に自滅させ得る希望は存在するが…純正全体主義は天皇制というからくりによって、目に見える中心=独裁者(主権者)が不在であるから、これを 体制内部から妨げる、あるいは終結させる処方箋は今の処存在しない…。ただし、天皇制が原因ではない。天皇制をなくせばいいという問題ではな い(深沢七郎の風流夢譚!)。いうなれば多数派が少数者を政治的にも心理的に排除する事で多数派=全体へと結晶化し…国民全体がそのまま全体 の原因となっているから全体主義なのであって少数の原因を抽出できないから対策が無いのである。だからこそ、芸能者、思想者として、やりがい のある、キツめの時代、キツめの国ではある。「美術手帖」を出している出版社がいつの間にか民事再生法申請とは…永らく買っていなかったが微 力ながら買い支えないといけないのかな…気骨のある、良質の出版社がどんどん潰れていく口惜しさよ。トーハトのキャラメルコーンはウヰスキー に合う合う。袋の中にコーン菓子だけでなくナッツも混入しているアイデアがよい。

巷にクリエイターとやらが安易に蔓延るが真に創造性を発揮す るのは稀でほとんどが薄ら寒いウケ狙いの一発芸に過ぎぬが…真にクリエイティヴと云える宮崎駿氏の動画作品は初期から連綿と、地震と津波が大 きく扱われているのが気になる…「パンダコパンダ」(1972)では大洪水(津波?)、「未来少年コナン」(1978)でも地震と津波、「風の谷のナ ウシカ」も王蟲による一種の津波だし、「崖の上のポニョ」も津波、「風立ちぬ」では関東大震災、という具合に…安倍公房が云う「御破算」の思 想という事か。風の谷のナウシカと天空の城ラピュタの萌芽が満載の、未来少年コナンを最近見たが、本当に凄かった。改めてその感想に取り組み たい。ちなみに高畑勲監督におかれては、「平成狸合戦ぽんぽこ」でも、「かぐや姫の物語」でも、危篤者のもとへ、菩薩やら如来やら観音たちが わいわい迎えにくる「来迎図」への執念が見て取れる…「火垂るの墓」も、広い意味では「来迎図」とも捉えられる気がする。もっと言えば高畑監 督がかつて演出を手掛けた「赤毛のアン」でのマシューの臨終に際しても天使たちによる「来迎図」とも思える。

ドイツの低価格航空の副操縦士に よる故意の、乗客を巻き込んだ自殺という最悪なる事件…心の病だったという報道もあり、なぜ心の病人を乗務させたのか、あるいはコクピットに 一人で籠城できる仕組みが悪い、などの議論もあるが…一方で副操縦士は労働条件への不満を身近な人に赤裸々にぶちまけていたと聞く…無論、不満があったからとて乗客諸共墜落というのは一切擁護不可能であるが…詳細は分からねどその心の病も、実際に劣悪な労働条件が存在し、それへの 不満があるならば根本原因は劣悪な労働条件であり、航空現場では最高度の安全性が要求され、安全の責任を最終的には人間が負うならば何よりも 人間を安全足らしめるのが必要であるならば良好なる労働環境を整える事が全ての安全の基礎ではないのか、制度や装置を構築し運用するのは何よ りも人間なのだから。加えて、副操縦士は目の病で機長への夢が絶たれていたという情報もあるが病気のせいで機長になれないからといって乗客諸共墜落自殺するという推測は不合理だ。パイロットになった時点で自殺願望があり要観察であったとの情報もあるが、赤の他人に直接迷惑が掛からない自殺方法は幾らでもあるのだから、自殺願望があったとしてもそれをわざわざ飛行機ごとの自殺を選択した理由とすることは合理的でない。兎に角「心の病」を原因とすれば不合理でもなんでもありうるが彼の制度への反感情報がある以上、それを無視するのは、何か別の力が働いていると考えるのが普通だ。何よりも副操縦士は「これからシステムを変えるような大きなことをする。それによって自分の名が永遠に残るだろう」と発言していたという証言があるのだから彼の目的は「システム」の変革であり、それも、労働条件への異議と怒りがあるなら猶更航空会社の体制への異議であり、しかるに社会問題、労使問題として推測するのが合理的だ。従って報道や論評は航空会社の労働条件を検証すべきなのにそれはほとんど為されず、原因をあくまでも副操縦士の心の病、目の病であると規定しそれ以上追及しない風潮は何なのか。この思考停止、奇怪な自粛は何なのか。

何が言いたいかというと、根本原因である劣悪労働条件について詳しく議論されない報道を見ていると、まるで、「劣悪な労働条件に不満を抱く」という、人間にとってごく当然の態度自体が「心の病」として認定され、社会的問題だったのが医学的問題へとすり替えられ、社会的問題が「無かった事」にされてしまう偽装工作が働いていないか、という強烈なる疑念である。人間の意志関係を議論する社会問題が、人間の意志に「病」の烙印を押すことで意志を議論から排除する心理学へと誤魔化される、人間精神への最悪の侮辱である。人間の意志=心の病、であると規定する人間の尊厳の侵害である。巷間の心理学だのカウンセラーだのは政治と資本の犬に過ぎない奴隷商人なのだから心理学が表に出てくる場合はその背後に資本関係が隠密裏に無意識に働いていると思ってよい。「労働条件に異を唱える」即ち「御上(資本)にたてつく」とはもっての外、という、御上(資本)に自発的におもねるこの国が得意とする自粛ムードが働いてないといいきれるのか。私企業のマスコミは大スポンサーである経団連に逆らえるはずもなく、NHKは政府から首根っこ掴まれている以上、昨今では無数に見受けられる、純正全体主義、平成翼賛体制が補完に向かう一事例といってよい のかもしれない。

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