忍者ブログ
 ロック史を体系的議論から解き放ちながら、サイケデリアの土着性とハードロックの非継承性を論ずる。主要1000タイトル、20年計画、週1回更新のプログ形式。
[11][12][13][14][15][16][17][18][19][20][21]
カテゴリー「カテゴリーなし」の記事一覧

人の外に道は無く

沖縄の県民投票…賛成、反対の是非は兎も角、「どちらでもない」と云う選択肢が少なかった事は、政治に対する沖縄県民の真摯な態度が表明され、清々しいものであったと思う。県民投票の実施が決まった後、自民党が姑息な政治工作を弄して、文字通りどっちつかずの「どちらでもない」と云う選択肢を付け加える事で、辺野古反対票を薄めるべく画策した訳だが…ほとんどの県民は斯様な小賢しい政治工作に惑わされる事なく、賛成か反対かの二択から逃げなかった。賛成か反対か、やるかやらないか、常に次の行動の契機となる判断が求められる政治的現場において、「どちらでもない」などと云う無駄な選択肢ほど、政治的主権を放棄した愚昧は存在しない。世論調査で、「どちらでもない」と云う選択肢が必ずあるが、斯様な選択肢を加える設問者も、其の選択肢に入れる者も、政治的主権を放棄し自らが奴隷である事を表明したに等しいのだから、統計の勘定に入れること自体がナンセンスである。自らの意志の表明を自らの意志で放棄した奴隷の考えは民主主義の埒外だからだ。どちらでもなく第三の案を持っているとしたら、取り敢えず主題の案には反対を表明すればいいだけの事である。しかし投票した沖縄県民の殆どはきちんと問題と向き合い、賛成か反対か、自らの意志をきっちり表明したのだから、近年の日本の民主主義状況から云って、其れだけでも快挙であると云える。此れは当然ながら、基地問題が、「どちらでもない」などと云った悠長な日和見が許されないほど、切実に喫緊の問題である事が大きく影響したためとも思う。

やっぱり線型代数をきちんとやらないとどうにもならないな、学部生の頃やらされた教科書をずっと見返しているが、もそっと詳しく論述した教科書が欲しい…と思うようになって、数学雑誌で宣伝していた、よさげな線型代数の教科書をネットで注文するついでにまた魔が差してしまい…狼狽してもしょうがないから、己が道を行こう、と云う事で心理的には落ち着いた思想問題だったが…やっぱり、入手するだけしとこうか、と思って、ハーマンのお目当ての著作を注文しようとするが、なぜか売って無くて…「四方対象」ばかり売ってるが、此れじゃないのが欲しいのに…と肩透かしを食らうのも束の間、くっそーやっぱもうあるのか~「オブジェクト指向哲学を使って書かれた小説」とやらが2016年には出ているらしきが検索でヒットし…内容には全く興味はないが、一体どのような書き方をしたのか気になったため、金$(キンドル)をダウンロードしたものの買うのはやっぱり躊躇したのは…紹介文から推察するに、何やら小奇麗な思弁をひねくり回してるようだし、たいした内容ではないのだろうと読んでも無いのに漠然と決め付けて落ち着いたからで…

すると、やおら華厳経の事が気になって、オブジェクト指向哲学などと西洋人が21世紀になってよっやく自らが人類史上初めて発見したかの如く騒いでいるが、同じ事を千年以上前にインド人や中国人が考えていたんだという事を思い出したが、過日其の事を特筆した時は漠然とした記憶だったので少し確認しとこうと思い、ウチにある華厳経の本を探す…自分の人生の布石として買っておいたが途中まで読んで投げていたのが見つかる…読むと…ほらやっぱあるじゃんか此れだよ此れと私が思うのは、華厳経が説く処の「理事無碍法界 事事無碍法界」であり、此れはまさしく「オブジェクト指向」と同義である…華厳経は、悟達した如来の立場から世界を見ているから迷える衆生の立場したらリアリティに乏しく政治的無力を露呈するのは否めず(華厳に不満がある人が法華に走るのだが、根源は同じ仏教の諸相である…)、即ち華厳の政治的無力はポストモダンの政治的無力と同義なのだが、かといってポストモダンを換骨奪胎するポストヒューマンが政治的無力から脱し得ているかと云うとそんな事はないばかりか政治的無力を助長している節はあるものの、ようやく最近になって、ちらほら、ポストモダンの政治的無力を批判する動きが出て来ており…しかしポストヒューマンの、より劣悪な政治的無力については俎上に上がっていないように見受けられる…そんな事よりも、此処に来て弘法大師空海と愈々以て向き合わないといけないと自覚するに至り…なぜなら空海は、儒教や道教や法華や華厳や天台を包含しつつ超克する思想として真言を掲げているのだから、俗悪なる華厳化とも考えられる現代の全体主義的世界状況に対する処方箋を、真言と云う形で空海が既に示しているかもしれないからだ。勝ち馬に乗るが如くオブジェクト指向を参考書にして調子こく志の低い輩がひけらかした文章を圧倒的に凌駕するものを私は書かなければならず其の準備に忙しいから、あまり思想に関わっている時間は私にはないのだが…

人の外に道は無く、道の外に人は無い。 伊藤仁斎

拍手[2回]

PR

【集中連載】続き③

ところが、此の御時勢に、絶対的な法則や形式の追究に邁進し始めた人が居る。カンタン・メイヤスーである。ポストモダン以降の新思潮を作ったいわゆる思弁的実在論、本人曰く思弁的唯物論の構築を企図している首魁であるらしい。其の気概は良い。彼は、古代からポストモダンまでの全ての思想を、世界と人間との関係に自己閉塞した相関主義として批判する。そして、其の相関主義は、相関主義に回収されない絶対的な形式を根拠としていると云う。こう聞くと、カントの物自体と何が違うのかと突っ込みたくなるが、其の判断はさておいて、彼は相関主義を二つに分ける。其の一つは、相関によって思考を脱絶対化する狭義の相関主義であり、二つ目は、思考が絶対化する主観主義である。メイヤスーによれば、ニーチェやドゥルーズなどの殆どの哲学は主観主義に閉塞していると云う。此の意味では、私も主観主義の謗りは免れないだろう。

 ところで、常に政治的現実において思考する私ならば、表面的な意味の違いに頓着せず、相関主義を相対主義と置換する。そしてメイヤスーが云った相関主義と主観主義に関して、拙書では通俗相対主義と俗悪相対主義、と表記していた。そして、ある意味メイヤスーに拙書の限界を批判された形になるが、俗悪相対主義では多様性原理と全体主義を弁別出来ない事は拙書でも露呈していた。だからこそ自由意志で多様性原理を定立した上で、全体主義の論理的誤謬を衝く事で全体主義の進行を妨げるしかないと云う事実上の根性論を論述せざるを得なかった訳だが…メイヤスーは、此の俗悪相対主義の現場において、絶対的な真理を思弁的に追究すると云う…その意気や良し。仮に其れが可能であるならば、多様性原理と全体主義が弁別できるかもしれないのだから、意義有る仕事だと私も認める…しかし…メイヤスーの小論文を読むと…俗悪相対主義の現場における主観主義から回避するため、意味なき記号の分析を取っ掛かりにして数学的思考が絶対的真実に至る必然性を論証しようとする様を見るにつけ…あまり期待は出来ないなと私は思った。メイヤスーが哲学的良心=理性に従って推論する姿勢は立派だと思うが、問題は、政治的でしかないと云う此の現実社会において、彼の理性的試みさえも、粗末な妄言との玉石混淆によって相対化され、絶対的な説得力を失ってしまうからである。記号分析で絶対的な形式に至る必然性を証明した処で、全体主義の予防にはあまり寄与しないだろう…。私個人としては、彼の仕事の行き先を見守りたいとは思う。

 そしてグレアム・ハーマンである。私は、オブジェクト指向存在論による、還元を拒否する個体による多様体から、色々理屈を捏ね上げれば何とか人権を定立できるのではないかと予測している。1月号の全体の印象では、思想誌らしいバランス感覚で、ポストヒューマンと云っても必ずしも加速主義のような偽悪趣味ばかりではなく、八方美人的な記述で何処にも肩入れしない事に踏み止まる事が真の突破口を開くとばかりの楽観論なども散見されるが、基本的に、明確に人権を擁立しようと云う動きは皆無である。人権の破壊がある一方で人権の濫用にも社会が疲弊しているのも事実で、此の破壊と濫用の根は一つと思うが、斯様な問題はありつつも、ポストヒューマンが人権を相対化した事が、人権が崩壊する定常的な流れの中では、自ずと人権の破壊を加速させたのは事実だと思われる。ポストヒューマニティーズでは、冤罪で死刑にされる直前に、貴方は殺されるのではない、生き返るのです、などと人を煙に巻くような事を云って宥めすかす教誨師のような慇懃無礼な言説も散見される。ポストヒューマニティーズは、直接的に不当な弾圧を受けている人間に対し、彼が其れに抵抗し抗議する唯一の根拠=人間の尊厳を攻撃する無能な無責任のたわ言でしかない。あるいは、現在を、多様世界への過渡期と云う風に定義するご都合主義によって、不当弾圧の被害者の被害を矮小化しつつ、其の一方で不当弾圧する主体の地位は無罪放免で等閑に付す日和見的な言説が見え隠れする。努力しなくても全体主義は自然な流れで進行する。此の流れに対して人間は、諦めて隷従するか、抵抗するかしかないのだ。此の二者択一を幾ら思弁的に解消したところで、斯様な無能が全体主義勢力の利益にしかならない現実を直視すべきである。そんな思想的状況でも、恐らくオブジェクト指向や新しい実在論、アクターネットワーク理論や人類学の存在論的転回と云った、目新しい潮流の哲学のそれぞれの思弁を内在的に組み上げて行けば、何とか人権を定立できると私は思っている。還元を拒否した個体性が原理にまで及んだ場合、個別の原理が孤立するだけで関係性が結べなければ人権の定立など難しそうだが、何とかなるだろう。これらの新理論から導出された人権の姿は、18世紀の其れとは趣を異にするだろうし、そうであればこそ現在の新しい全体主義に対抗できると思う。其の点で云えば、私の拙論で定立された人権は、18世紀の其れから脱却できなかったと反省はする。

 ただし、此の場で云いたいのは、此れらの新理論には人権確立の可能性があるのに、少なくとも雑誌上ではおくびにも人権が出なかった事である。仮に既に此れらの新理論から、各各が別箇に人権を擁護する理論を樹立していたとしたら、雑誌で言及しない訳はないだろう。斯様な言及がないと云う事は、其の樹立が現時点では成されていなかったと思わざるを得ない。だから結果として、新理論が新しい人権を樹立する可能性を秘めているにも関わらず、多様体の合理性ばかりが強調される事で人権を蔑ろにする方向に新理論が使役され、現状の全体主義傾向を追認的に加速させた事に、私は憤ったのであった。まあ、殊更に雑誌を疑う訳ではないが、雑誌の怠慢なのか新理論の担当思想家たちが己の理論の可能性に気付いていないだけなのか、気付いているけどあえて人権を隠蔽したのか、今後、確認は必要である。

 ポストヒューマニティーズを読み、拙書の反省点も改めて発見され目から鱗ではあった。其の一つは、拙書では、殊更に①のナショナリズム的な全体主義の分析に偏りすぎ、①と②に通底する経済原理による全体主義分析が疎かになっていた事である。または、②の合理性の暴走による生命原理の毀損を、端的に予測はしていたものの、其処まで深く掘り下げていなかったがために、まさか思想が②に肩入れする事によってトータルの全体主義を積極的に劣悪化させる事が此れほどまでに深刻化するとは思ってなかった。やはり現代においては寧ろ経済原理や②に主眼を置いて検討すべきであった。其れと、拙書の多様体モデルである相互作用の非対称性の記述で、つい調子に乗って、無限の関係性が組み合わせれる風な事を書いてしまったが、関係性は多岐に渡るものの有限に留まるとすべきであった。此れはハーマンの指摘を顧みての事である。無を内在した不連続な多様体だから、万物と無限に関係を結ぶ訳ではなく、関係が無いと云う事も有り得るのが当然の帰結であり、私自身が、自分の考案した多様体についての理解が足りていなかったと云える。取りあえず…もう、日本人に日本語で何云っても無駄なような気がしてきたから、なるべく朝早く起きて、英語の勉強しようかな、と思う。其れはそうと、雑誌冒頭の対談の最後の方で、千葉雅也氏が、「単にリテラルではないけれどメタファーを頼りにするのでもないような厚みのある言葉」への希求で締め括っていたが、此れは、拙書「多様性原理」の5.6.1や6章で示した「生成文章の超臨界性」に相当すると思われる。私にとっては此れは最後の手段とも云うべき、極めて難易度の高い言語であると予想しているが、もしかしたら、唯一の手段となるかもしれない。既に私と同様の事を想像する人が出て、公言した以上、急がないといけない…。

拍手[2回]

【集中連載】続き②

さて、次に、「現代思想」1月号を読んで怒りにわなわな震えてしまった理由は何か。其れは、収録された論文や対談全体に云える事だが、現在 の国際的な全体主義状況に対して抵抗する方策を思案する姿勢が欠如しているばかりか、寧ろ此の世界的な全体主義状況に対して御手上げとばかり に諦めたり、追認したり、果てはどこか偽悪的に賛美する論調が大半を占めており、抵抗の気概など微塵も無いばかりか、斯様な気概などは最早前 時代的な遺物としてどこか嬉しげにこき下ろす論調さえもが目立っていたからである。抵抗などと云う、思想業界的には糞ダサい弁証法を回避しよ うとして、全体主義を解消させるネットワーク理論を小奇麗に構築しようとしても絶対に弁証法は免れない、即ち、全体主義に抵抗するには人民主 権と基本的人権を擁立しない事にはどうにもならないのだが、どうも業界的かっこ良さと云う思弁的装いに執着しているのか、人権と云う黴の生え た言葉を使うのも吐き気がするとばかりに、彼らの論述には人権が一切出て来ない。従って、人権即ちヒューマニズムが最早通用しない現代を規定 する用語として、ポストヒューマニティーズなどと喧伝し、人権思想の壊滅を目論む輩を礼讃するが如き論調が目立っている。此の、人権思想をこ き下ろす反ヒューマニズムと云う現代的な動きを加速主義と称したり、暗黒啓蒙、ダーク啓蒙、ダーク・ドゥルーズなどと調子こいてる輩も各所で 勃発しているという…。

 だいたい、思想家として、此の世界の実相を見極めようとしたら、どうしても多様世界に撞着するのは今や陳腐な帰結である。合理的に此の世界 の仕組みを論証していけば自ずと多様世界を表現する事になる。そして、此の多様世界から、人権や民主主義の正当性を合理的に導出する事は不可 能である事も自明であり、此の事は拙書でも証明している。加えて其の事は、例えばドゥルーズの哲学が本質的に人権を擁立できない事を暗示して いた事から、既にポストモダンにおいてある程度は示唆されていた。しかし、ドゥルーズも含めてポストモダン思想は、たとえ本質的に己の思想が 人権を定立出来ない事を薄薄感づいていたとしても、其れを隠蔽するまでの能動性は無かったものの、少なくとも遠慮なく公表する事は差し控える 節操を保持していた。ポストモダン思想の特徴は、基本的に、人間の意志と云う概念を、心理的な幻想として哲学の領域から退けるのが特徴とも云 えるから、根拠無き処に立つ意志を否定したら、人権が擁立出来ないのは論理的帰結であった。

 そして、ポストモダンの思想家たちが死に絶え、彼らの著作が古典として扱われるようになった今、ポストモダンから、人権が定立出来ない事に 気付く輩も出て来るのは自然の流れであった。尚且つ国際/国内情勢を鑑みれば、殆ど歴史的必然であるかのように全体主義状況が劣悪化を増し、 国家原理と市場原理、そして情報技術の原理がよってたかって人権思想の無効を既成事実化する様を日日見せられては、人権思想の無力を肯定する のもむべなるかなであった。思想業界が現状への屈服の裏返しである開き直りとして、陳腐な新しさを装う悪趣味に走るのと連動するようにして、 全体主義科学は其れなりに発達している。全体主義科学とは、全体主義の諸相と連関を考察する学とでも云おうか。昨今の全体主義科学は、G・オ ーウェルの「1984」で予言された全体主義的事象の要因系を、ネット社会などの情報技術の運用実態と絡ませて炙り出す事に成功している。国 家原理や経済原理とは別に、そして其れらと結託して、ネットの根幹を握るプラットフォーム企業などが独自の覇権を社会に通底させているのが、 現在の、大まかな全体主義の具体的事象の記述となる。今や全体主義科学は、其れを推進する側にとっても、其れの抵抗や破壊を志す側にとっても 、思考の対象となる主戦場といっても良い。全体主義科学は権力と技術と金によって社会化する。

 こうした冷厳なる政治的現実と、そして理論的にも人権は定立出来ないと云う思想的現実が相俟って、其れでも思想は現状にただ甘んじるのを良 しとしない卑小なる自尊心のためなのか、此の現状を変えられないのならば、寧ろ思想として出来る事は此の状況をもっと加速させる事だと思い至 る。あるいは、まだ理論にこだわる者は、どうせ人権が定立出来ない多様世界の理屈をもっと徹底させて、現代社会にまだ残る人間性への未練を対 象とした掃討作戦を積極的に推進し人権思想を破壊した未来に、最早全体主義とすら呼び得ないほどあらゆる差異が均質化した同一平面を夢見て、 抵抗に依拠した全体主義と云う矛盾の解消を目指したりする。此れが、ポストヒューマニティーズの通俗的な流行であり、いわゆる加速主義の実態 らしい。私には陳腐な蛮勇を誇る幼稚なルサンチマンにしか思えないが、思想の末期状態として、此の加速主義とやらが既に現在蔓延っているらし い。

 其の結果、彼らは、組織による不当弾圧に対して声を上げるのは無駄で、嫌なら逃げろと主張したり、あるいは、最終的には少数の政治&経済エ リートが残りの99%を支配する身分制、奴隷制を肯定する言説を他人事のように提案したりする。逃げたって現状の悲惨状況は温存されるのだか らいずれ逃げ場が無くなるのは必定であるから、思想が其の場凌ぎに陥った思想の無力を自ら晒しているのだし、階級制を肯定する輩は、上位支配 者層は頭がいいから無軌道な圧制をすれば治安が悪化するのは分かりきっているからベーシックインカムとかで奴隷をなだめすかせれば其れなりに 安定した世になると云った、エリートの善意と理性に縋る生き方を提唱する言説を吐く。しかし、歴史上、エリートの善意と理性が当てにならない 事ほど此の世で確かなものは無い。人間の中味なんて殆ど変わってなく、ネット時代だから人間が賢くなる保証は全く無いばかりか、現に今でも各 所で経営者による横暴が絶えないではないか。馬鹿も休み休み云えといった処である。更に此の輩の主張の行き着く先を推認すると、仮にエリート の理性と善意が当てに出来ないのならば後は各人がスキルを磨いてサヴァイブしろと無責任にのたまうが、武力を国家が掌握しているから殺し合い の戦国時代にはならないにしても、理性と善意が当てに出来ない階級制が個人の能力を客観的に判定できるはずはなく、要は身分と金だけが物を云 う、差別と階級が固定化した賄賂社会になるのも必定である。未来の奴隷制を嬉しげに容認する者は、例によって自分だけは其の奴隷になってひど い目に遭う事は無いと思い込んでいる特権意識を内在させており、自らを貴族と思いこんだ思想的特権階級に普遍的な言葉を語る資格は無い。奴隷 根性=特権意識が此処でも成立する。更に此の輩の言説を精読すると、要するに人権思想があるから全体主義が起こる云云と云うが、そんな事は当 たり前であり、そんな虚無に苛まれてもなお立脚するのが人権である事こそが思想的自明なのである。此の輩は要するに、法律があるから犯罪があ ると主張する、あまりに当たり前すぎる稚拙を今更大発見したかのように吹聴する未熟な吠え面に過ぎない。法律がなくても犯罪行為は現実に人間 社会を苛む歴史的事実さえも想像できない青二才がダーク啓蒙だのと調子こいてるのを見るにつけ、人間社会全体と同じく思想業界も、釜の底が抜 けたが如き底無しの崩壊を野放しにしている思想家どもの無能があまりに情けない。だいたい、多様世界から人権が合理的に擁立できない事に託け て人権を蔑にする正当性に開き直れば、根本的に人権思想を根拠としている法律体系が瓦解するのだから、己の言論が齎す現実を己自身から都合よ く切り離した蒙昧なる無責任でしかない。

 此処で、ポストヒューマニティーズの馬鹿げた動きを、拙書「多様性原理」で展開した概念を用いて分析し直す。多様世界は世界記述として正し い。しかし、多様世界から生命原理を完全に導出する事は出来ず、従って、多様世界から人権を合理的に正当化する事は出来ない。しかし、多様世 界から合理的に人権が擁立出来ないから多様世界を思想的に推し進めて人間性の破壊を目論む此の動きは、合理性の暴走であり、此の事を拙書では 、理性の函数である多様性原理を無限に推し進めると人間の死に至る事で定式化している。要するに彼らは、合理性と云う、思想家の枠組みに盲目 的に嵌まった結果、多様性原理の中に生命原理と云う不合理を擁立する事を拒否せざるを得ず、従って自動的に、合理性と云う自己相似形の論理的 増殖に嵌まる事で、現在の国際的全体主義傾向を理論的に先導する役割をかっている事になる。無論、盲目的に嵌まった要因の大きな部分には、全 体主義科学が分析的に描写する、抗い難い現状の肉迫が存在する事は否めない。

 20世紀型の全体主義は、端的に多様性とそりの合わない生命原理が、物語を自己相似形で増殖させた結果としての人間性の壊滅であった。対し て、21世紀型の全体主義は、端的に生命の特権を否認する多様性原理が理性を自己相似形で増殖させた結果としての人間性の壊滅と云える。此の 両者は相互作用するが、其の詳細を論ずる余裕は無いにしても、分かり易く云うとそういう事になる。
 ①生命原理の増殖による人間性の壊滅は、非合理的な弁証法的葛藤としての物語の暴走である。具体的には、①は国家原理による全体主義であり 、現在においても動物、子供などの弱いものへの虐待や学校や職場での不当暴力と云った身近なレベルから、ナショナリズムや民族紛争と云った国 家レベルまで発現する、葛藤をこじらせた心理のシステムとして連綿と蔓延している。②多様性原理の増殖による人間性の壊滅は、合理的で葛藤の無い記号の暴走である。此れは、制度として土着した日常での心理的葛藤とは別に、 専ら思弁的理性によって暴走するもので、歴史的には宗教的な、教義によって定義された合理性の彼岸であり、積極的に多様世界との合一を図るた めの苦行や自死として現われる。
  ところで経済原理は、①と②の両方に跨り、此の両側面に寄与する事で尚一層全体主義を駆動する根本原因とも云えるかもしれない。経済原理は 、生命の存続を率直な目的とする事で多様性を排除する①の動因でもあるし、其の目的達成のためには効率化と云う非人称の合理性を葛藤無く稼動 させる正当性の暴走と云う意味では②に属するとも云えるからである。現在ではインターネットのプラットフォーム企業に内在する飽くなき合理化 を動因として、例えばキャッシュレス決済しないと手数料と云う形で罰金のように反抗者を地味に苦しめたり、あるいはネットへのアクセス回数が 高いとキャッシュレス決済の使用限度額が大きいが少ないと使える金を少なくさせると云った、経済と情報の理屈に隷従しない者から事実上の罰金 を取るようにして経済的に苦しめる事で異物を排除し、経済原理への隷従を強いる全体主義が現実化しつつある。

 基本的に全体主義は、①と経済原理が結託した相乗効果で昂進し、①は経済原理を、経済原理は②を補強するが、ポストヒューマニティーズは、 ②の合理性の暴走と云う思想的掩護を、経済原理による全体主義傾向に与えた事で、結果として①のナショナリズムさえも強化しつつ、トータルと して全体主義を加速させる愚行と云える。思想が②の暴走に走る事で経済原理や国家原理の全体主義に深く加担した理由は、経済原理や国家原理に よる精密な全体主義科学の成果に抵抗の可能性が殆ど見出せないほど、此の科学が猛威を振るっている現実を目の当たりにした事が大きいだろう。 此の全体主義状況において、思想の出来る事は、思想に内在する合理性を突き進める事で全体主義と云う文脈さえも消失する差異の彼岸に人間社会 全体を移行させる事で人間諸共に全体主義を破滅させる事しかないと云う思想的自爆テロを無意識に思いつめる者がいても不思議ではないからだ。 こうして全体主義状況の軍門に下った腐れ思想家どもが、ダーク啓蒙や加速主義者として巷で持て囃され、刹那的な承認欲求を満たしては調子こい ていると聞く。此の種の全体主義を、私はスマートファシズムあるいはソーシャルネットワークファシズムと呼ぶが、恐らく此の通俗的な呼称が生 温く感じられるほど、実体は複雑怪奇なのだと思う。

 しかし此の場で断罪せねばならないのは、此の状況に抗しきれないからと云って、経済原理による全体主義に、思想が新たな補助エンジンを取り 付けた事である。其の内容は、論理の合理性と云う自己相似的加速によって合理的には正しい多様体を標榜するが、其の事が経済の合理性と云う自 己相似形を加速させる事で、合理的には説明出来ない生命原理と云う現実を無かった事にする欺瞞に正当性を与えるものである。陳腐な多様体をさ も新しく発見したかの如く吹聴するが、結果としては経済原理による全体主義のみならず①をも助長させつつ、人間の生命を脅かす無責任な言説を 撒き散らす行為は、思想家としてのちんけな功名心を満たす行為でしかない。生命原理を否定して思想的に多様世界に突っ走る事で結果的に現実世 界に少数エリートによる奴隷制に加担する連中を看過できない。

 生命原理とは何か。其れは、死ねと云われても死に難い本性と云う現実である。しかし、合理的思弁が帰着する多様体からは個々の生命の価値は 立脚できない。多様体から生命原理は生まれているが、生命原理の全てを説明出来るものではない矛盾こそが現実である。此の二つの矛盾した現実 を直視出来ないから、合理性と云う表層的な美学に没入し、多様体に突っ走る事で、生命を軽んじ、階級社会を容認する陳腐に堕す。此れがポスト ヒューマニティーズの粗末な実態である。ポストヒューマニティーズなどと吹聴して思想的に浮かれる輩は、目の前の命と云う現実を捉える事が出 来ない幼稚な妄想を自ら晒しているに等しい。国家原理や経済原理によって今まさに脅かされている生命や尊厳の危機に際し、ポストヒューマニテ ィーズはユートピア的な多様世界を謳うばかりで、此の悲惨な現実に対して全くの無能であるばかりか、積極的に生命を毀損する側に加担するのだ から、結果的に罪深い言説である。

 はっきり云って、多様性原理における生命原理から立脚される人権思想は、根拠無き意志によって定立される根性論に過ぎない。人権とは、根性 であり、気合いである。確かに、思想として、単なる道徳論、根性論ほどかっこ悪いものはない。だからポストモダンまでの思想潮流は、何とかし て此の根性論を糊塗すべく華麗なレトリックで理屈をいじくり廻すのだが、此処に来て其の隠蔽工作が、理論的にも現実的にも不可能である事は明 白である。ポストヒューマニズムは、ヒューマニズムの流通が自明であった時代の終わりを自覚する限りにおいては正しい認識である。しかし、だ からと云って人権と云う根性論を否定する事は、根性論でしか生きていけない人間と云う現実を無視した妄言である。根性論と云う現実を嫌がるの は恣意的な美学に逃避したに過ぎない。多様性原理から生命原理を導出し並立させるなどと云うのは黴の生えた弁証法に過ぎないが、多様体におい て生命を尊ぶなどと云う糞ダサい汚れ仕事に手を染める気がない貴族趣味的思想業界の妄言が、現実から乖離した合理性に浮かれて人間の尊厳を蔑 ろにする事は許し難い。

 恣意的な美学の結果として、思考の自己相似形である合理性のみに没入する事は、現実とは無関係な幻想的説得力に過ぎず、己の無力を慰めるル サンチマンの裏返しである。あるいは、根性論に帰着したら思想家としての仕事が終わって食いっぱぐれるから、見え透いた手練手管を尽くして根 性論と云う真実を隠蔽しようとするのか。ポストモダンやポストヒューマンの論文をよく読めば、巧みに排中律(アレかコレか)を回避するレトリ ックを弄んだ挙句、結局は人間の意志に依存するしかない根性論を露呈している悪あがきが散見される。だとしたら其の思想家は単なる私利私欲で 他者の生命の尊厳を毀損しようとする全体主義勢力の立派な手先であり、とうに思想家としての存在意義を放棄している。生命原理を無視すれば連 続的な多様体が得られるのだから合理的ですっきりするのは当たり前である。しかし生命原理もまた現実である以上、此れを無視した原理は如何に 合理的であっても幻想に過ぎない。結局、政治的現実を生きる私達は、多様性原理の中に生命原理を組み込んだ不合理な不連続体を多様性原理とし て生きるしかないと私は思う。

 無論、私とて、スマートファシズムが、直接的に生きるか死ぬかの極端な領域で展開されるとは思っていない。諸制度は基本的に、言論の自由な ど、あってもなくても直接には生活に困らないような領域をいつの間にか掘り崩す処から少しずつ巧みに展開されるのは分かっている。少しずつ巧 みに隷従と云う既成事実を、各個人に日常的に積み上げる、高度に発達した全体主義科学が駆使する繊細でソフトな技術と制度に雁字搦めにされて 、自発的隷従へと洗脳される過程が強力なのは分かっている。しかし、此処で、拙書で証明したテーゼを簡単に紹介しておく。「ポストヒューマニ ティーズが夢想するような、全ての差異が均質化した完全全体主義は、不可能である」従って、全体主義は其の極限においても完成されないから、 全体主義は、其の極限においても、其の不当性が告発される必然性を内在させている。合理性に浮かれて多様体への回帰を煽る論者は、全体主義が いつか完成し、異議を唱える者が居なくなる未来を前提としているが、其れは誤りであり、異議を唱える者は原理的に残り続けるから、全体主義は 原理的に告発され続ける。従って、思想が出来る事は、根拠が無い事を暴露した不合理を暴露した上で、だからこそ尊い生命とか人権と云う根性論 を堅持し続ける事しかない。其れが嫌なら、全体主義科学に抵抗し、あるいは凌駕し得る技術的課題や方策を自ら発見し、実践する事である。私達 を守ってくれる超越的で絶対的な理論や法則は此の世に存在しない。制度化されてさも説得力ありげに見えるが其の実、根拠の無い理屈に惑わされ ずに、他者の命をよく観察する=尊ぶ事を起点とするしかない。自然科学と民主主義は表裏一体である。

 ところが、此の御時勢に、絶対的な法則や形式の追究に邁進し始めた人が居る。カンタン・メイヤスーである。ポストモダン以降の新思潮を作っ たいわゆる思弁的実在論、本人曰く思弁的唯物論の構築を企図している…(続く)

拍手[2回]

【集中連載】立春、怒髪天を衝く!①

落ち着いて此の思想的事件を受け止めないと自分自身が壊れて先に進めないと云う、半ば形振り構わぬ事情が切迫する故に、努めて淡淡と事の次第を記述する事で、心理的に無駄な蟠りを鎮火しなければならなかった。ある程度の腹案はあるものの、漠然たる其れに任せて思うがままの文章を書き綴っていてはにっちもさっちもいかない閉塞感があって、此の危機的状況を打開すべく、一度、此の世界を捉える思想を自前で拵える試みに走る事は、思えば早々に済ませておくべき必要事項であった。其処で、ゼロからとまではいかなくても20ぐらいから100を目指して思想体系らしきを拵えたのが、拙書「多様性原理」であった。其れに何とか目途を付け、其処で展望された次なる創意に着手する準備段階が現在ではあったものの…卑しい功名心が頭を擡げたのか、取りあえず形になった己の思想と比較したい下心のままに、最新の思想業界の動向が気になってしまい…どれどれ、どんなもんかいな、どうせまだポストモダンの死肉を貪るが如き、毒にも薬にもならない詰まらん言説を垂れ流してるんじゃないのかな、とたかを括りながら、青土社の老舗雑誌「現代思想」1月号、現代思想の総展望2019ポストヒューマニティーズを購い、しかも一ヶ月ほどほったらかしたまま、ようやく最近、何の気なしに頁を捲ると…さぁーっと血の気が失せて指先が冷たく顔面蒼白になりながら頭の中は沸騰寸前に眼球が飛び出る赤熱した焦慮が突発し、なんじゃこりゃあと思わず一声叫んで愕然と膝を折ったのであった…絶望的なまでに自分は井の中の蛙だった、最先端を行っているつもりが周回遅れに過ぎない、寒寒しい滑稽を晒す浦島太郎だったのをまざまざと思い知らされ、自分のちっぽけな傲慢による盲目の怠惰が今更ながら恨めしいが時間を無為に過ごしてしまった後悔もまた後の祭りでもあり…情けなかった。悔しかった。此の世界でも指折りの無力な自分であるが、其れでも世界レベルでの絶対的な己の思想的優位のみを唯一の矜持として生きて来た自分にとって、未だかつて此れほどまでに悔しい焦燥で掻き毟られる感情を経験した事は無かった。雑誌の中では…馴れ親しんだポストモダンの思想家たちは既に古典とされて縦横無尽に言説の引用元に使役されつつも、初めて聞く固有名たちがそれぞれのやり方で自由闊達に理論を展開しており…しかも卓抜なアイデアや緻密な論証を駆使する様を見せ付けられるにつれ、自分の思想が如何にも素人じみて稚拙で、雑で、見劣りするのは否めなかった…

 とは云え、此の焦燥のままに心的恐慌状態を後生大事に引きずり続ける訳にも行かないので、此の焦燥の中味を分析すると…一つは妬みであり、もう一つは怒りであった。

 妬みの対象は、グレアム・ハーマンのオブジェクト指向哲学である。してやられた、と思った。先を越された、と歯噛みする思いが地団駄を踏み、これから自分がやろうとする事が全部無意味になる事を宣告されたような気になり…ハーマンの最初の著作が2002年、直近の、其れこそオブジェクト指向哲学や思弁的実在論の成果をまとめた主要著作が2018年に上梓されたから、先を越された事に関しては今更手の施しようも無い事は認めざるを得なかった。私はまだ、雑誌の中のハーマンの短い紹介文と本人の小論文を読んだだけで主要著作は読んでいないから勘違いもあるかもしれないが、オブジェクト指向哲学とは…事物を何か別の単位要素に還元して考察する還元主義を拒否した上で、事物其のものを階層や種類に分類する事無く、事物其のものと其の関係性を考察する体系であって…還元主義とは、例えば事物を素粒子の集合と見なしたり、あるいは何か大いなる実体があって、個別の事物は其の大いなる実体の局所的な表れであるとする唯物論の二大潮流の事であり、物理学の二つの形式とも云える。つまり、素粒子の粒子性と波動性であり、万物を、原子論か、あるいは晩年のシュレーディンガーが固執した大いなる波動函数の個別的な収縮として扱う事である。ハーマンは手際よく此の還元主義を否定した上で、異種異層の事物どうしの直接的な関係性の可能性を肯定する。例えばニュートリノと豆腐と駝鳥と銀河の関係も思弁の対象とする。
 此れはまさしく、拙書「多様性原理」の3.4.4③や5.7の後ろの方で詳述した、多様性原理の言い換えである「相互作用の非対称性」や「万物=根源=表層」と全く同じじゃないか。私も日頃から、事物を素粒子に還元する原子論には疑問を持ち、疑問を通り越して憎悪すら抱いていたから、斯様な思想的結論に至るのは必然であった。例えば意識を、脳内の分子や電流のやり取りに還元する事に何の根拠も無いのに正当化される科学的制度は許し難く思っていたし、理論的に間違っていると思っていた。原子論と云うのは原子どうしの関係においては科学的正当性が保証されるが、だからと云って原子同士の関係のみが科学的に正当であり、異層の事物どうしの関係が正当化されないのは間違っているとずっと思っていた。しかし、其の事をハーマンは、恐らく拙書よりも遥かにアカデミックに厳密に論証して思想業界に発表し、業界で大いに評価され、既に現代思想の一大潮流を築いていると雑誌が云うのだから…後から私が、同じ事を考えてた、などと間抜けが過ぎる厚顔無恥で発表しても、馬鹿にされて一顧だにされぬが落ちだろう…悔し紛れに勝者を称えるが、何だかんだで済し崩し的に還元主義が幅を効かす此の世の中で、此れを敢然と拒否したハーマンの創意と勇気の意義はでかい。反還元主義と云う結論を、ハーマンはハイデガーの道具論の考察から導出しているらしく、しかし私は量子力学を端緒とした不連続体の考察による生成と消滅の同義性から導出しており、恐らく到達経路は異なるから、其の辺りで新規性を主張できるかもしれないが…彼の主著を読んでおらぬので確認できておらず…其れに、所詮は還元主義の閾を出ない現状の量子力学から出発してしまったから、生成と消滅の同義性も、結局はハーマンに云わせたら概念的な還元主義として否定されてもおかしくはなく…しかしハーマン自身も、事物の関係を検討するのに四方対象などと云って些か都合の良い概念操作としての還元主義に依存しているように見え…ハーマンは、事物を形式で捉えるのはOK、などと御手盛りで逃げ道を作ってるが…実際、一切の還元を拒否してしまえば其の事物について何も云えない思想の終着地点となるのは目に見えているから仕方ないのかもしれないが…ハーマンの四方対象、即ち感覚と実在の性質と対象の四つの組み合わせによる概念導出は、何となく、拙書の、多様性原理と理性の肯定と否定の四つの組み合わせにも似ている気がするし…
 何となれば、ハーマンや私の思想は、実際の処、華厳経なのではないかと私は踏んでいる…オブジェクト指向哲学などと目新しい名称で持て囃されているが、そんなものは遥か昔の最重要仏典の一つである華厳経に書いてあるんだよ、と云う事を意地悪く証明してみせてハーマンの成果を貶めてやろうか、と、一瞬思ったが、そんな下らない妄執に囚われて価値の無い学術的論証に時間を費やすほどお前は馬鹿だったのか、と吾に返る…其れに、多分、ハーマンの方が華厳経よりも、西洋人らしく緻密に論証してるのだろうし…。
 とは云え思い出すべきは、私の目的は理論を構築し、其れを講釈する事ではなく、飽くまでも実践であって…元元、拙書にて理論を組んだ背景は、いきなり実践物を世に提出しても、其の実践物はあまりに新しすぎて、其れを評価する基盤が此の世に存在しないがために捨て置かれる破目に陥るのは目に見えているし実際幾度と無く無視されて来た経験もあるから、自ら評価基準となる新理論と新実践物を合わせて提出する事で何とか社会への流通の扉を開かんとする目論見なのであった。ところが、理論の方は、完全に私の理論と一致する訳ではないにしても(其の異同の内容は、次の「怒り」の理由にて述べる)ある程度ハーマンによって先に出し抜かれてしまったから、今後、私が独自に考え続けて創作した実践物を提出しても、其れは、ハーマンの理論に便乗した二番煎じのスノッブな代物と世人に解釈され、ハーマンの後塵を拝すと云う、私にとって最も屈辱的な扱われ方に甘んじなければならない公算が大きく…やる気も生き甲斐も失せると云う、人生上の敗北感さえもが伴う個人的な思想的危機なのである。ただ、今のところ、と云ってもハーマンの主要著作を読んでいず、断片的な情報を得た段階に過ぎない留保は付くが、ハーマンの思想の結論についても、其の過程と同じく、完全には私と一致していない、其の僅かだが質的には結構大きい差異に賭けるしかないと、辛うじて希望を繋げている状況…ハーマンの思想の結論と云うよりも、ハーマン自身が、己の思想の可能性に気付いていない可能性もあり、無論、私は気付いているが、其処の所を衝くしかないのか、と…。
 あるいは、どのみち私としては、全体主義予防の効果は理論的に見て低いと考える理論自体のの発表が目的ではないから、既に理論が広まっているのであれば、私の新実践物が評価され易いと云う好機とも考えられる。ただし、此の場合、理論が既にあるから、其れを読んだ野心家どもが、早速其の理論を元に実践物を創作して来る、即ち競争が激しくなる事が現実味を容易に予想されるから、今までのように、どうせ自分のライバルは10億人に1人、即ち世界で合計5~6人くらいだろうと慢心してちんたらしてる場合ではなく、ハーマンのせいで、如何に上手い事速く仕上げるかと云う早い者勝ち競争に参戦せざるをえなくなり、其の意味でもハーマンが恨めしいが、普遍的だから幾らでも応用できる理論の公開のせいで今後雨後の竹の子のように増殖するライバルたちとの熾烈な開発競争に打ち勝たなければならない…実際、ハーマンの理論は、現代美術の分野で重宝されていると聞く…其の創作物が、コンセプチュアルアートや物派をどの程度乗り越えているのかは分からないが…文学でもオブジェクト指向哲学を応用するスノッブな輩が出て来るのは時間の問題だろう。私は数年前から、ハーマンとは独立に同様の事を考えていたのに…。

 さて、次に、「現代思想」1月号を読んで怒りにわなわな震えてしまった理由は何か。其れは、…(次回に続く)

拍手[2回]

先、越された!

もうしばらくは何も書きたくない、思う存分色々読んで吸収したいと思っていても、読めば読んだで自分に直接関わる事だから自ずと心理が蟠って居ても立ってもいられず言葉として吐き出して何とか執着から離脱したいと云う弁証法の呪いから抜けられず…ほとほとうんざりするけれども、もう一歩踏み出してしまったので、淡々と、最早どうにもならない事実と向き合う着地点を目指して書き進む地獄の道行きしかなく…ゼロからとまではいかなくても、10ぐらいから100を目指して、思想体系と云うものを独力で組み立てたい欲求に駆られ…と、此処まで書いて来て、気力が潰える…とはいえ、些か冷静になって考えてみると、ハーマンに先を越された部分があるものの、そうでない部分もあり、実際の処、ハーマンの主要著作をまだ読んでおらず、雑誌に載ってた小論文を読んだだけではあるものの…肝心な処をハーマンは論じ得ていない可能性もあるように見受けられた…しかし、ハーマンが提唱した理論自体には、私が希求する立論の可能性を秘めているように思われるが、其の可能性をハーマン自身が気付いているかどうかは、雑誌の論調から云っても窺い知る事は出来なかった…其の可能性は現代社会において極めて重要な意味を持つから、ハーマンが其の可能性に気付いていたら公表しない筈は無く、雑誌の紹介記事でも其の事に触れないのは有り得ないほどの重要事項だと思われるが、私が目する処の重要事は雑誌の中の紹介文や本人の小論文で一切触れられていない事から、ハーマン自身が己の理論の可能性に気付いていないんじゃないかとも思われ…憶測の域を出ないが…いずれにせよ、長い話になるので、やっぱり改めて週末に私の見解を発表したい。

拍手[1回]

思想的事件勃発…!

くっそー、先、越された!グレアム・ハーマンのオブジェクト指向存在論にしてやられた!ハーマンが構築した思想体系の結論は、反原子論と云う意味では、ほとんど私が構築した多様性原理と同じじゃないか!井の中の蛙、浦島太郎だ!悔しい!悔しすぎる!悔しいと云う感情を悔しいとしか表現できないほど余裕なく悔しい!…物にあたりたくなるほど悔しい!自分の思想を超える者はどうせ出て来ないだろう、とたかをくくっていた自分の怠惰と暗愚が呪わしい!こんな事態を許した自分の怠惰と無能が悔しい!此れほどまでの悔しさは生まれて初めてだ!気持ちが乱れに乱れ…明日、改めて事の次第を手短にまとめたく…全く個人的な思想的危機に陥り…半島情勢どころではなく…気持ちを落ち着けるため、金沢のかぶら寿司(かぶと寒ブリを麹で漬けたもの)と大根寿司(鰊と大根を麹で漬けたもの)を注文する!酒の肴!酒に溺れたって、先を越されてハーマンの後塵を拝する屈辱から逃れられないのはどうしようもないが!ああ、胸が掻き毟られる!今までやってきた事が全て水泡に帰するのか!

拍手[0回]

心的恐慌状態がまた…

過日は専ら個人的なしくじりに端を発する心的恐慌状態に襲われにっちもさっちも行かないど壺に陥ったが…今回は悪化の一途を辿る国際/国内政治情勢を憂う事に端を発する心的恐慌状態に襲われ…また何も手に付かない最もまずい状況から抜け出せないピンチに陥る…自分の妄想的推論によると、もう此のままでは早くて半年以内に戦争が起こると云う結論が出てしまい…北朝鮮との後ろ暗い取引をつつかれたくないのか、其れとも単純に反日感情の増殖が止まらないだけなのか事情はどうでもよいが韓国が軍事的な嘘を捏造するだけで足りずそんな嘘を根拠に恫喝的な不当要求して来る、一線を越えた道理の破綻が罷り通る政治的事実からのみ導出される事ではなく、其れも含んだ諸々の情勢分析の結論は戦争しかないと云う事になり…最早此の状況はどうにもならないから、個人としての自分が生き残るための身の振り方を早々に決めないと速攻で国家権力に殺されてしまう現実をありありと見てしまい…そんな中、プリンターのインクのカラを回収ボックスに入れるためだけに巨大ショッピングモールを歩いていると暢気にスマホいじりながらへらへら入り浸っている客層が目に付くから、此の連中には此の現実が全く見えていないのか、バカなんじゃないのか、バカなんだろうけど、と内心激昂し頭がおかしくなりそうになり、…どうしてこんな幻視に苛まれるようになったのか、其の推論とは何なのかを開陳するほどの余裕は今は全く無く…シューベルトとシェーンベルクと云う渋い曲目のコンサートを聴きに行き…シューベルトは古典派とロマン派の、シェーンベルクはロマン派と現代音楽の端境期にして、味わい深く、自分好みだから…溢れんばかりの感動を覚えたが、肉眼の現実と二重写しになっている悲惨な近未来と云う不安は払拭されず…早咲きの梅でも見物した後、梅園の茶屋でみたらし団子とほうじ茶、と云う風流を決め込む事で少しは落ち着いたが…最悪、全体主義状況になってしまえば、唯々諾々と体制に諂う事で命を長らえる事は可能だが、戦争となると生き残るための処世術に走るしかなく、対応するなら早いに越した事はないが、自分の志にじっくり取り組みたい願望もあり、しかし志とは別に大切にしなければならないものを守るためには志をさっさと捨てて直ちに保身の処世に突っ走るしかないとも考えられ…正直、自分一人の事なら拷問や爆死等の痛みは勘弁願いたいにしても自分が死ぬ事自体はそんなに恐るるに足らぬのだが…大切なものを守るにはまだ死ぬわけにはいかないし、道半ばの志にも成果を出すまでには未練はある…そんな千々に乱れる恐慌状態で、…自分がそんな結論に至った理論的経緯を説明する心の余裕も時間的余裕も全く無い…

拍手[1回]

吸収したい此の頃…

特に外的要因が勃発して事態が好転した訳でもなく何かが解決された訳ではないが、取り合えず時間が経つにつれ、小生の内的な恐慌状態は落ち着きつつあり…結局私家の論文の第二版を準備する羽目になるも、其の目途も大方付きつつある今日此の頃では、しばらくは文字を書きたくない、一文字書く度に気分が悪くなるほどであり…今はひたすら手当たり次第色んな分野の本を読みたい気分…従って…民族単位、あるいは国家レベルで一方的にこじらせた反日感情の暴走が止まらなくなっているらしく、日本に対しては殊更に付けあがる快感を覚えたらしい下劣なならず者に成り下がった韓国政府による日韓関係悪化について総合的に云いたい事は有れど…書くとなるとまた自分の神経を蝕むほどの長文になるのが目に見えているので個人的には関わりたくなく…何処かが金を出してくれるなら存分に書いてもよいスタンスしか今は持ち得ない…現状では…小生が最も恐れていた、即ち、トランプ政権による米中露の悪の枢軸が完成する最悪の事態は今の処無さそうだから良しとすべきなのかもしれない…とは云え気まぐれな新参ファシスト=トランプのやる事だから大して安心でききず、トランプの中には民主主義の価値は皆無なのだから基本的に中露と親和性が高いのは明らかなのだから…けれども頭の悪いトランプが目先の利益を追求するあまり貿易関係で中国に難癖付けている限りは最悪の事態にはなるまい…そうなる前に、今のうちに、日本独自の安保外交路線を構築すべきと云うのは簡単だか…それにしても、沖縄の、基地問題に関する県民投票…県内の市町村自治体が県民投票を事実上ボイコットして、其の自治体の住民の投票権を奪うのは、投票権を奪うと云う、此れ以上掘り下げようも無い程直接的な民主主義の破壊行為ではないか。しかも自民党の国会議員が暗躍して此のボイコットを誘導しているらしく…厚生省による統計改竄も含めて…民主主義が終わりつつあると云うよりも、終わった状態を既成事実で以て確認している絶望的状況…大寒の日…シーズンオフの砂浜をピクニック…防寒しているものの、おにぎりを掴む手がどうしても剥き出しだから、其処に寒風が当たって寒すぎる…しかし日差しは春の其れで…眩しい海面…汀にて波を吸収する砂音が気持ちよく…

拍手[1回]

不安定で…

此度の韓国の振る舞いに不覚にもナショナルな感情に襲われて頭に血が上り、顔面の左半分で痙攣が止まらない二、三日を送ったのも束の間…、此の事に関する小生の総合的な見解を述べる余裕がなくなるほど、己の精神が安定を失い…其れは、専ら小生自身を原因とする私事の煩悶であり…つい調子に乗って浮ついた事をしでかしてしまった結果、際限の無い猜疑心と被害妄想に苦しむ羽目になり…其の恐れは、現実化する可能性を冷静に考えれば、無いとは言い切れないにしても可能性はあまり高くないと判断できるのに、微小ながらも可能性が存在すると思っただけで、其の存在が無限に大きく増殖する悪夢に陥り…自分にとって信頼関係とは、自分が裏切られても納得できる相手を対象とするものであると定義しているにも関わらず…いざ、一瞬でも信頼してしまった相手から裏切られた場合に自分が蒙る実害を欲得ずくで計算し、懊悩すると云う未練がましい蟠りに陥ってしまい…無論、裏切られるかも、と云うのも専ら小生の被害妄想に過ぎぬのは分かっているし、且つ、裏切られた結果、自分が蒙るであろう変化も、とうに覚悟できている些末な事だと割り切っていたはずなのに…いつまでたっても悟りきれぬ己の未熟も重なって激しい混乱状態にわななく始末…そんな不安定な精神の極限状況の中…地獄に垂れた蜘蛛の糸に縋るようにしてトミーを聴くと…小生の無限の猜疑心とは全く独立に成立し、そして其の猜疑心に直接コンタクトを取るべく制作されたものではないはずなのに…歯槽膿漏でぐずぐずに弱っていた歯肉が、的確な処置によってしっかり引き締まる具合に、…無駄に動揺する精神の底がしっかり持ち直し…滋養が高められる効果が沸沸と湧き上がるのが温かく力強く感じられ…助かった、本当にこのままでは危なかった、トミーが此の世になければ、己がしなければならない事が全く手に付かない本当にまずい状況から抜け出せない処だった、有り難うトミー、と心の底からトミーに感謝してしまうのであって…要は其れくらい精神が弱り腐っていた事を改めて自覚させられる…かといって、抗生物質の過剰摂取のようにトミーの印象深いフレーズをしつこく頭の中で再生していると其の効き目も薄れてくるのも感じ始めたからトミー頼りも控えないとまずいのであって…幸い、ハイレベルの心的恐慌状態を保ち続けるほど病的ではなく、時の経過に従って、原因は不明だが被害妄想への執着が薄れてはいるようなので…今はじっと、時の経過に頼るしかない…何が何でも、為すべき事に手がつかない状況を無為に閑却する訳にはいかない、計画通り進めなければならない…。

拍手[1回]

厄除け

もう今年は始まって早々世情は不穏なる事連発で先行きが思いやられる暗雲だらけ…円高や株価の値下がり、米中冷戦の先鋭化に韓国の相変わらずの狼藉の数々…小生の、此の処の日韓関係に関する見解はいずれ明らかにするとして…人の事よりもまず自分が今年は大厄に当たる事を知らされ…近所の神社に参る、殊勝にも初詣らしい事にいそしむ…年始から時局に毒づく気力も無いので、厄除けの御守りの効能を今はひたすら信ずるのみ。年を経る毎に、運とか偶然の威力がばかに出来ないようになって…兎に角健康第一を願うようになり…開運招福を祈念して…今年は勝負の年。何とか去年中に基礎研究の目途はつけたつもりなので、今年こそは自分が望む成果を出したい。何だかんだでまたアメイジングジャーニーをしっかり視聴…言い知れぬ感動をしっかり心に刻み込んで年越し…

拍手[1回]

忍者ツールズプロフィールは終了しました

HN:
々々
性別:
非公開

04 2024/05 06
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31

ロック史最新記事

(03/03)

ブログ内検索

最新トラックバック

最新コメント

忍者アナライズ

Copyright ©  -- 仄々斎不吉 --  All Rights Reserved

Design by 好評ゼロ / powered by NINJA TOOLS / 忍者ブログ / [PR]