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 ロック史を体系的議論から解き放ちながら、サイケデリアの土着性とハードロックの非継承性を論ずる。主要1000タイトル、20年計画、週1回更新のプログ形式。
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【集中連載】続き③

ところが、此の御時勢に、絶対的な法則や形式の追究に邁進し始めた人が居る。カンタン・メイヤスーである。ポストモダン以降の新思潮を作ったいわゆる思弁的実在論、本人曰く思弁的唯物論の構築を企図している首魁であるらしい。其の気概は良い。彼は、古代からポストモダンまでの全ての思想を、世界と人間との関係に自己閉塞した相関主義として批判する。そして、其の相関主義は、相関主義に回収されない絶対的な形式を根拠としていると云う。こう聞くと、カントの物自体と何が違うのかと突っ込みたくなるが、其の判断はさておいて、彼は相関主義を二つに分ける。其の一つは、相関によって思考を脱絶対化する狭義の相関主義であり、二つ目は、思考が絶対化する主観主義である。メイヤスーによれば、ニーチェやドゥルーズなどの殆どの哲学は主観主義に閉塞していると云う。此の意味では、私も主観主義の謗りは免れないだろう。

 ところで、常に政治的現実において思考する私ならば、表面的な意味の違いに頓着せず、相関主義を相対主義と置換する。そしてメイヤスーが云った相関主義と主観主義に関して、拙書では通俗相対主義と俗悪相対主義、と表記していた。そして、ある意味メイヤスーに拙書の限界を批判された形になるが、俗悪相対主義では多様性原理と全体主義を弁別出来ない事は拙書でも露呈していた。だからこそ自由意志で多様性原理を定立した上で、全体主義の論理的誤謬を衝く事で全体主義の進行を妨げるしかないと云う事実上の根性論を論述せざるを得なかった訳だが…メイヤスーは、此の俗悪相対主義の現場において、絶対的な真理を思弁的に追究すると云う…その意気や良し。仮に其れが可能であるならば、多様性原理と全体主義が弁別できるかもしれないのだから、意義有る仕事だと私も認める…しかし…メイヤスーの小論文を読むと…俗悪相対主義の現場における主観主義から回避するため、意味なき記号の分析を取っ掛かりにして数学的思考が絶対的真実に至る必然性を論証しようとする様を見るにつけ…あまり期待は出来ないなと私は思った。メイヤスーが哲学的良心=理性に従って推論する姿勢は立派だと思うが、問題は、政治的でしかないと云う此の現実社会において、彼の理性的試みさえも、粗末な妄言との玉石混淆によって相対化され、絶対的な説得力を失ってしまうからである。記号分析で絶対的な形式に至る必然性を証明した処で、全体主義の予防にはあまり寄与しないだろう…。私個人としては、彼の仕事の行き先を見守りたいとは思う。

 そしてグレアム・ハーマンである。私は、オブジェクト指向存在論による、還元を拒否する個体による多様体から、色々理屈を捏ね上げれば何とか人権を定立できるのではないかと予測している。1月号の全体の印象では、思想誌らしいバランス感覚で、ポストヒューマンと云っても必ずしも加速主義のような偽悪趣味ばかりではなく、八方美人的な記述で何処にも肩入れしない事に踏み止まる事が真の突破口を開くとばかりの楽観論なども散見されるが、基本的に、明確に人権を擁立しようと云う動きは皆無である。人権の破壊がある一方で人権の濫用にも社会が疲弊しているのも事実で、此の破壊と濫用の根は一つと思うが、斯様な問題はありつつも、ポストヒューマンが人権を相対化した事が、人権が崩壊する定常的な流れの中では、自ずと人権の破壊を加速させたのは事実だと思われる。ポストヒューマニティーズでは、冤罪で死刑にされる直前に、貴方は殺されるのではない、生き返るのです、などと人を煙に巻くような事を云って宥めすかす教誨師のような慇懃無礼な言説も散見される。ポストヒューマニティーズは、直接的に不当な弾圧を受けている人間に対し、彼が其れに抵抗し抗議する唯一の根拠=人間の尊厳を攻撃する無能な無責任のたわ言でしかない。あるいは、現在を、多様世界への過渡期と云う風に定義するご都合主義によって、不当弾圧の被害者の被害を矮小化しつつ、其の一方で不当弾圧する主体の地位は無罪放免で等閑に付す日和見的な言説が見え隠れする。努力しなくても全体主義は自然な流れで進行する。此の流れに対して人間は、諦めて隷従するか、抵抗するかしかないのだ。此の二者択一を幾ら思弁的に解消したところで、斯様な無能が全体主義勢力の利益にしかならない現実を直視すべきである。そんな思想的状況でも、恐らくオブジェクト指向や新しい実在論、アクターネットワーク理論や人類学の存在論的転回と云った、目新しい潮流の哲学のそれぞれの思弁を内在的に組み上げて行けば、何とか人権を定立できると私は思っている。還元を拒否した個体性が原理にまで及んだ場合、個別の原理が孤立するだけで関係性が結べなければ人権の定立など難しそうだが、何とかなるだろう。これらの新理論から導出された人権の姿は、18世紀の其れとは趣を異にするだろうし、そうであればこそ現在の新しい全体主義に対抗できると思う。其の点で云えば、私の拙論で定立された人権は、18世紀の其れから脱却できなかったと反省はする。

 ただし、此の場で云いたいのは、此れらの新理論には人権確立の可能性があるのに、少なくとも雑誌上ではおくびにも人権が出なかった事である。仮に既に此れらの新理論から、各各が別箇に人権を擁護する理論を樹立していたとしたら、雑誌で言及しない訳はないだろう。斯様な言及がないと云う事は、其の樹立が現時点では成されていなかったと思わざるを得ない。だから結果として、新理論が新しい人権を樹立する可能性を秘めているにも関わらず、多様体の合理性ばかりが強調される事で人権を蔑ろにする方向に新理論が使役され、現状の全体主義傾向を追認的に加速させた事に、私は憤ったのであった。まあ、殊更に雑誌を疑う訳ではないが、雑誌の怠慢なのか新理論の担当思想家たちが己の理論の可能性に気付いていないだけなのか、気付いているけどあえて人権を隠蔽したのか、今後、確認は必要である。

 ポストヒューマニティーズを読み、拙書の反省点も改めて発見され目から鱗ではあった。其の一つは、拙書では、殊更に①のナショナリズム的な全体主義の分析に偏りすぎ、①と②に通底する経済原理による全体主義分析が疎かになっていた事である。または、②の合理性の暴走による生命原理の毀損を、端的に予測はしていたものの、其処まで深く掘り下げていなかったがために、まさか思想が②に肩入れする事によってトータルの全体主義を積極的に劣悪化させる事が此れほどまでに深刻化するとは思ってなかった。やはり現代においては寧ろ経済原理や②に主眼を置いて検討すべきであった。其れと、拙書の多様体モデルである相互作用の非対称性の記述で、つい調子に乗って、無限の関係性が組み合わせれる風な事を書いてしまったが、関係性は多岐に渡るものの有限に留まるとすべきであった。此れはハーマンの指摘を顧みての事である。無を内在した不連続な多様体だから、万物と無限に関係を結ぶ訳ではなく、関係が無いと云う事も有り得るのが当然の帰結であり、私自身が、自分の考案した多様体についての理解が足りていなかったと云える。取りあえず…もう、日本人に日本語で何云っても無駄なような気がしてきたから、なるべく朝早く起きて、英語の勉強しようかな、と思う。其れはそうと、雑誌冒頭の対談の最後の方で、千葉雅也氏が、「単にリテラルではないけれどメタファーを頼りにするのでもないような厚みのある言葉」への希求で締め括っていたが、此れは、拙書「多様性原理」の5.6.1や6章で示した「生成文章の超臨界性」に相当すると思われる。私にとっては此れは最後の手段とも云うべき、極めて難易度の高い言語であると予想しているが、もしかしたら、唯一の手段となるかもしれない。既に私と同様の事を想像する人が出て、公言した以上、急がないといけない…。

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