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 ロック史を体系的議論から解き放ちながら、サイケデリアの土着性とハードロックの非継承性を論ずる。主要1000タイトル、20年計画、週1回更新のプログ形式。
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点在する系譜編「the beach boys/pet sounds(1966)tocp-3322」



と、思ったが、駄目だ、書けない…今週はもう精魂尽き果てた…課題である蕪を彫った盆に自分の銘を刻むと、彫りと書きは精神の同じ箇所を浪費するのか、もう、何ぞ書く気は全く起きぬ…それでも、むしろ、それゆえこそ、後頭部にあの曲の残響がいつまでも沁み付いて反復され、書かざるのを許さぬ…書きたくないのに、今は書ける状況にないにも関わらず…だいたい、あの、ティンパニーだか何だかの、ロックドラムからも、播種のように解き放たれてしまった打楽器の、思いの外意表を衝く殺伐として毛羽だって獰猛な大柄な音の闖入は何なのだ…かといって耳障りだとかの事件性は恐ろしいほどの自然さで払拭されているのだ。リズムやリフや煽りを刻む役割から、鉈で割られたかのようにかっすりと下りて、無軌道に、楽曲即ち陽気な、イデオロギーの滑落した陽気なおしのデモ行進にどかどかと勝手に帆走してくる気安さと、ぞんざいなる獰猛…人を捕食しない限り事件にはならぬ野生動物の獰猛が、あの打楽器の、対象に左右されぬただぶち壊すためだけの打楽器による打撃であって。頭空っぽで腹いっぱいでのし歩く、数年ぶりに木の根元で目覚めてしまった無能で聾唖の三年寝太郎の能天気が、わらしべを、次々に宝に変えてくれる人との出会いは頻繁だろうと、その宝、流れ星燃え尽きて身につかない無償の、愛…結節しているはずの細胞群が牡丹雪が無音で降り積もるようにそれぞれ離れて行ってばらばらに、如何なる文脈からも解き放たれる時の奇蹟がここに、いつまでも軽く小さく、流れない粒の、粒粒の、流れにならない、ただ、ただ、流れにならない光が音であったとでもいうように…。きれいなメロディライン、美しいコーラスワーク、凝ったアレンジと実験の数々、不意に挿入される具体音の椿事…そんなことが、この音楽にとって何だというのだ…世界がこの世界のままに崩壊しきっている、そうした妙境を呈した絶後のこの音楽にとって、それらが、だからなんだというのだ。そんなことは糞の足しにもならぬ。それは聴くことでしか甘受し得ぬ、しかしそれを画で暴発させたフランシス・ベーコンの絵は、電気椅子に掛けられて通電中の絶叫せる枢機卿でもあって、ムンクの叫びでもあって…動機の無い不安にたっぷり包まれる夜空が明るい、それは白夜どころではない極彩色の空しみが、冷たくも暑くも無く至って涼しげで…恐ろしい。これほど恐ろしい音楽は無かった。この音楽を聴いて発狂せぬ者などいるのだろうか、いや、既に、狂っているという事を、専ら、聴くという、こちらの主体的行為に任せて、この音楽が告発する…この狂いこそは、社会社の承認によって裁定された正常と異常との対立によって大量生産される類の近代の産物ではなかった、絶対的な狂いとしか言いようがない。こうした言い方、即ち言表の不可能性でしか、至りようがないのである。そしてこの事実は肯定的に転倒しようもないから、そして、と、無意味につなげよう、そして、音楽も言葉も泡立つ。流れに浮かばないウタカタである。ペットサウンズは充実したうつろである、とか、そうした、引き裂かれた言葉でしか、どうしようもない。人間を駄目にすることで人間を試す虚ろである。発作がさらさらと小川である。みみっちいルサンチマンから断絶した、涼しい哀切がとどまらない音楽であり、しかも人間の独立をそそのかす残忍な哀切である。しかも、情けないへたれである。以前、点在性という事を、大雑把に、ジャーナリズムで承認された潮流の言説では説明しきれぬ突発性として紹介していたが、本来はそんな卑近な事で足りる事ではない。あの潮流(ビートルズ史観)は、説明しようと思えば言葉の暴力(歴史=雰囲気作り)を使って如何なる対象でも説明しようとするそうした節操なき音楽への侮蔑をリスペクトと称してあげつらい肯定におもねて政経におもねる渡世上手の、それはそれでしたたかな欺瞞に過ぎないのだが、点在性はそうした史観によっては説明つかぬ異常性というよりもビートルズ史観が楽天的に機能する説明の語法の基底を燃やし尽くす獰猛性が言語による理屈や理念ではなく芸術の表象という逃げも隠れもせぬあからさまな闇によって暴発するのを謂っている。この場合重要なのは音源のみならず如何に聴くかを問われるリスナーの生き様も関与するのだが当然ではある。もう、こんなことは事ここに至っては蛇足も蛇足だから書きたくも無いが…ブライアン自身の発言もあるからそれが説得力の一助となっているが、そんなことも、作者と作品との間には死という関係性しかないというブランショの言を引くまでも無く、ブライアンの発言「ビートルズのラバーソウルを聴いて感動してペットサウンズを作った」という逸話には何の意味も無い。それでも書くのは、この、点在性の中の点在性として、まさに作品として生誕してしまったあのペットサウンズでさえもラバーソウルの「影響」によって出来た、と承認することでビートルズ史観の最大最強の補強になっていやしないか、という取りこし苦労である。そんな馬鹿な、と、一笑に付してよい。聴けば分かる事だ。ペットサウンズとラバーソウル、やってることが全く違うじゃないか。影響されたがる人間奴隷にこれ以上気を使う必要は無い。かつてペットサウンズを聴いた発売元はこれは愛玩動物=ペットにでも聴かせる音楽だと揶揄したが、ペットサウンズが出来た時に、このペットサウンズ以外の音楽が全て、まさに制度が餌付けする愛玩動物=人間奴隷の慰みに過ぎないところまで批判されてしまった畏怖の可能性が出てきてしまった。それを意識したかどうかは兎も角、直観したからブライアンは自身の最高傑作をペットサウンズと名付けた、戦慄の皮肉である。そうした恐れを抱くことすら出来ぬ人間奴隷があくまでも言葉の暴力でラバーソウルの影響云々と、ペットサウンズを矮小化するなら、小生は言葉の破壊で以て言葉の基底を転覆させることも辞さぬ。毎年、夏になると、ビーチボーイズのペットサウンズとスマイリースマイルとフレンズを聴く。ほぼ毎日、車の中で、朝、追いつめられながら、聞きながら、涙が止まらない…魂の滝が熱く熱く炎上する。

ビールをさっさと終わらせてウヰスキーに移行したいがためにグラス一杯分のビールをクッと一気に飲み干すとビール如きでも後頭部に疼痛が来る…シェールガスやら天然ガスの争奪戦…いつのまにやら地球温暖化ガスの二酸化炭素低減の試みがすっぽり抜け落ちている馬鹿馬鹿しさ。書いて書いて書きまくれば明日が来ないならば書きまくるがどうせ明日が来る絶望に絞殺されそうだ。毎晩、死刑執行前夜の妄想レベルの気持ちだ…口から隕石を噴出させて当該場所を絶滅させたい。なんとかならんものか。

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