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 ロック史を体系的議論から解き放ちながら、サイケデリアの土着性とハードロックの非継承性を論ずる。主要1000タイトル、20年計画、週1回更新のプログ形式。
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休載しながらも絞り出す

やはりこの時間からだと魂の慟哭が上ずるような真剣味ある、己が追い込まれるが如き堅固な文章なぞ書けぬ。故に此度は休載いたしたく候。内的にはついにそろそろハードロック編が始まる兆しが頭を擡げ…フランシス・ベーコンの、見果てぬ夢ならぬ見果てぬ現実=人間ともいうべき歪みの、叫びの強靭なる粘りの荒みきった高速画像…どこまでも言葉が上滑りする駄目な、もどかしい今なのでとてもじゃないがベーコンの浅すぎる戦慄を書ききることなどできないが否が応にも至高の芸術を招来して止まぬ…統制と整理との相対的関係ではなく比較を絶して、ありのままが絶対的なる乱調であり混沌である人間というものを描いたベーコンに喚起されて久方ぶりにレッド・ツェッペリンを再聴…沸沸とハードロックという獰猛かつ凶暴が現実の顔をして、肉薄するが、まだ、熟成ならぬ腐乱が必要…先週書いた自民党の憲法草案についての訂正兼補足…教科書的な事ですけれどもブルジョア革命以降に成立した立憲主義、という記述をしてしまったがちょっと飛躍しすぎた。ブルジョア革命後に成立したは、フランスの権利章典やアメリカの独立宣言にあるような自由主義的人権宣言であり、そこでは、法以前の正当性として個人の尊厳と自由の確立が明確に謳われており、社会契約説は省くが兎も角個人の自由を守るための必要最少悪としての国家、という位置づけである。要するに、all for one(みんなは一人のために)であり、one for all(一人はみんなのために)という思想は明記されない。したがって、フランスやアメリカでは、個人の自由や権利が国家から損なわれる場合は、革命権あるいは抵抗権という言葉で、その国家を打倒ないしは改変する権利を法以前の明証性のもとに記述している。実力による封建領主の駆逐とそこからの独立を果たした歴史的経緯によるのだろう。一方、近代後進国ドイツや、ドイツをお手本にした日本ではそうしたラディカルな歴史を経ない修正主義的な折衷案的な経緯があったため、立憲主義をとっている。要するに、all for one(みんなは一人のために)、且つone for all(一人はみんなのために)、である。よく学校の教室に掲げてあるやつである。この立憲主義は当然ながら矛盾を抱えているため時代によってどちらかに偏る振り子運動から免れないといいたいところだが歴史を見るならば圧倒的に、one for all(一人はみんなのために)に偏りがちである。なぜそうなのかを歴史的に説明するのは、もう、いいだろう。問題は、これからである。したがって立憲主義国家においては革命権や抵抗権は明記されず意識されていないのもあって、人間よりも国家という概念にリアルを感ずる国家主義政党自民党などがしれっと、表現の自由という、個人が持ちうる最も無力かつ肝心要なる抵抗権ないしは革命権の核となる原理までもを、狡猾に払拭したがる。もっと恐ろしいのは、こうした立憲主義国家においてはそもそも表現の自由を欲するが如き者が少数であり、民主的多数派は表現の自由が制限されたところで不自由も侮辱もかんじないような封建的奴婢である事である。絶望的である。テレヴィで讀賣の元記者が愚かなことをいって自民党案を擁護していた…その元記者が大学で学生に講義するに、「公益および公の秩序に反することを認めないってことで反対される方は戦前の事を思い浮かべるようですが、それは時代錯誤でしょ?今は違うでしょ?憲法でそう規定したからと言って今の時代、戦前のようになるわけないじゃないですか。公益および公の秩序に反することで思い浮かぶのは?そう、オウム真理教でしょ。そういうのを取り締まるのにも必要なんですよ。高知新聞の人とは議論が平行線になったけど、結局、人間をどこまで信じられるか、ということなんじゃないかな」いったい…どこまで…どこまで…下劣なのだろう。どす黒い怒りの焔が己自身を焼き尽くすようだ…。現在と、戦前と、いったい何が違うというのか。文章の読解力がなさすぎだろう。草案を日本語としてそのまま素直に読む限り明らかに治安維持法の文言と同義じゃないか。それを憲法で承認するというのか。現行法でオウム真理教が裁けないというのか。全くわけが分からない。人間を馬鹿にしきった下手くそなゴマカシである。人間が信じられないから法というのがあるんじゃないのか。ルソーやモンテスキューくらい、元記者なら読んどいてくれよ。人間とは信頼が破たんすることがあるのだから法という明文化によって誤解なきよう明記する必要がある。その法が、明らかに、表現のプロパガンダ統制を明記しようとしているのに、意味的には自民党草案はそうした統制にもとれるけれども自民党も含めて僕たち現代人は良識(何だそれ?)があるから実際には戦前のようなことはしないよ、と、なにゆえに分別顔で厚顔無恥にも屈託なく言えるのか。アドルフ・ヒトラーが何度も何度もユダヤ人を絶滅させると著書と肉声ではっきり明言しようとも、選挙戦略で言っているだけで政権とったらいやまさか本当にそんなことはしないだろう、とたかをくくって、ワイマール憲法のくびきをはずし戦車作りまくって不況のどん底から救ってくれたヒトラーを支持したドイツ国民。その事実も、現在は戦前じゃないから、といって一笑に付すのか。過去の事実も直視できない記者が現代の何を報道できるのか。腐った妄言も甚だしい。一体、人間において何が、戦前と現在で変わったのか、元記者は説明できるのか。どんな根拠で人間を信じられるのか。その信頼が裏切られた時の社会的悲惨に人間が追い詰められた深刻を想像したことはあるのか。想像などしなくていい、学んだことはあるのか。そうした悲惨を惹起した責任を、元記者には取れるのか。国策報道でもう一度甘い汁を吸いたいのか。お上から言われたことをそのまま報道する方が何も考えなくてすむから楽でいいとでも?子供だましにもならない、何重にも狂っている、あの、定年後に大学なんかでおしゃべりしている元記者は。高知新聞の記者は、小生が述べたような当たり前のことを主張。土佐は自由民権運動発祥の地である。明日が来る。反吐が出そうな、最悪。くそ。くそっ。最強伝説黒沢、復活の噂あり。本通りの裏に一本入った入った通りはカレー屋激戦区といっていい、カレー通りである。今日、雨の日曜日、このまま一日が終わるのにむしゃくしゃして、ミモザのドライフラワーを買いに珍しく日曜日に外出。いつもなら日曜日は安息日ならぬ絶望の喪に服する日なのだが…続行しているカレー屋開拓。今日で5軒目。テイクアウトの、速さと安さが売りのところ。皿の置き方などががしゃがしゃ耳障りで客への配慮が足りず、店員の厚化粧のおばさんや店の雰囲気、安く荒んでいる。向かいにゲームセンターがあるからか。味は、良くも悪くもなく万人受けの辛さ。続々と、5、6人の男グループで背の低い若い貧相な、V6みたいな人々がゲーセンに入店。V6や関ジャニは年をとるごとに風貌が小さい貧相になる。なんか柄の悪い絶叫が聞こえるなと思ったら、艶消し黒塗の街宣車、誠臣塾と大書してある。何を言っているのかマイクのせいで分からぬが若い男の絶叫だった。憂国の士が、何事にも無関心な市民を叱咤している。黄色い嵐のようなミモザが売り切れ、替わりに吐血のごとき鶏頭のドライフラワーを連れて帰る。いつか、旨いカレー屋を紹介します。

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