ロック史を体系的議論から解き放ちながら、サイケデリアの土着性とハードロックの非継承性を論ずる。主要1000タイトル、20年計画、週1回更新のプログ形式。
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「jurgen brendel etc/moves(1996)scd022」 2010年6月13日 就任
お好み焼き屋で本宮氏のヤクザ漫画、男樹四代目なぞ読んでいると、敵の組の弱みを握った組長が手下に指示する台詞「それ、マスコミにチンコロ入れたれや」。
あまりにキツメの世界に耐えられず、横山光輝が画を担当した、捨て童子 松平忠輝なぞに移る。家康の六男にして蘭方医学に精通したクリスチャンの松平忠輝が、キリスト教禁令の世において、時の将軍、秀忠に何かと狙われるという話。光輝の絵が、心に滲みます。蒼天航路もいいが、光輝の三国志が滲みるのは加齢のせいなのか、先頃、齢32の誕生日を迎えて気弱に思う。いままではひたすらビールだったのが、最近になって、ビールの炭酸が胸につかえるようになって何だか苦しく、日本酒や焼酎に傾き始めたという体調の変化も否めず、年ということが不吉のようによぎる。
件の組長は期せずしてマスコミの垂れ流す情報のチンコロ性について唾棄したわけだが、昨今の政治報道の劣悪ぶり、これまで黙っていたが、もう我慢ならぬところまで来た。来週、多いに鬱憤を晴らす所存。たけしのアウトレイジが見たい。ガレージやサイケを通して荒みということを考えてきたわけだが、アウトレイジ見た後、たけしの荒みとさんまの荒みについて、比較する予定。
王道なきロック史低迷編。これまで、どちらかというと公認の流通レコードを引き合いに出してきたが、音楽は、当然のことながら、かようにせせこましい商品流通圏には留まらないし、何となれば少なくとも健聴者にとってこの世は音に満ちている。難聴者あるいは聾唖者にとっての音楽という批判もいずれ必要だろう。それは兎も角、どこで手に入れたのやら今となっては謎であるが恐らく、とある情報筋の通販でお助けしたと思う。ドイツはフランクフルトの、物音系にして1996年。
西洋古典音楽の文脈からつかず離れずのようにしてストラヴィンスキーやドビュッシーから現代音楽の流れにもジョン・ケージという人は居た。一方で彼は、ロシア革命やドイツ革命前夜のダダや表現主義における詩や絵画でのラディカルな試みの派生あるいは相互侵入、すなわち絵画による音楽批判やその逆といった馴れ初めの隔世遺伝のようにして、つまり自発的に発生する地雷の不連続性ということで王道なきロック史とも、通ずるという意味ではなく自然するわけだがようするに60年代サイケの従兄弟のようなフルクサス運動と現代音楽の合流点をなしてもいた。そしてその後、この両者はこのように一度きりの合流した後、各々の流れを作るに至ったのは幸か不幸か分からない。現代音楽のその後の動きは別稿に譲るとして、フルクサス運動は名を変え場所を変え、小生の知る限りでは90年代終りまでは息づいていた。中でもフィールドレコーディングや物音派は、例えば日本の絵画史の80年代のいわゆる物派とも疎通しかねないが、まずは、確かにあった、そしてこれからもあり続けるだろうことを、勝手ながらここに宣言したい。その物音派の人々が何をしたのかは、音を聴けば瞭然である。ずばり、物音である。
写真の通りである。珈琲カップや椅子、バケツやスプーンなどに、直接、複数の市販のモーターの軸をあてがう。そして、任意のタイミングで各々のモーターに電流を流して、その物の生の音を愚直なまでに発生させる単純極まりない、仕掛けのむき出しがそのままである。最早音楽や歌といった人間やロマンティシズムを否定し去ったものである。ノリや癒しを根本から破竹する物音の野卑の発見は、ダダ以来、継承されず、その都度発見されるしかなかった。音の実存性といってもいいし、音の鳴き声がぬっとでてくる様が、凄みを捨て去って、あっさり簡素である。(音を発見する、という矛盾はについてはいずれ詳論するが、ロマン主義音楽において音楽は時の芸術として称揚されてきたが、これの批判として20世紀、ケージらに代表される図形楽譜のように、空間による、音楽の時間性権威への侵略という仕方の批判がなされたことを指摘しておく)
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