ロック史を体系的議論から解き放ちながら、サイケデリアの土着性とハードロックの非継承性を論ずる。主要1000タイトル、20年計画、週1回更新のプログ形式。
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「john hudak/brooklyn bridge(1998)coal002」 2010年6月27日 救済
下記の下線部、緊急加筆しました。
たとえ明文化されていようとも従う気など毛頭ないが暗に察するよう強要されている、いわゆる強制志願(特攻隊…)のような雰囲気に根差した根回しや儀礼に対する小生の生来の無頓着無神経に対して、予め出来るだけ反論を封じ込めようとする周到さで断固として己を守護しようとする折り目正しい怒りの正論が長大な書面で送り付けられたりした。また、早い夏ばてなのかこのところ体調が優れず、尚且つ、自分の荒んだ食生活から類推される将来の健康不安も重なり、更に更に、行く先々で事がうまく運ばない憔悴の日々。機種変更した携帯電話の受話音量を最大設定にしても、出力される実際の音量は異常に小さくて相手の話し声がほとんど聞き取れないという、我慢ならない椿事も小生を一層憔悴させた。
景気づけに激マズ寿司でも食ってやるかと思っていったら、普段は金曜日の夕方であっても客席ガラガラなのに、その日に限って満席、「お名前書いていただいてしばらくお待ちいただけますでしょうか。」店の前に並ぶなど馬鹿馬鹿しいししかも激マズのくせに待ってられるかと怒りがこみ上げさっさと出る、どうしようもなくささくれ立った空しさ。本日、休日出勤で雨に濡れ、明らかに風邪を引いて喉が痛い。そういえば、風邪引いて熱っぽい、ということだけを深刻にだらだら書き上げたのが暗夜行路という珍妙小説だったと思う。
去年の年末あたり、専ら小生の心で、こらえ難くナチュラル系のファッションや暮らしが気になり、いずこの本屋の一角をも必ず占めているだろうナチュラル系雑誌を買いまくっていた。その詳細の論述からは、疲労ゆえにまた逃げさせていただくが、そうした縁でナチュラル系フリーマーケットにのこのこ押しかけたのが先週のこと、これも次回。冷房つけっぱなしで寝たら全身がだるい。のしかかる気ぶっせいに出口はないのか…。
追い詰められた人間であればこそ、他愛の無い、小さな、ほとんど希望とはいえないような些細な事で、救われてしまうのだろう、と思った。現実的権能など及ぼしようもない、およそ無意味無価値な諸芸能が、追い詰められた人間の琴線にこそ触れてしまう事が、必ずしも諸芸能をこうした枠組みに収める必然性は無いにしても、どうしようもなく在ってしまう。とことん追い詰められている人間は、その人の最悪状況を根本治癒してくれるような大きい幸福ないしは、その人の不幸を補うに余りある幸福が供されなければ救われないのではないかと人々は思われるかもしれない。しかし、実際には、追い詰められている人間であればあるほど、些細な事を独自に精密に感受し、現世において別次元を見出す。溺れる者は藁をも掴む…これは溺れる者の軽率な愚を笑う一方で、溺れる者の、他愛無い軽率にも縋らざるを得ない切羽詰った実態を表した格言なのだろう…希望の無い救いである。溺れる者は、あまりに危うく流れる藁でないと、救われない。むしろ、過剰な幸福でないと救われない、あるいは過剰な幸福でも救われないのが、追い詰められていない人間であろう。あるいは、自分を追い詰めることすら出来ぬ奴隷制度人間…。小生は、この、追い詰められていない人間を、恵まれた人、と書く気が起きない…。救い、という概念で救われたいとは思わない、と考えるのは簡単であるが、それは、まことには追い詰められてはいない人間の謂いである。小生は真宗ではないが、飢饉や疫病、火事に辻風、地震に戦乱、肉親も含めた裏切りといった日本中世における浄土真宗(南無阿弥陀仏題目、他力本願)の基本はここにあるのだろう…。シモーニュ・ヴェイユもしかり。中世の日本庶民ほど追い詰められていない小生であるが、小生が住まう賃貸アパートの大家さんがアパートのバルコニーで種々の野菜や花を育てており、共同掲示板に「きゅうりをどうぞ」。棘がピンピンに尖った大ぶりのキュウリを一本、もいだ、頂戴した。少しうれしくなり、早速、金山寺もろみ味噌を別途手配、酒肴の支度に余念なし。
何だかんだで学ぶことも多かったスコラが終わって始まったのがソングライターズ、今視聴しながら書いている。ソングライターズという題目が如実に示すように、いきなりロックから遠ざかった感あり。興醒めである。スコラは、YMOは、まだロックであった、少なくともミスチルや佐野元春なんぞよりは…。ビートルズよりはローリングストーンズ、ビートルズよりはザッパ、はっぴいえんどよりははちみつぱい、YMOよりはムーンライダーズ、ウッドストックよりはワイト島、ゴダールよりはトリュフォー、ピカソよりはブラック、モンドリアンよりはマレーヴィチ…そんなことを思うだけで原理的に説明するつもりも無いが、こういった対立を嫌忌したり壊したり建て増ししたりする以前の低レベルな問題領域にて、醜悪なワークショップが学生とミスチルとの間で繰り広げられている…。鈴木慶一が出る時は気になる…。
低迷編。ジョン・ハダックという人のフィールドレコーディングとスタジオ電子音とのフュージョン作品。1998、アメリカ。紙にCDが入っているだけで何の解説も無いのでどういった素性の人かは皆目分からない。もう、承認され流通する音楽的人脈とかと関係ないところで各自が勝手にやっていてもおかしくない実験音響の世界なのだろう。まさに梅雨の雨雲を這い進むような、もわもわ音やどうどう音、背骨が折られるような音が、分別や形を非力に拒絶している。ブルックリン橋のケーブルや橋桁といった構造体のきしみ音を律儀に増幅させつつ、控え目な電子音を絡ませる、トータル1時間ほどのキツめ音像。
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