ロック史を体系的議論から解き放ちながら、サイケデリアの土着性とハードロックの非継承性を論ずる。主要1000タイトル、20年計画、週1回更新のプログ形式。
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「ymo/浮気な僕ら(1983)alca-5222」 2010年6月7日 辞任
今、スコラを楽しく視聴しながら書いている。だからこそいささか書きにくいが指摘しないわけにはいかぬ先々週のフリージャズ編、その体たらくである。音楽に素養があるゆえに番組に招聘された学生どもに、坂本氏と山下洋輔、そして准教授らしき男性が、自由に、思うがままに、音を、出来るだけ速く出すように言ったのだった。それに応える学生の演奏は、結局、いずれも、手にしている既成楽器を色々やらかしたりして、要するに所持している、得意としている楽器の許容範囲のことをやっているだけだったのである。酒が存分に入っているため着火しやすくなっている小生の怒りの焔が、ボッと四散したのである。小生が望んだ場面ないしは音を以下に列挙。
床を噛む音を出せ。
鍵盤を舐める音を出せ。
准教授からサックスを奪ってピアノの脚を叩きまくる音を出せ。
ピアノの鍵盤に豆腐を挟む音を出せ。
ピアノの弦に自ら挟まる音を出せ。
坂本龍一の白髪をバリカンで剃る音を出せ。反撃されて自分も剃られる音を出せ。
山下洋輔の顔をビンタする音を出せ。反撃されて自分も殴られる音を出せ。
サイが分娩する音を出せ。
あえてバッハを演奏せよ。
…その他、幾らでも。
幾らでもやりようはあるだろう。せめて、床を噛むぐらいのことはすべきであったのだ、それ以下のことは確かに何かとリスクを伴うゆえ。山下氏は、「自由にやっていい、しかし、責任も伴うがな」といった大人的内容のことも言っていたが、負うべき責任など音楽においてどこにも無い。義務も無い。音楽において守るべきものなど何もない。音楽を自己規定して縮こまる必要性もなく、空気の無い宇宙も含めて音楽という名においてどこまでもあけすけに体当たりを広げればよいだろう。反撃される覚悟があるなら、器物破損その他法的犯罪も音楽活動に含んでもよい。それがフリーである。
しかし飼い馴らされた公認音楽学生に何を求めても無駄であった。ならば先達として坂本氏と山下氏がすべきであったのを、なんという事だろう。ひとしきり学生どものフリー演奏で白々しく盛り上がった後、番組のラスト、坂本氏と山下氏は、まるで先ほどのフリー演奏が社会社制度に咎められるのを率先して恐れ、取り繕うかのように、臭い物に蓋するように、甘ったるくたるんだ映画音楽を合奏したのだった。それを聴いた小生は、情けない、と思った。あそこでは、二人が、真のフリー音楽をぶちまけるべきであったのだ。いや、しかし、あえてあの場面でバッハを、と提案した手前、あの映画音楽も、フリーの、説き明かされるのを拒む側面であったのか、といううがった聞き方もできる。だとしたらなかなかの老獪ぶり。それ、甲。
YMO。日本。プログレ的な味付けとは異なった、シンセサイザー音による既成楽器音の模倣や逸脱の主体的な使用という意味でテクノ(今はあまり聞かれない範疇かもしれない)の、クラフトワークと匹敵しうる先鋒の一つであるため、モダン・ポップという脈絡で捉えるのは端から無理にしてもその分家筋的なテクノポップとも捕らえがたい音楽ではあった。モダンあるいはテクノポップはパンクの残響ないしは批判が含まれるため前のめりな尖りが錆び付いていようとも分かりやすい血を滴らせるが、YMOには、一聴して説得させるという尖りの功罪は無かった。その詳細をほぐすのはまたの機会にしたいが、いずれにせよYMOは、否、YMO史は、ジャズ/ロック/ポップス/古典~現代音楽史を請け負うがごとくに語らなければならないだろう。
そうしたYMOの端緒とするアルバムにはファーストあたりが順当に相応しかろうが、どっこい、結果的には、この浮気な僕らも乙ではある。YMOのアルバム群の中では意識的なまでに陽性に傾く皮肉ともとれるテクノ歌謡である。
電子の海の波打ち際で、時が崩れた。
思いの他、単位時間当たりの音数が多いわりにはすっきりして聞こえつつ、やはり凝ったアレンジが聴かせる君に、胸キュンは永遠の夏休みトロピカルであり、はっきりと、小生には、キュンキュン来る。思慮の足りなさそうなポップ明るさを持ち味であるかのように蓮っ葉な若作りを突貫させる高橋氏。いかにシティ派を装ってアスファルトを歩いていてもその下で暗くわだかまる、綯い交ぜに生き物とその屍骸が蓄熱する臭い立てる土を直に踏み歩くが如く、凶暴な内向性を露に、ぼそりと黙らせる気骨は時と場所を弁えぬ、人生への楔、それが細野氏。そして、終わりの日の夏の日を既に見据えて、たとえ軽やかな感性なり知性なりとして揶揄されようとも誰よりも失望しえた、とぼけたシニカルを漣のように愚痴る坂本氏。そうした三者三様の有様が楽曲ごとに明解に示されているのがこのアルバムゆえ、である。
細野晴臣
坂本龍一
高橋幸宏
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