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 ロック史を体系的議論から解き放ちながら、サイケデリアの土着性とハードロックの非継承性を論ずる。主要1000タイトル、20年計画、週1回更新のプログ形式。
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困った時の実験音楽「jean dubuffet/experiences musicales(1961)man4871」



久方ぶりの雨も地方によってはお湿り程度の生温さじゃないがこちらはさめさめとぬれしょぼる。降っているという感じじゃなく、空気が汗かいているようなじめり。困った時の実験音楽…よく知っている、体験済みの日日の拷問と、こっちを選択したら早速やってくるだろう未知の拷問、どちらを選ぶのか、意志であれば未知の拷問を掴むのであろうが運命の巧みな揺さぶりの最も手強いやり口とは即ち懐柔、急進的な誉めそやしの稀有であって、人間悪い気はせぬそこんところの卑しさに付け入る事巧みな甘言ほど厄介なものは無い…かれんなる拷問のほうが自分の意志に反して反射的に抗いが生じやすいから寧ろ拷問は意志の支えになりうるが懐柔工作の甘ったるさは全く…攻撃的に常に緊張していた心を、不意にほだして、足元をすくってくる揺さぶりの巧みさに凄く翻弄され…意志を試してくる、意志というのが、本当に依拠できるものがきれいさっぱり更地にされた真平な只中で屹立するしかない峻厳を…神聖モテモテ王国読んでいたら、人間最後の欲望「尊厳」、とあった。肉の繊維を千切ってくる気ままに獰猛なチェロ、笛という楽器がリードやら管内構造との共鳴による音色発現によって立つという前提を端から無視して、笛の中に、素材や空気と共鳴せぬ獰猛な空気を野放図に送り込むと徒に毛羽立った空気の棒の音が掠れて、ぶおおぶおおぶおおぶおおすぴっぴ音階を拒否して聞こえるのであって、このお方、ジャン・デュビュッフェは画家であるが、彼の提唱した「生の芸術」云々は別途調べていただきたいが、(障碍者の絵画への評価の眼差し…)収集した民族楽器やらそれらを結合させた自作楽器を本来の楽器としての用途から解き放ちながら、珈琲豆を焙煎していると豆が爆破したような取り返しのつかなさで殺伐としたひょうきんを濃厚に粘らせ、周りの空気を巻き込む太い声を土足で突っ込んでくる知的野卑、儀式を踏み潰すほど内容の無いふざけた呪いの声を朗々と唸るフランスの義太夫この自由このコク。ノイズとか物音系とはいえど、評価の基準が粉砕されたさなかであっても、出来不出来というのがあるなあと感想させる。また失敗した。ああ、葉っぱ一枚うまくいかない。毎日葉っぱ一枚ずつなんとか彫ろうと思うが、それは兎も角、息と胸が時折苦しい…息が狭くなるというか、深い処まで吸えない感覚がたまにあるし、人間の心臓であるはずの自分の心臓が鼠の心臓のように小刻みに打ち生き急ぐような動悸に攻め立てられるのは気のせいなのか妄想なのかも分からない、胸につかえているのはある本を紛失してしまったこと、社会社への出頭の手持ち無沙汰を補う社会社用の鞄に忍ばせていた杉浦日向子先生の百物語、ふっと消えてしまってもおかしくない漫画だから致し方ないと諦めるしかないかもしれぬが、腑に落ちぬし、社会社の何処かに落としたとあれば証拠として弾圧されるならまだしも、想像を絶する辱めに吊るし上げられるのではと迷妄が止まらない。決して遠ざからない音、直ぐ間近で熱く臭い息を吹きつけてくる、下らないいかがわしさが秀逸の音楽である。内蔵臭いフランス語の音感が遺憾なく発揮されている。無茶苦茶に足を踏み鳴らすし、拳に違いない、鍵盤のぶっ叩き方が半端ない。弦を千切るために弾いているとしか思えない執拗な暗い明るさだ。その千切りも、破壊という意味=称号すらも与えられずに…頓狂な高速もあって、ついていけない。誰にも頼まれていない新作が息切れという形でなだれ込むように完成、その編集作業と印刷手配が待っているがやる事が多すぎて、滞っている。息が、浅い。宇宙戦艦ヤマト2199に出てくる戦艦ヤマトの主砲たる波動砲がぶっ放される開放口の位置は船首だが、そこんところには、本家の戦艦大和には菊の御紋の浮彫がほどこされてあった気がする…波動砲が使われるたびに菊の御紋から波動砲が放たれている気がする…保守翼賛の雰囲気が強まるこのご時世にまことにうまく便乗した企画アニメゆえに、これも、団塊スタイルや天国への階段(番組名うろ覚え、西田敏行ナレーション)テラスハウス同様に毎週欠かさず視聴…特に団塊スタイル…定年退職後も体力財力に余裕のある団塊世代が地域社会に溶け込んで米粉パンや有機野菜に挑戦する生き生きを、ジッと、血眼で、目を皿のようにして、ほとんど舐めるように、内心を黒黒と沸沸させながら、世代間格差などという低俗な言葉形式になるのを禁じる、怨念や憎悪ですらない、筆舌に尽くしがたい情念をたぎらせながら。

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ハードロック編「led zeppelin/led zeppelinⅡ(1969)amcy-4006」あるいは御手火素描



持ち前のクサクサ感が我武者羅に上滑りしながら捉えどころ無く滑落の憂き目にも事欠いて腹立ちが憎悪へと薄暗く煮詰まる夕暮れの金色の日射が鶏頭の乾燥花の襞を浮き立たせる。まだ蝉は鳴かないものだなと思っていた矢先に梅雨が御開き、はや夏の通低音、油を絞る音響装置による無駄な増幅、蝉がじりじりしゃわしゃわしており、感情とは下痢でしかないと、卑近卑俗に縋る追い込まれた憔悴が功名心を守護する塀が荷崩れした途端の下世話、短絡の喩えがしゃしゃり出るのももう無残ですらない。格調だけは、低い。如何せん如何ともし難く底辺でしかない。底辺が最も暑い…夏の高校野球=学徒出陣保存会の皆さんのきっちり仕込まれた伝承の演舞など…家の中とはいえビールを2リットルも飲むと鉄球を受ける浅間山荘の気分になって一挙に頭をくらう、すわ酒量は増える一方で、だるさの温存が、紙一重で成り立つ書き割りの、かつてのチボリ公園じみた、感情を寄せ付けぬ薄さである社会生活からまさに焙り出される…中心の無い日射を全天から浴びて、眩暈が、辛うじて歩かせるも捨て鉢が事切れる、続く、事切れる、歩く…けったいが…。先週は朝鮮通信使をして日東形勝第一と墨書せしめた鞆の浦に遊ぶの御誘い、蕪彫りの修行ついでに足をのばしたのだった…今日は自民党独裁政権樹立の日。夕立ならぬスコールが各所に散見さる道すがら、濃い雨雲の下は黒み立つ雨模様、そのつい隣は薄曇で明るみが揺れるを遠望される景色を眺めつつ、祭に雨がかぶらなければよいがと一抹の不安もあったが杞憂であったのは何も祭の刻に雨が降らなかった偶然に安心するのではなく専ら祭が継承する創意の意味に依拠する…雨ずる気ゆえ夏至過ぎの日永ながらどんより暗みが冷えているが、何の事かというとこの日、鞆の浦では御手火祭という秘祭にして奇祭が勃発する、それをよそ者ながら体験しにいくという算段である…とはいえツェッペリンも憂き世には、居るから聴かなければならない。晴れているから湿度が濃くないから音響再生被膜の振動に深みが足らずいい音が鳴らない…このリフの歴史的意味も、もう、どうでもよくなっている…ついに、ここまで至りましたか、と、織部の純真な創意を冷めた目でしっかり認知しながら心はもっと荒ぶる静観へと凄む利休の気持ちもさもありなんとして、いや、しかし、兎も角電源を入れて聴いてみる…くっ、難だ、否、何だ、否、難だ、これは…鎮守の森の御神木を次次と、脂をよくぬったチェーンソーで切り倒す非情の連覇が、松脂が粘りそのままに唸るのであって、ちょっともう一回あたまから再生させると…よく聞くと冒頭、蛇が毒気を吐くような小さな吐息が極めて短く棄てられたと思う間も無くあの怒涛がもりもり盛りあがる雲へ歩むじゃないが(山頭火の辞世)、建築物と山岳と爆発の区別ももうつかない、こんなのをリズムというのか、もう魂は乱れるしかないのかと無論思うわけではない、そんな閑を土足で轍に変えるこの音楽が、すぐさまさして工夫の無い混沌へとだだっぴろげに乱れる展開に行くというのは本当によく分かる。聞けば聞くほど頭がおかしくなる、いや、狂う、その残忍な覚醒の代償が苦しすぎる強制的な心肺蘇生、心臓には右心房とか左心室とかあってそれらの部屋が弁で開閉されているだろう、循環を司るその弁を無遠慮に蹴り上げてくる始末の悪いドラムは重い精確だから絶対に循環に支障を来たさないが分配される血流は潮のごとく膨大で、滾る、胸いっぱいの愛を。さっきチェーンソーでぶった切ったばかりブルースの切り株、まだ樹液の玉がいくところも噴出する切り株の上にどっかと座ったハードロックのダルさが、なんとものびやかで琥珀色だ…飴釉だ…全然晴れがましくないのに、ぎゅんぎゅん延びる、樹齢を重ねた幹の中を高速で道中する。対潮楼から件の瀬戸の景勝の圧巻を味わい下山、別所で食事を頂き、戻るとうだつの上がる古格の建物がこじんまりと佇む鞆の浦の夜道を、活気が走り出している、狭い路地を、先駆けの太鼓がもう暴れている…地元の若衆らしきが大八車のようなのにのって太鼓を乱れ打ちしながら無茶苦茶に引き廻しており夜道から祭を爆ぜさせ箍の外れた雄叫びを揚げ続け、早くも上気した人々は集結し家々は戸を開けて拝む…知らず付いて行くと表参道、大鳥居には沼名前神社、と。なんともおどろおどろしい…「ぬなくま」と読む…あとで延喜式で調べたいが、闇とか夜の枕詞で「ぬばたま」というのがあるが恐らく関係するだろう…参道は既にごった返し、出店の賑わい、しかしそうした風物よりも小生を牽引するのは山上から轟く太鼓の煽りである…鳥居をくぐると急峻な石階段が真っ直ぐ山上の本殿まで続く…血眼で祭を待ち構える群衆を掻き分けて夢中で階段を登りきると本殿で、白麻を纏う稚児ら十数人が間断なく、一時も休まずに交代要員も控えさせて、数基の太鼓を連打している、しかもその辺の自治会が持ち回りで厭厭ながら主催する祭でスポイルされた子供が時と共に投げ遣りに叩く太鼓ではなく、裏に裏に先回るビートをも刻まんとするほどの激しい發回しで一心不乱に乱れうちトランス一歩手前の目が据わった表情で汗だくで、ドカドカドカドカと岩をも噛み砕く轟きを横溢させている、民衆を煽る者特有の冷静さすら兼ね備えて静かに燃え滾って太鼓を叩きまくっている…どれどれ、御祭神はどなたであらせられるか、と由緒を読むに、ああ、やはり、貴方でしたか、スサノオノミコト。沼名前神社という呪われた名も納得。スサノオの呪われたウガイのような太鼓の垂れ流しが鞆の浦の町いっぱいに満ちながら石階段の中腹ではスサノオ好みの捧げ物が準備されつつある…御手火だ。大躯の鬼の松明もかくあるやと思わせる、全体としてマッコウクジラの子供ほどもある巨大な「薪の束」に御神火が移されると、それを、十数人の男衆が、水をたっぷり飲んだ布をかぶって巨大松明の下にうまいことやって潜り込み、抱え揚げながら長大なる石段を登る、という創意である…ばちばち火の粉と白煙を上げながら松明は炎を唸らせて燃え上がるのでそれを担ぐ男どもの頭の直ぐ上を炎が燃え滾っている、スサノオに捧ぐ炎が彼らに引火せぬように他の男どもはバケツリレーで本殿脇の神水を、担ぐ男どもの焦げそうな頭に的確に注ぎ時にぶっかけ炎勢が強すぎると松明にも水を掛ける、しかし松明の奥で燻ぶる炎は寧ろすぐさま息を吹き返して一層炎を高くする炎と水のせめぎ合いに雨天関係なし、いきり立ち目が笑ってない男衆は興奮の怒声を上げながら、燃えながらにしてなお重い「薪の束」に耐えかねて後ずさりし近接する群衆の目を炎で焼かんとして人だかりに突っ込んだりする素振りも見せながら息も絶え絶えにえんやーとっととおらびながら、炎を担ぐこと小一時間、この薪の束が3柱、順番に、ゆっくり、石段をにじり上がる様子は高みの見物を群衆に許さないのか汗だくの絶叫がそこかしこで波乱するし、尚且つ、この祭には何度も来ているからこの興奮も知り尽くしているとばかりの、かつては祭の世話人だった風格すらもありそうな愛情をも自負するらしき、この祭の見巧者を自認するらしき、高級カメラを抱える熟年が、小生に向かって「見えんや無いかボケが」と罵ってくる始末で、やはり、いささか祭の創意とは別の意味で卑俗な軽薄に巣食う意味だが、荒んでいる。神事をカメラのチャンスととららえることで卑下せしめる恥知らずの、現代的荒み。それに、燃え盛る松明の下に潜ってかついで山上のスサノオに捧ぐはいいがその若衆のノリ、というのが、目くじら立てるほどではないが、どこか合コン的な、試合に勝って調子に乗った、眉毛の輪郭を几帳面に整えた今時の高校球児らがマウンドに集まって人差し指立てて一番を誇示するあけすけな子供っぽい下卑を思わせ、伝承される祭の創意は兎も角それを担う人間の劣化というのはやはり存在した。ちなみに、「薪の束」のことをイタリア語でファッシという。ファシズムの語源であり、イタリアのファシスト党の党旗にはそれと分かる薪の束が描かれている。だからといってこの祭の興趣や創意をあげつらうつもりは毛頭無いが、自分に振り返れば、小生には、この祭には参加できない、出来て、速攻の孤立だろう、というのは感得できた。幼少のみぎり、近所の地元への祭への参加要請があったが拒否したし、祭当日、境内で踊る獅子舞に崖から投石した記憶も沸沸と甦る…祭に限らないが集団で一つの事をやる事にそれこそ生理的嫌悪感が発動するし、参加したとしても厭厭ながらだから役には立たないし役に立とうと思えない…鞆の浦の御手火祭…よいものを見たが、しかし、少なくとも、自分が欲するものではないのは明白だった…こうした創意と雰囲気、地元共同体をも含んだ構えというのに群衆が没頭するのはむべなるかな、しかし、己がなすべきこととは違う。あの轟々たる炎を一瞬で消沈させる、あるいは長時間かけてゆっくり消し去る、あるいは夜中に炎ならぬ虹や別のプラズマを立たせるほどの一言あるいは万巻の言葉を紡がなくてはならない。所詮、承認された共同体的熱狂など元より興醒めである…創意の独立はインターナショナル(国家の隙間)であろうか、たとえばツェッペリンのように、あくまでも極私的にささやかな奮起を促す勃発こそが…たくましい勃発であるが既にあらぬ方向へと突っ走った取り返しのつかない勃発であるが…新幹線の時間もあるので祭の終わりを見届ける事無く帰路、車の中で、下痢性の猛烈な腹痛に襲われ脂汗だ…原因はあれだ、義父母からご馳走いただいたステーキ屋さんで、さもしくも、ガーリックスライスをかりかりに焼いたものをつい食いすぎたためなのと、祭の熱気による汗ぐっしょりが腹を冷やしたのと…印度カレー屋でニンニクをまぶしたナンで腹を壊したことがあるゆえに…義父の車内で糞を漏らすわけにはいかぬ…か細い声でわが意を情けなくも細君に伝え、細君の仲介で、福山駅一歩手前のところで車を止めてもらいコンビニの便所に駆け込む…折り畳み傘二本分の液状の糞をすっきり出して、寄生虫のハリガネムシを腹から出して放心中の死期迫る蟷螂のような気になって便器でぐったりうつむいていると、小生のその日のTシャツ、図らずも、全裸のザッパが便器に座っている図。ガレージパンクのような捨て鉢な笑いの破滅ではなく、笑えない怒気による破壊たるハードロックが志に寄り添うてくる。餓死か、屈服か、ならば、餓死を選ぶ。後悔が生じても後悔しない。後悔に後悔しない。その時に慌てる。毎日餓死のことを念じている。言葉ほどに、心は潔くは無い。体ならなおさらだ。しかし、心は頼りない言葉に頼るしかない。しかし、餓死だ。沈痛だろうが破れかぶれだろうが、餓死だ。餓死だ。餓死もまた題目、念ずる。餓死餓死念ずる。まだ餓死だ。金曜日のテラスハウスと団塊スタイルを血眼で、視聴する。一つに選べなかった句を列挙する場合じゃない。

御手火をも撃ちてし生きよ吾の唾棄
御手火をも撃ちてしやまん吾の唾棄
御手火をも消沈させよ吾の唾棄

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悪趣味の系譜編「10cc/how dare you!(1976)phcr-4418」



突然の夕立というよりも亜熱帯性スコールによって室内が暗くなったから写真もどんよりと煤けて見える。サイレン、汚い怒号、爆音、絶叫、轟音、…無性に気性が荒くなる夕暮れ、掴めるものは何でも掴んで握り潰したいイラつきが殺伐を荒ませるどうしようもなくきな臭い時間がこらえ難い…どこか等閑なる梅雨の晴れ間なれど動悸がきりきりと絞られる不安心地は苦しい。湿度が高いと車載オーディオの調子が頗るよく重低音に空間の深みを齎すがこの音楽は湿度頼りの安い車載オーディオではなくきちんとした再生装置で聴取すると何とも、地中海の絵葉書のように音質が鮮烈であった。何度も何度も聴き過ぎてCDケースの開け閉め回数が頻繁だから手を滑らせて落とす回数も多いため、開閉式ケースの接合部が破壊されている…冒頭のギロの音が原色動物図鑑だ。園児や児童がやらされ高校生吹奏楽部くらいになると率先して忠誠する、命を人質にして保身をはかるのに余念が無い合奏と、独立した人が期を一にして会する命がけのバンド演奏との差異が揺れる巧妙な仕組み…邦題「びっくり電話」…歪んだ画像がいやらしい立体的をどぎつくさせる、つぼをわきまえた楽曲が謳歌するかと思いきや、チャンネル切替のような断絶とも接続ともとれぬ不自然な成立のようにして薄気味悪い陰湿の暗みがくだを巻くのもある現象、しかもほどよく脱力した潔癖は…黴が埃へと枯れた古代の叙情ではなくいつまでも真新しい、故障の屈託をまだ知らぬつるんの抒情であり、…こうした現象から何とか悪趣味の系譜を旗揚げせしめるに相応しい事を言いたいと思ったが昼下がり15:39、昨日に引き続く鑑定団再放送の二回目を待つ浮き足立った腐敗した時間は関係ないが、一言にはとてもまとまらぬ…関係ないが、半透明あるいは白色の絹糸を、青竹から煮出した染液で煩雑な工程を経て染色すると白く染め上がるのであって、光に透かすと虹色に分光される眩暈のような瞬間…あらゆる色が溶け合う白…あらゆる色を飲み込む黒…白は黒を溶かさない、それは絵の具の問題だけではなく当然ながら白人音楽と黒人音楽のことを思うのだろうが…とにかく、白糸を竹で白に染めると虹になる、そんな奇跡に魅せられた染織家が居たのを知った、30年前の雑誌で…薄気味悪く不快な挿入的展開はポップ抒情を切り裂くわけでもなく丁寧に、しかし違和を解消させる事無く毛羽立たせて織り込んである新時代のテキスタイルであるびっくり電話は。白地を白く染める竹染めのオーロラ、黒漆の上に黒漆で加飾する黒蒔絵の夜桜、といった工芸技法に触手が動くが先立つものは無い。制度と心との板挟み、葛藤、憎悪、そしてそれらでもみくちゃの怒気が。金曜日夜のテレヴィ番組テラスハウスに釘づけ。インターネットというのは人間の言葉というもののいわば下半身的欲求というのを速やかに満たしてくるから、如何に役立とうとも卑猥でしかない。言葉というものの性欲とは即ち伝達、という下世話である。以上の、そしてこれまでのこうした文章も結局そうしたものである。ありふれた、くだらぬ、営営として…批判に値せぬ。細君に連れられほうぼうを物欲し探訪に行くが狙っていた三件中二件が閉店…どこか満たされぬ思いから小生は剣山をつまらなく買う。剣山で大正琴弾いたら面白かろう。七夕か。投げやりがひどすぎる。思えばエアコンを速攻で買い替えたのは近年まれにみる英断だった。三菱霧ヶ峰、本体も室外機も音がうるさすぎてご近所にも迷惑なばかりか室内の小生も眠れやしないしおまけに購入6年目にして涼風が出ず熱風ばかり吐き出してくる始末、修理も考えたがそのためのやり取りや時間の手間、そして肉迫する夏を思えばそんな猶予はないと判断したのだった…電気屋に買いに行くと店員が日本製ですよとしきりに霧ヶ峰を推してきたが小生日本製の良さなどほとんど信じていない、物事の変化に弱いくせに下剋上的で理念が通用しない劣悪日本人労働者は物事の変化にびくついているから改善も遅すぎて旧態依然から手抜きへと誇り高く堕落するのを目の当たりにしてきた。日本製など最早悪質ブランドである。ダイキンのが欲しかったがなかったので今回のエアコンは富士通ゼネラル製の先着5名様までの最安値エアコンだったが音は静か、涼風がきちんと出る、おそらく中国製。だから、いい。糞忌忌しい生活軍隊生活がまた明日から始まる、出生届が赤紙だった。朝顔とノウゼンカズラが満開で項垂れる半夏生。か細いうめきが恨めしく上がるのは何も古井戸からばかりじゃない。息が、殺される。野に揺れる桔梗のつぼみが好きだった…また運転中、目にゴミが入った危機が。前髪が目にかかるからそれに伝って目にゴミが入りやすくなると訝しみ、前髪を自分で少し切る。スケッチブックを先週買ったが放置。朝6時起床、朝餉をこしらえ、8時から古典の臨書、9時から草のデッサン(今のところ樹や花に興味無し)、10時から執筆、正午に昼餉、そして昼寝して2時から4時まで執筆、それから4時から6時まで彫刻、6時から夕餉の支度、晩酌、読書、気が向けば彫刻あるいは執筆、0時就寝…そんな毎日を夢見て。何もかもがくだらないのは重々承知であった。

首尾よくいくかどうか分からぬがいずれにせよ来週は故あってこの地を離れるので休載するので悪しからず。

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「back from the grave part one!the rawest,crudest mid60s american teen garage punk rock(1966)crypt cd-0123 efa cd 11566」



 息が息できない。鉄を呈色剤とする丸っこい褐色の飴釉が濃淡を光に捧げる笠間焼の蕎麦猪口に冷酒をそそげば見込みに、白い滝が仄かに浮かび上がる幽玄なる釉景にはっとし、日本酒や焼酎のような酒には飴釉がいい、底に渦巻く煮卵の焼き付けの如きが酒のとろみを芳醇、左手で喉に酒の清流を濯がせながら右手によく冷えた胡瓜の一本漬を齧り齧り、梅雨時の雨の恵みに感謝の念抑えがたく、はや七夕風情を夜風に心する。明日からまた、丼に盛られたゲロ飯を啜るに甘んじる惨めに、往来に吐き散らされたゲロをいじましく丹念にかき集めたものを白飯にどっぱあと掛け注ぐ不味すぎる丼を啜らされる苦しい心境である。コーンビーフ丼。コーンビーフをパスタに絡めたら本当にゲロパスタのように糞不味かった記憶が噴く。ガレージパンクが癲癇(てんかん)の発作ならばハードロックは癇癪(かんしゃく)持ちの家庭崩壊なのかと思い込みが激しい。いずれにせよ破滅的である。最早手のつけられぬほど追い込まれたハードロックの荒みの頑なな硬質もキツメすぎてふと懐かしいのは、己の幼さを露呈してかガレージの早合点と粗忽ぶりであって。真っ白な西日、しかし、言の葉を紡ぐのを妨害する撹乱でしかない音楽を聴きながらでも書くしかないのがこの音楽の窮屈な業でもあって、上滑りを恐れていては滑るのもままならぬぞっとする脱臼の瞬間、骨から滑り落ちたゾンビの宴が、もう、始まってしまった。要は、滾る、という事である、徹底した無力と諦観が悟りの高みならぬ業の底辺へと導くのでもあって。60年代ガレージパンク集成であるこの「バック フロム ザ グレイヴ」(さしずめ邦訳は墓場の鬼太郎か)は数あるガレージVA(いろんなバンドから各1~2曲選びいれたもの)の中でも編集者の目利きならぬ耳利きが際立つ、壁になすり付けられた糞の如き渇きが決して湿りを欲さぬ、しかし砂漠の音楽を気取るほどの軽やかなかっこ良さ自慢知的自慢からも隔絶した、草が枯れたまま空っ風に靡きながらも根は生きている荒野の音楽が誠に高純度に濃縮されている。ガレージ集成という試みはナゲッツを嚆矢としガレージ概念の樹立に役立ったもののナゲッツではまだガレージの本質たる獰猛を鷲掴みしきれぬ雑多感があるがそう感じさせるのは他ならぬこのバックフロムザグレイヴがサイケポップとガレージパンクとの峻別を屹立させたからであった。これは専らこの編集者の耳利きによると云えよう。と、二つ隣に住まう頭の小さい御座敷莫迦犬が、ガレージの音洩れを嗅ぎつけたか、しきりにやかましく憤怒剥き出しにガルルガルル吠え立てるではないか。点在する火山が大ぶれにがなりだした声が間を読まぬ鉈の如く汚いのを叩き込んでくるし屁のように内実が抜ける瓦礫の爆音が地響きを伴うドラムはアフリカ民族の創意、土に穴掘ってそこに獣の皮を張って連打するプリミティヴが民族主義に留まらず近代への無意識の抗いを癲癇してアスファルトやコンクリートや土をも発破かける大らかな軽さが汚さをけんかいにも奇矯にも護持するドカドバであって、水も無いのに無鉄砲に長く延びた変異の萱の枯れた葉脈をばらけつつ束ねつつばらけたギターが野趣溢れる星をその辺の草にうもれる橄欖岩にまで落としめるほど。ベースは水脈を乱す直情のノリを変態させるドスを研ぐ鍛錬が徒によこしまである。もうどこのことでもないが意見具申しても決して聞き入れられぬからかような現状が続くのだが掃除してくれるのはあり難いが掃除道具の数々を決して自分では片付けようとしないのは一体どういう事なのか、なにゆえ小生が散乱した掃除道具をいちいち餌にあずかるように片付けなければならないのか心底腹が立つがこのいらつきを元手に更に執筆を殺伐させたいが為に己に我慢を強いると下劣なサックスも闖入する。
 中でも際立つ奇跡が二曲収録してある。バリ取りや面取りする入念が欠落するから端々がささくれ立っている金属製の羽毛が、落ちるべき地からも遂に解き放たれて高く高く青空を舞い狂う妙境に至ったralph nielsen & the chancellorsのscreamという楽曲、これ以上分解や説明しようのない簡素な主題をおが屑のように捨て鉢に執拗に反復する上にメラメラと可燃物から事切れた炎がこれもまた宙宇を舞い上がる地に足の付かなさが軽やかさも吹っ飛ばして不安この上ない殺伐が切り切り舞いである。明るい青空を真っ直ぐいけば真っ暗闇の外宇宙の真空につながる途方も無いリズムの屈曲のけたたましい駆け上がりが兎も角獰猛で凄まじいとしかいいようのない、生まれてから死ぬまで止まらない苦しい絶叫が残響を許さず始終能動的に叫びっぱなしの儚い終わりであって。
 何だこの、変質者は…唾棄するにふさわしい値千金、腐った海老が歪んだ虹色の腐った異次元空間で無闇にびちびち脱皮しながらうねりたくる手のつけられぬ異質感隔絶感、chentellesのbe my queenという楽曲、こういう常軌を逸した作品は他の優れた作品を持ってしか紹介も出来ないので云うと、山田先生の初期作品の「やあ!」に出演する源という何ともクエぬ飄々としてぬめっとしたキャラクター(ハーマン・メルビルのバートルビに比肩する)が真面目な薄笑いでひょんな事に目覚めた芸能の産物が原色の楕円がぶんぶんしながらいやに冷静に発作する情動のほっこりイヤラシク照かる崩壊が目の当たりであり、これもまた手がつけられぬほどおかしいモダンポップの魁でもあるし、頭陀襤褸のガレージパンクの意表をつく点滅感覚が音波によって重力場を歪める奇行。収録曲が後半に行くほど癖がひねりにひねられた楽曲が目白押しになるのがこの集成の特徴である。vol.1からvol.3がよい。ガレージパンクの焦点は数うち当たらぬ散弾である。

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今週こそ休載

むしゃくしゃいらいらがひどくて手におえないので今週は休載します。今週もカレー探訪…一楽章というカレー屋が旨い、おすすめです…ライスは日の本カレーの定石にして少し固めに炊飯しておる…ルーは薄いスパイス味が幾重にも重なろうとも至って浅く軽く辛い東南アジア系と、何やら具材をこっくり煮込んだゆえの重厚な味わいの欧州系の二点が楕円軌道を描く…それが少し固めに炊いた飯と絡まると、合う…、としか言いようがない…チキンカレーがよい…インド風の味付けのシナモン鳥がごろごろ…うっかり大盛りを注文したらば店員の中高年女性の気まぐれで本当に食えないほど山盛りにされる…どうにも食いきれずに七分の一ほど残さざるを得ぬ。冷やの量もよい。500mLくらいの冷水を出してくれるがあっという間に飲み干すほど心地よい辛さだ。店内の調度もウッディな古格ある喫茶店風であり、モザイクガラス造形が奇怪な照明も古格である…脂ぎったテーブルの払拭を今少し丁寧にしてほしいところ。古格と不潔感との訣別の難しいこと。BGMはクラシック。それでいて、さまざまなトッピングの中に、豆腐とワカメを載せたカレー、といったにわかには信じがたい突飛なことも提案してくる。日替わりカレーではそれこそ日々、常態に甘んじることなくいろいろと冒険している。常備してある漫画はもう少し工夫したいところだ。歴史上の偉人伝を、世に問う画を持たざる、イラストレベルの絵で糊口をしのぐらしき下流漫画家が編集部の監修の元にとりあえず漫画に起こしたらしき、ペラい内容のその時歴史は動いた的なシリーズ…連載再開した最強伝説黒沢「新黒沢」第二話のあまりにひどい状況がいまだに忘れられないが、山田先生の傑作処女作「大正野郎」もまた、モーニングかその傍系の雑誌でへうげものと交互で連載再開されるとのこと、陰ながらお慶び申し上げます。皮膚の下層に膿が溜まり噴出する持病が少しく悪化…指定の軟膏をすりこむ…幼児期に罹患したが治っていたのが、社会社で有機溶剤に手を突っ込んでざばざばやっていたのが祟ってあまり強くない皮膚がついに限界、再発とあいなった次第…手袋すればよかったのだから自己責任だがしかし…人差し指の指の腹の下層に膿が溜まるのが分かる…無茶苦茶にしたい、根こそぎ台無しにしたい、無かったことにしたい、破綻を招来したい、さしたい、誰というのでもなく、という凶暴がまた鎌首をもたげ…ジョージ・オーウエル1984ばりの全体主義管理社会ならばこんなことをここで書いた時点で思想犯だろう、もう、権力のサイバー部隊からすでに目を付けられているのかもしれない…じぶんになにかあったらもはやいいのがれできないことばかりきじゅつしているようなきがするがじつりょくによるむさべつてろにはなんのきょうみもない。のみなれぬかんちゅーはいいっぱいごときでわるよいしてなけなしのふんばりががかい、むだにせんしゅうげつようびこころのかぜでやすんだばっかりにおあつらえのきゅうちにまたしてもおちいいりてにおえないほどいらついている、ちんしごとでじたいがこうてんしたことはぜったいにない、しゃかいしゃににゅうしゃいらいむさいげんにころげおちつづけているじたいのあっかのじぞくせいにのろいあれ。あべのみくす翼賛体制の昨今において数少ない反骨をしめしているのがグランドジャンプ連載の本宮先生の男樹四代目。「大上段の経済政策」が破綻後の銀行破綻金融破綻国債破綻、血走った民衆による全県の警察公安官公庁襲撃と暴動、治安の悪化、というか治安の消滅をまざまざと挑戦的に描いており…しかし連載開始時に見られたアナーキーな思想は少し薄まり、政治経済を裏でこそ有効に操れると自負する「真のフィクサー」としての大物ヤクザの登場、という主題の輪郭がはっきりしてきた…裏だろうがフィクサーだろうがそれは無政府ではない、ただの政府的なもののコピーであるからしてアナーキーとは異なる…とはいえ今日び、メジャー誌ではっきりと安部政権批判している漫画はコレだけなので今後も注視したい。なにかしら突き抜けた感が生じた時、だいたいこの国は危うい方向に突っ走っていることがあったじゃないか…太宰の「右大臣実朝」での「明るさは滅びの姿であろうか」を引用するまでもなく。閉塞感のほうがまだましである。閉塞感に耐えうる胆力がないと創造はできない、創造とは閉塞感の打破ではない。憂さ晴らしにニーチェを読む…王道なきロック史は、小生にとって、小林秀雄の「ドストエフスキーの生活」でありニーチェの「悲劇の誕生」でありたい。どんなに自分の元気がないときでも、社会的に承認された覇気とやらに負けるつもりはない。たとえ元気がなくとも、題目のように唱え続ける…riot of my own!(おれ自身の暴動!)金子(きんす)のように重たい糞が4本どかどかどかどかっと家族のように出てきた。尻拭いて水に流す。生き物番組で多用される「いのちのドラマ」という言い方に我慢ならない。いのちをドラマなどという既定路線の情緒で矮小化し馬鹿にするな。胸に拳をがっと突き入れて、ぶるぶる窮迫する心臓を掴み出し遠くへ投擲したい。真鍮のトロンボーンをこの上なくへし折りたい。

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休載しながら絞り出すⅡ⇒ハードロック編「led zeppelin/led zeppelin(1968)amcy-4005」



いつものことだがむしゃくしゃしていらついている。いらつきが度を越していままで絶対買ったことのない缶チューハイなどという軟弱な飲み物をうっかり購入するほど狼狽がひどい。涼しげで悪くはないがチューハイのほろよい程度では我慢ならず結局がつんと酔いの杭を首の根元に打ち込みたくて濃いめのウヰスキーの水割りを作製…とてもじゃないが心千々に乱れ通して、書けない。以前から胡散臭く、不信を以て接していた三菱のエアコン霧ヶ峰の不具が決定的となり、怒り心頭、蓄熱すさまじく風が外からほとんど訪れない蒸し風呂状態アパートではいたずらに荒みがこみ上げ、手近に鉈、でもあればむんずと握って何もかもぶった切りたい荒んだ心やみがたく、冷却機能は失われ高価な送風しかできなくなったエアコンの役立たず、修理の手間にげんなり、もう捨て鉢に、買い替えを模索する、こうした、己の思索と創作とは関係ない生活雑事に煩わされることが心底我慢ならずかように垂れ流すありさまで。人の好い大家さんが植えてくれたプランターの紫陽花があろうことか真っ赤っ赤、薄紫や青の移ろいによる涼感が全く期待できない暑苦しさに八つ当たりしたくなる。それというのもまた「明日地獄」が執行されるのを待つからだが…もぐらたたきのもぐらの、さえない怒りのわだかまりの心境がますます濃く煮詰められ、ランダムとはいえ決められた穴に出頭しては叩かれ出頭しては叩かれて小銭をせしめるエンターテイメント=資本の余興、に嘔吐を催す。道野辺の立葵がわさわさ夕泥む風に揺れて、夏。といいつつ怒りにまかせてまとまらぬまま寸鉄射る思想の研磨の余裕もないままにレッドツェッペリンのファーストが。フーとイエスとツェッペリンを同時多発的に聴くことを主眼とするハードロック論であるが三つ巴の糸を縒り合す前に糸そのものを紡がなければならない…ガレージ・サイケ/ガレージ・パンクが無計画で無道具で徒手空拳な自滅であるならばツェッペリンは人を正確に殺傷しうる拳銃を入手した意識的テロリストの覚悟と現実である。今夕はこれだけ書けたら賭けたらいいと思っている。いったい、何がこの音楽を、ロックという音楽をここまで追いつめてしまったのか、それを思うだに悲傷が疼く恐るべき孤立の暴発が、敵の武力でもある認識とか働きとか形などを、本来破壊すべきそれらさえも敵と敵対するためには己の武力にしてしまえるほどの冷静な絶望にまでに、一体何が追いつめてしまったのか…苦しくも悲しくも兎も角まっすぐに敵対と対峙するこの音楽が、共同体的恥を捨てるという卑屈への甘んじではなく尚且つ浅はかにはしたなく野蛮を形にすると、あまりのあけすけで聴く者の動揺を音楽への遮断に変えずに恫喝しながらあくまでも、何だ、その、怒りが…聞けば聞くほど苦しいのにその苦しさに糊塗されぬ、よく研がれて鋭利な怒りの刃が込み上げてくる…精密な研ぎなどに興味が無かったガレージの無軌道な獰猛を懐かしみこそすれそれを以てしても甘んじられぬ憤怒がその汚濁ぶりを増しながらも、つんざく。制動の効かない理性の暴力が静と動のコントラスト・ドラマではなく静と絶叫の、心肺をショック死させながら蘇生させる荒療治の突発と断絶、その、手の付けられない感が息を引きちぎって余りある…最早黒人音楽の影響云々は意味をなさないこの新味は古くて新しい荒みの一言であるが、ドラムの音を無理やり訓読すれば立て続けに「蛮社の獄」「蛮社の獄」と嗚咽しており、オルガンはファンク臭を排した、キリスト教的な理念の理念たるゆえの冷徹なる過剰な暴力性が、狂った幾何学を樹立している。そしてコミュニケーション・ブレイクダウン…こんなにボトムが地に足がついているのにその逆で足に地がついてくる重量級でポップを奏でる面会謝絶の音楽の恐ろしいまでに明るいことっ…!けつまづきながら辺りを巻き込む底上げの乱れが人を踊らせはしないが立ち上がらせるに十分である。「強い」という概念に飽き足らなくなった格闘(思想)漫画バキでは、「武」(ぶ)という概念を提唱していたのを思い出した…用法としては「何という強さだっ!」ではなくって、「何という武っ!」あるいは「歩く姿が武」。この武が何を云っているのか、心技体の総合としての有り様ではない何かに至ろうとしているとしかいえないのは、バキを読めば分かるだろう。無論、封建性への抵抗という葛藤を無事に内面化する過程で過剰に成長する媚びとしての忠誠を説く武士道とは似て非なるものである。あくまでも徹頭徹尾個人的な、武である。ツェッペリンの振武の魂など自分で書いていて信じられないが、少なくとも、弱者が抱懐する抵抗の時、抱卵の時は終わった…伝統だろうが畸形だろうが未来だろうが理想だろうが卵の中身に惑わされてはならない、卵を踏み潰して己自身が覚醒しなければならない。ずしりと重たい、よく手入れされ油光りする拳銃を渡されてしまったのである、これをぶっ放すも捨てるも聴く者次第、逃げ場なく意志が試される時が来たのである。ハードロックは引き金である。リフという引き金である…

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雑感拾遺(先週/今週のブログはこの下にありますゆえそちらを何卒確認せよ)

呪われた誕生日ながらも、筋骨ががちがちに固まった疲労を癒せる休養をゆっくりしたので多少の余裕も出たがそれも刹那の目くらましにすぎぬとはいえ浅はかな心の伸びのままに雑感拾遺。明日からはまた生き地獄…月曜日のプロフェッショナル番組はこれまた吐きそうなほどきつい。月曜日の夜の10時から何故仕事の厳しさ云々をたたきつけられねばならんのか…とはいえ居酒屋が好きだ…旨い居酒屋で深夜まで飲み食いしたい。数週間前に堪え切れずに京都に小旅行…まずは北野天満宮の天神市にきちりと日程を合わせ、恒例の縁日を逐一隈なく物色…織部の珍茶碗を手ごろな価格でお助けしてくる…内側の見込みになぜか布目があり(布目というのは型物で使われるから轆轤か手ひねりで使う必要はないのだが)、高台脇から口縁にかけて指の腹でぐいぐい押しまくった、そして淡い緑釉の傍に謎の風車紋が鉄絵している手ひねりながら中途半端に円形を保った器形…小さな、牛革の鞄も英国人から購入したが、持って帰ると、本革だけに、物凄い異臭が、まったく消えない…一週間干してみたが…土曜日だったから過剰な人ごみだったのに拍車をかけるように修学旅行生までが北野天満宮にバスから降りてきて物と人がごった返し怒りが過敏になり思わず小生声を荒げ「学生なんか、どうせ買う気がないなら天神市に来るな」と小声で吐き捨てると御目付役の細君から「北野天満宮のお参りにきたのでは」とたしなめられ、確かにそうであった。はっとした。門前参道の骨董屋にしか眼中に無く本殿におわす菅原道真公への参拝など心底どうでもよく見向きしない小生を尻目に修学旅行生は縁日目当ての俗客をかいくぐって門をくぐって本殿参拝。こちらのほうが正しい有り様、そして小生の物欲貪婪ぶりが露見したのであった。現在の視点とはいえたかが大宰府に左遷されたくらいで飲み食いに困るわけじゃなし、そんな生活苦から隔絶した恵まれた平安貴族の秀才の霊をなにゆえ慰めなけりゃならん。獲物を獲得しおえて次の標的である泉屋博古館へ。住友財閥の収集品を展示する美術館である。特に、青銅器の展示が…それが目当てでやってきた。普段、どうせ自分が手に入れられない、美術館に収監された美術品など一顧だにしないが、ここの青銅器だけは一見に値する…本物を肉眼で見ないことには分からない、物凄い仰天の造形と超絶細工、細かすぎる饕餮紋に圧倒され、これが数千年前の物なのか、商とか殷の時代の青銅器が圧倒的に良い、時代が新しくなるにつれてどうにも駄目になってくる、弱ってくるというか、当たり障りのないつまんないものになってくる、造形が…眼福の栄に浴した後、20世紀初頭の未来派、ダダ、アヴァンギャルドの音源があるというレコード屋へ。京都市役所の建造物の古格もまたまた…カフェ・アンデパンダン奥にかつて所在していたが別の場所に引っ越している事を事前に察知した小生は抜かりなく目的のパララックス・レコードへ。京都にあっては珍しい若者色の強いアミューズメント商店街沿いの複合建物の中二階のような踊り場のようなところに件の店あり。めぼしい音源をじっくり選びだして連れて帰る…ミュンヘンかベルリンの、1910年代の流行歌、第二次世界大戦の英国空軍兵士が歌謡曲に交じってなにか証言しているスピーキングひたすら音源、イタリア未来派の音源、ロシア・アバンギャルドの音源…店主とちょっと話して店を出ると、アニメ声の演説が聞こえる。甲高いアニメ声の女性が先頭で「シュプレヒコーーール!」と叫びながら、日章旗を掲げたデモ行進…拉致問題への抗議活動のようだった…益荒男どものだみ声の街頭演説を聴き慣れたせいか、アニメ声のデモ演説は京都ならではの新鮮だったし、気が抜けた。初めて京都の地下鉄を利用して京都駅まで戻り、苦しみのみの帰路新幹線で帰宅。制度にべったり鵜の目鷹の目で依存するのでなく目先の運と縁を鷲掴みして生きていきたいものです。明日からまた地獄というほどではないがどこまでも浅はかで成長を隔絶した苦痛。筋を、通さないこと。

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点在する系譜編「the beach boys/surf's up(1971)tocp-65566」


と掲げているものの、心の表ではsmily smileを思っている。小生の呪われた誕生日に託けてそれを祝う名目で小生の事を思ってのことだという抑制を滲ませながらも言外の意図を汲み取るように脅迫する長文の、小生の生活設計とやらに対する弾劾書が送付される呪われた誕生日であり元元目出度くも無い日が一層胸糞悪い一日へと汚され、すこぶる台無しにしてくる嘔吐感は否めない。気持が悪いのが先行してそれに対して何らかの理屈をいちいち捏ね上げて反論を構築する気力も削がれるほど、兎に角、吐き気が凄い。言葉をあっという間に素通りしてもう実力を伴う憎悪しかないのかと思いつめる反面、尼崎事件に一つの希望すら見出す邪な心は如何ともし難く、まず何よりも家族制度を破壊しなければ話になる、と思い込む。話にならない、ではない。こんな感じで呪われた5周年を迎えた王道なきロック史である。結局北野大茶会再興を発願する講談社への手紙、当然のように不発であり返事無しだが、加えて、小生が贔屓にしている岡山の服飾ブランドへの提案として小生、以下の手紙を送ったのだがまあ当然のように返事無し。カフスボタンが着けられるカジュアルなシャツ、という提案…袖口に穴二つ開ければいいだけだからそんなに困難ではないはずだが…

○○ 御中
 
春霞吹き払う気まぐれな嵐に残る桜もいかばかりか、移ろい、花から新緑へといずれにしても風が新しくなるこの季節、
御社におかれましては益々御清栄の事お慶び申し上げます。
御社の創意工夫にあふれた新作の数々、いつも楽しみにしております。
さて、唐突なるメールではありますがご容赦いただきたく、というのは一つご提案がございます。
それは、「○○らしく、フォーマルからカジュアルに落とし込んだ、カフスボタン(カフリンクス)が着けられるシャツ」というのを作ってみてはいかが、ということです。
カフスボタンというとフォーマルで堅苦しいイメージがあるかと思いますが、それを、○○殿の創意工夫で、日常でもカフスボタンを楽しめるシャツを創作していただけると嬉しく思います。既にあるのでしたらすみません。
なにぶん素人の思い付きですので御笑読いただければと思いますが、ご検討いただければ幸いです。
(なお、本メールは単なるご提案でありまして、この段階で御社に正式に注文しているものではありません)

スマイリースマイルを聴取しているから書こうと思ったが数年前に既に掲載していた。全体へと奉仕せぬ断片的着想の寄せ集め。組み立てなければ、それだけでは何の役にも立たない部品の、美しさ、恐ろしさ…スマイリースマイルに比べたらペットサウンズでさえもきっちりした構築的圧制の遺物のように聴こえる…そしてサーフズアップ…風車との激戦を終えて(何に?)疲弊しきったドンキホーテ、というよりも道化のサンチョパンサから見放された結果の闇夜なのだろう。帰るあてなき帰路。初めて内面をもったドンキホーテの、老い。生活と時空世界の出鱈目を隠蔽する欺瞞の絶望。抱腹絶倒の現実が、命の法を盾に味気ない教条へと化し如何なる冗談も通じなくなってしまった、ルネサンス(恐れを知らぬ笑いの挿話)からロマン主義(恐れが人間と内面を生み現実という懲役を拵えた中での自我の不毛な膨張と鬱屈の物語)への過渡期を鮮明するドンキホーテという紛れも無い小説。楽想は、もう、ゆったりと生暖かい海…そろそろ潮時であろう夕暮れの海…サーフボードを引き上げて、しかし、未練は無いのが寧ろ悲しい明るさで、初めて、老いるようで、無性につらく、楽しいだけの空っぽで…衒いの無い終わりは寄せては返すのみで行き先は無い、それが、いたずらに苛酷でもあり、屈託もあり、明日の出会い無き際でも気負いない別れの挨拶である…意志が、呼んでいる、そんな音楽。穏やかだが、安穏とは違う。

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点在する系譜編「the beach boys/pet sounds(1966)tocp-3322」



と、思ったが、駄目だ、書けない…今週はもう精魂尽き果てた…課題である蕪を彫った盆に自分の銘を刻むと、彫りと書きは精神の同じ箇所を浪費するのか、もう、何ぞ書く気は全く起きぬ…それでも、むしろ、それゆえこそ、後頭部にあの曲の残響がいつまでも沁み付いて反復され、書かざるのを許さぬ…書きたくないのに、今は書ける状況にないにも関わらず…だいたい、あの、ティンパニーだか何だかの、ロックドラムからも、播種のように解き放たれてしまった打楽器の、思いの外意表を衝く殺伐として毛羽だって獰猛な大柄な音の闖入は何なのだ…かといって耳障りだとかの事件性は恐ろしいほどの自然さで払拭されているのだ。リズムやリフや煽りを刻む役割から、鉈で割られたかのようにかっすりと下りて、無軌道に、楽曲即ち陽気な、イデオロギーの滑落した陽気なおしのデモ行進にどかどかと勝手に帆走してくる気安さと、ぞんざいなる獰猛…人を捕食しない限り事件にはならぬ野生動物の獰猛が、あの打楽器の、対象に左右されぬただぶち壊すためだけの打楽器による打撃であって。頭空っぽで腹いっぱいでのし歩く、数年ぶりに木の根元で目覚めてしまった無能で聾唖の三年寝太郎の能天気が、わらしべを、次々に宝に変えてくれる人との出会いは頻繁だろうと、その宝、流れ星燃え尽きて身につかない無償の、愛…結節しているはずの細胞群が牡丹雪が無音で降り積もるようにそれぞれ離れて行ってばらばらに、如何なる文脈からも解き放たれる時の奇蹟がここに、いつまでも軽く小さく、流れない粒の、粒粒の、流れにならない、ただ、ただ、流れにならない光が音であったとでもいうように…。きれいなメロディライン、美しいコーラスワーク、凝ったアレンジと実験の数々、不意に挿入される具体音の椿事…そんなことが、この音楽にとって何だというのだ…世界がこの世界のままに崩壊しきっている、そうした妙境を呈した絶後のこの音楽にとって、それらが、だからなんだというのだ。そんなことは糞の足しにもならぬ。それは聴くことでしか甘受し得ぬ、しかしそれを画で暴発させたフランシス・ベーコンの絵は、電気椅子に掛けられて通電中の絶叫せる枢機卿でもあって、ムンクの叫びでもあって…動機の無い不安にたっぷり包まれる夜空が明るい、それは白夜どころではない極彩色の空しみが、冷たくも暑くも無く至って涼しげで…恐ろしい。これほど恐ろしい音楽は無かった。この音楽を聴いて発狂せぬ者などいるのだろうか、いや、既に、狂っているという事を、専ら、聴くという、こちらの主体的行為に任せて、この音楽が告発する…この狂いこそは、社会社の承認によって裁定された正常と異常との対立によって大量生産される類の近代の産物ではなかった、絶対的な狂いとしか言いようがない。こうした言い方、即ち言表の不可能性でしか、至りようがないのである。そしてこの事実は肯定的に転倒しようもないから、そして、と、無意味につなげよう、そして、音楽も言葉も泡立つ。流れに浮かばないウタカタである。ペットサウンズは充実したうつろである、とか、そうした、引き裂かれた言葉でしか、どうしようもない。人間を駄目にすることで人間を試す虚ろである。発作がさらさらと小川である。みみっちいルサンチマンから断絶した、涼しい哀切がとどまらない音楽であり、しかも人間の独立をそそのかす残忍な哀切である。しかも、情けないへたれである。以前、点在性という事を、大雑把に、ジャーナリズムで承認された潮流の言説では説明しきれぬ突発性として紹介していたが、本来はそんな卑近な事で足りる事ではない。あの潮流(ビートルズ史観)は、説明しようと思えば言葉の暴力(歴史=雰囲気作り)を使って如何なる対象でも説明しようとするそうした節操なき音楽への侮蔑をリスペクトと称してあげつらい肯定におもねて政経におもねる渡世上手の、それはそれでしたたかな欺瞞に過ぎないのだが、点在性はそうした史観によっては説明つかぬ異常性というよりもビートルズ史観が楽天的に機能する説明の語法の基底を燃やし尽くす獰猛性が言語による理屈や理念ではなく芸術の表象という逃げも隠れもせぬあからさまな闇によって暴発するのを謂っている。この場合重要なのは音源のみならず如何に聴くかを問われるリスナーの生き様も関与するのだが当然ではある。もう、こんなことは事ここに至っては蛇足も蛇足だから書きたくも無いが…ブライアン自身の発言もあるからそれが説得力の一助となっているが、そんなことも、作者と作品との間には死という関係性しかないというブランショの言を引くまでも無く、ブライアンの発言「ビートルズのラバーソウルを聴いて感動してペットサウンズを作った」という逸話には何の意味も無い。それでも書くのは、この、点在性の中の点在性として、まさに作品として生誕してしまったあのペットサウンズでさえもラバーソウルの「影響」によって出来た、と承認することでビートルズ史観の最大最強の補強になっていやしないか、という取りこし苦労である。そんな馬鹿な、と、一笑に付してよい。聴けば分かる事だ。ペットサウンズとラバーソウル、やってることが全く違うじゃないか。影響されたがる人間奴隷にこれ以上気を使う必要は無い。かつてペットサウンズを聴いた発売元はこれは愛玩動物=ペットにでも聴かせる音楽だと揶揄したが、ペットサウンズが出来た時に、このペットサウンズ以外の音楽が全て、まさに制度が餌付けする愛玩動物=人間奴隷の慰みに過ぎないところまで批判されてしまった畏怖の可能性が出てきてしまった。それを意識したかどうかは兎も角、直観したからブライアンは自身の最高傑作をペットサウンズと名付けた、戦慄の皮肉である。そうした恐れを抱くことすら出来ぬ人間奴隷があくまでも言葉の暴力でラバーソウルの影響云々と、ペットサウンズを矮小化するなら、小生は言葉の破壊で以て言葉の基底を転覆させることも辞さぬ。毎年、夏になると、ビーチボーイズのペットサウンズとスマイリースマイルとフレンズを聴く。ほぼ毎日、車の中で、朝、追いつめられながら、聞きながら、涙が止まらない…魂の滝が熱く熱く炎上する。

ビールをさっさと終わらせてウヰスキーに移行したいがためにグラス一杯分のビールをクッと一気に飲み干すとビール如きでも後頭部に疼痛が来る…シェールガスやら天然ガスの争奪戦…いつのまにやら地球温暖化ガスの二酸化炭素低減の試みがすっぽり抜け落ちている馬鹿馬鹿しさ。書いて書いて書きまくれば明日が来ないならば書きまくるがどうせ明日が来る絶望に絞殺されそうだ。毎晩、死刑執行前夜の妄想レベルの気持ちだ…口から隕石を噴出させて当該場所を絶滅させたい。なんとかならんものか。

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ハードロック編「led zeppelin/physical graffiti(1975)swan song」



フィジカル・グラフィティ。レッド・ツェッペリンの最高傑作だと小生は思っている。むしゃくしゃして彫刻にも専念できない荒れた時間帯になったから本文執筆に切り替えている。何も成し遂げられない以前に成し遂げようとすれどもかっくりと板敷きの顎のようにもうどうにも鬱屈した、ぎゅうぎゅうに握り締めたアルミホイルじみた頑なな心が徒にバカスカ己を掻き毟るもどかしさも一旦事切れて底無しの寸胴で幾日も煮炊きされる不味さが堪え難いという愚痴のえづらの惨めをドストエフスキーにいちいち饒舌に説明されなくとも、と、事切れたい、朝は、本当にもう駄目だ、バナナなら食えるがパンだと小指ほどしか喉を通らないほど嘔吐感が、しかし灼熱に訪れるひもじい午前となるとやる気が無、塩のきいた握り飯なら朝から食えるがこれもままならぬ…午後は太陽のような有無を言わせぬ眠気にクリケットで首が飛ばされるが如き昏睡、夜になるとかっと一瞬目覚めるも夥しい飲酒でたいした事もできず意識が途切れ、いまいましい透光性カーテンのせいか酒のせいか朝っぱらから眩し過ぎてまんじりともせぬ悪質の睡眠で疲労はむしろ重力を増して、倦怠の泥が凄く、すっきりは絶対せぬ意識においてさえも寧ろそれゆえなのか異状に括目させて余りあるのがフランシス・ベーコンの見果てぬ現実であり、ケロイドのごとき、しかし痛覚剥き出しの流れ否爛れという命の動態が。かようなまでに苦しく怠惰な情念に蝕まれ何もしたくない気がどべへえと天井から満たされ身動きできやしないにも関わらず漸くハードロックの真髄を、かつてぎらぎらと飽く事無く聴いていた、それこそ聞き果てぬ現実であるハードロックへの分け入りを決心させたのは、繰り返しになるが、フランシス・ベーコンという画鬼が描ききった見果てぬ現実のお陰だと声を大にして咳で台無しにしながらでも収拾尽かずに宣言したい。あるガレージパンク本の煽り文句にサイケは幻想だがビートは現実だぜ、と先走る活きの良さがあったが謂い得て妙、サイケが幻想かどうかはさて置くとして、ビートというものの現実性、この現実は承認の後ろ盾なく独立した、稀有な現実であり優れた最底辺の芸能のみが奮起しうる現実だというのは確かである。そう、確かに、ビートとは現実である。現実とは何だと問われようとも困るだけであるが、依存できる確かさではないのだけは確かだ…これ以上何が云えようか。かつて(中世~近代)、美学上、これ以上掘り下げようの無いこの様態、即ち表象と意志の間に、嫉妬に満ちた解釈概念が介入しようもなくついに表象と意志が合致したこの様態が美といわれたが、産業革命と政治革命という価値体系の転倒を促す動乱の最中、美が静的なる感動へと置いてきぼりの憂き目になるにつれて、歴史的なことは色色省くが、産業と民俗の徒花ともいうべき波乱の音楽としてのロックがリフないしはビートで以って美を駆逐する現実を爆音させた。じっくり感動する間もない気ぜわしい慌てと同時進行で聴き縺れる興奮へと。とりわけこれから語られるであろうハードロックという音楽こそが、現実というビートを現実化する不届き不逞をやってのけたのである。如何なる修飾も解釈も払拭するこのビートこの現実この自由この混沌この反復この生死を唯一形容しうる修飾語があるとしたら、もう、お分かりだろう、「荒み」だ。

構造や展開への納得性という、世の無意味への欺瞞と、その納得性が織り成す甘美の化けの皮の裏には自身の自由への臆病を糊塗するに必死な自由への嫉妬と自由へと突っ切る他者への脅しや宥めすかしといった惨めな悲喜劇ならまだましだが、とことん態度と意識が硬化してくると欺瞞と嫉妬への内的には痛い惨めによる裏返しとしての脅迫と宥めすかしという連鎖すらも断ち切れて、裏が無くなり、意識がミイラ化した結果(復活を願って死んでも死に切れぬから生きることも出来ぬ)、ただ反射的に脅迫と宥め透かしを繰り出す自動化が起動するという静かな日常民主暴走になるのだが、フィジカルグラフィティにおいては、もう、構造や展開が止揚しがちな全体的な(全体主義的な)別次元の印象やそれをなすための努力の焦りといったこせついた装飾が削ぎ落とされて、ビートがただただ湧出する、しかも、豊穣の恵みという、自由への欺瞞と宥めすかしである物語をがりがりに貧しく一切拒絶して、讃歌を掻き消す獰猛なる吼えと鳴きが無性にうるさい現実の自然状態(←啓蒙思想で云う処の)が沸騰する。法の有無など関係ない、現実というのは自然でしかないのである。そこでは、ついに、解釈も物語も自然の吼えへと回帰する。しかも、この音楽は決して統合した形式のような全体性ないし完結した様式を彷彿させないにも関わらず、はっきりした形が聴こえてくるのであるが、その事は、まさに私達がこの浮世で感覚する雑多なる形象に対して、それを感覚する瞬間の認識一歩手前のぎりぎりではそれらの形なり臭いなりを、有りのままとはいうまい、まさに無造作に雑に感覚し、統一されず解釈されずただばらばらに爛れている混沌即ち自由即ち現実を、叩きつけくるのである。此処で云う雑とは曖昧の意味ではあるまい。動いているのではない、流れているのではない、爛れているのだ。私達が感覚している形は解釈から解放されたから混沌へと回帰するのではなく、解釈もまた形でしかなくなる時に形が自然と自由に生起し混沌を呈する。だから常軌を逸して余りある。形とは有限の事としか言いようがない。形や有限もまた認識に過ぎないが、そういうことを言いたいのではない。雑こそが生成無為に目くるめく形である。これも、聴こえてくるとしか言い様が無い、聞くことしか出来ない、こんな、音楽の当たり前が成立した音楽が、如何に稀有な事か。啓蒙思想が恐れる処の、万人に対する万人の闘争という自然状態だが、社会実験というのが民主党政権下で少し流行ったが、一度、実験してみたらいいと小生は思っている。不謹慎とも思っていないが、調度よい場所があるではないか、福島第一原発の高濃度放射線地域…人間は外的に法が与えられないならば本当に自然状態になるのか、それとも内部で法を作り出すのか…そうであるならばこの社会実験では唯一、次の法が与えられるだろう、即ち、如何なる種類の法も作ってはならない、と。

表象と意志が合致すると自由という名の無が生まれるのみであり、従って絶対的に薄っぺらいし、頼りにはならない。それが現実であるとしか聞きようが無い。レッド・ツェッペリンin my time of dyingハードロック基底の最高最底辺の楽曲を奏し死にながら生きながらの必然でビートを純粋に生成した後、この後はもう、あれだ、水だ…ビートといっても既にくったり角が無く、ただ、ゆったりと、流れるわけでもなく留まるわけでもない、世界創造の神話的な混沌の水である…表情の無い水である…顔のない水である…そんな楽曲が滔滔と続く。さもあらん、と、思う。しかし、絶叫して白目で驚くべし、この水が、何と、燃え出したのである…そう、それこそ、ザ・フーの音楽だ。世界の始まりにして終わりの水が燃える時、ザ・フーの音楽が聞こえてくる。ハードロックが、聴こえてくる。始まりの水とは混沌にして興奮と獰猛の水であり、終わりの水とは認識にして感動と協調の水である…。独立の水と奴隷の水、とまで言い切るつもりはないが、いずれにせよ、分かち難い水である…水が燃える、その意味が分かるだろうか。これは、比喩でも何でもない。とにかく焦りながら、自分が破滅する前に自分諸共でもいいから共感だけは破壊しなければならない。

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