忍者ブログ
 ロック史を体系的議論から解き放ちながら、サイケデリアの土着性とハードロックの非継承性を論ずる。主要1000タイトル、20年計画、週1回更新のプログ形式。
[320][319][318][317][316][315][314][313][312][311][310]

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

ハードロック編「led zeppelin/led zeppelinⅡ(1969)amcy-4006」あるいは御手火素描



持ち前のクサクサ感が我武者羅に上滑りしながら捉えどころ無く滑落の憂き目にも事欠いて腹立ちが憎悪へと薄暗く煮詰まる夕暮れの金色の日射が鶏頭の乾燥花の襞を浮き立たせる。まだ蝉は鳴かないものだなと思っていた矢先に梅雨が御開き、はや夏の通低音、油を絞る音響装置による無駄な増幅、蝉がじりじりしゃわしゃわしており、感情とは下痢でしかないと、卑近卑俗に縋る追い込まれた憔悴が功名心を守護する塀が荷崩れした途端の下世話、短絡の喩えがしゃしゃり出るのももう無残ですらない。格調だけは、低い。如何せん如何ともし難く底辺でしかない。底辺が最も暑い…夏の高校野球=学徒出陣保存会の皆さんのきっちり仕込まれた伝承の演舞など…家の中とはいえビールを2リットルも飲むと鉄球を受ける浅間山荘の気分になって一挙に頭をくらう、すわ酒量は増える一方で、だるさの温存が、紙一重で成り立つ書き割りの、かつてのチボリ公園じみた、感情を寄せ付けぬ薄さである社会生活からまさに焙り出される…中心の無い日射を全天から浴びて、眩暈が、辛うじて歩かせるも捨て鉢が事切れる、続く、事切れる、歩く…けったいが…。先週は朝鮮通信使をして日東形勝第一と墨書せしめた鞆の浦に遊ぶの御誘い、蕪彫りの修行ついでに足をのばしたのだった…今日は自民党独裁政権樹立の日。夕立ならぬスコールが各所に散見さる道すがら、濃い雨雲の下は黒み立つ雨模様、そのつい隣は薄曇で明るみが揺れるを遠望される景色を眺めつつ、祭に雨がかぶらなければよいがと一抹の不安もあったが杞憂であったのは何も祭の刻に雨が降らなかった偶然に安心するのではなく専ら祭が継承する創意の意味に依拠する…雨ずる気ゆえ夏至過ぎの日永ながらどんより暗みが冷えているが、何の事かというとこの日、鞆の浦では御手火祭という秘祭にして奇祭が勃発する、それをよそ者ながら体験しにいくという算段である…とはいえツェッペリンも憂き世には、居るから聴かなければならない。晴れているから湿度が濃くないから音響再生被膜の振動に深みが足らずいい音が鳴らない…このリフの歴史的意味も、もう、どうでもよくなっている…ついに、ここまで至りましたか、と、織部の純真な創意を冷めた目でしっかり認知しながら心はもっと荒ぶる静観へと凄む利休の気持ちもさもありなんとして、いや、しかし、兎も角電源を入れて聴いてみる…くっ、難だ、否、何だ、否、難だ、これは…鎮守の森の御神木を次次と、脂をよくぬったチェーンソーで切り倒す非情の連覇が、松脂が粘りそのままに唸るのであって、ちょっともう一回あたまから再生させると…よく聞くと冒頭、蛇が毒気を吐くような小さな吐息が極めて短く棄てられたと思う間も無くあの怒涛がもりもり盛りあがる雲へ歩むじゃないが(山頭火の辞世)、建築物と山岳と爆発の区別ももうつかない、こんなのをリズムというのか、もう魂は乱れるしかないのかと無論思うわけではない、そんな閑を土足で轍に変えるこの音楽が、すぐさまさして工夫の無い混沌へとだだっぴろげに乱れる展開に行くというのは本当によく分かる。聞けば聞くほど頭がおかしくなる、いや、狂う、その残忍な覚醒の代償が苦しすぎる強制的な心肺蘇生、心臓には右心房とか左心室とかあってそれらの部屋が弁で開閉されているだろう、循環を司るその弁を無遠慮に蹴り上げてくる始末の悪いドラムは重い精確だから絶対に循環に支障を来たさないが分配される血流は潮のごとく膨大で、滾る、胸いっぱいの愛を。さっきチェーンソーでぶった切ったばかりブルースの切り株、まだ樹液の玉がいくところも噴出する切り株の上にどっかと座ったハードロックのダルさが、なんとものびやかで琥珀色だ…飴釉だ…全然晴れがましくないのに、ぎゅんぎゅん延びる、樹齢を重ねた幹の中を高速で道中する。対潮楼から件の瀬戸の景勝の圧巻を味わい下山、別所で食事を頂き、戻るとうだつの上がる古格の建物がこじんまりと佇む鞆の浦の夜道を、活気が走り出している、狭い路地を、先駆けの太鼓がもう暴れている…地元の若衆らしきが大八車のようなのにのって太鼓を乱れ打ちしながら無茶苦茶に引き廻しており夜道から祭を爆ぜさせ箍の外れた雄叫びを揚げ続け、早くも上気した人々は集結し家々は戸を開けて拝む…知らず付いて行くと表参道、大鳥居には沼名前神社、と。なんともおどろおどろしい…「ぬなくま」と読む…あとで延喜式で調べたいが、闇とか夜の枕詞で「ぬばたま」というのがあるが恐らく関係するだろう…参道は既にごった返し、出店の賑わい、しかしそうした風物よりも小生を牽引するのは山上から轟く太鼓の煽りである…鳥居をくぐると急峻な石階段が真っ直ぐ山上の本殿まで続く…血眼で祭を待ち構える群衆を掻き分けて夢中で階段を登りきると本殿で、白麻を纏う稚児ら十数人が間断なく、一時も休まずに交代要員も控えさせて、数基の太鼓を連打している、しかもその辺の自治会が持ち回りで厭厭ながら主催する祭でスポイルされた子供が時と共に投げ遣りに叩く太鼓ではなく、裏に裏に先回るビートをも刻まんとするほどの激しい發回しで一心不乱に乱れうちトランス一歩手前の目が据わった表情で汗だくで、ドカドカドカドカと岩をも噛み砕く轟きを横溢させている、民衆を煽る者特有の冷静さすら兼ね備えて静かに燃え滾って太鼓を叩きまくっている…どれどれ、御祭神はどなたであらせられるか、と由緒を読むに、ああ、やはり、貴方でしたか、スサノオノミコト。沼名前神社という呪われた名も納得。スサノオの呪われたウガイのような太鼓の垂れ流しが鞆の浦の町いっぱいに満ちながら石階段の中腹ではスサノオ好みの捧げ物が準備されつつある…御手火だ。大躯の鬼の松明もかくあるやと思わせる、全体としてマッコウクジラの子供ほどもある巨大な「薪の束」に御神火が移されると、それを、十数人の男衆が、水をたっぷり飲んだ布をかぶって巨大松明の下にうまいことやって潜り込み、抱え揚げながら長大なる石段を登る、という創意である…ばちばち火の粉と白煙を上げながら松明は炎を唸らせて燃え上がるのでそれを担ぐ男どもの頭の直ぐ上を炎が燃え滾っている、スサノオに捧ぐ炎が彼らに引火せぬように他の男どもはバケツリレーで本殿脇の神水を、担ぐ男どもの焦げそうな頭に的確に注ぎ時にぶっかけ炎勢が強すぎると松明にも水を掛ける、しかし松明の奥で燻ぶる炎は寧ろすぐさま息を吹き返して一層炎を高くする炎と水のせめぎ合いに雨天関係なし、いきり立ち目が笑ってない男衆は興奮の怒声を上げながら、燃えながらにしてなお重い「薪の束」に耐えかねて後ずさりし近接する群衆の目を炎で焼かんとして人だかりに突っ込んだりする素振りも見せながら息も絶え絶えにえんやーとっととおらびながら、炎を担ぐこと小一時間、この薪の束が3柱、順番に、ゆっくり、石段をにじり上がる様子は高みの見物を群衆に許さないのか汗だくの絶叫がそこかしこで波乱するし、尚且つ、この祭には何度も来ているからこの興奮も知り尽くしているとばかりの、かつては祭の世話人だった風格すらもありそうな愛情をも自負するらしき、この祭の見巧者を自認するらしき、高級カメラを抱える熟年が、小生に向かって「見えんや無いかボケが」と罵ってくる始末で、やはり、いささか祭の創意とは別の意味で卑俗な軽薄に巣食う意味だが、荒んでいる。神事をカメラのチャンスととららえることで卑下せしめる恥知らずの、現代的荒み。それに、燃え盛る松明の下に潜ってかついで山上のスサノオに捧ぐはいいがその若衆のノリ、というのが、目くじら立てるほどではないが、どこか合コン的な、試合に勝って調子に乗った、眉毛の輪郭を几帳面に整えた今時の高校球児らがマウンドに集まって人差し指立てて一番を誇示するあけすけな子供っぽい下卑を思わせ、伝承される祭の創意は兎も角それを担う人間の劣化というのはやはり存在した。ちなみに、「薪の束」のことをイタリア語でファッシという。ファシズムの語源であり、イタリアのファシスト党の党旗にはそれと分かる薪の束が描かれている。だからといってこの祭の興趣や創意をあげつらうつもりは毛頭無いが、自分に振り返れば、小生には、この祭には参加できない、出来て、速攻の孤立だろう、というのは感得できた。幼少のみぎり、近所の地元への祭への参加要請があったが拒否したし、祭当日、境内で踊る獅子舞に崖から投石した記憶も沸沸と甦る…祭に限らないが集団で一つの事をやる事にそれこそ生理的嫌悪感が発動するし、参加したとしても厭厭ながらだから役には立たないし役に立とうと思えない…鞆の浦の御手火祭…よいものを見たが、しかし、少なくとも、自分が欲するものではないのは明白だった…こうした創意と雰囲気、地元共同体をも含んだ構えというのに群衆が没頭するのはむべなるかな、しかし、己がなすべきこととは違う。あの轟々たる炎を一瞬で消沈させる、あるいは長時間かけてゆっくり消し去る、あるいは夜中に炎ならぬ虹や別のプラズマを立たせるほどの一言あるいは万巻の言葉を紡がなくてはならない。所詮、承認された共同体的熱狂など元より興醒めである…創意の独立はインターナショナル(国家の隙間)であろうか、たとえばツェッペリンのように、あくまでも極私的にささやかな奮起を促す勃発こそが…たくましい勃発であるが既にあらぬ方向へと突っ走った取り返しのつかない勃発であるが…新幹線の時間もあるので祭の終わりを見届ける事無く帰路、車の中で、下痢性の猛烈な腹痛に襲われ脂汗だ…原因はあれだ、義父母からご馳走いただいたステーキ屋さんで、さもしくも、ガーリックスライスをかりかりに焼いたものをつい食いすぎたためなのと、祭の熱気による汗ぐっしょりが腹を冷やしたのと…印度カレー屋でニンニクをまぶしたナンで腹を壊したことがあるゆえに…義父の車内で糞を漏らすわけにはいかぬ…か細い声でわが意を情けなくも細君に伝え、細君の仲介で、福山駅一歩手前のところで車を止めてもらいコンビニの便所に駆け込む…折り畳み傘二本分の液状の糞をすっきり出して、寄生虫のハリガネムシを腹から出して放心中の死期迫る蟷螂のような気になって便器でぐったりうつむいていると、小生のその日のTシャツ、図らずも、全裸のザッパが便器に座っている図。ガレージパンクのような捨て鉢な笑いの破滅ではなく、笑えない怒気による破壊たるハードロックが志に寄り添うてくる。餓死か、屈服か、ならば、餓死を選ぶ。後悔が生じても後悔しない。後悔に後悔しない。その時に慌てる。毎日餓死のことを念じている。言葉ほどに、心は潔くは無い。体ならなおさらだ。しかし、心は頼りない言葉に頼るしかない。しかし、餓死だ。沈痛だろうが破れかぶれだろうが、餓死だ。餓死だ。餓死もまた題目、念ずる。餓死餓死念ずる。まだ餓死だ。金曜日のテラスハウスと団塊スタイルを血眼で、視聴する。一つに選べなかった句を列挙する場合じゃない。

御手火をも撃ちてし生きよ吾の唾棄
御手火をも撃ちてしやまん吾の唾棄
御手火をも消沈させよ吾の唾棄

拍手[1回]

PR

この記事へのコメント

Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
管理人のみ閲覧できます
 

忍者ツールズプロフィールは終了しました

HN:
々々
性別:
非公開

08 2024/09 10
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30

ロック史最新記事

(03/03)

ブログ内検索

最新トラックバック

忍者アナライズ

Copyright ©  -- 仄々斎不吉 --  All Rights Reserved

Design by 好評ゼロ / powered by NINJA TOOLS / 忍者ブログ / [PR]