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「xtc/english settlement(1982)cdvx2223 724385066023」
いまだ解決できぬ風鈴の騒音障害に存分に苦しめられている。両の蟀谷(コメカミ)で胡桃割りさせられている非情で残酷な拷問を土日だからとて止むことの無い風から仕置きされる拷問はまだ続くのか、音源は半ば特定されつつあるが肉眼での風鈴付設状況の確認が、複雑な起伏のこの界隈特有の事情の雑多な遮蔽物によって、成らず、いかな角度を以てしても音源と思しき家の庭の軒先を覗き見る事あわたず、肉眼で確認できたらその家に風鈴撤去を懇願しにいくというのにそれが出来ない、歯がゆい、糞忌忌しい憎悪ばかりが純粋培養される始末で、リンリンリーンリンリンリーーーーーン鳴りっぱなしで環境の変化への耐性に欠ける自閉症の人の如何ともし難いが妙に規則的な騒乱行動が勃発しそうなのを辛うじて自制するのも限界、どうしてこの界隈は莫迦犬ばかり飼育するのか、おとなしく察しの良い柴犬ならまだしも、西洋狩猟犬由来の、頭部が雀ほどしかなく怯えきった瞳で甲高くキャンキャン喚き立てる長胴短足短毛種やチワワ的な莫迦犬による騒音攻撃にも怒りが切り立って中世の黒死病の死亡率のように尖塔状に切り付けてくる心のざわつきとイラつきが徒に鋭利だ、横腹を蹴飛ばす妄想くらいに。加えて、地域の基幹メガ病院へ救急搬送のサイレンも引き切り無く喧しく、鉋で削られる鰹節のように心身が痩身に苛まれる拷問もある。そういえば大阪のメガ手作り市へ家人に同伴すると古刹の御神木の鉋屑を霊験あらたかな本の栞として売り捌くがめつい商売も散見された。雨上がりの花冷え。積年の歯軋りで顎を痛ませながら深更睡眠中何を苦しんでいたかというと隠れキリシタン所持とされた備前焼、という欲望妄想夢であって、藁巻きの火だすきや自然釉の胡麻が十字架になっている、明らかに人為的な備前焼(江戸時代初期)を勝手に妄想して苦しんでいたのであった。ちなみに十字紋を施した古萩や古唐津は実在するのを図版で見た覚えがある。ジャック・アタリの「ノイズ」という著作を枕頭に架しているがもう今更読む気になれず、斜め読みしたところ、音楽というものの根源にあるノイズという思想を手際よく開陳する達者な論説であるのは分かるが自分としてそれはもう人から教えられずとも己の生で以て内発的に滋養せられていると思われるから。読めないながら万葉集を頑固に読み下していると古今和歌集ぐらいは、いちいち頭の中で現代語訳せずとも歌のままで己に沁みてくる。沁みるといっても、雪と梅、雪と桜の区別がつかぬと執拗にのたまう王朝人の一種気違いじみた暢気だが。
外界からの、特に政治や国際情勢や中韓や司法などの情報を遮断すると幾分冷静に万葉集や旧約やイエーツが読めるようになった成果である。これまでのように無駄にパソコンを開いて怒りの地雷原のような「情報」をつまむ自虐的自堕落を断固として意志的に規制することによってそこそこ、こうした事に成功するのであった。それでも舞い込んでくる諸々の情報を発端とする怒りの暴発を抑制するのに息切れする間もなく無茶苦茶に赤熱する小生、袴田事件にしてもそうだ、真実は当事者でないと結局の処分からぬので何とも言えぬが仮に袴田氏が無実であったとしたら、袴田氏にあってみれば、この度し難い拘留による憎悪が、その憎悪の分だけ心になってしまったならばその心は憎悪の形を支えきれるはずも無いほどの深甚なる憎悪で心は壊れるに値するのであるし、憎悪のあまり全ての人間を殲滅させる核爆弾のボタンを押す権利さえ袴田氏は有する、とまで思える、こんな想像の制御不能な暴動によって小生の生活も粉砕されそうなくらい、巷の情報には怒りの発火点が満ち溢れているから、いちいちそれに翻弄されていると本当に生活と小生の為すべき事が心ごと粉砕されそうで恐怖であるから、なるべく、もう、本当に、情報をシャットダウンするしかないと思っている。あまりに深甚なる袴田氏の拘留状況の残忍48年間に比べて、それを成立させた警察検察司法当局の、あまりに軽~いその場しのぎの保身の軽~い思いつきの積み重ね48年、という、人間の悲惨事にあっては頻繁に見られる情けなくも度し難い対比に耐えられなくて、怒りに吾を失うのが恐ろしいからだ。姑息で軽~い自堕落に時に任せて担当者が変わりまくって責任の所在が曖昧になったのを見計らってなけなしの良心を開陳した司法の指摘の通り、警察による証拠捏造が事実であったならば。
鼻の穴に何かの蛹の抜け殻のような鼻糞をふんふん覗かせながら小生と遭遇した少女を画して一句、
鼻糞や抜け殻出入る少女来た
またXTC。英国植民地。ロックという音楽の植民地性が想起されるが歴史的位置づけによる言説のかっこよさ自慢にほとほと嫌気が差す以前にそうしたことに興味もやる気も皆無であるからして無二の感嘆を鼻紙のようにポイ捨てする。こんなにも憂鬱且つ優雅で軽やかで湿っぽく薄曇りの地を這うゲジゲジの歌がありうるのか、いいや、ある。ここにあった。一応、王道なきロック史「悪趣味の系譜」の一、とすべきである。
道端の空き地に転がっていた、力士の頭ほどの大きさの石英の塊を自宅に持って帰った。今年の夏は朝顔を育てたい。種まきは5月初旬、その前に植木鉢はどうあるべきか、目利き嗜好がおずおずと擡げる。典雅ですっきりした涼しげな染付の植木鉢を所望。発芽~蔓~開花~枯まで日々スケッチし、植物の仕組みを実地に観察する予定。若気の至りでリサイクルショップでお助けしたものの今は疎ましく思っている赤黒い七福神像、年四回の粗大ごみの日に出荷しようとするが躊躇の念が兆して一首、
七福神祟り恐れて捨てられず七福神に呪われしかな
こんな文章も、故あって数か月前に改稿していた。⇒こんな文章
今週休載のお知らせと冥福への予感
元気はもとより小生において抹消されているが…もう、どちらかというと、国家や共同体が押し付けてくる制度や慣習による囲い込みと排除の往復ビンタなどよりも、生命の法とでもいうべきものからの逸脱による原罪と恐喝、刑罰の方が恐ろしい、というか、生活にとって真に迫ってくる…人間共同体の法の下部構造に生命の法を置くなどとは所詮人間が保身のため妄想する「科学の物語」に過ぎないと分かってはいても…生命の法からの攻撃を妄想懸念する方ががたがたしく締め付けられる窮屈な気がする…情けないまでに卑しくいきり立つように急迫せぬ長閑な心持ちに毒されてしまう呆けが無感動へと摩滅させる麻痺の極楽なのか物を書く上での一点を突破する殺伐が足らぬなら足らぬで極楽の麻痺の果ての平滑な宴を…経験も思索もありはしたがそれだけ、で、元より肉迫を希求した事など無かったつもりでも、麻痺の極楽でさえも牙を歯軋りに供するぎりぎりの癇癪も自負すれど、潰えた心情からすれば無力な慰みでしかなく、永遠の眠りと云う常套句が現実味を帯びて来る夢のまた夢、指から爪が消えてくれた。消えてしまっていた。
メモランダム
変化という認識は恒常的として捉えられた過去と、同じく恒常的に捉えられた未来という段差の認識に基づく限り、認識の形式に回収される退屈な変化でしかない。
明文化された制度はその制度の外部によって常に基礎付けられている…限界認識と観察による批判的に、ではなく、専らその制度の基礎的内部的部分が即ち外部となっているような…
要するに今の精神状態はついに憔悴すら出来ぬ深みと影の無い光の中での無感覚無神経麻痺の熟睡状態へと昇天している…だから書けないのかすらもどうでもよいまでに…ありがとう、さようなら、と一言言い、光に溶け込みたくなるような光が波動を失ってどこまでも大きく豊かな充溢へとその光に包摂される、魅力すら要らなくなった快楽へと冥福するような…少なくとも外界からの刺戟に何の取っ掛かりも見出せない…何とはなし…何とはなしに…過去の世界大戦が前のような趨勢に…先進資本主義国と、後進資本主義国(旧共産主義国)との、領土、歴史、民族、資源、経済、環境を巡る確執が領土問題を発端に抜き差しならぬ事態へと…紀元前ギリシャから飽きもせず繰り返されてる帝国主義的小競り合いとブロック経済化が領土という、最も国家が発火しやすい問題を契機に後戻りできぬ事態へと…ゴリ押しすればごね得が手に入る味をしめたゴロツキ後進資本帝国主義国が、また、おとなしい良識を駆逐するのか…愚昧極まりない時代状況に巻き込まれざるを得ない怒気もまた…憔悴…遣る瀬無い鎮痛が…小保方氏関連についても一家言ありはするが、もう、遠い漣の面影で…そして…口をかっと開けて小さい歯を冷たく光らす死んだ魚…
一輪の埃が…虹のかけらを…兜蟹の静かな交接のように死んでいくのか…自然の生命の生死はいかに騒がしかろうとも全的に死であるとしか思えなくなった…自然はなべて美しい…だから、死だ、結晶だ…重油がのたうつ海の真っ黒な美しさを思う幻…べっとりと漆黒の重油を全身にまとった海猫、あれは、美しくないとでも云うのか。終わり間近になってこらえきれぬ憤懣と憎悪が難聴をつんざく。
「xtc/oranges & lemons(1989)cdvx2581 724385068324」
巨星落つ…思えば深更に度肝抜かれた伊予灘地震は末期の叫喚であったのか…尊敬してやまぬ小説家大西巨人の訃報が…。最早かつて故人が世の趨勢を「俗情との結託」として言論の矜持を唱道した、そうした批判の俎上からもこぼれ落ちるほど取っ掛かりの無い昨今の奴婢然とした俗情が、情けなく、志低く、そつなくこなすばかりの小賢しい物語上手が幅を効かす昨今にあってみれば、戦後文学の潮流から凛然と訣別した処で自前の頭で考え抜いた作物は精神の闘争の証であるからして人間の赤裸々、飽くまでも奴婢ならず自立する人間を鼓舞すべく故人の命を越えてその作品が生き続けるだろう。衷心より御冥福御祈り申し上げます。もう春眠なのか眠気が一日中ひどいのでこれ以上記述できない…ここでぎりぎり云いたいのは…弱酸の飛沫が光のように瞬時に脳に浸透して真っ白に脱色且つ萎縮する迸りが…爪に掛けたら溜まりに溜まったそれが朝焼けの照射で記憶が吹っ飛ぶ刹那の刃の、一撃で殲滅と再生が裏返る白い振出しであって…失神のストロボが一回限りで…うまく書けないが、オレンジ&レモン。関係ないが、マツダの新車フレアはスズキのハスラーのデザインに似過ぎていやしないか。徒然草というのは保守的な男の、定年退職後のブログみたいなもので辟易する段もあるが春望まさりて引くと、
もののあはれは秋こそまされと人ごとにいふめれど、それもさるものにて、今一きは心もうきたつものは、春のけしきにこそあんめれ。
徒然草第十九段
dave gregory
colin moulding
andy partridge
日永の雑閑と今週休載のお知らせ
啓蟄やカラザの如き痰の道
自動車会社やハウスメーカー、メガショッピングモール等が撒き散らすハッピーファミリー像に毒された中高年が案外多いものだな、と忌忌しく思う。それに難癖つけるつもりはなくとも、ふりかかる火の粉は払わねば。何事かに囚われきった人間の頑なな厚かましさと介入欲を断絶すべく…何事かに囚われ、依存する人間は他人への介入への没入が乖離なく一体化しているから迷惑千万…人間の意志の独立を自他共に無意識に否定しているから他人へ介入工作してくる貧相が憐れでしかたがない。根づくな、と、真空で絶叫する。折からの骨肉の疲労と倦怠で一日中惰眠をむさぼるも、洗濯物を取り込むためベランダに出ると近隣の沈丁花の花蕾が寒気から擡げた濃緑から薄明るく白み始めるを見、冷風にも草の青み汁を絞った薫が粗く混ざる…もう、草の事しか、考えていない。旧約聖書にはほとほとうんざりしている…イスラエル人の身勝手で傲慢な、単なる自己正当化と征服、一方的な多民族虐殺の歴史の連続に嫌悪感は否めぬ…「ハゲが来た、ハゲが来た」と子供らにからかわれた預言者の一人が主に祈ってその子供ら62人ほどを獅子に噛み殺させたり(列王記)、そんな事蹟ばかりに… 旧約で殺伐となるのに嫌気がさしてハチミツとクローバーを再読したりするほっこりした安穏に堕し(多分再読5回目くらい)…つらつら俳家奇人談を読み拾う、俳味としかいいようのない雅致に耽溺する…
木枯らしの果てはありけり海の音 池西言水
腹筋をよりてや笑ふ糸桜 北村季吟
「public image limited/metal box(1980)cocy-78002」
磨哲刀 蜂図竹茶合…オークションにて目撃(この画像をクリックするともう少し大きい画像が出てきます)
ミモザではないドライフラワーが部屋の湿気でのっしり草臥れている…これ、CDなんだけれども、ケース側面のギザギザ加工の谷部分に虫の枯れた卵か黴のようなカーキ色の粒立った粉末が付着していて気味悪かった。長い間聴いていなかったから…先週の木曜日、日差しにほだされて霞んだ青空を見上げると飛行船がぽっかり浮いていた。のどかだった。風も穏やかで風鈴による執拗な嫌がらせが一旦幕を下ろし、そういえば夜半のまどろみで確かに聴覚したとおぼしきは、風の緩急によるファジーな翻弄とは異なって、何か人の手が釣り下がった風鈴を撤去した際に洩れ出たような人為的な風鈴の音をカチカチッと聴いた気がする…小生がこれほどまでに苦しんでいた事には関知しなかっただろうがそこの家主のふとした気づきによって風鈴がようやく撤去された僥倖なのかしらんと安心しながら寝た記憶が…なるべく窓を開けたくないと思っている小生…窓は締め切るものであって…窓を全開にして空気を入れ替えたがる細君の所業を疎ましく思っていたが細君が花粉症を兆す季節になったため窓を開けなくていいからほっとしている…作業状況の切迫まで思い起こされる近隣の工事はいつでも喧しく救急車のサイレンが引き切り無くこめかみを痛め、風も風鈴もたまったもんじゃなく喧しくて激高しかねぬこの界隈、たとえ静閑であっても外界の空気を入れたくない…よって閉め切っているために窓際に寝る小生の蒲団が窓ガラスの結露を吸収して硬湿り、寝る前に掛け布団に掛ける丹前は寝相から弾かれて毎朝脇の窓ガラスに先陣を切ってべっとり吸湿くっつくからこれまた硬く湿って黴臭い重みを増す…実家色の強いため疎ましく思っているこの丹前はシーズンオフになったら棄ててやるつもりだ…
洗濯すると皆裏返るなぜパンツ
佐藤信夫コーチ似の土工ケーキぶら下げ
家族の字家康に見ゆ菊の蕊
だまされる暇のある者だまされる
佐村河内来し方行末めでたやな
七人中六は黒人琵琶湖マラソン
結局いまだにナショナルな感情の疼きと苛立ちに悩まされ、何とか抑制、鎮静したいがそれがこらえ切れぬばかりに懊悩が日日を塗り潰しかねぬ無駄な不安に一層襲われている…ネットやメディアなどは無視、摂取を拒否すればいいものをそれが断行出来ぬ意志の弱さでついつい摘まみ食いしてしまうが故の食中毒が日常となりつつある…中韓関係の…自分でもくだらん事を愚痴愚痴と窮屈に試論する愚に辟易しつつも一度走り出した思索の暴走の窮屈が止めきれずに走り書きしたメモランダムを文脈の整除無視して、推敲せず、書き写す…それをきちんと整理して「説得力」などというものを降臨させんとする努力にも辟易、これ以上関わりたくないし、きちんと向き合おうがおざなりにしようがこの不快と苦痛、ドスの効いた憤怒と憎悪は抹消されぬのは分かっているゆえ…国家や民族の枠組み内での思考と感情を煮詰まらせた声明合戦と小賢しい多数派工作に対話の糸口は見られない。人間の基底に降下した根本的思考を辞さぬ前提で無い限り対話と緊張緩和の糸口にはなりえない。政治化された言葉、政治に粉飾された言葉。政治化以前の、現実に目を凝らした事実の言葉という他の原理によって括弧に入れ、主張を揺るがすしかないのか。政治化された言葉が国家間社会での利得の安全を保証するならば、その政治化された言葉を中韓が自ら捨てる事はないだろう。相手を非難するということはそれ自体で形式的には相手との対話への欲望を表明する。しかし中韓は専ら彼らの政治的優位と利益を確保するため、非難の潜在的対話性を形骸化させておいて、相手との問題解決に向けた対話を拒絶することで、問題を寧ろ延命させ、安全な場所から利得を吸い続ける悪意の蛭の如きである。中韓が政治的行動の駆動力としている利得とは何なのか微塵も知りたくもないが…対話を拒否し非難が続けられる事で利得を増すからますます非難を続け多数派工作に抜け目無く世界中を走り回り、肝心の、当の相手との問題解決を先延ばしすることで利得を得んとする狡知の姿が貧相なる茶番を呈している。かような茶番は解決に向けた直接対話は巧妙に潜在的に拒否し続ける事で相手の尊厳を踏み躙る侮蔑的悪意と、その相手(日本)には思われるから。国家間社会での多数派ごっこによる孤立者晒しを、その孤立者への貶めと見なす国家内=インターナショナルでしか通用しない幼稚な茶番に付き合う馬鹿馬鹿しさを思えば大人としての凛とした断絶もやむなしか(国際連盟脱退、松岡洋右…)下らぬ…それも負け惜しみのごときだ…負け惜しみというのも多数派の遠吠えの枠内に過ぎぬ偏狭な屁理屈なのだがな…日本の主張すべき誠は過日、その大筋を書いたからここでは繰り返さぬ…それに付けても…中韓は不満を本気で解決したいなら外野でワーワー騒いで要領のいい小賢しいガキが教室内で己の悪行を隠匿するために多数派工作に立ち回る稚儀に走るのが傍目にはバレバレで己をわざわざ卑しめる事無く、当事者と直接会って抗議なり対話なりすればいい、靖国が不満ならそれも含めて対話すればいい、己の歴史と思想総動員して根詰めて議論すればいい。一回で合意できないならば何度でも会って対話すればいい。安部総理がいつでも対話のドアをオープンにしているのは全く正しい。中韓がそれをしないということは、日本は、中韓が上記のような単なる下劣な悪意と嫌がらせに基づく政治判断を此方に仕向け此方の尊厳を侮辱し続ける嫌がらせなのかと勘ぐるしかなくなる。だから中韓への蔑みと憎悪が此方にはわだかまるのである。対話によって何処に達するのか、対話における妥結とは何かと言えば、それは、結局、互いの意志と主張の独立とその尊重に他ならない。人間というのは結局人のいう事はきかない、という厳然たる現実を諦念するしかない。希望があるとしたら独立が尊重で以って調和する事のみである。ナショナルな感情の拘泥から解脱したい。
だいたい、いつの頃から、歌舞伎の女形「おやま」を「おんながた」と読んで恥じぬようになったのか。一体いつから、おじいさんおばあさんの事を「じいじ」「ばあば」などと呼称するようになったのか。赤ちゃん言葉で己を措定して恥じぬのは誰か。赤ちゃん言葉で呼ばれるのに反発せぬ鷹揚な態度が大人の余裕、という事なのか。「団塊スタイル」とか「人生の楽園」のせいなのか…不気味に憤激が甦る昼日中の曇天の明るみで…言い掛かりとやっかみを止めたい。どういう事情なのか最近、ネットオークション界で、竹彫茶合界がアツい…素人風流人の手すさびの粗悪な彫りの茶合ばかりが出回っていたこの世界だが、しぶとくチェックしていると、最近はなかなかの佳品に廻りあう事も多い…何があったか。この、アナ蜂を彫った茶合は、磨哲、という謎の彫り師の作だが、本気で獲りにいこうかと身を乗り出したが入札者90人以上、落札額が17万円まで釣りあがって断念せざるを得なかった…自分で彫れるようにならなければ。猛省を促す。
単調なリズムが恨めしいほどだ…ジャーマンロックが魁、ポストロックが取り澄ましたこの種の音楽を此れほどまで存分に苦しんだ音楽があるのだろうか…怒りから殺意へ、という悲惨な、拠り所の無い絶望が…青年から壮年へ…車で歩行者につっこむのが大抵30代であるのを知るにつけ…ふかふかによく耕作されたアスファルトで足萎え、両脚でばったり倒れるのか引き摺るのか…片ちんばが珍奇扱いされ等間隔の歩行が承認されている事を告発する…文明と文化の交差点で行き先を失った地団駄が…この音楽の出自と歴史的意味付けの説明などに徹頭徹尾興味は無いとしても…シラスをびち切る…虱潰しの雑言を汚く壁になすり付けるだけ、雨によって洗い流されることは無い…あくまでも血によって糊塗されるを渇望する焦熱の、見た目ではその発熱は分からぬが触ってみて即座に火傷となる悲惨な抵抗の発熱金属が、速さの基準を喪失、緩慢と急迫から外身児同然にさ迷う奇怪がリズムそのものとなって聴く者の記憶を鮮明に抹消してくる…笑いの基盤も悲しみのあても拵えきる器用を取り扱えずに…何にもならない。抜け出せない、公共幻想の限界。四曲目で鼻水を啜り上げる汚い音も聴こえた。情けない泣き言が殺到する群衆の靴底で完膚なきまで踏みくちゃにされる…六曲目socialistの浮ついたリズムがむしろ空恐ろしくキチガイじみたインストで短いのがいい…ユーゴーのレ・ミゼラブルを読み始める…ゆったりした構えで脱線と詳述と遅延を打ち寄せるのが、ゆったりしていい…18、19世紀フランスの世情の空気が臭い立つわ…塩と芋と油のみと謳う健康志向ポテトチップスを選んでも結局口内炎を発症し苦しむのだからもう駄目だと思ってやけくそで、添加物まみれの一般的なポテトチップスのり塩を暴食、すると一刻も経たぬ内に鼻かしらに吹き出物が出来口内炎の爛れも発症する毒素チップスやめられない…ラーメン屋に入ってしばらくすると細君が「心がざわついて」と不快を訴えてくる…小生らの後に入店してきた一家への嫌悪が噴出したようなのであった…家族二組、8人乗れる馬鹿でかいファミリーカーからどやどや、座敷席になだれ込むなり野球のユニフォームとジャージ折衷の、休日の練習試合が終わったと思しき丸刈り少年3人ががさつな動きで箸を倒す早速のけたたましさで狡猾な猿のような顔を寄せ合いながらジャガイモか猿のような思考しかできぬくせに、あてがわれたスマホいじるのも細君にあってみれば我慢ならぬらしく、スポーツ少年団の監督でもあるらしき態度の父親のふてぶてしいジャージ姿、母親もジャージorスエットのスポーツ一家の有り様が疎ましいらしいのだった…食い終わって車中で怒りをぶつけられる小生…これまでも激マズ寿司とかラーメン屋、牛丼屋といった庶民の荒みスポットに連れて行かされた恨みをぶつけられ…ああいう、一家総出で親かかりっきりで子供ごときの野球にのめりこんでいる階級への憎しみ、「ああいう、マッスグな感じの家族好きになれない、ただでさえ平日はああいう人たちを相手に仕事しないといけないのに何で休日まであんなのの顔を見なくちゃいけないんだよ」、という事のようで、そしてまた統制的スポーツ思考しか出来ぬ頭の悪そうな監督親父の下でそうした人種が子々孫々繁殖再生産されるのを想像できるから嫌、という、偏見ともいえるがその例外がほとんど無い切実というのをこの年になると経験的に分かってくる絶望的階級的嫌悪感をぶつけられたのであった…分かるよ…今後は一人で行こうと思う、ファミリーカーがどしどし駐車可能な駐車場面積を誇る郊外型バカデカ看板の豚骨塩辛舌痺れ系ラーメン屋。風鈴鳴ったよ。嗚呼。エジプト、シリア、ウクライナ、南沙諸島、尖閣諸島…きな臭い。
ジョン・ライドン:vo
ジャー・ウーブル:b
キース・レヴィン:g
マーティン・アトキンス:ds
「no new york/no new york(1978)onco-002」
穏やかな春の日差し、仄かな風はまだ冷然と佇むばかりだが…そこそこ気分は沈沈と落着している昼日中…雨水過ぎて喧しい寒風も止み件の風鈴も一旦鳴り止む平穏がささやかに続く幸運に感謝する、問題の深刻は根本解決を見ないがそれでも、あえかな希望のようにして目星もつきつつある…あの家が風鈴騒音の音源なのではないか、と…喉元過ぎれば鋸引きの刑に、痛みを感ぜぬほどの遅速で以って緩慢に処されるゆえ呆然と成り行き任せながらも感慨はいきり立ついっぱしの絶叫へと呵責する出口の無い焦熱も懐かしい愚昧に気圧されて…生活に漂う不穏が日々に濃淡織り交ぜて噴出する仕組みに難詰されるクサクサ感も復活する…思えば佐村河内氏のペテン師ぶりに救われるマイノリティという書き方したが明らかに過誤であった、むしろ多数派であり小生もそれに組する下世話に過ぎぬ物欲しなのであった…それだからといってすかさず守護に走るけんかいなる自尊心など滅相も無い…河川脇を北上する荒んだ国道、でかい焼肉屋、でかいディスカウントショップ、でかいホームセンターなどが国道挟んで川の反対側に一様にどかどか付随する国道を直道する車両群でしかない荒み国道沿いの中華料理司馬にて故あって晩食、一方で西条中央の中華料理屋ニイハオが潰れたという真偽不確かな情報に結構動揺しながらそれを確認しようともせず司馬で唐揚げ定食を御膳に、付け合せのちょっとした炒め物も中華の基本の渾然たる妙味の諧調のまとまりで満足するも卵スープの底に伏していたらしい一片の香草の類を、飲み干す段で噛み砕いたのがうっかりだったのだろう、それはスープの薫り付けのためであって実際に食すものではなかったと後で思われたがその途端激烈なる刺戟が口蓋全体を痺れさせ凍傷になったか、そしてあまり美味しくない水をがぶ飲みしても消散せぬ苦味でこれまでの料理の妙技が水泡に帰するがだからと言って料理屋への不満はないくらい、それくらい思い返しても司馬は旨かった、客が我々だけの閑散も気に入る、というのもあって…とは言い条とりわけ上顎の、前歯裏から喉に向かう天蓋というのか口蓋の痺れは歯医者での麻酔のような違和があって辛いが、それはまあ時間が経てばなんとか引く訳で問題化したのは、おそらくこの香草麻酔が口蓋への毒物的刺戟になったためだろう、前歯裏の、舌先で押すと皺寄った硬さを触覚する口内の甲とも言うべき、やっぱり要するに口蓋なのだが、その一部に、パチンコ玉でも埋め込まれたかのように、口蓋表皮から10mmほどの、体にしてみたら結構なる深層にマグマ溜まりのような膿溜まりが出来たようで、疼痛と違和感が苦しい…表皮上に膿が溜まったなら爪でガッとして膿苞を破砕せしめて一件落着だが、膿溜まりが深いから、口に指突っ込んで表皮から爪をぐいぐい衝き立ててもその膿溜まりを、地中の雀蜂の巣を土ごとユンボで掘り起こすように肉ごと掘り起こすべくその膿溜まり近辺に直接届くはずもなく…いっその事その患部に注射針を衝き立てて膿をちうと吸い取り、針を抜いた後は患部の上から口蓋の甲をぐいぐい指の腹で押しまくって針によって開通せし細穴から一滴残らず膿汁を絞り出す、という難手術に挑みたいがそんな勇気もあるはずもなく、パチンコ玉のような膿溜まりの違和と血管に熱く響く疼痛を口蓋の肉の内奥で意識せざるを得ない状況を様子見している…幅120mmのいかつい拳が全長1200mmのニシキヘビの肉体を尾から順番にドミノ方式で握り締めると10番目の拳がぐっとついに握りしめられた瞬間涙目のニシキヘビのカッと開闢された真っ赤な口蓋から搾り出される遣る瀬無い絶望と憤怒と呪詛の断末魔、牙の穴からヤマカガシよろしく毒液をピッピュと噴霧する異様…あるいは腕の立つ介錯人が実績もありよく研がれた大業物の日本刀ですっぱと首を水平斬りに始末、あまりの切れ味と手練れのため微力の抵抗も無く刀身が肉の組織の細胞の、近江石工のアノウ衆が謂う所の石のメとでもいうべき肉体のメに割って入り、骨肉を切ると言うよりも骨肉に潜む真空を通り過ぎるかのように斬られたために切断面に寸分のずれも生じず瞬時に癒着、そのまま細胞すらも斬られた事に気づかすに活動再開だから一度殺された事も知らぬままへらへらしている…そんな音楽なのだろうか。ノーニューヨーク。寧ろよく錆びた包丁を月曜日の朝に摩天楼の屋上からばらばらっとぶちまける。そして鎌鼬を知らぬニューヨーカーの表皮をつむじの風に紛れて斬り苛むのか。へなへなな非力と研ぎ澄まされた鋭利が両立する様は、凶行の前段階の憤怒も茶番に過ぎなくする冷徹な殺意で以って屠殺を業務するクールに突き放したピンポコノリノリの絶対零度電子リズムもあって、瞳孔開きっ放しの血塗れの傀儡が肉食する雄叫びを物す。最早人間すらも不在の絶望が技術の獣と化する狂いが潤滑する時に凶悪な血が流された歴史でもあった。機械化人間と人間化機械との不毛なる闘争の殺伐であった。ドライな手順が齟齬なく突き進むまっしぐらへの絶望であった…久しぶりに町田康氏の短編集ゴランノスポン(新潮文庫)読了、プロの作家先生の仕事は違うなと感心、いい感じに中原昌也氏の生活表層での凶悪を取り入れておられ、それと町田氏独自の作風とのコラボがいい感じで琴線を掻き鳴らしてくれてゲタゲタ笑った…金子兜太先生のスペシャルをNHKでやっていた…御歳九十四歳で風貌もいまだ丸々して矍鑠、口調も俳句も闊達自在、縄文火焔型土器や日本カモシカの暗がりから吐き出される熱く骨太のげっぷのような句風の健在ぶりに感慨一入、兜太先生は紛れも無い荒凡夫ですよ、小生もかくありたし、などといちいち有りがたく思うているとその後にアレが、「日本のジレンマ」が始まってしまって気味悪いから即刻変えるが、汚れもの見たさでちらちら見てしまうと、コンテンツ、という単語を自然に出演者が嘯くが聞こえ、決定的な嘔吐感を催したのであった…ほざけ、と思った。いい加減オリンピックノイローゼになりそうだ、さっさと終わって欲しいと切に願う。メガショッピングモールでは相変わらず荒んだ母子像がキレていたよ…レジの後の袋詰め場にて、多分小生よりも年下、厚塗り茶髪で眉が轢死した蟷螂の腹から脱出したばかりのハリガネムシのようにくっきり細黒い、踵が高めのブーティを召した母親が冷凍食品や乾麺を袋詰めしながら傍らの小4くらいの娘を視界から除外しながら「そこつっぱらかるから邪魔っ、どけよ、オマエって何か変…クソボケ」と遠目で、くさくさと独り言のように、怒る元気も無いとこれ見よがしに憎悪の倦怠を示して罵倒を吐き棄てる…娘は「どこが変なの…」と小声で反論するが聴いちゃいない女が足早にカツカツ移動するのに俯いてついて行くしかない娘…昨今ではどこにでもあるいつもの光景だ。土鍋の必要性を思いつく。黒釉で見込みは柿釉の、狎れて渋い釉の流れが楽しめる武悪な形態の土鍋を欲す。ショートトラックというのかパシュートというのか失念したが4、5人がスケート場を一斉に競争する競技で着用されているレモンのような色と形のヘルメットが乙。とうとう炬燵の中で汗ばむ季節になったのか。春が…
lydia lunch:guitar and vocal
james chance:sax and vocals
don christensen:drums
robin crutchfield:organ and vocal
gordon stevenson:bass
pat place:slide guitar
jody harris:guitar
ikue mori:drums
bradley field:drums
george scott Ⅲ:bass
adele bertei:acetone organ
arto lindsay:guitar and vocal
sumner crane:guitar and vocal
nancy arien:drums
mark cunningham:bass and vocal
china burg:guitar and vocal
「休載と糞電車」
佐村河内氏の真正のペテン師ぶりにいっそ救われてしまうマイノリティの存在。かつての粘ついたくさくさ感は大分解毒されて来たがあのくさくさ感がオゾン層のように保護してくれたのにそれが無くなったから生活にじりじりと直接するイラつきの紫外線が、覚悟というほど地に足のつかぬ単なる想定内に過ぎぬとはいえ、しかし深刻の度を増すほどの恒常性かというと判然せぬ蓋然性で以てイラつきの余波が納まらぬばかり生活の度毎に励起される始末。建国記念日以来の不調もまた輪をかけて…窓閉めようとカーテン閉めようと耳障りな風鈴の音が聴こえ続ける…リーンリーンリーンリンリンリーーーンリリリンリーンリンリンリンリンリンリンリン風鈴が…最早看過できぬほど深刻な問題と化しつつある…寒風が朝から晩まで四六時中吹きすさぶこの季節、病病云う北風のむせびの鳴り止まなさもさることながらそれに便乗して何処からともなく襲来し、小生の焼き切れそうなまでに過敏になった神経を無神経にきんきんきんきん嫌がらせに爪弾いて頭ねじ切りたくなるほどイラつかせてくる風鈴の高周波が朝から晩まで神経をイラつかせてくるのが…どうしたものか…これが自分の中で問題化したらその暁にはガラス窓に頭ブチ込みたくなるリンリンリンリンリーーーンリリリンリンリンリーンリーンリーンリーンリーンリリンリリンリーンリーンリー――ンリン最も恐れている状況はこうだ…夏、この近所の誰かが涼を求めて貸家の軒先に風鈴を吊るしたと…しかし故あってその貸家を秋には出たが風鈴は吊るされたまま、その貸家は空家廃屋と成り果てて誰も管理せられぬまま風鈴だけは軒先に吊るされたままいつまでもいついつまでも風が吹いたらリンリン鳴り続け…恐ろしいのはこうだ…だから、身動きできず神経が焼き切れそうになり頭かち割って両手を左右の境に突っ込んでもっと分けたくなる無謀なイラつきに前後の見境がなくなるのであって…この音源を探し求めるためダッと一端外に出たが最後、風鈴が見つかるまでこの命が擦り切れて風化するまでそして肉が風化しても怨念だけは漂流し続けながら飽くまでもこの界隈で何もかも捨てて風鈴を探し続け決して家には戻らぬだろう…そうなるのが恐ろしくて気まぐれな風に怯えながら独居していると…神経がより研ぎ澄まされ…外界では風鈴がなっていない時でも頭の中であの甲高い耳障りな音をリーンリンリンリン再生するようになり、風が少しやんで風鈴が鳴るはずも無い時でも風鈴がまさに聴こえてしまう深刻に陥り、耳障りと思うから駄目なんだ、ちと季節外れだがこれは情緒も風情もある音なんだと即席の数寄を決め込んだところで昔日の怨念はごまかしようは無く無性にイラつかせる風鈴の音という存在は変わらない…ちなみに細君もこの風鈴の音は確認しているのでこれは小生の妄想ではない…確かに風鈴はなり続けているのである…割と近くから…しかも実際に鳴っていなくても既に小生の頭の中で成り続けるようにもなり記憶も支配された風鈴地獄が…矢も盾もたまらず怒りと狂いの光背を纏って吾を失いついに外出、しかし外出した途端風がやんで風鈴もやみ、音源不明になるという…馬鹿にしやがっておちょくりやがって…はち切れて玄関の傘立てを蹴り倒す寸前に踏みとどまって再度外出すると奴が高い処からリーンリーンリーンリーンリーンリリリリンリーーンリー――――ンリンリン強弱付けながら、凹凸の激しい地形に密集する家屋の隙間で乱流と化してその音源の方向性は闇雲、あっちから聴こえると思ったらやっぱりこっちから聴こえるという具合に完全に冷静を喪失した小生を翻弄、そこらじゅうの家家の軒先をのぞいて回るれっきとした不審者然として近在を探し荒らしたが、風鈴が見つかるはずはなかった…命すり減らすまで彷徨する事も無くすごすごと帰宅するも、風鈴はまだ鳴っている…もう、ここには住めないのかもしれない…そういう苦しい状況…引っ越しするとしても明日から、というわけにもいかないし、その間は心の内外含めて24時間風鈴に苛まれるわけで…むしゃくしゃが凶悪の度を増す、風鈴のせいで…建国記念日から三日ほど寝込んでいたのは、多分、冷たい台所で背中を冷やしたせいで体調を崩したのだろう、晩御飯、食べようとしたら悪寒に襲われ料理を食そうとしても胸のムカつきがひどくて喉を通らず発熱、という事態に陥り、解熱作用を期待して風邪薬を投与すると熱が下がって悪寒も引いたが食欲不振と倦怠感、胸のムカつきが長引いて寝込むことになったその矢先での出来事が風鈴攻撃なのであった…部屋に独居していると…しばらく風鈴が聴こえなくても…また聴こえるんじゃないか、また鳴るんじゃないか、と奇怪な期待と怯えに心底荒らされながら極度に耳を澄まし、ほら、ああ、くそ、また鳴りやがった、また聴こえた、となり、ここでいう「聴こえた」が実際に聴こえたのか小生の妄想なのか区別つかない処まで苦しく追い込まれ、それを確かめるべく窓を開けてみると案外聴こえなかったり、時に聴こえることで、窓を開けて風鈴が聴くと存外ほっとするがそれはイラつきが最高潮のレベルにある状況での少しの安心であって糞の足しにもならぬ。口内炎も発症していたのであった。下唇の裏側の粘膜が白く爛れ、事あるごとに涙が滲み出るほどに、痛みが鋭く沁みるのであってビタミン剤服用、治りかけた頃、件の事情もあってやけくそで乱暴に前歯を磨いていたら歯ブラシのプラスチックの柄の部分を上顎前歯の上の方の歯茎に勢い余って激しくぶつけ出血、歯肉を鋭く白く抉り、そこが口内炎に化けてまた涙が出るほど痛みが沁みる不幸が…土地柄のためか夜になると風がおさまり風鈴も止んでいる気がする…光にのって音が来るから夜になると光が消えて風鈴が聴こえなくなるのか…そんな馬鹿な、気が触れたか。数日臥せって食も細かったがためもあろうが最終の排泄がいつだったのかも思い出せぬほど苛酷な便秘も併発する…数日かけて存分に苦しんでようやくコルク栓の如き少量の、まさに再生コルクのように堅く圧密された糞を捻り出すのみ…便秘で糞を溜め込んでいると口臭が糞の臭いになる恐れあり、その上…圧密された糞の隙間の狭隘路をガスが縫うように通過する間に糞のスメルをじっくり拾い上げた放屁が間断なく無音ではなたれ、布団の中だから布団が、じっくり温もって饐えた屁で焚き染められる、お香で着物を焚き染めるように…化学分析でやったことがある人なら分かるだろうが、液体クロマトグラフィーやガスクロマトグラフィでのカラム(充填剤)を通過する混合物が分子量の違いに応じて各物質のリテンションタイムで検出されるように、小生自作の糞カラムで分離された各臭気が三々五々放屁される惨め…ベタなアレだが上は洪水下は大火事みたいに胃は空腹で捩じ切れそうだが下腹部は臭い屁と糞でパンパンに膨らみ喰いたいが喰えないで息がきれそうなほど苦しい…緊急事態、最近通じが上々と嘯く細君が電車通勤の効能を説くのでそれにあやかり藁をも掴む、専ら脱糞を目的として電車に乗る事にする。何という滑稽…往復一時間ほど電車で揺られとりわけその登攀の厳しさが有名なせのはち間の揺れは便意を期待させるが、結局期待通りに催すことは無く、無為な乗車だった…それでも、多少は気分が晴れた…久しぶりの晴れの週末、沿線の家家は一斉に洗濯物を干し…しばし風鈴ノイローゼの事を忘れられた。しかし家に戻るとやっぱりリーンリーンリンリンリンリンリンリーンリーーーーーーーーーンリンリリリリン風鈴は鳴りっぱなし、こめかみがぎゅんぎゅんキリキリ痛むが…だが夜になったら風がやみ風鈴も今だけは聴こえない。食欲は恢復したが酒を飲んだらすこぶる不味く感じたから本調子ではないのだろう、断腸の思いでビールを半分流しに捨てる。今はようやく飲めるようになった。まとめるとこうだ。
鳴り止まぬ風鈴探して糞電車
その人への信頼というのは最終的に「この人になら裏切られてもいい」と思える事であろう。
①意味は詩にならない/詩は意味になる
②意味は詩になる/詩は意味にならない
どちらでもよい。
「discharge/hear nothing see nothing say nothing(1982)cmrcd709」
菊の花をばっさり断首する事も辞さぬ近所の孤老の動静から目が離せず折に触れて翁の庭の前を散歩する事もあるのだが此度は上の発句の通り、またしても潔い椿事を垣間見る事となった。久しいばかりの積雪も朝ばかりで午には雪解け水のはしゃぐ音、街中ながら坂の中腹の住まいゆえもあって雪に澄んだ空気を弾く溶水が駆け下りる清冽がきらきらしている…もう、今年一番の「明るいニュース」と言っても過言ではないだろう、佐村河内氏と新垣氏の関係の茶番…損害を蒙る関係当事者はいざ知らず、野次馬ならば手放しで欣然と楽しめる話題であったといえよう…佐村河内氏の作業指示書を図形楽譜の一種と見るならばいわゆるオタマジャクシ五線譜が書けないからといって彼が作曲をしていないとは言えないのは、現代音楽の変遷を少しでも知るならば納得のいく事だろう。どうでもよい話だが共同作曲者として佐村河内氏と新垣氏の両名をクレジットすればよかっただけの話だ。だから、広島市が佐村河内氏から市民賞を剥奪した事は、結局、楽曲の内容ではなく偽造された売れ筋のプレゼンにあやかった、ハエがたかっているから旨かろうと思って遅ればせながらおこぼれに預かる、己の嗅覚を放棄したシデ虫だと己を表明したに等しい。佐村河内氏と新垣氏両名に受賞させればよかっただけである。何はともあれ飛びつきやすい浅慮からすると「ペテン師」という呼称が似合ってしまう事件だったから痛快だった。遅かれ早かれ自分の精神生活にはミラーボールが必要なのは最早既成事実なのであるから非難がましい家人の目を堂堂と等閑に付しつつヴィレバンで直径300mmのミラーボールを購入し、書斎に無事連れて帰った。部屋の中央に吊るしたいが敷設に失敗した時のダメージを考慮し、小生の定位置に正対するカーテンレールにミラーボールを吊るす事に…球体の球面が、それを微分する正方形の鏡でびっしり積分されたそれはそこにあるだけで周囲の景色をメッシュに分解してから元には戻さぬ乱反射を呈して…ミラーボールは精神の化け物である…コミュ障の異物でしかない使徒襲来…後は、スパゲッティ・ナポリタンの食品サンプルが収集できたらば、如何なる魔物が召喚されるのであろう…結局小生は何一つとして言葉を読めていないのではないかという疑念に今更ながら苛まれ、何でもいいが基本文献をきちんと己の血肉にせねば、持続的な、ちょっとやそっとでは成果というのが決して形には現れないような地味な鍛錬の必要性を痛切に思う処、何が基本文献なのかはもう闇雲だがとりあえず広辞苑と聖書と万葉集と神曲を一字一句漏らさず精読する苦行を己に課す…旧約の士師記に出てきたサムソンという荒くれ者の手の付けようの無さは記紀のスサノウを類推させて余りある…ロバの顎の骨をぶん回してぺリシテ人をざっと千人ほど打ち殺したり、その暴虐エピソードの事欠かなさは日の本の荒みの祖神スサノウを想像させる…関係あるんじゃないかと、「類推の魔」(ステファヌ・マラルメ)に突き動かされて半刻ほど拙いアナロギアに没頭する…音韻が似ていると言う事もあって、アルファベットを任意に入れ替えて改字したらこんな感じはどうだろう(改字とは、万葉集を訓読する上での任意的操作のことだが訓読の、ひいては日本語の真髄に触れる「万葉集を読む」事の意味についてはあまりに重要長大ゆえに割愛)…スサノウ→susano→sauson→samson→サムソン。minakerebaiinndakeredomoyaharisakuhinntoshitenodekinikokorohikarete,
korewomitaraminitumasareruhodonodomesutikkunanaijounishouousiteto
rikaesinotukanaidamejiwokoumurutohawakatteinagarakowaimonomitasa
noshoujikigamonohosigenisakibasiriyapparimiteshimattaanosupesharu,
sikasiyosouijounidamejigaookikuitijikanhododegeretunaorinpikkueizou
nikaezaruwoenujoukyounikitukuoikomareta.舟底一枚下の地獄、薄氷を踏む生活、いつ起動するか分かったもんじゃない時限爆弾を抱えての暮らし…えげつない、どぎつい、えぐい、うるさい、不必要に性急な、ドスの効いたキツメの音楽を聴くとある種のケミカルが体に及ぼす緩和の悦楽とでも言うのか、緊張が解れて海洋へとつながるまでのハワイの黄昏水平線までのったりゆったりしたリラックスで「アアァ……………ァ…」「ッフゥゥ……………ゥ…」と、自分が海を創生した神にでもなったかのように大きく一時に吐き出されるのが海だったりするまでのそうした、グッと覚醒した落ち着きというのを、要するにハードコアを車内に大音量で充填すると、そういう事になるのだが…もう、感覚が摩滅しきっているのか…比較的メタル様の音階を駆け上がる構築美を小鳥のようにひらめかすこともあるが回転刃物に異物が挟まった嫌な音を歯軋りするのをマイクに拾う偏執も見せつけ、中心の骨をも肉化してしまった程肉っぽいドラムのどかどか物物しく鳴り止まない暴力が明瞭な、頼りになる音像を台無しに掻き消す運動が不断の処へ、この現場にあっては殆ど見過ごされて然るべき切り傷如きの些細なリズムを辛うじて刻むベースが自ずと聞き捨てならぬ小さい存在感をほぼ壊れたノリへと救い上げる手管はハードコア一般である。首周りの肉が頭の直径よりも当然大きかろう発達した首の筋肉の持ち主らしきからがなられる、むくつけきドス声はメタルのデス声とはまた風趣が異なり、教会内での血飛沫惨劇声ではなく市井の暴力を発してあまりある。まあ、普通のハードコアである。特にハードコアという概念に執心するつもりもないが兎に角こういうの聴かないとやってられない極私的事情である。堪え切れずにジャンクフードを貪ったら口内炎、早速ビタミン剤を服用するとまたいつものように幾分緑がかった蛍光イエローの鮮尿が迸る。ミナケレバイインダケレドモヤハリサクヒントシテノデキニココロヒカレテ、コレヲミタラミニツマサレルホドノドメスティックナナイジョウニショウオウシテトリカエシノツカナイダメージヲコウムルトハワカッテイナガラコワイモノミタサノショウジキガモノホシゲニサキバシリヤッパリミテシマッタアノスペシャル、シカシヨソウイジョウニダメージガオオキクイチジカンホドデゲレツナオリンピックエイソウニキリカエザルヲエヌジョウキョウニキツクオイコマレタ。夜中の午前0時を過ぎると近所の女が大声でJポップ的な歌を外に向かって叫ぶのが耳障りである。
「iggy and the stooges/metallic 2k.o.(1976)cocb-50316」
試しに見てみたが「明日ママがいない」はいったい何が問題なのか分からなかった。子役の演技もさして悪くないし、目くじら立てるほどでもないだろう。本当はこんな薄汚れた捌け口など書きたくない、たとえば御正月も七草粥を終えた頃人出のおさまりを見計らって宮島弥山へぶらり小さな旅、深山渓谷を渡るロープウエーからの絶景や思いの他楽しめる、メインストリートから一つ外れた裏路地の侘びた土産物屋の風情などを淡々と春の調べに乗せて綴りたいが、駄目だった。このまま続ける訳にはいかない生活とこのまま続く筈が無い生活は表裏一体、どちらかを選べばどちらかに転ぶどっち転んでも地獄が煮える汚れた生活の人生、世相においてもこんな極楽続くわけは無い、飢餓、戦争、天変地異で何もかも前提が吹っ飛ぶ不信の渦に没入、戦争など…心底馬鹿馬鹿しい、小島一つ巡って殺し合う事の途方も無い愚など、ちょっと考えれば分かるだろうに…この期に及んで尚陰険なイラツキががんがん鳴り止まぬ不眠の騒音、ぐつぐつ煮詰まるだけ煮詰まった閉塞の鍋底「殺されるんじゃないのか…あの手この手で」、いっそメルトダウンという底抜けの展開に新風を渇望する餌欲しさを愚図る余裕など有りはしない、結局の処、「私は、たばかられたのだ」、と、思い至る率先した怯ダと不安が導火線を焦がす火走りのように早合点を悪い方へ悪い方へと理屈の足場をどんどん設営するものだから、いたたまれない、結局、知行合一ならず、口では格好良さげな批評的な反権力的な事を嘯いていてもその行いは企業や国家の言いなりを一歩踏み止まって自分で考えて判断する事が出来ず個人の金を如何に巻き上げるかというこすい事ばかりに全身全霊使ってシステム化している悪どい企業と法人と国家に、安全安心を餌に、己の命=時間を費やした金を騙し取られたのではないか、という、原油精製の蒸留塔の底に溜まる重油やアスファルトのように納まらない疑念が小生をいまだに苦しめている、はした金と思い切れずに、糞、騙された、分かっているならもっと早く教えてくれたらよかったのに、しかし結局自分の責任であるのは心底分かっているだけに、と罪なき身近な者に八つ当たりしかねぬ惨めが。企業や国家の影で旨い汁吸う連中から、「バカが」とせせら笑われている想像逞しく被害妄想が止まらない(パイプに溜まった蜜の味って奴か)。もう、ネットは絶対に見てはいけない、せいぜいこれを書くために週に一回パソコンを開くのを許すだけに留めないと憎悪と怨念で煮えくり返り、与えられた貴重な時間を、何にも手につかぬほどの切れ上がったイラつきで無駄に無為に費やすのだから、中韓絡みの、堪え処で一念する知恵のない、人間の下層のデマとデッチ上げが本音の特権を乱用して感情のままにぶちまけられるニュースソースの有象無象…尖閣奪取のため人民解放軍が配備完了だと憶測可能だと無茶苦茶いい加減な事を弄すデマゴーグ(いいたいからいっているだけの、底意すらない嘘)…たとえデマだと前置きした処で願望優先だからよく読まれずに、それが書かれた事自体が一人歩きする危うい触発を誘う文言のなすり書き(何度も謂うが解放軍云云は嘘っぱちだ、そういう憶測の見解を「情報」として散布する虚言癖の悪意があるだけだ、何でも「情報化社会だから」情報と名づけさえすればクソでもミソでも特権的に流通させてもらえる…)に右往左往する己の心理の下層に日常をこき混ぜられたくない、愚衆の声などに感知せず英知ある政治指導者が水面下で直接事を納めるべき事を、それがならぬのは相手がどうしようもない愚だからなのか、それともこちらが愚なのか疑心暗鬼、済し崩しで始まった戦争、何でもいいが例えば小生が過去に狂ったように依存症気味に毎週10冊程度買い込んでいたナチュラル雑誌なんぞで紹介されるシャレ乙な古民家カフェなどが(この事情を話すと長いので今日は割愛)核の熱線で刹那消失するを妄想、もうアベノミクスどころじゃない経済の破綻と統制と搾取が日常となり葉山や沖縄で提案されるナチュラルでシャレ乙な生活もぶち壊され小生は狙い撃ちで徴兵や財産没収に遭うのが確実視されるからどうしよう、とりあえず山に逃げなきゃ、なのか、どうせ山狩りで捕獲されるが落ち、後醍醐天皇を読む…日本仏教と神道との混淆状況として各地の寺社に習合や本地垂ジャクの片鱗が垣間見られるがそうした事の最もアクチュアルな形態として独自に発達した修験道が気になるところ、倒幕運動開始前から山伏や異類異形勢力との密通を濃くしていた後醍醐帝の事が忘れられない…南朝の熊野は当然ながら、岡山の児島、ほうき大山、隠岐島と、修験道勢力の本拠地を点々としながら打たれ強く復権を図る後醍醐…明治政府の廃仏毀釈と神仏分離政策により、神仏混合の最たるものだったがゆえに、往時の隆盛を思えば殆ど壊滅的打撃を受けてしまったといえる昨今の修験道勢力…切にその復権を願う…今の処確証が無いはずなのに、国家と法人に金を騙し取られた、と根強くまだ思っている。漫然と国家と法人が垂れ流す雰囲気に流されてうっかり金を払ったが運の尽き、詐欺師のブラックリストに載ったも同然、しかも市井の詐欺師より悪質、権力使って金を一生搾り取ってくる、差し押さえも辞さぬ強力だからだ、「得意げに申請したお前がバカだっただけだ、搾取してくださいとばかりにな、だから、一生搾取してやるよ」へたこいた、罠に嵌まった、と後悔している後の祭りだ、忘れたい。欲得づくから解放されたい。ずいぶん前に買っていたのに、そのままにして、一度も聞いた事が無かったこのアルバムに気づく…もっと早く聴いておくべきだったと…イギー・ポップ。イギー、という、全く余裕の無さそうな粗末な名がまずよいのだが。しかもポップ。音がジャギジャギに金属化するとはこういうことなのか、という事を改めて考えさせられる。引き毟られてささくれ立った、声を絶する絶叫がハウリングすれすれでひたすら耳に痛い狂犬の、涎も黄色く汚れた吼え、演奏も、既にして、時の継起を流れにすり替える欺瞞への告発力が高く、この音の次にはあの音、といった構成を自明とする楽曲という概念がとっくに壊れた跡。ドラムもベースもその場限りでしゃっくりのように思いつきのような粗末を叩き込むだけで、だらけ、ほぐれ切って開きっ離しの殺伐がひたすら刃物の切っ先を鼓膜に向けてくる…何と無計画なドラムであることよ。見せ場から狙撃されるのを恐れるのかそれとも見せ場を狙撃するための周到なのか考えてなぞいないのは確かだがギターも離れた処で小さくクチュクチュッと汚らしく焦付くだけ、という惨めな縮みが…。ナメクジの焼死体のこびり付きのような、ほとんど聴こえないギター演奏がいとおしい。部品が連携して機能する事無く電源を入れた途端爆発して終わった設備の金属屑だが、触ると切り、火傷が必至、ダダの騒音装置がユートピアを迂回せずいきなり現世へ出没した、そんな音楽。エチカが必要だと思い立って書架を探しても無い、実家にあるかもであるが探すのは不可能、丸善に行っても下巻しかない不始末、仕方が無いからネット注文して揃えたスピノザのエチカ。きちんと読みたいが件の通りまだ性根が落ち着かないから読めない、替わりに、読めば読むほど頭が悪く成りそうなナチスの兵器開発の本を読む、V2などのロケットミサイルというのは開発段階で「操縦士のいない飛行機」、と「翼のある砲弾」、という二種の概念に分けられていたため、ゲーリングの下、それの研究機関は二つに分けられていたようだ。シリア情勢を思えばまだ自分の生活はましだ、と、こんな汚らしいことを思わないではやってられないほど狭量に追い込まれている。将来はどうなるか全く分からない。誰かと居酒屋で酒をのみたい。切実に…。サザエさんを見たが波平が出るたびに悲しみがこみ上げ正視できぬ。まだ、波平の死を受け入れられない…鼻の頭に出来物が出来た、よりによってこんな処に…欲しい物を備忘のために。
1.ミラーボール 直径250~300mm←自分の精神生活において、ミラーボールは大きな役割を果たす筈だから身近に置かなければならない。
2.スパゲッティ・ナポリタンの食品サンプル←漫画「犬神もっこす」での名言、麺をフォークで巻き上げた食品サンプルを評しての「永遠のナポリタン感」に触発されて。欲しい。
3.英国のスリップウェア
「嘘も百回言えば真実になる」パウル・ヨーゼフ・ゲッペルス
iggy pop:vocal
james williamson:guitar, vocal
scott thurston:keyboard
ron ashton:bass
scott ashton:drums
marc zermati:mixage
「原爆オナニーズ/five live the 原爆オナニーズ(2003)pzca-14/15」
山吹の爪に詰まりし箱蜜柑
日日蜜柑二つ残して雷きたる
あ、春。雷は「らい」と読んで。私用ながら依頼された別件の長論文を書いていたので精魂尽き果てた。手短に済ます。思えば先週長々と書いたにも関わらず、部屋のカーテンを菜っ切り包丁で袈裟掛けにばっさりやりたくなる凶暴が不穏なのは結局けりがつかぬ靖国のことだけではない。むしろ原爆オナニーズを瞑想のように第三の目=耳で括目するが如く清聴することによるある種健全な、やり場のない怒りのヤイバの手入れが丹念になされていることも意味する。かつて城代家老がいわれなき讒言による御咎めに潔く切腹した伝説が残っていそうな開かずの間の、光を与えられぬその奥の床の間にひっそりと掛けられた抜き身の大小の刀、その静謐なる呪いのぎらつきにまで心が静まってくるのである。この、土足で爆音と絶叫を御す音楽を荒立てるように聴き続けると。結局すっきりと件の蟠り問題と離れることが出来ず仕舞いだった。中韓が世界各国の大使館を通じて「靖国=ナチス」の国際世論作り、もう、ネットとかのそういう断片的なニュースを見て汚い憤りにかき乱されたくない、ネットの有毒を認識してはいてもついつい摘まみ読みしてしまういぎたない中毒の己に辟易する。中韓の、軍備拡張による恐喝とかしましい宣伝戦で領土拡張を図るのはそれこそナチスの常套手段じゃないかと指摘したくなるがそれこそネットやテレビの底辺での中傷合戦と同じレベルの言葉に過ぎないのは分かっているつもりだ。今じゃほとんど人々の記憶に残っていないような小さないざこざのニュース断片の集積がそれこそ粉塵爆発のように戦火の火蓋を切った大戦前の状況を教訓的に思い出し、事態打開には公式声明の断片的ぶつけ合いだけではどうにもなるまい、当事者どうしが膝突き合わせて互いの言論をこね合わせる理屈を超えた泥臭さしかないのも分かっている。相手がいることではあるが…。肉の音か骨の音か皮の音かと問うならばこれは肉の音。むくつけき醜男たちのぶよぶよの土の音が超高速のどろどろ(歌舞伎などで怪奇を前触れする太鼓の持続音)膨大巨躯の岩が無鉄砲に彷徨する極低音のうねりと過剰に音数が多い圧密の嵐の暴走でほとんど真っ黒に掻き消されながら微かに毛筋ほどのリズムが割れ目のように、それこそ聴く者の背骨に乗り移って激しくのたうつ。名は体を表さなくてもよい出鱈目な軽薄がロックバンドというものであるが、如何に「GO!GO!枯葉作戦!GO!GO!サリドマイド!」などといったえげつない歌詞を絶叫しようとも、その音楽がロックにおける身も蓋も無い誠実をずどんと貫いているから、不謹慎極まりないバンド名であっても、全く構わない。むしろ相応しいくらいに思える。血が溢れる肉塊の通った音、逞しい肉声の、いかついビートである。もう、この音楽に対して、ハードロックとかハードコアとか名指しすることに何の意味もないだろう。こういう音楽をやる人は切れるような神経質の気性の激しさというよりも、普段の温厚な人柄が忍ばれる。ああ、またか、また、やっていた、テレビで、「集団行動」今度は小学生スペシャル。気が狂いそうだ。集団行動の当事者と関係者からは公民権を剥奪して奴隷階級に落とすべきだと真剣に思っている。奴隷に成りたくて仕方がない潜在的人格奴隷には適材適所、いっそのこと社会的階級奴隷を新設してそこに放り込むべきだ。人民総奴隷化の資本民主主義のプラトー状況よりも、市民と奴隷との階級的差別を峻別する体制のほうがましに思える。古代と違って奴隷階級を世襲的に固定化しなければ問題ない。体育会系人間など潜在的人格奴隷の候補はあまた居るがまずは手始めに集団行動と三十人三十一脚の関係者から基本的人権、生存権及び公民権を剥奪せよ。どこかの軒先に風鈴が吊るしっぱなしで風が吹き続けるこの季節だから朝から晩までリンリンリンリンいつまでもうるさくてむしゃくしゃする。自分の努力ではどうにもならない領域で不安を広げて懊悩する癖を直したい。いつかきっとろくなことにならない。
気の滅入る言葉を一つ上げておこう。
「組織―それは理論と実践をつなぐ形式である」(ジョルジュ・ルカーチ)
もう一つおまけに、いっそ清々しい言葉を。
「『文化』という言葉を聞くと、私は拳銃を抜く」(アドルフ・ヒトラー)
皮肉なことにこの言葉の、何と文化的なことか。
昨日のタモリ倶楽部の名言。
「戦場はただの広場じゃない、地形だよ」
ここまで書いて、耳たぶが千切れそうなほど真っ赤に充血、頭に血が上る。
喉が渇いたのでほうじ茶を煮る。古書店で後学のため、広重の浮世絵を一枚買っておいた。東海道五十三次の赤坂。宿屋の蘇鉄と、縁側でくつろぐ酔っ払いの取り合わせが見所。
taylow:vox
eddie:bass gtr, vox
johnny:drs
shinobu:gtr
ken:gtr