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 ロック史を体系的議論から解き放ちながら、サイケデリアの土着性とハードロックの非継承性を論ずる。主要1000タイトル、20年計画、週1回更新のプログ形式。
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また休載

別れと出会いの季節と云えどこの年になると、年のせいではなく己の人望のなさのせいなのだろうが、出会いはなく別ればかりが立て続く…そんな中でも悦ばしい再会の約束が現実味を帯びる僥倖もあったが…細君が、世界最高峰のロックバンド、デキシード・ザ・エモンズを聴きたがるので数年ぶりに、高校時代から激しく酷使していたCDラジカセにロイヤルラウンジをかけると…どういう訳か音量がどんどん大きくなって、どんなに音量つまみを小さくしてもだんだんと時の経過で音量が勝手に大きくなって果ては爆音になって耳をつんざくという暴走ぶりを示し、電流の制御系が完全にイカレタのか、此のラジカセともお別れが近いのかなと憔悴しつつ、これはこれでアリなのかなという滑稽で意表を衝く、さんざんロックを再生して来たCDラジカセらしいド派手な、手の付けられない終わり方に納得の、不幸中の幸い…取り壊し間近のホテルの、60年代に流行った回転レストランでリーズナブルな熟成肉ステーキをいただきながら屋上が汚い街並みをゆっくり、しかし時折モーターがぎくしゃくして回転しながら眺めていた事が何らかの因果で繋がっているのか(古いCDラジカセ⇒解体間近の古い回転レストラン。回転のアナロジー。更に、ラジカセにセットした『ロイヤルラウンジ』⇒夜にはラウンジに変貌する、ホテル最上階の回転レストラン。ラウンジのアナロジー)…今回も時間が取れず休載…4/1もゆえあって恐らく休載で、次回は4/8と思われる。

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椿事…

車の何たるかを細君に知ってもらうために久しぶりにボンネットを開けて点検しようとしたらエンジンルームの片隅に何故か柿が熟して挟まっておる、と云う摩訶不思議の椿事に出くわして心の納まり処が付かず…全くわけが分からない、近所の小動物の仕業なのか、あるいは身に覚えはないが巧妙な悪意なのか、しかし複雑に機械や配管が入り組んだエンジン回りに青黒赤く挟まっていた熟柿は、辛うじて皮が破れる事無かったから、中身が滴って電気系を破損するような惨事に至る事は無かったのは不幸中の幸いであろうが…体調不良、健康不安が重なっており…あまり長くは書けない状況…大正の無政府演歌師添田亜蝉坊ならば、勝った勝った朝日が勝った勝って兜の緒を締めよ、と歌うところだろうが…今後どの程度まで事態の究明が続くのか、ようやっと内閣支持率3割まで暴落してくれたと云う幸先のいい国民の後押しに乗って、何処まで追撃できるか、野党と佐川氏次第…佐川氏が全ての責任が自分にあると認めようが認めまいが、此の好機を逃さずに、大目的である国家主義勢力の思想的否定を国民に定着させるために追撃の手を弱めてはならないだろう…財務官僚の証人喚問と云えばノーパンしゃぶしゃぶが記憶に新しいが…仮に佐川氏が官邸からの指示を明言すれば事は簡単であるが、たとえ其れを否定し己が全責任をかぶったとしても、財務官僚が違法行為に手を染めてまで何を守ろうとしたかは衆目一致する処として、即ち総理安部なのだから、此れこそ、いわゆる道義的責任としての政治責任が総理安部に対して国会の場で問われてしかるべきであろう…要するに、仮に官僚が忖度して違法行為したとしても、忖度された政治権力者には罪は無い、と云う、結果的に政権におもねる論調が俄かに蠢動しているが…此の論調は問題の構造を法律の範疇内に矮小化する欺瞞に過ぎず…しかるに此の問題は行政が国会を欺いたと云う意味で、法律の基礎たる憲法の基礎たる国民主権が国会の場で行政府によって欺かれたのだから…国会と云う立法府において要求されるのは既成の法律に対する遵法行為に留まるものではなく…立法府は文字通り法律を作り、法律を承認する国権の最高機関なのだから、立法府では、市民に課せられた遵法行為よりもより高次の、道義的責任が政治的に論議され、判断されないといけないのである…要するに立法府の道義が誤っておれば、国民主権と基本的人権を排除した悪法が幾らでも成立するのだから、国民主権と基本的人権を第一とする道義的責任が、法律云々よりもはるかに高次において、国会には存するのである…不倫云々などといった、法律にも引っかからないような当事者同士の事に過ぎず公的ではない低俗な問題には国会議員の道義的責任のへったくれもないが、仮に権力者が醸成した無形の雰囲気的圧力によって、官僚が違法行為をしてまで其の権力者の保身に加担せざるを得ないような状況が当の権力者と、其の権力者が日頃発する政治思想によって醸成されていたとしたら、其の全体主義的圧力の中心としての権力者が、立法府自らによって批判されなければならないのが道理であり、そうした立法府の議論の是非を最終判断するのが、他ならぬ主権者国民である事を忘れてはなるまい…従って、佐川氏が全責任を認めたとしても、其れで事態を幕引きにする、国家主義に都合のいい論調になびく政治的正当的根拠は皆無と見なさなければならず、あくまでも高度に政治的問題だからこそ、国権の最高機関である国会で徹底的に究明するべき政治的正当性が存在すると見なさなければならないのである…其の過程でこそ、国会の場において、政権安部による悪意と人間的未熟が為せる国家主義を論理的に実際的に徹底批判に晒し、此の思想が公的なものになり得ない私利私欲の権化である化けの皮が剥がされてしかるべきであろう…国家主義が何故公的になり得ない私利私欲なのかは過去に論述したが…国家主義が人間的未熟の結果であることは何故か、は後日に詳述したい…NHKの人体スペシャルでの生命誕生の不思議を視聴するが…国家主義政権安部とは畢竟、奇跡のようにして生まれた生命というものを大切にしない政権なのである…其れは、無念の自殺者を引き起こした事だけを云っているのではなく、思想的に本質的に、政権安部は生命の奇跡の価値を蔑ろにする輩である事を、主権者全般は本質的に理解しなければならないのである…。

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中休み…

結局…己の小さな欲が仇となる恐れが現実化する可能性は、現時点ではひとまず減少したものの、しかしまだ予断は許されない、最低でもあと一週間は緊張を以て日々過ごさねばならぬ状況であり…従って諸事に関して腹を据えた文章を書く余裕がないと云えばないがそんな余裕など幾ら待っても確保できるものではない、煎じ詰めれば己の肚づもり一つで決まるものなのは重々承知してはいても、…

とは言え此の処動きが先鋭化して来た政局…また応仁の乱程度に曖昧な形で勝敗つかず混迷を極めるのかと思っていたら事態が一気に先鋭化して天下分け目の関ヶ原になったから一市民の小生としても動悸なしには報道を見られない…森友問題で国会に提出した公文書が原本とは異なる形で、国会用(野党と国民を欺く用)に改竄されていた、そして恐らく軽微なてにをはの修正に留まらない、内容的隠蔽を意図的に行ったと云わざるを得ない改竄がなされたと云う朝日の報道を皮切りにして、公文書改竄が事実ならば官僚ぐるみの犯罪となる上、近畿財務局の担当者の方が自殺と云う事まであったから一挙に抜き差しならぬ事態に陥り…これはもう、政権安部vs朝日の、ヤルかヤラレルかの決闘になってしまった、と思いを致し…

仮に報道が事実ならばまた一つ政権へのダメージは大きくなるだろうと云うよりも、此の問題の根深さが改めて白日に晒される事になろうし、もしも朝日の誤報だとしたら寧ろ此方のダメージの方が計り知れない、とりわけ朝日は慰安婦問題の吉田証言と云う、政権安部に付け込まれるきっかけとなった失態も記憶に新しいから此れで二回目となる事から朝日否定を政権が正当化する大きな根拠となって、其の事が齎す結果に暗澹たる気分が生じたが…要するに、小生の見立てでは…此の報道が事実であったと政権が認めたとしても、此れまで此の政権安部はとことん国民主権と基本的人権を否定する言動を法案の形で現実化させてきながらも、一向に支持率が減らなかった現実から云えば、国民の隷属状況の慢性化が徹底されていると云えるので、此の事件でさえも政権への損傷は軽微で、しばらく経てば直ぐ回復するだろう、情けない事に、と云う予測は苦々しくも成立するが…しかし政権が此の報道を事実だと認めない、あるいは朝日が衆目一致できる明確な証拠を示しえない、あるいは朝日の誤報だった事が立証されてしまえば、其れこそ悪夢であり…先述のように政権安部は朝日潰しの大義名分を得るし、そうなれば朝日の社長辞任程度で収まればいいが…政権と云えど現行憲法では恣意的に報道機関の一つを御取り潰しに出来る法的根拠は無いから政権安部による朝日潰しへの扇動が声高になる事は有り得ても、朝日が即座に政権によって具体的に会社として潰される事は無いとは云え仮に朝日が潰れたとしても朝日の屍を超えて毎日新聞と東京新聞が頑張ればいいと思ってはいたがしかし…

想定される最悪な事は、朝日一社の壊滅に留まらず…此の件を機に国民主権否定主義の国家主義政権安部は、朝日の誤報を、国会を空転させ国民に混乱を招いた罪として断罪して朝日非難の一大キャンペーンを張る事で、一般的な報道の自由や言論の自由に対して国家権力が制限を加える正当性を公言し、憲法21条の表現の自由を公益の名の下に破壊する方向に着手する、と云うシナリオが、此の抜き差しならぬ死闘の結果次第では現実になるのだから、本当に朝日は大丈夫なのか、確たる証拠を掴んでいるのか、もしそうでないなら本当の意味で此の国の言論は死ぬぞ、と云う危機感が嵩じて頭が赤熱し…しかしこうなってしまってはもう生きるか死ぬかの、否、政権が負ければ政権は多少の怪我程度で済むが朝日が負ければ本当の意味で此の国の言論が死ぬ公算が高いのだから朝日あるいは未だ奴隷化していない市民一般にとっては実に分が悪い勝負だなと胸苦しく無力に懊悩せざるを得ず…だから小生は、早速自民の一部は財務省の曖昧戦術を棚に上げて朝日に対して証拠を出してみろよと挑発しているが朝日は挑発に乗って絶対に現時点では切り札の証拠文書を公開してはならない、もし其の切り札を出しても政権が其れをぐうの音も出ぬ証拠だと認めなければ右翼勢力が朝日の誤報と断じて報道の自由ひいては表現の自由を破壊する正当性、あるいは自分ら右翼勢力とは意見が異なる者らの言論を封殺する正当性を奉ずるからだ…従って此度の決闘は、先に刀を抜いた方が負け、だから朝日は何を云われようが絶対に真剣を鞘から抜くな、と心の中で大声で叫んでいた矢先…

毎日新聞系列が、財務省が文書書き換えを認める方向との速報を出したので、容易には信じられぬ、国家権力がおいそれと弱みを見せるものなのか、しかし、既に大阪地検が原本を押収しているとの事でさすがに地検まで巻き込んでの隠蔽工作は政府と云えど不可能だからいずれ司直によって暴かれると観念したのか、そうこうする内にNHKまでも同様の内容を報じたから、朝日の大敗⇒国家権力による言論弾圧正当化攻勢、と云う最悪のシナリオだけは避けられる一縷の望みが生じたが…さすがに朝日は無思慮に切り札の証拠文書を示さなかったようだし、全ては明日の財務省の発表次第である…固唾を飲んで推移を見守るしかないが…ハラハラ、ドキドキが止まぬ…早くも自民は、改竄ではなく訂正だ、などと云う小賢しい妄言を悪びれもせずのたまい事態を矮小化しようと、土俵際でのウッチャリばりにしぶとい抵抗を示しているから、予断は許さない状況…こうした妄言虚言が罷り通ると自民が思い込めるのは株価が2万円台で為替が1ドル=100円台である限りは自分らが何をやろうが選挙には勝てると踏んでいるからだが…前局長佐川の虚言の辻褄を合わせするために、一度決裁した文書に対して、国会提出用に次々と改竄を重ねた事は国会を欺き主権者国民を欺く事に他ならない…そうした背信行為に対して組織ぐるみで加担させたのは当然ながら組織末端への自発性の強制(=忖度)に留まらない、明確なる権力上層部からの指令でないと有り得ないのだから、疑獄の標的は自ずと上へ上へと定まるだろう。

そしてついに恐れていた悲劇が、起きてはならぬ事が起きてしまったのである…自殺者が出てしまい、尚且つ朝日の誤報だと断罪されてしまえば其の自殺さえもヒステリックな妄言が強弁されて朝日のせいにされてしまいかねない、そして言論弾圧の正当化の波に対して歯止めの効かぬ勢いを与えてしまう事になったわけだが…財務省が文書改竄を認めれば其の勢いの根拠は多少なりとも失墜するだろうが…しかし、此の、恐れていた懸念の内情に対する分析については、過去の以下のリンクの文章の後半に詳述しておいた。懸念が現実にならなければよいがと思ってはいたが…無念の手遅れであった。結局、以下のリンクの後半で分析したメカニズムによって、いくら忠義を示そうとも、末端の担当者が権力による使い捨てに供されるのである…。唐突に辞任に追い込まれた前理財局長とて、其の捨て駒的被害者の一人に過ぎない。仮に首相安部が直接指示して森友に加担したのではなくても、そうした忖度を、自発性を強制させたのは権力の中心安部であるのは明白であって、権力の運用を思想的に根本的に誤っているが故にかような取り返しの付かぬ犠牲者を出した責任が、首相安部には存するのであるが…そもそもそんな責任を率先して痛感する国民思いの人間が、権力の運用を誤る事で無念の思いを抱えた自殺者を誘発する事は無いのである…。もっと云えば自殺者を出した責任は政権安部にあると云うよりも、政権安部を支持した有権者にあるだろう。

2017年12月24日の記事↓

日本の権力とは、責任を取らない権力である。

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今週休載…

己の下らぬ小さな欲が仇となって日常の平穏を破壊に導く不穏の暗雲が濃厚となり…不安と怯えで何も手に付かぬ神経的恐慌状態が…此方を慮る繊細な配慮など微塵も期待できない相手の気まぐれな思惑次第に委ねられている己の無力感が嵩じる殺伐とした焦燥が徒に己の過敏な神経をずたずたに傷つける出口の無い無限の怯懦に悶えて…恐らくそんな状況が3月半ばまでは続き、其れをしのげれば後は何とかなると思われるが取り敢えず今週は休載…次回は3/11です…2月末日は利休居士の命日…其の事と何か繋がるのか…先週細君が実家に帰ったので無聊を託つため其の隙にまた風立ちぬを借りて3回はじっくり視聴してしまったから、思いが改めて高まり、ひこうき雲の歌詞を半紙にしたためたりして、其の歌詞内容からして、奇しくも利休居士の供養にもふさわしかろう…

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兜太忌

何とか其の日其の日に通底する諸問題を誤魔化し、やり過ごして来たが事此処に至っては誤魔化しが効かなくなる事態が、恐れていた通りに顕在化し、諸問題との真っ向対峙を余儀なくされる…其れが戌年なのか、だから戌年は嫌なんだとつくづく思い知らされるのは…小生自身の心身のみならず近しき者たちにも何かしらの大きい変化が此の処一人ならず顕著であったからなのだが…就中小生にあってみれば…右上奥の、20年以上前に地元のへたくそ歯医者にさんざんいじくられた挙句ほぼ原形を止めていない銀歯の奥の歯根と神経の廻りに膿が滞留し、歯根が埋まった顎骨をも溶かしつつある病態が数か月前にX線写真によって発覚していたが…此れまでは膿が溜まってはいても不思議と痛みは無かったのもあり、加えて其の他にも担当歯医者一休(あだ名)との、端的には云い尽くせぬ兼ね合いもあって治療を保留としていたが最近嫌な感じの疼痛を覚え始めたからいよいよ治療せねば不味い状態になり…と云う顛末にも向き合う事になり、更に追い討ちをかけるように右下奥の親不知の傾きによる磨き残しによる歯石が原因で其の親不知の手前の臼歯が虫歯に侵されて虫歯領域が神経に到達する寸前でもある、そして此れを治療するためにはまず親不知を抜いて、其れによる顎の腫れ上がりが収まるのを待ってようやく親不知手前の歯の治療が開始できると云うやっかいな状況でもあり…恐らく他の親不知の手前の歯も同じ事情で虫歯に侵されている可能性は高くて気が遠く、暗澹たる思いだが…更に愚かしい事に、1週間前にカルビーのスナック菓子を莫迦食いしたせいでまたぞろ例の口内炎も再発したから、口の中の痛みが潜在顕在問わず全て増幅されている苦しみは情けなく、辛いもので…しかし兎に角小生の歯医者事情の実情や其の来歴を語るには本腰を入れた一稿を要するから今日は割愛しつつ…膿が溜まった歯茎の奥が、本格的に疼きつつ…カーリング日本女子の声というのは女性の声の中でもとりわけ耳障りな部類であり…一瞬でも耳に入れば不快と苛立ちに襲われるからさっさと終わって欲しい…と云うよりか、オリンピックには心底辟易で、反吐が出て来る…一人で滑ったり三人で滑ったり大勢で滑ったり短く滑ったり長く滑ったり、おんなじような事を手を変え品を変えて一体何が面白いのか…オリンピックなんぞよりもプロ野球の日南・沖縄キャンプ情報の方が遥かに大事だと云うのが分からないのだろうか。

2月20日、小生が尊敬して止まぬ俳人金子兜太先生が御年98歳にて永眠され…御高齢故日頃から気にかけていたといいながら訃報と云うのはそうした常日頃の気に掛けが失念された刹那に限って届く物であり…大往生ながらも慙愧に堪えぬ…晩年は「アベ政治を許さない」と大書した揮毫で書家としても名を馳せ、安保法制の時宜を逃さない往年の政治姿勢が書においても健在であられたのは頼もしくも、其の何の捻りも無い文句が無邪気にも感ぜられる諧謔に、意図的なのか俳味が滲むのであるが…やはり兜太先生の本業=俳業こそが故人を讃えるに相応しく…時に雄大な景を吐く(歌は「詠む」、句は「吐く」、と云うべき)事はあっても花鳥諷詠政経風俗を俳に転ずる俳諧は大を為すに小粒を以て任ずる美徳に収まりがちではあって…談林を経て蕉翁以来、雅を以て俗を為し俗を以て雅を為す俳の美学からの逸脱は子規以降、さしたる成功を収める事は無かった…無論、子規が打った「写生」の杭の縄張りに、「花鳥諷詠」の基礎を張った虚子以降の近代俳句は、江戸時代には到底考えられなかった諸子百家の態を俳壇に開かせ…碧梧桐、山頭火、放哉、三鬼と云った異能が輩出されつつ楸邨や蛇笏はよく本流を守ったとも云えるが…しかし其の中にあって「戦後最大の俳人」と云えるのは、金子兜太ただ一人であったと回顧したい…前述のように小を以て大を覆すのが俳句の本領ではあったが、兜太先生においては其の定説を飄々と覆し、不敵にも俳そのものを大きく構えて、大きい「社会」との等身大の格闘をも辞さぬ俳風を確立したのである…即ち品のいい俳壇の中では、場違いにもゴジラ対キングギドラ的な荒々しい様相を呈しており(一茶に「荒凡夫」を見た兜太の真骨頂)、兜太先生以前にもいわゆる社会派を以て任ずる俳人は居たが兜太先生に比べるとせいぜいが一寸法師の鬼退治の小粒に過ぎず…しかるに金子先生の俳の大きさとは、其の所以とは…戦争体験を核としながら時の政治と真っ向対峙する気概横溢のままに、政治とはかくあるべしとの骨太の大局観が肝に据わっているからで、そしてそうした独立不羈の思想、尚且つままならぬ人間味を知り尽くしたラブレー的大きさの思想は、和漢の学芸は云うに及ばずいっその事縄文にまで遡る貪欲な裾の広さと根深さによってしっかり支えられているから、豊穣に吐き出される秀句の数々は、縄文人が狩りで捕えたばかりの猪の血腥い吐息の傍らで火焔式縄文土器がぐつぐつとどんぐりか何かを煮炊きしている賑やかさと現代社会と政治の諸問題のざわめきと和漢洋の文化の声、さんざめく市井の人々の生活音と素っ頓狂な自然の顕れが混然として生き生きとやかましく打ち寄せる、前代未聞に大きい門構えの俳句なのである…蕉翁以来、静寂を尊ぶ伝統が半ば不文律のように蔓延した俳句だが、兜太先生の俳句は実に騒然として、豪放なる生臭い笑いと共に、政治と社会と美と生活が打ち寄せる自然の息吹を奔流させるのである。俳句における、俳の本質を忘れた些末な御稽古規則(季語とか5・7・5とか)なんぞに基本的に無頓着だから有季定型や無季自由律といった概念に囚われず、ましてや自信が無い承認欲求に苛まれた前衛特有の卑屈に陥る事も無い確立した自我だから、野放図な神経の幅広い鋭敏を以て政治も思想も美も人間も歴史も生のまま丸ごと生かして句に吐いて、本質的な素朴さが社会と文化の欺瞞を暴くぶっきらぼうな野生の本質をぬうっと、夜中に出くわした牛のように露出させながら、自ずから己こそが本流ならんとして堂に入る野太い率直さだからこそ、戦後最大の俳人にして戦後俳壇の巨人であったと銘されてしかるべきなのである。思い返せば蕉風の衣鉢を継ぐと称する者は多けれど、蕪村の俳を不連続的に勃発させ得た俳人は兜太のみであり、たとえ子規が蕪村を憧憬しても其の小器故に至らないならば、唯一金子兜太のみが蕪村の器を髣髴するに足る俳人であった。蕪村を社会化すれば兜太であろう。そして今や、満天のざわめきと共に、燦然たる巨星が大声を咆哮しながら空に揚がった。

抱けば熟れいて夭夭の桃肩に昴    金子兜太

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本日休載…

いつでも危険水域の人生苦の問題が噴出し…次回は2/25です。

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細君 焦熱のワンマンリサイタル ~日本戦後歌謡史「絶唱」~

先月の、1月下旬某日…基本的に歌わない小生との生活様式がある種の抑圧を伴ったのか、長年にわたり歌いたい欲求が堪え難く充満した細君が遂に発奮して怒りのカラオケ行きを決意…限られた時間の中で出来るだけ沢山歌うために、小生のリクエストも少し加えて、予め歌いたい曲目リストを作成すれば占めて全34曲、自ずと戦後歌謡史の態を示し…満を持してカラオケ屋に乗り込む…歌わない小生の主な役割は、間断なく次々と、日馬富士が貴の岩を殴るのに使ったと云う伝説のゴツいタブレット端末を、元来乏しいIT的野性の勘で駆使しつつ、無駄な間が空かぬよう、どんどん歌えるように予定の曲目を間髪入れず検索して予約する事だが…其れに加えて、各楽曲を2番まで歌っていては2時間のルームチャージでは収まらないので、基本的には細君が1番を歌い終えた処で速やかに演奏を停止させる操作も必要もあるし、しかし細君の調子が上がって2番まで歌いたい様子を察知すれば停止ボタンを押さずに2番まで歌わせないといけない、そうした人間的判断も要求されつつ…更に細君の歌い出しの様子を聴いて、このままでは原曲の音程に合わせるのが困難と判断すればすかさず歌い易いように♯や♭などを押して曲の音程を調整してやったり…場を盛り上げるために持参したビブラスラップで合いの手を入れる、歌い終われば拍手やブラボーも怠らない、などと云った芸当もやってのけ…こうした作業を同時並行でやっていたから、取り敢えず注文した、尋常ならざる山盛りのフライドポテトに手を伸ばす暇も無く、歌い手同様半ば汗だくになりながら気が休まる間も無く黒子役に徹し…見事に炎のリサイタルを予定通り完遂したのであった。機種はジョイサウンド。下記の全曲目がきちんと収録されていたし、ヴォイスサポート付きと云うのか、本家の歌手の歌声も流れているのもあるから、其れに合わせて自分が歌えば何となく自分が其の歌手になったかのように気持ちよく歌える便利な機能も途中で発見されれば、其れを選択する気配りも必要にはなった。

話は変わるが鑑定団の中島先生の世紀の誤鑑定と云われる天目茶碗…素人目にも明らかに贋物の土産物なのに中島先生がどうした訳か眼力の衰えのせいなのか本物認定してしまった贋天目茶碗は、今も健在である中国人陶芸家の作品である事で衆目一致しており、しかしテレ東は例によって番組独自の判断と云う事で誤鑑定である事は認めていないが…其の件の贋天目茶碗が、種々の伝手を経て何故かへうげものの山田先生の処にやって来ているとの由…数奇な運命なのか。それはさておき、やはり本物の九谷の皿や、揃いの九谷の湯呑が欲しいものである。

ピョンヤンもといピョンチャン冬季オリンピック…聖火台を、李朝の白磁の壺から聖火が燃える見立てにしている、其の創意はよい…あのなまめかしい白磁の名品「月の壺」は確かに雪で覆われた会場の中で凛とした佇まいを与えてくれるだろうが…しかし日本人ならば、いっその事、巨大な井戸茶碗を聖火台にして欲しかったと思ってしまうが…

北朝鮮の現体制を以下の事柄によって肯定するものではないが…其れに付けても北朝鮮の軍事パレードの度に小生を魅力的に惹きつけて止まぬのは…ピョンヤンの青空にぷかぷか浮かぶ、北朝鮮国旗をプリントしたアドバルーンの、何とも丸っこくて可愛らしい様子であって…たとえ其の下を行く、ミサイルやら戦車やら、これもまた独創的と云わざるを得ない独特のスタイルを確立した、無駄に気忙しく高速で角角した、マルセル・デュシャンやジョルジュ・ブラックを髣髴とさせる前衛的行進が軍事的緊張を先鋭化させようとも…どうにもあの北朝鮮国旗のアドバルーンは、実に能天気に間が抜けて愛らしいのである。もっと云えば朝鮮労働党の紋章では、共産党伝統のハンマーと鎌の組み合わせに加えて、中央に万年筆を屹立させているが…此れは恐らく実質的には党中央の指導力を表象しているにしても、北朝鮮体制の現実を捨象すれば工場労働者と農民との協力体制を言論の自由の下に希求する表象としても想起されるから、単純にあの紋章の図像としての創意は高いと云わざるを得ないのである、専ら美意識の観点からすれば…。

北朝鮮楽団が資本主義国韓国で持て囃されるのは…「共産主義型独裁体制と、其の体制下で許容される伝統的美学を今に伝える」「負の世界遺産としての北朝鮮」に対して、珍奇なものを求める好奇心もある程度はあるのだろう…共産主義型独裁体制と其の美学は、かつてはソ連や東欧、中国で健在だったが、其の二つがある程度純粋に、伝統的様相で伝承されているのは今や北朝鮮一国になってしまったのが現実であろう…そんな北朝鮮でも、ディズニーやら軍服風ミニスカートといった多少の資本主義的「開放」で息抜き的に「チラ見せ」するのが最近は顕著だが、其れでも総体としては古風な振り付けに代表されるように伝統的共産主義的抑制が冷厳に効いている故に、資本主義的下衆な云い方すれば、むしろそそる、といった情念を掻き立てるのであろう…通俗的なSM(サドとマゾ)ショーである…



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服喪を終えた焦燥…

結局此の一週間…へうげものの完結に対する喪中と云えば聞こえは良いが…事の次第は単なる自堕落な成り行きで、既刊の、既に十分隅々まで知悉している物語の中からお気に入りの箇所を反芻するようにして遡って摘み読んで行く内に気が付いたら全25服を数往復も読み返してしまうと云う…新しく得た知見など何も無い幸福な自堕落に陥ってしまい…さすがに此処に来てもう、へうげものには一旦飽きてしまい…無論、此の作品が凡百の漫画のように使い捨てされる読み物には収まらないのは十分認識しているとは云え…同じ事情として、乗り鉄の人が、廃線が決まった路線の廃線日の一週間前に現地入りして廃線日の最終列車まで何度も何度も運行ダイヤ上可能な限り往復した挙句、さすがにもう此の路線はいいや、と、飽きて諦めがつくまで乗り尽くしてから廃線日を迎える、と云う話が思い浮かぶが…兎に角この先を生きなければならぬ現実に、ようやく対峙する気分である…それで一旦改めて対峙してみると、此の一週間、思想的に何ら新しい前進を得られなかった事に対して、そんな事している場合ではないのに、と、無様な悔恨がぶり返してくる焦燥で、わなわなと取るもの手に付かず…マンジット・クマールの「量子革命」と云う読み物は確かに面白く…そもそもプランクに次いで、光電効果を説明する理論として光量子仮説を逸早く提唱したアインシュタインは量子力学の開祖の一人であるにも関わらず…ハイゼンベルクが発明しボーアが物理的意味をまとめ上げパウリが精査した量子力学の定説である処の…位置と運動量の不確定性、測定者(測定機器)次第で粒子的性質を表出すれば波動的性質も表出する、測定者と測定対象との相互作用の不可避性、そして其れによる因果律の否定、物理的実在の否定(客体の否定)、…といったいわゆるコペンハーゲン解釈に対して、アインシュタインは創意溢れる思考実験を繰り出しては疑義を突き付け、敢然と執拗に立ちはだかる…其の度にボーアらはアインシュタインへの反論を練り上げれば、またアインシュタインが創意溢れる卓抜な視点を繰り出し、コペンハーゲン解釈を突き崩そうとする…と云う過程を繰り返す事で、量子力学が理論として鍛錬されるその過程のスリリングさと、そして何よりも、己が其の創始に一役買った量子論を継承し定説化しようとする、当時でさえほぼ物理学の主流を勝ち得ていた早熟の天才たちに対して、ある意味古典物理学を代表する最後の壁の役割を引き受けて立ちはだかるアインシュタインが繰り出す思考実験の、老獪なまでに意表を衝く創意が実にスリリングで目頭が熱くなるにしても…こうした物語に浸っている場合では、本当は無くて、…ここで詳細を開陳出来ないが小生が目下抱える問題としては固有名詞の取り扱い方であって、此れさえ突破できれば後は何とかなると云う目算があるのだが…無論、山田なら山田、とか、固有名詞を書くことは出来るし、あるいは、いわゆる物語形式の中で固有名詞を「リアル」に「表現」する事も出来るのだが、そういう事ではなくって、まあ詳細は此処では云えないにしても…線形代数の行列の基礎で固有値、固有方程式と云うのがあるから其れが固有名詞と何か関係は無いかと思って、其れだけ読めば実に突拍子も無い話と思われようが小生の腹案では勝算があっての事で…固有値と固有方程式の定義式を眺め続けるが未だ何も掴めず…己の低能を呪うしかないのか、と、またぞろ焦燥がこみ上げて来る…例の本によると…ハイゼンベルクは自分が行列による量子力学=行列力学を創始したにも関わらず、当時は「行列」を知らなかったと云う…電子の不連続なエネルギー遷移の組み合わせを縦横に全て書き出して丸ごと考察を進めて行く内に…p×qとq×pが異なる結果となり、そしてひいては此の結果が不確定性の表現となる確信を得たのだが、しかし、p×qとq×pが異なるなどと云う事は数学的にありうるのか、分からなかったらしい…しかし此の疑問点を除けば、あらゆる量子現象を正確に記述できる事が分かったので論文にまとめて、当時の指導教官のボルンに提出し、其の疑問点を訊ねるのだが…ハイゼンベルクよりは比較的数学に詳しかったボルンは一週間ほど考えた挙句、いや、此れはいわゆる行列じゃないか、と気付く訳で…つまり、当時の、つまり1920年代の物理学者というのは、微分積分を主な武器としているが、数学の世界では19世紀には完成している、四則演算から微分積分まで一般化した線形代数としての行列演算を知らず、学部の教養で習ったとしても記憶の片隅にすら無く、ましてや物理学に行列が応用できるなどとは思いもしなかったのである…行列演算ならば、p×q≠q×p(行列の非可換性)として、教科書の最初に載っている基礎的事項なのである…ハイゼンベルクは行列を知らないのに、ある意味独力で行列演算を創出し、行列によって量子力学を記述していると直感したボルンは、もっと数学に詳しい助手のヨルダンと一緒にハイゼンベルクの論文を数学的に整えて、ハイゼンベルク/ボルン/ヨルダンの不確定性原理が成立する…と云うような経緯を思い返せば、行列を知らないのにゼロから行列を作って全く新しい理論を樹立したハイゼンベルクの発想と云うか天才的構築力と其の努力には改めてあきれ返る…ましてや、行列の存在を知っているのに理解できない自分の低能との雲泥の差を思えばなお一層…焦燥が蒸し焼にされてこむら返りしそうだ…貴乃花親方がしくじり先生に出演して事態の真相を語る日は近いような気もする…

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献杯…

へうげもの最終巻25服読了…感慨無量…今はとても、多くを語る気になれず…家康との末期の直接バトルの末に織部がうっかりルサンチマンに襲われて潔い死に様に納まりかけた処で、思い出の利休の無言の忿怒の鉄拳が虚実諸共貫通するようにして土壇場の織部の顔面をぶち殴り、またしても織部の為すべき生き様=死に様を示唆する山田先生の誠に滂沱の涙を禁じ得ず泣き笑いの笑い泣き…乙にへうげた往生際の悪さの、何とカッコよい事か…文字通り、人間の必然としての必死から意図せずまろび出るおかしみの一笑こそが一生そのものであると…其の痛烈なる毒素のおかしみ…其れに比べて、体制に隷従する潔い死に様の、何と貧相で惨めったらしい事か…作中の端々に仕掛けられた先生の創意と思想を細部に渡って連載十数年の間に己の細胞の隅々まで行き渡らせたが故に、一筋縄ではいかぬ苦々しい現実が己の中で主体化されて尚、爽快極まる後味の、ひとまずの此の結末には無茶苦茶励まされて嬉し涙が止まらぬにしても…安易に其れに浸らせはせず、次を見据えるしたたかな眼光の鋭ささえも、此の結末は小生に与えてくれる…もう新しいへうげものの話が読めないのか、と思うと無性の寂しさもひとしおなれど…萩焼櫛目紋片口鉢に植えた、恐らく蘇鉄や棕櫚と並んで織部好みであろう、南国のガジュマルを添えて、小生が最も寵愛している、黒備前宇曽利山縁堕天使目跡盃にて献杯…「ひょうげものめ……」

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不穏のメモランダム…

堪え難く日増しに募る人生問題、生活問題の緊迫、と云うよりは、緊迫状況に陥る可能性の暗雲が無暗にはびこらせる不安による精神のざわつきによってまとまった考えを構築する時間が取れず…其の内、ざわつきの感度が嵩じて些細な物事が全て心配事へと増幅するとざわつきの振幅と波数が極限まで増幅して巨視的には平滑な一本線にもなるのか…件の虫歯治療の過程で、切削した歯を保護する素材を剥がしてしまったが故に露顕した、削った歯の奥に潜む0.3mmほどの黒いシミ…高説は立派だが実際の治療の腕にどことなく信頼できない一休であったが…実際の腕を見るために任せた簡単な虫歯治療ではあったが…案の定残っているらしき0.3mmほどの虫歯の巣窟を見つけたにも関わらず、結果を云えば其れに対処する行動を起こし得ずに其の巣窟の存在を隠蔽する銀歯装着への流れに抗う事が出来なかったのでもあり…(どうでもよくなり…)

アナロジーのメモ

【民主主義】市民={主権者(主体) 且つ 臣民(法に従う者)}
【量子力学】量子={粒子 且つ 波}
      (あるいは 量子={不確定性 且つ 統計学的限界})
 
こうしたアナロジーにおいて批判的に注意すべき事は…量子力学で民主主義を正当化したり、逆に民主主義で量子力学を正当化する事には何の根拠も無いという事であって…従って、量子概念はルソーによる市民概念のようだ、あるいは、ルソーによる市民概念は量子概念のようだ、と云う比喩が真実らしさへの説得力に寄与しようとするならば、其れはたかが比喩にはおさまらない欺瞞であると云わざるを得ない。

そうはいっても瞠目すべき事は…量子の発見とは畢竟、自然科学における主体の発見であった、と云う事である。少なくとも小生はそう思っており、そう主張したい。自然科学は有史以来、自然の主体性を否定し、ひいては自然の一部としての人間の主体性を否定する正当的根拠として長らく君臨し、そして悪質な事に、主体性を否定する自然科学を無根拠に奴隷根性的に後ろ盾にして、一部の奴隷商人的社会科学は人間の主体性を否定して来たが(自然機械論=人間機械論)…其の自然科学自身が遂に、自らの方法を完遂した結果として、量子=主体を肯定せざるを得なくなったと云う事なのである…無論、自然科学は現在でも、そんな哲学的主張は社会科学のたわ言として容易に認めないだろうが…いずれにせよ其の争点は、プランクやアインシュタイン、ボーアらの内省や論争(いわゆるコペンハーゲン解釈…)において網羅されているかどうか、今後確認しなければならない…。

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