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 ロック史を体系的議論から解き放ちながら、サイケデリアの土着性とハードロックの非継承性を論ずる。主要1000タイトル、20年計画、週1回更新のプログ形式。
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「pere ubu/the modern dance(1978) bom812」 2009年7月5日 私信


 磁器など侘びに適わぬと敵意剥き出しだったのが、細君が買ってきた煎茶道の本を、「こげなものを・・・」といった態度でぺらぺら斜め読みするに、あっさり煎茶道具にぞっこん、抹茶を本道とするのは変わらぬとしても、煎茶によく使われる白磁の小さき茶碗にも色目を使い出す物欲の権化の小生である。そうなると、実は兼ねてより、磁器の中では例外的に欲していた古伊万里、初期伊万里の、ぽってり侘びて可愛らしい蕎麦猪口への所望が激しくなるこの頃です。あの色褪せた、儚げに遠くに後ずさるような、慎ましい染付けの日の本の草花文がたまらぬ。

 ペル・ユビュである。アメリカ、時は1978。プログレッシブが高踏的として批判され、産業サイケデリアがようやく擬似ピースフル連帯としてその欺瞞が喝破されながらも、ガレージの凶暴が擬古典主義的ビートポップあるいはパンクに挿げ替えられた形が不幸な事に先鋭的だと持て囃されもした時代でもあるが、そのようにガレージサイケの率直かつ滑稽な凶暴が文化として文脈化され、一方で旧い世代の文化を共有することの不可能性つまり世代間断裂に立脚した反抗であるパンク~ニューウエーヴのムーヴメントであってみれば、パンクが如何に下劣な叫びを上げようとも、ガレージサイケの真骨頂たる似非土着的野蛮に至らず、擬古典主義的ビートポップに収斂されるのも致し方なかった。(似非土着的野蛮というのは、アメリカ大陸における白人の土着性という矛盾から発せられたキチガイの謂いであるが、詳細はこのプロ愚を遡って読んでいただければ理解していただけると思う。)
 しかしながら、かような大勢にあって、否、かような大勢であるからこそ、何度も言うが点在する系譜はムーブメントを拒絶する突発を、孤立して、独自に、しかし着実に、相続も遺伝も拒否して、生まれてしまうのであるし、そうした者らが星座無き点在する系譜として、継続を拒否しながら、各時代に捨て置かれた地雷のようにして居るのである。ペル・ユビュもそうした音楽史的地雷の一つであった。ここでその地雷を分かる限り列挙、紹介しても良いが、そうすると地雷の地雷たる意味がなくなるので、その都度各自で地雷を踏んでしまうように、折に触れて紹介したい。既に本プロ愚で挙げたのであれば、無論ザッパ&マザーズ、ローリング・ストーンズ、ビーチボーイズ、シャッグズ、the 13th floor elevators、ブルースマグーズが相当するがまだまだ居ますのでご安心を。
 そしてペル・ユビュは、かような大勢の当時、やはりパンク的文脈で聴かれたかもしれないが、その音楽性に注意深く耳を澄ますと、点在系譜の一つであったといえる。しかも、見かけ上サイケデリア運動が終わった後での事ゆえ、その点在性は否応無く水際立つ。あの時代にあって、ペル・ユビュは、アメリカというものを執拗に考えていた。考えていた音を臆面も無く出していた。
 それは、「アメリカ民族」、という概念ではなかろうか、と、ここに小生が初めて提唱したい。小生のホームページに奇妙なべん図があるのをご存知だろうか。そこに、アメリカ音楽の点在する系譜、を含む形で、王道無きロック史と、そしてアメリカ民族の誕生、が記されている。そう、アメリカ音楽の点在する系譜、を本質的に論ずるには、大局として、アメリカ民族の誕生、を見ていなければならないのである。
 これは精密な文献調査を要する結構な大著になりそうでいまだ着手ならないが、漠然とした目論見としては、日本人である小生が、まことに勝手ながら、アメリカ民族というのを定立しその誕生を宣言する事である。アメリカ建国より1世紀以上経った今日、いまだに多民族国家を自己同一性に置いているアメリカであるが、まず、多民族性の特権化特徴化というのを批判したい。そもそも、人間は連綿たる命のリレー過程における、途方も無い混血の結果である。この日の本とてアイヌ民族や沖縄民族を含めた多民族国家である。すべての国家は多民族国家であり、あい異なる文化文明との習合により結果している。そうした観点からすれば、もう建国から幾年月も経過したアメリカであるし、今更多民族国家を云うのはカマトトぶる未熟と云えはしないか、ということである。だいたい、今日、コミュニケーション論の一貫で云われがちな多様性や他者性といった概念が眉唾ものであり、そこで云われる多様性や他者性などは全く不徹底で欺瞞的であることを証明したい。
 多民族性を多様性の根拠とするのに欺瞞がある。多民族性は政治や文化の多様性の根拠とはなりえない。多民族とは言い換えれば複数民族であり、複数民族は無限ではなく有限数民族に過ぎない。従って単一とまではいかないにしても結局まとまった可能性の許容範囲内に過ぎないのであるからして、そこから他者性や多様性をいうのはおこがましいだろう。
 一方で、イスパニックやアラブやチャイニーズやアングロサクソン等といった他種の文化を起源に持つとはいいながら、今日、既にアメリカ、としてまとめられてしまう程度の文化の均質化がアメリカ国内で進んでいるのではないか、という思いもある。そして、外国に、アメリカ文明のみならずアメリカ文化なるものも既に発信しているのではなかろうか。無論こうした事が本当に言えるかどうか、今後の小生の調査を待たれたい。
 ペル・ユビュ初期の本作は、プレーリーの荒野で陽炎の如く立ち昇る白人キチガイの憩いといったものではなく、ジャケットにもあるように、インダストリアル・プリミティヴとも云うべき、都市工場地帯に寄生するプロレタリアートの、汗でぐっしょり濡れた背中から立ち昇る土着的怨念といった、まったく新しい、そしてこの時代に相応しいレジスタンスであった。実にいいジャケットデザインであり、モダーン・ダンスとは言い得て妙である。ペル・ユビュこそはアメリカの、ロックのモダーンといえるバンドの一つである。そして、多民族性を多様性だと言い張る驕慢から遠い処で、彼らは、白人と原住民と黒人らの織り重なる習合と引き裂かれた断絶をありのままに受け止めたサイケデリア音楽を無茶苦茶に無駄に遂行する。
 力士並みの巨漢デビッド・トーマスがどこかへなへなの情けない声で怒りを吐き散らすが、その気の抜けようが、点在する系譜地雷の火薬成分の必須であるサイケデリアのピースフルな凶暴を思わす。そして神経症的パルス音ノイズ音や、一聴では親しみやすげな、生き急ぐリズム隊も、決して土着に安泰できぬプロレタリアートの都市部への土着といった引き裂かれをさらに不安にし、これはつまり、サイケデリアの本然(=似非土着的野蛮)と合致するのである。デビッド・トーマスはペル・ユビュ解散後、デビッド・トーマス&トゥー・ペイル・ボーイズを結成、現在でもディープにサイケデリア・アメリカーナに沈潜する試みを続行している。耳が離せぬ最重要人物の一人である。

tom herman:ギター、ベース
scott krauss:ドラムス
tony maimone:ギター?、ベース?
allen ravenstine:ノイズ、キーボード
david thomas:ボーカル、ノイズ

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