ロック史を体系的議論から解き放ちながら、サイケデリアの土着性とハードロックの非継承性を論ずる。主要1000タイトル、20年計画、週1回更新のプログ形式。
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「the junglers/live at yonago one make(2010)」 2010年8月7日 廣島長崎忌
下線部追記
「見てくれた人に感動を与えられるようなプレーができるよう頑張ります」
たわけが…、と怒りが勃発。予め承認された規則の中であれこれすることしか能が無い奴隷的スポーツ人間どもの愚かな言動を真似て、昨今では学徒出陣保存会の呈をしめしている高校球児までもが、かようなコメントをテレヴィに晒す始末である。もういっそのこと、選手入場は甲子園ではなく、雨の日の明治神宮でやったらどうか。宮崎の球児があのように言っていたのだった。感動というのは受け手が自ら産出するものであって他人から与えられるものではないことをわきまえておれば、仮に芸能者や競技者が、受け手に感動してもらいたいと思っていても口に出来るものではない。どこまで恥知らず、どこまでおこがましいんだ…愚かな大人のスポーツ選手が必然的に恥を知らぬから、子供まで真似る無恥の継承。しかもその、キャプテンらしき球児は、自分らのプレーで、口蹄疫で苦しむ畜産農家の方々が元気になってくれれば、などと言っていた。風が吹けば桶屋が儲かるじゃあるまいし、全力で白球を投げて打って捕るのを見ておれば、全頭殺処分され、一時的であって欲しいがともかく財産の殆ど、生産手段のほとんどを失われた畜産農家が救われるとでも言うのだろうか。承認された枠組み内で健気に頑張る自分らの奴隷根性を見せ付ければ、畜産農家が助かるとでも?こうした甚だしい勘違い、思い上がりがまかり通るのが、承認というものである。
甲子園の選手宣誓は数年前から選手自らが文言を考えるらしい。恐らく、また、かような、おこがましい事を絶叫するに違いないと底意地悪く期待して、賓客の長い挨拶に冷房の中で耐えながら見ていると、結局、何を叫んでいるのかさっぱり分からず、興醒めではあった。自分らのことを球児、と呼んでいる薄気味悪さが気になった。人々からそう呼ばれているから、自分でも自分のことをそう呼ぶようになったのだろうが、根本的に馬鹿にされているのが分からないのか。自分らが、球児という、観賞用の枠組み奴隷として扱われていることが…。観客を何一つとして危うくさせない安全なペットとして扱われていることが…。平日の真昼間から、開店前のなじみの居酒屋に入り浸ってビールをあおるおっさんらが酒の肴に見るのが、高校野球なのだ…。高校野球のこういった側面は、意外にも、タッチの作者が描くマンネリ野球漫画でわりとよく描かれていた。ここまでくれば球児という言葉は汚名に等しいが、これを本名にしているプロ野球選手も居た…。不遜を承知で申せば、かように理不尽に直面したキツめの生活を送る者の、まことに以って頼り無い、希望の無い救いになりうるのが、スポーツなどではなく、先鋭的な思想や音楽や文芸、絵画といった諸芸能ではなかったか。枠組みを批判的に見据えつつそれを芸道の糧にする思想や芸ではなかったか。
連日の猛暑、いかがお過ごしでしょうか。炎天下の畑で、老人が亡くなられた。自転車の籠に花を一杯に残して…。その心中推して知るべくもないが、熱中症の事例として済ますには惜しい、幸せな死であったと勝手に偲びます。真夏の死。
そして夏フェス…胸糞悪い…。大江健三郎も引用していたから孫引きになるが、彼の、あの言葉を思い出す…。
直射日光もきついが、インダストリアルな暑熱というのもキツめである。250℃の熱風が吹き洩れる真夏の工場内は風も避けるのか、熱気のみがぐんぐん圧密されるようで、気がつけば小生の作業着の肩から背中にかけて、白い結晶が波紋の痕のように固着していた…汗だ…汗が噴き出ては水分が蒸発、噴き出ては水分が蒸発を繰り返した結果、汗の中の塩分が波紋のように残留したのだ…インダストリアル恐るべし。
室内で生温く愛玩されているのだろう、狆(チン)が、国道脇の草の上で小指ほどの脱糞。飼い主の、森茉莉のような人が、こしゃまくれた狆の尻の穴をかいがいしく拭き上げるのを目撃、泣きたくなるような愚かしい滑稽に襲われ、思わず般若顔。
小生はノリが悪い。人々の集団的、あるいは個人的熱狂を斜に構えて否定するつもりもなく、ノリのよい音楽に乗って踊ったりするのも、多いに結構だと思う…。この程度のことをファシズム的熱狂などといって大上段に批判するつもりは無い。ノリについて考えないといけないと思うが、今日は深入りしない。しないが、しかし、ライブ会場で、聴衆が、繰り出される音にノっている様子を見るにつけ、居心地が悪くなるのは確かだ…以前、この自分の居心地の悪さを正当化しようとしてどうでもよくなって止めた事があるが、いまだに馴染めない…。多くの聴衆がノリノリな中、夫婦二人、椅子に座って固く縮こまる様子を演者に見咎められ、名指しで怒られて排除されでもしたらどうしよう…気弱な自分はそうならないよう、取り繕うかのように申し訳程度に体を小刻みに動かしたりしたが、今となっては恥ずかしい…球児を批判する権利など自分には無いのだ…仮に排除されようとしたらむしろ上等じゃないか、理論的にきっちり反駁すればよかったのだ…みじめだ…。演奏者と直に対峙しながら音を聴くことも大事だろう、作品という物に収まるレコード媒体のみ相手にしていては、いけない。作品として物化されぬ、何しでかすか分からぬ人間としての演奏者との対峙が何となく重要に思いもしつつ、一方で、演者と聴衆という図式に反吐を催している小生が居る。ならば聴衆である自分も、演者の演奏に割り込んで何かやらかせばいいのであるが、何だか悪いような気がして…。一方でこの居心地の悪さの要因は自分でも分かっている。自分が、身体を承認していないからだ…。世界を、意識、身体、自然の入り乱れとして捉え、そのそれぞれをさらに意識と自然の階層で捉えるフッサール的な小器用あるいは明晰がままならない小生だから、意識の優位から脱却しえず、性懲りも無く、身体を否定している本音がある…。
それはさておき、そうはいうものの、レコード媒体には収まらず、この他ならぬライブにて、小生が聴くべき音楽が生み出されているとしたら、たとえ居心地が悪かろうが、脚を運ばなければならなかった。
ジャングラーズ。兵庫県。米子でのライブを聴いた。最高だった。素性が悪そうな四人の男たちが凶暴を晒す、演奏の上でのそれぞれ感が、よかった。四人がそれぞれ、横並びで己を丸出しながら、轟音をやりたい放題やっている感じ。小生が以前掲げたサイケデリア項目の一つ、「男たちの顔が、みな異なる」に匹敵した。とはいうものの、彼らは皆、頭部を黒革でびっちり覆っており、目と鼻と口の最小限のみをチャックから除かせ、とりわけ口元に不敵な笑みを浮かばせる。この、それぞれ感を、ベンヤミンはこう云っている。「すべて本質的なものは、完全に自立して、互いに触れ合う事無く実在している。諸現象からも自立しているのみならず、とりわけ、互いからも自立して。」無論、この自立は無価値、非価値であり、小生が言うところの、点在性の一側面である。遊び心とやらにも、余裕という欺瞞を見出している。この覚悟は、繰り出される音だけでなく、競馬馬のように視野を狭くした先述の装いにも現れている。研ぎ澄まされた、切実に追い詰められた生活苦が、キツめの暴音ににじみ出る。
煎じ詰めれば、ハードロックとは何か、という、小生の抜き差しならぬ長年の課題を、忘れかけていた課題を、再び思い起こさせるに至った。キャプテン・ビヨンドなどの後期ハードロックやメタルが至った様式をきっちり批判的に忌みながら、密室ゆえにかくも圧密された爆音を轟音のまま明け透けながらよく練られたノリで繰り出してくる…こんなことができるのか、と思った。荒んでいるとはいえ、マッスル(筋肉)仕事のようでもあった。マッスルは直ぐに、様式に回収されるのが常道、しかしジャングラーズの場合、マッスルがマッスルのまま、安住様式に至らず、積極的に忌避しながら、荒みを獲得しようとは…。繰り返すが、こんなことができるとは、思っていなかった。こんな荒みが可能なのは、あくまでも、がさがさに乾ききったシシャモの巨大な頭がしゃしゃりでるような、後先考えぬガレージの尖った凶暴、もう、パンクと区別せぬが、そういった骨の凶暴が捨て身で、自信なさげに手探りで、盲人の手引きのように(ブリューゲル)力を暴発させるのを冗長させる胆力を厭わぬハードロック、というのを夢想していたのだが…。しいていえば、ジャングラーズは、マッスル頼みでないにしても、そのマッスルが如何せん禍してか、上手かった。自らの音楽性に安心しながら音を出すものだから聴く方も安心して聴ける類の安住とまではいかなかったが、やはり、ぎりぎりのところで、安心して聴けたのが、残念であった。音の重心がどっしりと低いからか…リズムの取り方が確実だからか。そうであってみれば、やはり、いまだ聴こえざる、あらゆる方法に安住する事無く、そして方法に頼る以前に捨て鉢なガレージの凶暴に軸足置きつつ浮き足立った、リズムも破れかぶれに、ブレにブレたハードロック、というのに賭けるしかない、と考える。
唐突な印象を受けるかもしれないが、分かっていただけると思うから、書く。ライブは、人間の尊厳が問われる場、であった。
なんとなれば、夏フェス。長くなったので詳細を論ずる気にはなれぬが、趣味的奴隷段階のマスコミ公認音楽を、野外で際限なく資本主義のように広げることできちんと音の暴力を損なわせる、慢心祭り。こんなニュースやこんな音楽は聴かなければいい、テレヴィやファストフードやファミレスやコンビニと縁を切ればいいのだが、小蝿のように、意識してしまう…。暗く狭い、防音がしっかりしているため、空間的のみならず皮肉にも世間的にも音が広がらないかもしれないライブハウスの中で、至高の、問題意識の高い切羽詰った音楽が生み出されている現場を思えばこそ、なおさら、彼の言葉を切実に思い出す。
彼の言葉を、衷心より書き記す。
「わたしらは侮辱のなかに生きています。」
中野重治 作 「春さきの風」より
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