ロック史を体系的議論から解き放ちながら、サイケデリアの土着性とハードロックの非継承性を論ずる。主要1000タイトル、20年計画、週1回更新のプログ形式。
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「yes/tormato(1978)atlantic #19202」 2010年8月14日 敗戦忌
連日の第二次世界大戦特集NHKスペシャル。この時期での集中的放映のみならず、シーズンでない時でも断続的にこの手の特集をきっちり組むNHKにはこうべを垂れる思いで、毎回釘付けです。話には聞いていたがシベリア抑留者どうしの、文字通り命がけの吊るし上げやソ連思想教育の実態や、大本営の玉砕発表の影で、玉砕から生き残った人々が少なからず存在した事実、そして彼らが憲兵から受けた扱いや彼らの思い…わらわし隊のミスワカナ、大事なことを伝えてくれてありがとう。ただ、多くの場合、筆舌に尽くし難い戦争の悲惨さをぼそり、ぼそりと、生き残った軍属や非戦闘員の人々が自分の言葉で述べるのであるが、そうした悲惨な大状況に、自分ではどうにもならぬ力によって巻き込まれてしまった、という受け身の、非当事者的感覚でしかあの戦時体験が語られず、後の世代にもそのようにしか継承されないならば、今後何度でも、ファシズム的状況が発生するだろう。民主主義とは有権者一人一人が歴史の当事者であり、政治の失政の結果を蒙りながら、且つ、その失政の責任があるのは有権者自身であるからだ…国民すべてに責任があることは即ち責任の所在が不明であるという、戦後民主主義と戦時天皇性が共通する、大いなる無責任の体系…歴史に通底する民主主義…この辺について語れば長くなるし小生の思想の根っこに当たるので、今宵は出し渋ります。NHKの集金の熟年女性がピンポン鳴らして来る度に、息を潜めて居留守使う我が家庭ではありますが、毎月郵送される振込用紙は捨てずに取ってある…そろそろ払うべきか…。
最近書いていないからといって、あの、バカボンのパパ風のファッションをした、向かいの家の熟年男性による、小生の車庫入れに対する監視が終わったわけじゃない。今も、車を車庫に入れるたびに、陰険そうな監視を受けている…何か言いたいことがあるならはっきり言ってほしい…
最近、小生がプロデュースし、細君にデザインしてもらった手作りTシャツは、ナチュラル系フリーマーケットでも売れた実績のある品物である。まだまだ作らなければならないデザインがあるが、ここで、小生にとってのTシャツとは何かを考えた。Tシャツとは、着る掛軸である。茶の湯における掛軸はその茶会のテーマを示す物であるが、Tシャツもかくあるべし、と思う。その日その時のレジャーや遊びの主題を明確に示しうるようなTシャツ。
地元の特産品、熊野筆の、目に適った品をお助けした。硯で擦って使う墨も、購入。早速、以前骨董市でお助けした、海の周りに雲竜が浮き彫りされた硯で墨をすり(似非古伊万里の、こいつめ!と弾きたくなるような野暮ったくも可愛い水滴も使用)、書道の練習がてら、小生が10年以上かけて育てた結果ようやく古格を帯びてきた紙に、知人への書状を書く毛筆の楽しさを堪能。墨には青墨と茶墨があるのだが、小生好みの茶墨を選択。文人気取りか!
細君に隠れて、趣味の盆灯篭収集も実行に移した。雪見灯篭型の大内行灯と、御盆前の廣島のコンビニには欠かせない、紙と竹でできた灯篭(その年に身内が亡くなった家族用の白いものと、そうではない通常の彼岸参り用の、色紙をふんだんに使ったものの二種)を購入。書斎の中の、増えに増えたる盆灯篭群を見るにつけ、我ながら不気味であり、自分の不謹慎による不幸の襲来を恐れる日々…。
ガセネタであると思うが、スーパーモーニングという朝のニュース番組で、「はだしのゲン」が絶版、というテロップが一瞬、表示されていた…どういうことだろう…自分の勘違いだろうか…平和関係の表現は小説、詩、映画、展示等々ある。生き残った方による語り部活動というのも重要である。しかし、ゲンに勝るものがあるのだろうか…生ぬるい平和教育でお茶を濁す前に、8月は、国内外で、「はだしのゲン」を流しまくるべきなのだ…自分は決して見ないが…この漫画とアニメは、今でも小生のトラウマである…いずれにせよ、たとえこの世からはだしのゲンが絶版になっても小生だけは所持している状況を作るために、全巻、買うつもりだ…、無論、買ったとて、ページを開くつもりは全く無い。
そろそろ低迷から脱出せねば、しかし、またキツめの生活が始まれば速攻で低迷にぶり返す可能性大なれど、一歩進みたい、「悪趣味の系譜」編へと。本当は、以前語りそびれた10ccから始めるべきだが、構わず、本作にて。イエスのトマト、1978年、である。イエスはコンプリートしているので最終的には全アルバムを語らなければならないが、なぜトマトを?と思われる節があるかもしれない。イエスのアルバムの中では、プログレ絶頂期が過ぎた頃、パンク/ニューウェーブ/モダンポップへの独自解釈を施したアルバムであるが、そのへんを軟派だとして一部のプログレ好事家からは否定されがちなアルバムではある。無論、イエスの、プログレ性を真率に体現した諸作品も至宝であるが、小生は、このアルバムの隙間産業的重要性に耳が離せない。また、悪趣味の系譜ということを考える上で、こうした、境界線上の音楽への過敏が必要であった。
まずこのジャケット。名前忘れたが金属探査しているような紳士の白黒写真に、トマトが小汚く殴り付けられている…血痕ではなくトマト、という馬鹿馬鹿しい脱力…本当にどうでもいいんだという荒れた制作姿勢が伺える…メンバー間の仲も険悪だったらしい、本当にどうでもいいんだという捨て鉢な気持ちで作られたと伝えられるこの作品の、なんというきめこまやかさ…。プログレバンドによる、プログレ末期におけるパンク/ニューウェーブ/モダンポップ受容、という現象はイエスやキング・クリムゾンなど多くの有名無名バンドに聴かれるが、単純に十把一絡げには出来ない各々の事情を聞き取らなければならない、他ならぬ、残された作品を注意深く聴くことによって。イエスのモダンポップ化とキング・クリムゾンのモダンポップ化だけ聴いても全く別の現象である。正確には、イエスのモダンポップ化ではなくて、イエスは、一般にモダンポップと云われながら収束しえないようなそれでも茫洋としてあるようなモダンポップ音楽とは別種の、珍妙な音楽の頂きを、イエス台地の上にそびえさせたのであった。(キング・クリムゾンについては別稿を要する)
なだらかな上り坂を天使的な光速で駆け上がるがあまりになだらかなため、地上とは隔絶した天上には至れぬ、それ故にいつまでも続く爽快感がどこまでもパストラルでスペーシーなのが決定的にイエス。パンクモダン系のツッパリやヒネクレは皆無でありながら、プログレ的技術主義とは異なる、小粒ながら技の精巧が透けて見える根付的モダンポップアレンジの偏執的妙境が、楽器の多さを厚かましく感じさせないバランスを保っている。プログレとモダンポップの分水嶺(泣き別れ!)に位置する本作は、孤立を余儀無くされる悪趣味の系譜の道標でもある…。
ジオットの宗教画と同等に、天使というものの存在を強く感じるアルバムである。
余談ながら、「僕の地球を守って」という漫画を友人に貸した時に、スペーシーなこの漫画に相応しい音楽として、このCDをいそいそ録音したカセットテープも一緒に渡した、うれし恥ずかしの記憶ありあり。
jon anderson:vocals and alverez 10 string guitar
steve howe:gibson les paul custom, gibson 'the les paul' , spanish guitar, martin 00045 fender broadcaster, gibson elec. & ac. mandolin and vocals
chris squire:harmonised rickenbacker bass, bass pedals, gibson thunderbird bass, rickenbacker bass, piano and vocals
rick wakeman:birotron, hammond organ, harpsichord, rmi, and polymoog
alan white:drums, military snare drum, glockenspiel, cymbal, bell tree, crotales, drum synthesizer, gong, vibraphone, percussion and crotales
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