忍者ブログ
 ロック史を体系的議論から解き放ちながら、サイケデリアの土着性とハードロックの非継承性を論ずる。主要1000タイトル、20年計画、週1回更新のプログ形式。
[401][400][399][398][397][396][395][394][393][392][391]

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

空の名残

徒然草より

第二十段
某とかやいひし世捨て人の、「この世のほだし持たらぬ身に、ただ、空の名残のみぞ惜しき」と言ひしこそ、まことに、さも覚えぬべけれ。

第三十九段
また、(法然上人は)「疑いながらも、念仏すれば、往生す」とも言はれけり。これもまた尊し。

第五十九段
大事を思ひ立たん人は、去り難く、心にかからん事の本意を遂げずして、さながら、捨つべきなり。(中略)身を助けんとすれば、恥をも顧みず、財をも捨てて遁れ去るぞかし。命は人を待つものかは。無常の来る事は、水火の攻むるよりも速やかに、遁れ難きものを、その時、老いたる親、いとけなき子、君の恩、人の情、捨て難しとて捨てざらんや。


このところ毎夜むさぼり読んでいる徒然草の一節を書き出してみたがパソコンでの古文の入力が頗る手間がかかり…速やかな変換が絶対にままならず、のみならず、それに託けて、現代文でも、GHQが選別し強要する常用漢字以外ならばすぐさま障碍となる日本語入力の現状にも思い至り、媒体ごときによる中身の検閲以外の何物でもないとむしゃくしゃする…この一件だけでも、日本語および諸芸術(とりわけ音楽)の、技術による選別と検閲の現状に義憤冷めやらぬ問題化すればまたきりがない…世の趨勢如何な険悪なろうとも、ゆえあって自転車で長い坂道を登攀、寒風のさなかでも背中の黒ジャンパーは蓄熱する小春の日差しにほだされ、本当ならば、円満な豆腐のような心持で、のんのんする暮らしぶりのはずだったのである。とはいえ返す返すも心の根深で、喉に刺さった小骨のように居心地悪い悔いが残滓し続けている現状を糊塗するに限界が噴出…常日の態と云われるならばさかしらに否めぬのは納得済みながらも、…年が明けて、ザッパ二枚とキューバ音楽一枚について掲載したるも…吾ながら、なんとも、気と骨の足らぬ髄なき文章となっている忸怩たる思いが誠に我慢ならず…本当ならばもっともっと突っ込んで幾らでも書くべき事はある、しかし理由はどうあれ結果的に生半可な磯せせりの、貧相なその場凌ぎの浅思案を披歴、物事の構造を抉り出す胆力の欠けた、腰砕けのゴマカシしか書けていないのは読者諸氏に置かれてこそ、とうに見限られているものを…ならば今ここで一念発起、再起=再記をかけて踏ん張ればいいのであるが、過去に一度書いてしまった以上、もう一度それをこね回す気力も、奮起せぬ、という、消沈に打ち勝てず…誰に頼まれたのでもないが勝手に己が拘束されている、この、ブログという形式の故なのか、と責任逃れするようにして、もう、書く気しない、何かもう汚れた気がする。何もない、白紙に筆を落とす瞬間の緊張にこそ執筆の興奮が宿るのに、一度発表したものをいじくるのはたとえ自分の文章であっても他人のまわしで相撲取るようなもの、我慢ならず…しかしきちんと全うできなかった慙愧のみが喉に刺さる小骨のようにいつまでも気にかかってしょうがない、という責め苦に悶々と煮詰められるのであった。だから今回は一回休んで、かような毒を嘔吐する事で次回への発信に改めたいと思うた次第。

猫も杓子も家族家族の家族礼賛の家族主義の風潮甚だしく…家族礼賛テレビ番組、家族大好きJポップなどが手を変え品を変えて…それの延長である日本礼賛番組の横行も最早なりふり構わぬ…その一方で、長い年月を経ても決してぶれる事のなく樹立されていた明晰なる殺意をついに実行に移す特異点的猟奇殺人事件も、その実行において他からの影響を払拭しながら勃発する時系列的点在性がありもするし…佐賀と名古屋の事件は。

「誰ぞっ、誰ぞ漢文の読める者はおらんのか!」アメリカの黒船に勇躍乗り込んだ松陰先生の開口一番には大いに笑わせていただきました花燃ゆ。どこに出しても恥ずかしくない立派な漢文で己の志をしたためた松陰狂子、いくら漢文が東アジアの公用語であったとはいえさすがに黒船に通ずるはずもなく…誰もが「そんな無茶な」と突っ込んだであろう…その一方でこの松陰二十一回猛士の行状、ひいては維新の志士たちの運動を、史実に照らして描けば描くほど…圧倒的草の根的統制的封建的世襲的家族主義、国家主義が蔓延する昨今の御時勢にあっては、はなはだ「都合の悪い」、即ち「不都合な真実」に、製作者NHKはぶち当たっているのがよく分かる。維新の志士と云えば恰好良いがその内実は既成の体制に対する反逆者にして、ただ一身にして己の志を果たさんとする危険思想家にしてテロリストである。維新の志士たちは、いろいろあるのは承知で簡略化しているが結果的に、家族が大事、既成体制=幕藩が大事とはならずにそれらを断ち捨てた思想家たちである。いや、志士は、「幕藩体制」よりも大事な、「日本という国家」を守るために運動したのだ、という説明は、志士の行動を、国家主義的に「説明」し丸め込む懐柔工作にして単なる欺瞞に過ぎない。なぜなら、天皇制との絡みは置くとしても、少なくとも、志士が行動を起こした時点においては彼らは既成体制にとって決定的に反体制であった事実は払拭しようも無い事実と見なさなければ、彼らの運動の実態は掴めぬであろうからである。既成体制の支配が圧倒的に警察権力を振るう真っ只中で、ほとんど無力でありながら、家族への封建的弾圧も一向に顧みず脱藩し、自ら立ち上げた未熟で危ういネットワークを駆使しながら、既成体制の意向に逆らう反体制的行動を策動させる、それほどの意志を行使できる自立した人間…それが志士であり(無論、種々の立場や例外はあろうが)、そうした志士に、生き様=死に様を見せつける事で文字通り志士の「先達」となったのが松陰である。現政権ならびに国民の雰囲気が戦後、例を見ない程統制的であり、そうした雰囲気を強制される事なく「察して」おもねる事の上手なマスコミが作るドラマで、松陰の史実が描かれれば描かれるほど、体制におもねりたいドラマ製作者には、松陰という反体制的史実との矛盾を突き付けられるであろう。その矛盾との葛藤をごまかす欺瞞装置として、松陰の妹、を主人公に仕立てたのであろうが、欺瞞と云うのは隠蔽しようとすれば隠蔽しようとするほど、一層露顕するものである。松陰という一個の思想家を、その妹=家族の色眼鏡で捉える事で松陰の思想を家族主義へと矮小化させて体制になじむよう揉み込み、無害化する隠蔽工作なのだろうが、しかし皮肉なことに、動かざる松陰の史実は逆にそうした欺瞞工作が激しければ激しい程、際立つのである。

昭和新山や西ノ島新島の噴火が大地の生成をリアルタイムに感じさせるように、イスラム国は、まさに原初的な国家の勃興の有様をリアルタイムに知らしめる。圧倒的殺傷能力を運用できる集団を所持する事で住民と領地と生産力を支配し、少しずつ組織化しながら被征服民族を奴隷化したり他国民を直接的武力や人質交渉によって侵略、恐喝してくる領土的野心、という…およそ、現在、国家を名乗るあらゆる共同体が古代や中世において遅かれ早かれ経験してきた国家の実情というものを今さらながら剥き出しにしてくるイスラム国を、既成国家が、「野蛮」「卑劣」「残虐」「暴力と恐怖による住民支配」などと批判すればするほど、その批判がすべてブーメランのように自分らに帰ってくるような気にならないか。現状の既成国家、特に先進国と呼称される一群はイスラム国ほどに、思想と物資の統制はなされていないかもしれないが、その統制の質はイスラム国と同質にして、程度の差があるに過ぎない。その程度の差が決定的だとして既成国家を好評価するにしても…。既成国家がイスラム国を「持て余す」にしても、その持て余しかたは、イスラム国を「交渉不可能な卑劣な野蛮人」と見なすのではなく、「全ての国家と云うものの本質に根差す原初的凶暴」と見なさなければ、殺戮と憎悪の応酬は終わらないし、他人事ではなくなるだろう。イスラム国を「野蛮」と見なして場当たり的な「壊滅」を目指したところで第二、第三のビンラディンやバグダディが勃発するだろう…戦前の中東での身勝手な植民地政策や戦後のイスラエル建国、イラク戦争などの失政に責任のある英米こそが、今日の中東の混乱の責任を取るべきであろうが最早この二国でもおさまりはつかないのであろう…ドイツのナチズムやイタリアのファシズムを曲がりなりにも武力で壊滅できた成功体験が、なまじ英米にはあるばかりに、イスラム国を武力で「壊滅」したがるのだろうが、とは言え戦時中の英米の指導者には、日本の全体主義の根本である天皇制を頭ごなしに「壊滅」させずに改良的に存続させ「敗戦国」へと「全体主義」的に軟着陸させる「知恵」があった。(それが日の本にとってよかったのか、ここでは問わぬが…)英米の戦勝国史観をいまだに刷り込まれた現在の日本においてイスラム国という呼称がこれを「国」と認める事になる云々ともめているが…つまらん識者が、国際法における国家の定義を1.領土をもつこと、2.国民がいること、3.国際的承認があること、などとうそぶいているがおよそ国家の樹立というものは、歴史を振り返るに一方的な「独立宣言」「建国宣言」以外のなにものでもなく、他国の承認を条件とした事例などほとんど皆無である事も分からんのか。アメリカ合衆国、共和制フランス、ソビエト連邦、中華人民共和国しかり…安保理の常任理事国らはその建国にあたって、他国からの承認を条件としただろうか。いずれも非承認を振り切っての一方的宣言ではないか。よって、イスラム国を国家として認める認めないなどの議論は愚の骨頂である。1と2をみたして「3.支配層の意志で建国を宣言」さえすればもう「国家」であると他人や他国は認めざるをえないのである。そうした現実を直視した認識でないと、イスラム国の問題への対処を誤るだろう。既成国家は、自らの国家としての歴史に直面しない限りイスラム国による近隣住民虐殺と搾取をなくすことはできないだろう…「啓蒙」がアラブ圏に有効かどうかははなはだ疑念が残るとしても…。無論、この程度の概念整理で解決するとは思ってはいない。

焼き芋や取材の誉に立つJOGO忌

嵐のみ時々窓におとづれて明けぬる空の名残をぞ思ふ 山家集

拍手[1回]

PR

この記事へのコメント

Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
管理人のみ閲覧できます
 

忍者ツールズプロフィールは終了しました

HN:
々々
性別:
非公開

08 2024/09 10
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30

ロック史最新記事

(03/03)

ブログ内検索

最新トラックバック

忍者アナライズ

Copyright ©  -- 仄々斎不吉 --  All Rights Reserved

Design by 好評ゼロ / powered by NINJA TOOLS / 忍者ブログ / [PR]