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 ロック史を体系的議論から解き放ちながら、サイケデリアの土着性とハードロックの非継承性を論ずる。主要1000タイトル、20年計画、週1回更新のプログ形式。
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東寺弘法市再訪とイエス尼崎ライブあるいは冥福の春

 家内閑吟

 なじられて放哉取り上げられる妻
 
 東京の原宿の竹下通りに行きたい。行ってデザイン性の高い服をお助けしつつクレープを頬張りたい。クレープのしっとりした生地と甘すぎない生クリームの塩梅が好きだ。でも地震が怖い。
 写真は、先月の弘法市で連れて帰った、鹿の角、蓮の種、朝鮮の錠前、手作り市系のガラスのペンダント。

 いつになく後先考えぬ穏やかな心で連休を過ごしている。波風立たぬと言の葉も荒ぶれぬのもひとしおとは言い条、たまたま休みだから、という外的因果のみではない、小生の内的変化というのも言葉が薄く遠のいてゆく謂いがかりのようになって、そうすると言の葉が枯れる前にさっさと書くべきことを、例えばハードロック論や秘密文書の類についても早々にものにしなければならぬ重い危惧もあれども、当の言の葉が炙り出されるその基盤が、緩むというよりか、目に物みせず遊びもなくさあっと挿げ替えられる、理不尽な結果のみのような、これ以上掘り下げようのない文字通り浅はかな契機が押し迫っている油地獄も隠微にとめどなく知ったかぶりに均されることで、基本どうにもならない。
 とはいえこれは自分として珍しく断固として選んだ道でもあって、一時的かも恒久的かもしれぬ言葉からの遠のきなぞ、過去の文芸者たちにおいてありふれた人生の一幕ではある。ようするに、たとえば宇宙開拓史においてのび太の部屋の畳の裏の遠くに、コーヤコーヤ星との、時空を超越した繋がりが小さくゆらりゆらりと切れかかっている、そんな危うくも儚い悲しい状況で書かざるを得ない。それでもまさに今書いているのは、それこそ底意なく単純に、文字が、そして言葉が黒いから、というのがまずある。PCやインク、墨による文字が黒くなければ、こうして氷柱が滴るように惰性で書き綴ることすらできなかったであろう。酒の飲めぬはずの亡くなった祖父がなにゆえか自作していた、15年物のあんず酒の水割りを飲みながら、そうしたことを思う。それにしてもこの琥珀色のあんず酒、なんとも喉の沢を流れるように後を引かない甘露が爽快だが、本当にアルコールが入っているのだろうか・・・と思っている端から脳髄が頭蓋と脊柱からすっぽり抜けて春の海をふわふわ浮き上がるような感覚が静かにやってくる。ウヰスキーや日本酒のような、ある瞬間に横殴りで襲来してくる粗暴な酔いとはまた別格である。しかし、と、ここで、やはり横殴りの粗暴な酔いが欲しくて、星や月や雪を愛でる余裕をかなぐり捨てた、競走馬の目隠しのような熱い暗黒の酔いを欲し、ウヰスキーに切り替える。
 最早、時間がない、というのがある。半ば必死で、自分に言い聞かせている節もある。人生の節目は自分で作らなければならないのだろう。思う事はこの盛春を迎えられずに逝ってしまった人々の事である。春まだき三月は葬式の多い季節…。

 思い出すのは今年の三月、吉本隆明氏の悲報。ちょうど、彼の膨大な著作の一つ「源実朝」を読んでいたところであったという奇矯もあった。氏の戦後思想における影響云々はここで論ずるつもりはない。今も昔もたいしてその本質は変わりはせぬたかが資本主義に対してしきりに高度、という単語を冠して高度資本主義と呼び習わすバブル期の彼の資本主義論の楽観性には辟易したが、今となっては読み返してもよいかもしれない。80~90年代、構造主義批評全盛のころ、物語の類型による文学の腑分け作業が新しがられ、そして氏の批評の方法も徹底して批判されていた頃、どこぞの三文記事で、正確な言葉は忘れたが、内容は「類型という形でしか小説を見ないのであれば小説の類型化が可能なのは当たり前のことだ。小説個々の機微や文体を読まないで、小説を読んだと言えるのだろうか」と、歯切れ悪く云っていたのを思い出す。無論そうしたことを承知の上で戦略的に類型化を推し進めているのだというのが当時の構造主義者の弁なのだろうが、今となっては、あらゆる類型に収束されない機微と仕草の固有性への固執が、生身の突飛として人間や、それと紐帯する諸芸能に厳然とあるということのほうが、滅法浮足立っていると思う。しかしながら自分としても歯切れの良さや機微に全幅の信頼を置くものではない。類型だろうが機微だろうが所詮説得力の化けの皮に過ぎず、それを取ったところでのっぺらぼうだ。ほとんど反射的に、統制の狂気である類型よりも共同の迷妄である機微のほうに、どうせ歩かなければならないのだから致し方なく重心を預けているに過ぎぬ。こんな区別も無意味だと分かっているにしても。ともあれ80年代以降は歯切れ悪かったが、それ以前は、理論はともあれ、歯切れの良い啖呵、悪態が彼の批評の真骨頂の一つであった。

 「転向論」では、日本共産党トップが獄中から発表した転向声明文にあった転向理由の一つとして(大衆的運動として組織化できなかったという力不足云々が主要理由ではあるが)仏典の一つである「大乗起信論」を獄中で初めて読んだことを挙げているのに対し、日本の前衛党指導者のインテリゲンチャが大乗起信論も読まずして共産主義革命を起こそうとしていたことへの、日本の当時のインテリゲンチャのみじめな教養ぶりに憤りを隠さぬのが痛快であった。(中野重治の文章の孫引きかもしれぬが・・・)

 もう一つ、今読んでいる「源実朝」も痛快である。氏は、戦時中、二人の文学者、即ち太宰治と小林秀雄が源実朝についての文章を書いていることに触れている。この問題意識は、小生がいつか論文にしたいと思っている、「戦時中における平家物語の読み方」というテーマとも通ずるものがあって面白い。ちなみに平家物語については戦時中、保田輿重郎と小林秀雄がそれぞれの論旨で書いている。どちらにも小林氏が居るというのも興味深い。その内容はここでは触れぬとして、中世日本の新興武家政権中枢における、それこそ共同の迷妄の中で状況的に殺されるのが必然となっている鎌倉幕府三代将軍源実朝が、そうした宿命から逃れようと、周囲の反対を押し切るばかりかその宿命を早める効果しかないことも承知の上で、唐突に、宋への渡海を試みる・・・。渡海するための大型船建造を、宋からやってきて、東大寺修復も手掛けた陳和卿なる人物に託すも、由比ヶ浜でその大型船は技術的問題で浮かべることが出来ず、砂浜に朽ち果てるのみだった…。この陳を、吉本氏は、「ちょうど三流の技術者でも、後進地域へでかけて技術指導にあたったら、何とかなったということかもしれない。多少のはったりをきかせながら、後進地域へやってきて、しかつめらしい顔をしてみせるといった、平凡な仏師を想像すれば大過がないと思える。…(中略)…ここでは先進国の三流技師として失策をしでかしたまま、陳和卿のそのあとの消息は杳としてわからなくなってしまった。」と断ずる下りは、中世史専門の学者には書けない文章であり、何より内情を活写していると思わせた。今、読むと、過去にはあまり読解できていなかった箇所が自分なりに節を立てて強固にその主張が飲み込めるようになってきたに違いないと、吉本氏の著作に対しては最近、思う。

 私事であるが、もうあっという間に数年前の事になってしまった、それでもごく数年前の、二人の祖父の死が、あった。いずれの御方も春を迎えることなく、薄ら寒い三月に生を全うした。
 父方の祖父の死があった。阿蘇の火山灰土ゆえに稲作が向かず、麦や綿、玉蜀黍畑といった、本州で馴染んだ日本的風景とは一味違った田舎風景が広々と続く肥後の内陸での葬式…。そこに至るまでの紆余曲折の出来事や思い出や至った時の思念をめくり返せばそれこそきりがないし極私的な事でもあるので割愛するが、今はどうか分からぬが少なくとも20年以上前、夏休み、熊本の祖父母の家で飲んだ単なる水道水がすこぶるうまい、本当の水のうまさというのは他にたとえようのないものであったという記憶がある。遺体との対面、ということも小生にとっては初めてのことであった。たったその事だけでも、自分の思いを全て吐き出せるのならば自分としては全2巻くらいの長編小説あるいは手紙が書けそうだが、その後の火葬、遺体とはいえ死んだ身体ではあったその身体が、つい先ほどまでは身体だったという前提を何の拠り所も無く提出しながら骨となって出てくるということにいたっては、あくまでも自分の普段と地続きである日常の中で度し難い眩暈と途方も無い断絶を強要される混乱を生じせしめた。薄ら寒い日々が続いていたのが、この日、春らしい霞んだ青空、ひばりが宙で、春の瞬きのように舞い踊り、真新しいような草木が翠に匂い初めるこの季節、葬式までのどうしようもない悲しみと重圧が、まことに理不尽な断絶の下できれいな白骨が生まれた途端、やり場のない、拠り所の無い悲しみと違和がかすかに後を引きながらも、変にからっと明るい気持ちになったのも事実だ。火葬というものの独自性である。弔いは三つの形式に大別されるだろう。遺体を遺体のまま、もう見ないようにするのが土葬や水葬、遺体をあえて白骨にするのが火葬、そしてまた次元が違うのが鳥葬、である。それぞれ、全く違う。遺体が焼かれて白骨になるのではないのだろう、あの時、白骨が生まれるのだ、というほうが、絶望的なあの断絶に際してはしっくりくる。今分かったが、道元も同じような事を言っていた。物が焼けて灰になるのではない、灰が生まれるのだと道元は言っていた。そこでいう物とは、遺体の事なのだ。灰とは白骨のことだ。

 青空にからりと焼けて荼毘の祖父

 母方の祖父の死があった。それこそもう祖父の時間が残りわずか、という、覚悟してはいた知らせがあり、病院に行く。つい数か月前までは近所を自転車で走り回るほど元気だったのが、病を得て、病院のベットの上で、あっという間にあまりにも小さく紙縒りのように縮んでいた。元々大柄な体格だったゆえにその事実にまた眩暈を感じた。乾いた舌の表面が深く割れ苔が生えている。もう長くはない、ということが否が応にも伝わってくる。しかし、ふと視線をずらすと、かつては気が付かなかったが、兎も角かつてと変わらぬ獰猛なまでの太い足首が二つ、強烈な存在感で突き出ていたのであった。なるほど、この太い脚で、大陸の戦場を生き抜き、戦後を生き抜いてきたのだ、と思った。戦争について語ることはなかったが、悲惨な出来事を単に逃げるように見てきただけでなく戦争の行為者でもあったという意味も含めてまさに生き抜き、何とか母国に辿りつかせたのがこの、危篤であっても残り続ける逞しい脚なのだろう。ここでも割愛するがさまざまな思い出も、この瀕死の御姿に、全部吹っ飛んだ。

 こん棒だ縮んだ祖父の脚太し

 死という事にまつわる様々な思想や想念はこの際どうでもよい。ただ一ついえることは、自分が生きている時間も、これからやろうとしている事を考えれば、ほとんど無いに等しい、というあまりに即物的なことであった。ハードロック論の番外編としてイエスのライブ模様について報告する予定が、またしても書けなくなってしまった。専ら自分の、精神の相克をなおざりにしては、ハードロックについては勿論の事、その他の、自分が取り組むべき重要ないくつかの事も何も出来やしないという切迫した内的状況ゆえに、自分としては致し方ない。ロックについて読みたいと思っていた方は、読み飛ばしてもよいと思うし、できれば過去の記事を読み返して復習するよい機会かもしれない。金麦っていう発泡飲料は、ちょっと信じがたいほど不味い。

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