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 ロック史を体系的議論から解き放ちながら、サイケデリアの土着性とハードロックの非継承性を論ずる。主要1000タイトル、20年計画、週1回更新のプログ形式。
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自爆の後

何もせず粛粛と自滅を待つよりも一念発起で自爆する事で、自爆だから当然己の死にのみ終わって周囲には何の影響も残さない公算が高いが其れでも自爆と云う空疎な意味の爆発力による周囲への影響だけに期待して起死回生への一縷の望みに繋げるのか…取り敢えず新党が出来たからもう今更何云っても致し方ない落着であって…元より、其れほどまでに絶望的に民主党が追い詰められたのは時勢のせいだけには出来ない、己の政治的無能、とりわけ弁論の稚拙さ、言葉に対する鈍感さ故であると云う原因分析と反省さえも出来ていないのだろうな、そんな理性があれば自爆と云う突拍子も無い捨て鉢に投身する筈はないのだし…無能な優等生が追い詰められた末での滑稽で非力な捨身の攻撃、と云った処だろうか…今は何となく立憲民主党に追い風が来ているがそんなのは御祝儀相場であって…金も権力も減退したのだから党勢を盛り上げるには候補者の弁論の鋭さ、事態の本質を衝く洞察力と、其れを言葉で表現するとっさの文章力、そして己の立ち位置を明確にして大衆に普遍化する言葉の選択、等々、要するに弁論術が必須なのだが…自爆して残った白色矮星に、自爆以前以上の能力の向上を期待できるべくも無く…枝野氏の弁論は相変わらず、言葉に対する感覚が鈍すぎる…リベラルと云うからには基本的人権と国民主権と云う、専ら言葉で創造された理念のみを己の基盤とするのだから、誰よりも言葉に対する感覚が鋭くなければならないのだが…何故か言葉に対する感覚までもが、保守連中よりも劣っていると云う救い難い体たらく…立憲民主党(以下、立憲党)がどんな弁論を流布すべきか、今までの反省と共に提案する前に、はっきりしなければならない事を以下、述べる。

決定的に此の国において前提から勘違いされてしまっている事は…民主主義=多数決、と云う原理である。しかし、此れは間違いであって、民主主義は多数決の事ではないし、民主主義の手法として正しいのは多数決、なのでもなく、要するに、誤りである…
民主主義を国民主権、と置き換えれば直ぐ分かる話である…国民主権とは、国民の一人一人の全てが政治的主権を持つ、と云う事である。従って、国民主権=多数決、と仮定すると、多数決だと少数の人の主権が否定されており、従って全ての一人一人が主権を持つと云う国民主権を否定する事になる、よって国民主権=多数決と云う仮説は矛盾する、と云う事になる。

云い換えると多数派に主権がある、あるいは多数派に主権が移譲される、とすると、其れは、多数派主権であり、要するに少数派から主権を奪っているのだから、多数派主権とは其のまま、少数派を弾圧し排除し少数派の生命と財産を蹂躙する事を肯定する国家主義ないしは全体主義国家を意味する。だから全体主義国家は少数を「排除」(小池)するのである。小池は全体主義者である。安部も小池もファシストである。ちなみに、国民が有する主権は移譲されないし、何らかの政治的手続きによる虚飾によって国家や代議員に移譲されたとしたら其れは国民主権ではない。選挙と云う、あたかも民主的に見える手法によって選ばれた代議員に、国民の主権が移譲される、と云う事は有り得ない。なぜなら、そうだとすると其れは代議員主権であって国民主権ではないからである。議員に主権は存在せず、主権は何処までも国民にあるからこそ国民主権なのである。主権と云うのは潜在的には国民が有しているが、選挙によって選ばれた代議員によって初めて顕在化し、行使されるのだ、と云う形而上学もついでに否定しておく。主権とは現実を変える直接的で顕在的な力そのものであって、普段は潜在的に存在しているが直接現実に影響を与えるには別の契機や力能を必要とするならば、そんな間接的な力は主権でも何でもない。以上の詳細はルソーが社会契約論できちんと証明しているので参照していただきたい。別に小生の思いつきでも何でもない事である。ついでに云うと、少数派に主権がある、とすると、其の少数派主権とは君主制ないしは貴族政あるいは寡頭政治と云う専制国家を意味するであろう。

即ち、民主主義は多数決ではないし、民主主義は多数決と云う手法によっては実現も保証もされない。国民一人一人の主権(国民主権)を保証するための民主主義の手法で許されるのは、話し合いによる全会一致である事が理解されるだろう…此れが即ち、民主主義が議会制を採用する意味の枢要である。従って、此の話し合いで重要なのは多数派工作などではなく、多数派と少数派が共に納得しうるような妥協や調整あるいはそうした対立をも無効とするような新しい対案を提出できる知恵が要求されるのであり…そうした知恵が必要とされるためだからこそ、ロボットではない人間が話し合いの主体となっている意義が証明されるのである。話し合いの場で知恵を出す努力を放棄するのであれば人間が話し合う必要などなく、文字通り議員自らが議会の主体である議員と云う立場を否定しているに等しい…話し合いによる全会一致と云う前提があってこそ、多数派と少数派と云う分断が解消されるだろう…だとすると、此れも、モンテスキューやルソーが既に指摘する事であるが…民主主義と云うのは古代の十数人ぐらいの部族が部族として方針を決めるのには有効であるが、数億人の人口の政体では不可能ではある事を意味する…数億人の主権者が全組み合わせで直接話し合って全会一致の方策を導く事など不可能ではある…よって…民主主義とは理想の空論である事は明らかではあるのだが…其れでも…だからと云って、民主主義と云う理想のタガをあっさり取り去ってしまえば、少数による専制政治や、多数派による全体主義の弊害に陥るのは歴史が明らかにしている以上、民主主義と云う建前を大切にしなければならないのであって、其れこそが社会契約と云うものである…フィクションの契約…即ち、民主主義は上記のような不可能性の下に立脚しているが其の不可能性にぎりぎりまで挑戦する努力を放棄した途端非民主的政治の弊害に転落するのは明らかである。多数決と云う、非民主的強行がもし許されるならば、其れは、民主的努力をぎりぎりまで尽くした姿が国民に明らかにされた時でしかなく…少なくとも、物事の本質を衝く質問と、其の問いに対する誠実な答弁と、対立のための対立を煽る依怙地を解消し対立を昇華する真の知恵が幾つも出された姿を国民に提示出来ていない以上は、多数決に訴える正当性は無い。

眼を転じて、自民党の議会での振る舞いを見てみると…民主主義を遂行する唯一の方法である議会を悪びれもせず悪しざまに嘲笑的に軽視しているのが明白である…野党議員が、与党に都合の悪い事を訊くと、私的な保身の態度を顕す事で公的な利益を毀損するのも憚らず、まっとうな質問であっても其の質問には徹底的に答えず、はぐらかし、全く関係ない、中身のない答弁を繰り返して、兎に角面倒な議会の時間を無事にやり過ごせたらいい、くらいの態度が露骨であり…そして…最終的には多数決で決めてしまえばいい、そして、其の事を批判するメディアは国家と資本の実力で潰してしまえと公言する事で、本来民主主義とは何の関係も無い多数決に安易に依存する体質は…明らかに国民主権を否定した多数派主権であって全体主義体質である。此れらの実例は、特定秘密保護法案や共謀罪の成立過程や、安保法制の運用実態の不透明性、武藤や二階といった自民党の議員による言論弾圧扇動、森友・加計問題での見え透いた嘘の隠蔽などを思い出せばよいだけである。無論、民主主義の不可能性については十分承知しているし、其の必要悪の最終手段としての多数決には致し方なく肯定せざるを得ないのも承知しているが…端から議論する気も無い態度も赤裸々にしている怠慢は、民主主義の方法を端から否定しているのであって…

多数決と云う、非民主主義的手法の中では最も民主主義に近いとされる手法が許されるのは、議会と云う民主主義的手法を誠実にやり尽くした結果を残してこそ肯定されるものであって、そうでないならば多数決は国民主権にとって有害なだけで全体主義に資するだけである。最初から議論せず多数決するのであれば、議会はおろか議員の存在すらも必要ない事を、即ち自らの存在を否定している事を自民党自らが公言しているに等しいのである。とりわけネットが発達した世の中…全て多数決でよいならば、例えば行政が提案した諸問題について、国民がイエスかノーかをネットで一斉に投票すれば済む話である。しかし其れでは単なる多数派主権による全体主義国家になるし、何よりも問題に対するより良い解決策を深める手法である議論の機会を自ら放棄する事になるのだから、良い解決策が生まれる条件が全く無くなるだろう。議会が機能しなければ民主主義=国民主権は見かけでさえも成立しないし、議論(他者の意見との出会い)を通じた良い解決策にも出会えないから社会はよくならない。つまんない事で皆を苦しめる単なる全体主義国家になるだけである。少数派が絶対的に正しいと云う根拠が無いのと同じように、多数派のやる事が絶対的に正しいと云う根拠は無い。少数を排除した多数派が丸ごと取り返しの付かない過ちを犯す事もあるのは、ナチスによるユダヤ人虐殺や軍国主義による無謀な戦線拡大による無辜の民の死を持ち出すまでも無いだろう。だからこそ、多数派とか少数派の区分けを解消した個々人が己の頭で互いに頭を突き合わせて話し合う事で知恵を出し合う議会が最低限必要なのである。

要するに自民党は、そして其れに追随する公明党、維新、小池新党、日本のこころを大切にする党は、民主主義とは多数決であり多数決には民主的正当性があり、多数派にこそ主権が存在する、其の事は民主的正当性に立脚していると思い込んでいる。だから、此れらの自称保守勢力は国民主権を否定する全体主義を目指す勢力である事は明らかである。加えて、多数派と云っても其れは投票の結果による議会の中だけのフィクションである。其の議会での議決に正当性を依存する内閣や政府あるいは国家の構成員は、主権者国民からしたら少数者である。にも拘わらず、此の多数派主権論者は、前述のように議会内での多数派にも主権は無いのに、其の虚構の誤謬(議会内多数派に主権があるとの思い込み)を無知蒙昧にも無根拠にふしだらに類推させて、議会内多数派によって正当性を与えられた内閣や政府や国家にも主権が存在すると思い込む、此の二重の誤謬を、さも正当性のように欺瞞的に成立させる国家主権者=国家主義者でもある。此の誤謬を思い込んでいるのか意識的に悪びれもせず悪用しているのかは定かではないし問題でもない。結果として、多数派主権論者である自民党と其の補完勢力は、全体主義者にして国家主義者であり、国民主権を否定する反民主主義者であり、従って必然的に国民主権から遊離した此の連中は社会的正当性が欠如した私利私欲、経済的にも思想的にも公的にはなり得ない私利私欲を国民全般に押し付けようとする圧制の主体にして、主権者国民の敵である事も明らかである。国家主義者の本質の発露たる、経済的にも思想的にも公的になり得ない私利私欲は例えば森友、加計問題で顕著であって…天皇家の存続と云う、かつては支配階級であったが近代以降は何て事ない一家系の存続のために臣民の生命を捧げる事を正当化した教育勅語は思想的な私利私欲を公的なものと偽る欺瞞であるからして此の勅語を教育に使う森友への支持を公言していた自民党議員の、公的な説得力を失った思想的私利私欲が明白であるし、森友=日本会議を通じて森友への有利な活動が明らかな維新も思想的同罪である。経済的私利私欲については、明らかになった森友の補助金詐取や国有地の不当な安価売却からも明らかである。あんなところに値引き額八億円分のゴミがある訳はない。其の事は、実際にゴミ処理を業者に委託した建設会社藤原工業が行政に提出した領収書でも明らかである。加計についても同じである…そして、こうした、国家主義者の本質に由来した、公的権力を私利私欲に費やした事件を、せいぜい政権の御友達と民間との癒着といった偶然的事故として解釈する事しか出来ない小池新党も、其の根っこは国家主義者にして全体主義者、反民主主義者にして国民の敵である。そして、自民党が国民の敵である事は、彼らの憲法21条改正草案で表現の自由を否定している事に究極的に表現されており、此の草案を否定しないか、此の草案の成立過程に参画していた維新、公明、小池も同罪である。自民党と其の補完勢力が多数派主権と云う内心を隠蔽して未だに表向き民主主義を標榜しているのは…曲がりなりにも今も「ある程度」は国民主権という事が国民の中に根付いている事を気にしているからであって、しかし、自民党は、小さな開き直りの積み重ねで国民主権を否定する既成事実を積み上げる、民主主義への破壊工作を繰り返しているのだから、此のままでは民主主義と云うフィクション、貨幣価値と同様の原理で成り立つ此のフィクション=社会契約が瓦解する危機に現在、あるのである…

此度の件で…保守とは何か、リベラルとは何か、が改めて巷間に取り沙汰され…無責任な論者が手前勝手に、此の国の政局の歴史や海外の事例などを、重箱の隅をつつくように枝葉末節にこだわって互いの矛盾の揚げ足取りに終始する事で徒に国民主権者を韜晦に誘う論じ方を披歴するのが、国家主義者の罪の隠蔽に加担するかのような悪意にすら思える節もあるが…保守は改憲でリベラルは護憲、などの、憲法の中身の論議を割愛した論調は本当にどうでもよい。要は簡単な話である。少なくとも此の国で云われている保守勢力は…其の実態は、多数派主権者=全体主義者=国家主権者=国家主義者=反国民主権者=反民主主義者=反社会契約者=私利私欲=法的犯罪者である。リベラルとは…少なくとも、立憲主義、基本的人権の尊重、国民主権、平和主義、を立憲民主党や社民党や共産党は明言し、自民党の憲法21条改正草案に論理的に反論しているので、彼らはリベラルを名乗る資格を有し…即ちリベラルとは、基本的人権と国民主権を第一の価値とする国民主権者にして民主主義者である。かといって、リベラル勢力の政治的力量不足、とりわけ核心を衝く質問を構成する言語能力の鈍さ、歯切れの悪さ、言語能力が保守勢力に劣ると云う救い難い罪には政治的責任が追及されてしかるべきであるが…以上のように、民主主義は多様な意見を議会でたたかわせる場であるが、此の民主主義自体を否定する国家主義者=自民党と其の補完勢力は、其の多様性の範疇から排除されてしかるべきであろう…民主主義を否定する者を多様性の範疇に含めると、民主主義自体が崩壊するからである…其れは、国民の生命と財産を守るために構成された社会において、生命と財産を毀損する者が刑法的に排除されるのと同じ論理である。従って、民主主義を否定する自民党と其の補完勢力は、民主主義において排除されるべき存在である。なんなら、自民党と其の補完勢力は、いっその事民主主義の廃止を唱えて、世襲議員による貴族制などの専制の正当性を訴えればよい…欺瞞的に民主主義の皮を被って実質貴族制をやるたちの悪さに比べたら、遥かに正直である…国民に、「どうか、国民の皆様の主権を取り上げさせてください。国民の皆様を、私たち世襲議員の奴隷にさせて下さい。何不自由ない暮らしを保証しますから、国民の皆様を私どもの奴隷にさせて下さい」と訴えればよい…其れが筋と云うものである。

と、こんな事を書いたが…小生個人としては此度の選挙…諸々の事情を鑑みて…自民と其の補完勢力の合算が、衆院で三分の二よりすくなくなればオンの字、憲法改正だけは阻止できればよいと思う…九条、憲法改正、北朝鮮、等々が絡む小生の真意は後日説明したい。

湯呑から湯気上がりおり秋来る

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