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 ロック史を体系的議論から解き放ちながら、サイケデリアの土着性とハードロックの非継承性を論ずる。主要1000タイトル、20年計画、週1回更新のプログ形式。
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忘れ得ぬ事…

静かに…外でリーリーと虫が鳴き…何かしらんが尻に十円玉ほどの腫物が出来る始末で、蒲団に寝てても何処か据わりの悪い感じに…ダニに噛まれたのだろうか…此の夏一杯かけて、天日干しや洗濯の機会を逸して昆布の佃煮みたいに体液で煮締まった敷布団にはダニどもが繁殖の限りを尽くしているのだろうか…増えに増えた敷布団の中でのダニの充満を上から定期的に圧迫する小生に一矢報いたつもりなのかしらん…今週は故あって時間が無く…家人の不在に託けての自由な酔いにふけりながら…ビールをしこたま流し込んで喉を覚醒させた後、葡萄の皮のタンニンが少ない分だけ赤ワインよりも白ワインの方が悪酔いし難いと山岡が云うから、既に鈍重に内的に獰猛の度合いを増す脳みそを白ワイン漬けにするが如くに白ワインを飲み続け、何も考える気が起きない懶惰な夜で…御茶を濁す…結局の処…未だに忘れ得ぬ事、事有る毎に折に触れては日毎に根強く思い起こされる事柄があって…

2016年大晦日の紅白歌合戦での、宇多田ヒカルの歌唱「花束を君に」が未だに忘れられず、今でも、日常の端々でいちいち思い返しては新たなる感銘に打ち震えており…出演する歌手の誰もが、渋谷のNHKホールで、年末と云う大衆的御祝いムードに便乗するようにして凝りに凝った派手な演出に浮かれている最中で…ヒカルは超然と…ロンドンかどこかの、異国の、何のかざりっけも無い簡素なスタジオで一人、華美な演出に拘泥せぬ普段着然として…しかし歌にだけは誰よりも精魂傾けて心の限りに誠心誠意に歌を尽くしている姿…其れは、「花束を君に」と云う歌の存在に対して何処までも誠実であろうとすれば当然のように行き着く姿が、まさに彼女の内面の誠実を証明するように、強靭に実現されたのであって…云ってみれば…豪壮華美を極めた聚楽第の隅に、利休が仕掛けた二畳敷の茶室の意味と同じく…そう…有楽斎曰く…派手好みの秀吉の喉元に突き付けた、利休の、侘び数奇の刃と云う風情であって…半年以上経った今でも、小生の日常は、ヒカルが日本全国に齎した情熱的で実質的な感動の余波にあるのである…一方で、同じ紅白歌合戦で、オリエンタルラジオの中田が、「ネオ秀吉」と銘打った演出で「パーフェクトヒューマン」を歌い、踊ったパフォーマンスは、小気味良いほどの現代的な桃山調の、W・ギブスンの「ニューロマンサー」みたいなド派手な近未来感で、印象に残った。

其れに加えて、数年前に公開された、宮崎監督の「風立ちぬ」を鑑賞した感動の余波も、未だに小生の日常における、宇宙背景輻射(ビッグバン由来の電磁波…宇宙空間自体の温度で、絶対温度3K(摂氏マイナス270℃)に相当)のように、しかし3Kよりは遥かに高い情熱で、此れもまた折に触れて事有る毎に小生は頭の中で各シーンを思い返しては執拗に新しく感動している、そんな日々が多分1年以上続いているわけで…小生は此の映画を映画館で4回、DVDで3回は見たのだが…此の映画の内容に対する思いのたけは過去に存分に書いたので此処では繰り返さないが…此の差し迫った時局…ともすれば国家主義的創作物や表現物があらゆる隙を衝いて氾濫しがちな時局の喉元に、敢然と宮崎監督は、反国家主義的な表現物と云う刃を突き付けているのである…補足をすれば…当時の時局にあって…余命幾ばくも無く、出産の見込みがない結核の女性との純愛そして結婚は…産めよ増やせよと、一人でも多くの兵士を量産したい国策からしたら…反国家主義的所業にあたる(次郎が、菜穂子の死後、後添えをもらう事を予期していたかも、などと云う意地の悪い邪推は必要あるまい)…現に作中でも、菜穂子のせいかは不明だが次郎は特高から目を付けられている…三菱が上から手を回して守ってくれたようだが…ともあれ次郎はそうした意味では反国家主義であり…と云うよりも…己が愛した女性がたまたま結核だった、しかし愛は結核に先立つので愛が揺らぐ事はない、と云う現実の奇蹟に何処までも誠実に向き合う姿を監督は表現したのであって…此のような、「現実と云う奇蹟」に向き合う勇気や誠実さと云った人間の原理が確立されていない愚昧で未熟な人間が、国家や資本、あるいは生命、などの「虚構の理屈」に盲目的に隷従するのであって、…国家主義を補完するようにして少子高齢化対策と云う錦の御旗に追従する浅薄な家族主義が隙あらば称揚される現在の時局にあっても、「家」を為さぬ男女の純愛を描いた「風立ちぬ」は反国家主義的映画として、国家主義的現在の喉元に対する刃の一閃である…此れが最後の作品と云う触れ込みだったようだが最近のニュースによるとまたぞろ新作の製作に着手したと云う朗報もあって、…楽しみである。

なお、「君の名は」も、専ら男女の出会いと云う奇蹟のみを執拗に描く事に執着し、国家的社会的生命的承認を端から必要としない、奇蹟に向き合う人間の原理のみを貫いたと云う意味では、国家主義が蔓延する今時局においては、殊更に反国家主義的に見えるから反国家主義的であったと評価出来るであろう…空気中を舞う塵や埃にまで光を当てて乱反射させる処まで超鮮明にアニメで描くと云う表現手法上の新機軸も新鮮であったし…しかし些か合点が行かぬのは…隕石が落ちるから避難命令を出すようにと、主人公の娘が、町長の親父を説得するシーンが、全く割愛されている処である…此の親父は神社の家に婿養子で入ったが、巫女の嫁さんを病気で亡くしてしまい、悲嘆のあまり結局神も仏もないんやとばかりに、其の神がかりの家を飛び出して、政治と土建が癒着した実業の世界で生きる事にした男であり…そんな町長の処へ、神がかりの血を引く己の娘が、隕石がどうの、などと云った、俄かには信じ難い、神がかり的な妄言を弄して公的な避難命令を出させようとするのだから、当然ながら、実業vs神がかり、あるいは親vs子、と云った対立軸が絡み合った両者の説得と葛藤の場面が想定されるが、そこん処が映画ではばっさり省略されて、姿も中身も娘自身である娘が町長に会いに行った次の瞬間、あっさりと、此の町長は避難命令を出してみんな無事、と云う結論を導き出しているのである。其の前段として、此の娘に憑依した主人公の男(高校生)が、此の町長に会いに行って避難命令を出させようとするが、さすがに町長は、姿は娘だが中身は男である異様を感得して、此の男の懇願を拒否するのである。其のリベンジとして、娘の姿をした娘自身が親父=町長に会いに行ったら、説得と葛藤の過程はばっさり省略されて、避難命令OKになると云う寸法だから、親vs子と云う対立軸は解消するにしても、要するに、実業vs神がかり、と云う対立軸による葛藤と其の解決が脱落しているのである。しかし此れは時代を読んだ、あざといまでの製作者の意図なのだろう…斯様な対立軸に拘泥する近代的な葛藤などに新海監督は全く興味はないし、其れよりもスピーディーに男女の出会いとすれ違いを描いて観客をスピーディーにやきもきさせる事に主眼を置いたのだろう…と理解する…何はともあれ、反国家主義的だから、問題は無い。

普段は腹八分に抑えているのがタガが外れて、調子に乗って豆腐を食べすぎて腹がはち切れんばかりである…

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