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 ロック史を体系的議論から解き放ちながら、サイケデリアの土着性とハードロックの非継承性を論ずる。主要1000タイトル、20年計画、週1回更新のプログ形式。
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2017年度安全保障談話

高校野球…プレイボールのサイレンの音色は云うまでもなくかつての日本の諸都市を焼き尽くした空襲の警報の其れを強く喚起させるから、自ずと、第二次大戦を経た日本人の情念、直接戦争を経験した訳でもない世代の無意識にまで刻まれた怨念の如き根深い情念と、倒錯した快楽を強く喚起させるのであって…一旦そう気付いたならば、開会式での選手入場は明治神宮での学徒出陣の比喩であろうし、選手らの体を張ったプレーで雨でぬかるんだ内野の、甲子園特有のどす黒い泥寧は、戦友の死体を食い漁る飢餓地獄を齎したインバール作戦を強く喚起させる比喩に他ならず、もっと云えば外野まで気持ちよく飛んだ白球までもが、ノモンハンでのソ連軍からの強力なる迫撃砲をも強く喚起しており…ついでに云えばファールボールやホームランは誤爆や空襲であり、スクイズやホームスチールは特攻なのか、負けた選手が惨めたらしく土を巾着に掻き入れるのは戦友の遺骨を持って帰る仕草なのか、と妄想すればきりが無く…其れは兎も角として…八月一五日を含む此の時期に、甲子園を選択して壮行される高校野球というのは奇しくもなのか意図的なのか、いずれにしても日本人の薄暗い情念の蟠りを喚起して止まない戦前の経験と記憶を喚起して止まない…良くも悪くも夏の高校野球は、現代における、かつての軍国日本の比喩、寓話、演劇であるからして、高校野球部員は学徒出陣保存会と云うのみならず、軍国日本の演劇部員たるべく、野球を隠れ蓑にした本番の上演を目指して日夜厳しい練習に励んでいるのであろう…此の事は、開会式で御偉方が、平和だからこそ野球が出来る幸せ云云と、同時期に日本各地で開催される戦没者慰霊式典で述べられるような文言と同じ事を云っているのだから、あながち間違いではないのだろう…従って高校野球と其の周辺事態を具に観察すれば、軍国日本に対する現代の認識と、軍国日本其のものとの差異や歪みが自ずと発露されるのであろうが今日云いたいのはそういう事ではない…観客席で、応援する生徒や保護者連れとは何処か異質で野卑な臭気を漂わせてビールを煽りながら真夏の炎天下の平日の昼間、孤立して高校野球を観戦する燻ぶった熟年男性らが、闇市の隅でやさぐれているヒロポン中毒の特攻隊の御方の生き残りにも見えるし、ベンチで腕組みしながら補欠選手をマウンドに伝令に出す、ふんぞり返ってでっぷり太ってユニフォームが風船みたいにはち切れんばかりになっている高校野球の監督と云うふてぶてしい、あるいは老獪そうな、傲慢そうな人種も、現場の兵站を度外視して大和魂一点張りで強攻させた作戦が多大かつ悲惨な犠牲のみを山積みして失敗するや否や自分だけさっさと安全な内地に引き返した挙句、責任は現地司令官に押し付けて自分は勲章を10も20も胸に垂らしている、無能と云うだけでは罪深すぎる、現実や人間の命よりも組織内でのウケ狙いに汲々する小官僚的愚劣中将レベルにも見えてしまうが、今日はそんな事はどうでもよいのである。尤も其れは見掛けだけの偏見であり、戦時の、官僚化した愚劣将官クラスとは違って、高校野球の監督ともなれば其れなりに有効な作戦や指示を繰り出しているのだろうが…素朴な疑問としては、高校野球は一応教育活動の一環にも関わらず、プロ野球と同等に観客席にはビールの売り子さんが上下して、大人の観客らは気楽にビールをゴッキュゴッキュしておるのは何故許されるのか、であって…高校の運動会や文化祭、あるいは他のスポーツイベントであるインターハイなどで観客にアルコールが販売されているはずはないのだから、高校野球で観客へのビール販売が許されるのは合点が行かないが、まあしかし、あの状況でビールを飲むなと云う方が間違っているのだろうと、小生も心得てはいる…

テレビと云う、情報を手短に伝えるしか能が無いメディアだから、歴史的背景にまで及んだ思想的主張の構築まで伝えきれないのは致し方無いのだろうとも思うが其れでもテレビを見ていて違和感を感じるのは、此の時期になると頻出する、戦時の悲惨を今に伝える体験談や証言の取材、であって…其の形式はどれも似たり寄ったりで、話の枝葉には体験者それぞれの差異はあるのだろうが、結局の所、「戦争は悲惨だった」→「だから戦争だけはやってはいけない」「だから平和が一番」と云う帰結の紋切り型なのである…当たり前のことを云っているに過ぎないとも思われるが、よくよく考えてみると恐るべき飛躍と論理の欠如、ひいては危うい歴史認識が存在しており、其れに気付いた時に、途方も無い、暗澹たる違和感を覚えたのであった。では、一体、どこが悪いのか。戦争の悲惨を事実として証言する事自体には何処も誤謬がないばかりか、其の事は機を見て折を見て絶えず伝え続けなければならない歴史的事実として、正当である。また、戦争はやってはいけない、と云うのも、此れ以上付け加えるべくも無い、至極ご尤もな見解である。しかし、此の両者を、短絡的に、一足飛びに、「だから」でつなげてしまう論法は、様様なる勘違いやら見解の相違、ひいては決定的な歴史誤認と無反省を導くものとして、危ういのである。しかも、此の論法は、戦後日本において庶民レベルで通例となっている、ごく常識的な見解となっているが故に、尚一層民主的承認の力の下で劣悪な未来を導きかねない、誠に危うい短絡と云わざるを得ないであろう。

何がおかしいのか、種種の論点が考えられるが…取り合えず、ああいった発言には戦争による被害者意識だけで、加害者でもあった歴史的事実への認識乃至反省が欠如している云云と云う論点は此の場では除外しておく。なぜなら其れは文章の内容が含んでいない事に関してであるからして、そうした論点で云えば幾らでも異論は噴出するだろうからである。此処では飽くまでも、戦争は悲惨だった、だから、戦争はしてはいけない、と云う文章が指示する内容のみから導出される危険性のみを抽出する。そうした時、此の文章をごく素直に聞く乃至読むならば…「だから、戦争はしてはいけない、如何なる理由があっても戦争だけは絶対駄目」、などと日本国民が云う時、ならば、其の戦争が、まるで自分ら国民の意志で勃発できもするし、あるいは止めることも出来ると云う認識を前提にしている事が明らかである。此の認識は実際の所、あまりにも楽観的過ぎており、事態の深刻さを一切捨象しているが故に、戦争勃発に係る事実を全く捉え切れていないのではなかろうか、と、少し考えたらば、誰でも思うであろう。誰も戦争したくてするものではない、しかし其れでも突入してしまう恐ろしい吸引力を有するのが戦争なのである。従って、だから戦争はしてはいけない、などと単純に帰結させる事自体が、戦争への認識を軽視しており、ひいては戦争の事実を伝えないばかりか戦争に対する楽観的な虚像を撒き散らす愚劣へと加担する事になるのだから、当たり前の事、更には世界平和にとって有益な事を云っているように見えて、実は、其の、誰もが納得するような手短で素朴な見解ゆえに、戦争の真実を隠蔽し、ひいては次の戦争勃発への抵抗力を殺ぐ事に寄与する罪深い言表なのである。

戦争を始める口実は、其の主体的関係者から見た場合、次の三つが挙げられるとする。

①天、あるいは神による災厄
②純然たる領土的野心
③自国の領土防衛、経済防衛、あるいは他国に居る自国民の防衛、あるいは他国からの侵略に対する防衛

①は今回は論外としたい。軍同士の戦闘は兎も角として、例えば空襲や原爆などに対して、此の国の国民は、どこかしら自然災害のような認識を抱いている節も否定できない…とりわけ空襲や原爆に対する体験者の手記や表現物において、降り注ぐ爆弾を自然災害かのように、其の爆弾の向こう側に実際に爆弾を落とした主体が存在する事が全く想像だにされずに、受け入れられている奇怪な諦観が、それらの端々に見受けられるのは無視出来ない、日本固有の現象、己に主体が無く戦争に追従したから(しかし、国民の主体の否定が、戦争推進の力なのである…)、だから爆弾の向こう側にも主体的人間を認めえないような状況であるが、今回は、「…だから、戦争はいけない」と、一応、話者が主体的に言明しているから、此の、戦争=自然災厄説は、関係ないとしたい。

②とは、放っておくと他国から自国が侵略される懸念が存在する訳でも無いのに、専ら自国内において内発させた領土的野心に従って、領土拡張にために他国を侵略する場合、である。例えば古代の、アレキサンダー大王のインド遠征や、中世の、チンギス・ハーンによる中央アジア遠征、などである。近代の、ヨーロッパによるアジア、アフリカ、アメリカ大陸侵略は、植民地獲得競争による経済防衛と云う意味合いで事態は複雑化するので②には入らないかも知れない。

③は、戦争を主体的に始めた者が最も多く口にする要因であり、口実である。戦争というのは、アレキサンダー大王やチンギス・ハーンのような稀な事例を除けば、ほぼ99%は、自国の領土と経済の防衛を大義名分として勃発するのであり、特に近代になってからの戦争口実は③以外在り得ない。逆に、近代以降、②のような純然たる領土的野心を発端として戦争が開始される事はなく、ほぼ絶対的に戦争開始者は、自国の防衛を口実として、戦争を開始するのである。其れは、ナチスや軍国日本の例を挙げるまでも無く、其れこそ純然たる事実である。

しかるに、戦争は悲惨であった、だから、戦争はしてはいけない、といとも簡単に楽観的に一足飛びに結論付ける時、此の話者あるいは此の文言を雰囲気的に何となく肯定する共同体が、戦争開始と停止を主体的に決定できるかのような権力を有しているかのように読み取れるのである。戦争の開始あるいは停止を、自分らの意志のみで、即ち主体的に決定できるのは、其の戦争が純然たる領土的野心に起因する②の侵略戦争だった場合にのみ、云える事である。とすると、此の話者乃至は、此の文言を肯定する共同体即ち日本人の大部分は、先の大戦は、日本による純然たる領土的野心が原因だった、とする認識を抱いている事になる。しかし、近代以降の歴史が、そんな単純な道理で動くのだろうか。先述したように、近代以降、②は在り得ないのである。従って、あのような文言が肯定される日本社会は、先の戦争は本当は防衛を大義名分としたものだったのに、純然たる領土的野心を大義名分としていた、というような、誤った認識を公言している事になる。

このように書くと勘違いを誘発するので予め抑えておきたいのは、先の戦争が防衛を口実としていたと云う歴史認識は、だからといって先の戦争を防衛戦争だったと言う意味で賞賛的肯定的に捉えている訳ではない、と云う事である。当然の事ながら、自国を攻められた中国やアジア諸国にとっては日本による侵略戦争なのだから、此の戦争が肯定される理由は何処にも無い。此処で云いたい事は、専ら日本国内においては、戦争を開始する大義名分の内実は、自国の防衛だった、という事実である。アジアの解放だとか大東亜共栄圏などと云った当時でさえも大衆向けのスローガンなどは、大陸での皇軍の振る舞いを見たら虚飾に過ぎないのは明白なので、此処では相手にしない。専ら歴史の持続性に鑑み、当時の国家指導者層は、自国の領土的経済的防衛を目的に、自国の防衛を大義名分として、戦争開始への意思決定を統一したのである。そして、防衛戦を大義名分とする其の論理とは…自分には領土的野心も無く戦争は出来るだけしたくないけれども、自分らでは主体的にどうにもならない諸状況によって国民の生命、財産が脅かされるから、致し方なく開戦する、と云うもので…国家から此のように云われたら、国民側として其れに対して論理的に反駁する事は、今の処不可能なのである…いざ国家が防衛戦を主張すれば、戦争は悲惨だからいけない、と云う反論も散発するだろうが其れは防衛戦を前にすれば情緒的な意見に過ぎず、防衛戦の論理に対抗できるだけの論理性が欠如しているから、国民や国家に影響力を齎しはしなかったし、今後もしないだろう…

簡単に日本国内の身勝手な論理の事情を紐解けば…南下してくるロシアと清が朝鮮半島を廻って勢力争いしている状況で、清が朝鮮を占領しても遅かれ早かれロシアには敵わないから、そうするとロシアが朝鮮半島を植民地化する可能性がある…そうすると対馬は直ぐそこであり、領土的野心旺盛なロシアによって北海道や対馬などの自国の領土が済し崩し的に侵されるのは時間の問題である…折しも日本国内は金融恐慌やら大恐慌やら飢饉やら米騒動やら労働争議やらで絶望的である…差し迫った内憂外患を何とかするために…従って、まずは朝鮮半島に対する清の関与を切断するために日清戦争を起こして清を排除…ロシアに取られるより先に朝鮮半島を併合しておいてロシアの南下を防ぎつつ…満蒙で好き勝手しているロシアといずれ一戦交える事になるのだからと日露戦争して辛くも勝利…満蒙に日本の権益を確保…そうすると大陸における日本の権益は、当然のように自国の利益の防衛の範囲内に拡大指定され…日清、日露戦争で流した数万の将兵の犠牲を思えば…満蒙での権益は自国の領土其のもの、満蒙は日本の生命線である云云、として…何かと日本の権益と競合する中華民国の影響を排除すべく満州国建国…事変をでっち上げて日中戦争勃発…いろいろあって満蒙の権益に口を出してくる欧米とも開戦…と云った流れなのだから、日本側の論理からしたら、日中戦争、太平洋戦争は、侵略ではなく防衛戦争なのである。そして、幾らでも拡大解釈される此の防衛戦争は、防衛を大義名分として侵略戦争を拡張して行くのである… なお、このように書くとロシアが全て悪いと思われるが、ロシアとて国内事情と欧州との確執を抱えての、「防衛上の」必要性を大義名分として極東アジアへの侵出を決め込んでいるのである…

要するに…戦争は悲惨である…それはそうである…しかし、だから、戦争はしてはいけない、などと短絡させて、まるで先の戦争が、純然たる領土的野心から勃発したかのように捉えて、防衛戦争を大義名分とした歴史的事実を隠蔽するならば、今後、またしても国家が、防衛を大義名分として戦争を開始しようとした時に、戦争はしてはいけない、などと素朴に抗弁した処で何の意味もなくなるではないか。仮に先の大戦が、日本の純然たる領土的野心に起因したならば、其れは国内のみの内心の問題だから、戦争はしてはいけませんね、悲惨だから、などと主体的に思い返すだけで、戦争は防げるだろう。しかし、先の大戦も、そしてこれから起こるかもしれない戦争も、実際には、絶対に、日本の防衛を大義名分として誘導されるのは目に見えているのである。従って、戦争は悲惨→だから戦争は駄目、のような素朴な論調を馬鹿みたいに肯定的に繰り返すことは、戦争を領土的野心のみで捉えて、実際の防衛戦争を大義名分とした場合を全く隠蔽するものだから、今後、いざ、国家が、防衛を大義名分として戦争を開始しようとした場合、其の防衛の論理に抗うカウンターの論理を構築する機会を徹底的に奪っている事になるのである。そして遂には、過去と同じように、防衛戦争の論理に抗いきれずに、打ち負かされて、同じように、戦争開始へとなだれ込むであろう。従って、国家が、内憂外患の行き詰った状況で、領土と経済の防衛の論理を振りかざして戦争開始の是非を国民に問うた時、いまだに国民は、此の防衛の論理の正当性を打破しうる論理を構築出来ていないのである…そうするとまたずるずると、先の大戦と同じように、戦争に対して非主体的に隷従的に引きずり込まれ…そうすると、仮に人類滅亡を免れた「戦後」が存在した場合、無自覚に戦争開始に追従した過去の大戦と同じ轍を踏むように、其の再度の「戦後」も、戦争に対する自堕落な無反省を繰り返して、馬鹿の一つ覚えみたいにまたしても戦争は悲惨だから戦争はいけません、などと能天気に自慰し続ける羽目になって、結局また戦争が再発するのである。そうするに、こんな無反省無自覚な現在の状況は、とても胸張って「戦後」などと云えないのである。従って、もはや戦後ではないどころか、いまだ戦後ではない…こういう事を小生は危惧するのである。

従って、悲惨な戦争をしないためには、国家が提唱して来る防衛の論理を超克し、防衛の論理を破綻せしめる別の論理を構築する必要があるのだが、実際の処、国内は元より現状の国際関係が国民国家意識を超克し得ていない以上は、如何ともし難い…国民国家を超克する布石であるはずの国連も、民主主義を標榜しながら、実情は常任理事国の特権によって、世界で最も非民主主義的組織として甘んじている体たらく…しかし世界政府の方向性は必要としつつも…しかし、世界政府成立など待ってられない切迫した昨今だから、まずは、現在の、国民国家が群雄割拠する状況で、国民は、戦争反対の論理を構築しないといけないのである。此れについては、別稿に譲るが…小生のもくろみとしては…やはりルソーの社会契約論であって…しかし…ルソー自身は、社会契約論の中で国民主権と基本的人権の絶対的理論を構築しえたにも関わらず、国家が主導する防衛戦争に対しては、肯定的であり、いざ戦争となれば、国民は人権を放棄して戦争に奉仕しなければならないとしている…しかし、当のルソーの理論を敷衍し、徹底すれば、其の防衛の論理さえも打破できると考えるので、そんな試論を展開したい。ともあれ、防衛戦争の論理を打破するための困難とは何であろうか…其れは、防衛の論理と、戦争はしてはいけないと云う、いわゆる非戦の論理が共に、国民の生命と財産を守ろうとする基本的人権を根拠としているから、非戦の論理だけでは防衛戦の論理を否定できないのである…無論、大局的には非戦の論理の方が、目先の事情のみを勘案する防衛の論理よりも、人権を守る事になるから、非戦の論理の方に人間の英知を認めて防衛の論理を批判する事は出来ようが…しかし、当座の、切羽詰まった、今日明日を生き抜かなければならない命にとっては大局も小局も無いのが実情なのだから、非戦と云う大局の正義の犠牲になって自分らの生命や財産が犠牲になるのは我慢ならないから手っ取り早く防衛の論理に走るのが人情である…従って、非戦の論理では容易に防衛の論理を崩せないだろう…其れは畢竟、国民国家、ネーションステイトの限界である…

其れはさておき…「戦争は悲惨である→戦争はしてはいけない」式の、単純なスローガンを掲げるリベラル勢力には、防衛戦争の正当性の論理を破綻せしめる別の論理を構築できていないと云う功罪を、此れまでの論考で明らかにして来たが…リベラル側の、こうした空疎な、抵抗の論理の脆弱性に付け込むようにして、ハイエナ保守の連中は、リベラル側の此のスローガンを、いわゆる「お花畑」として批判するのだが…リベラル側が、防衛戦争と云う大義名分に対して無反省で無自覚だから、ハイエナ保守に付け込まれるのだが…だからといって此のハイエナ保守の連中が、国家が主導する防衛の論理を超克し其れに対抗して戦争を回避できるだけの、別の、真に人間的な論理を構築すべきと主張しているかと云うと全くそんな事はなく、むしろ此のハイエナ保守は国家の尖兵として此の防衛戦争の論理に乗っかり、悲惨な戦争推進の駆動力に追従するだけなのだから、取り立てて褒められるものではないどころか、積極的に公的に弾圧すべき対象でもある…現実との格闘とは…すぐ目先の、尖閣状況の危機を煽り立てる事も些事とは云わないが…其れ以上に、防衛の論理に縛られた過去と現在の国民国家の状況をまずは分析的に認識し反省し対策を練る事ではなかろうか…そうでないならば、此のハイエナ保守も結局は、お花畑リベラルと同じ穴の貉である。否、むしろ、ハイエナ保守の方が積極的に防衛の論理を加速させて人命を軽視する事甚だしいから、たちが悪いのは云うまでもない。

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