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 ロック史を体系的議論から解き放ちながら、サイケデリアの土着性とハードロックの非継承性を論ずる。主要1000タイトル、20年計画、週1回更新のプログ形式。
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「荒井由美/cobalt hour(1975)toct-10713」処暑



およそ十分おきに下痢しに行っているがそれでもよく冷えたビールを腹に流し込むのを止めるつもりはない…もう、あらかた出し終えて、行っても、臭い屁と、ナメクジほどの糞しか出ない、いくら苦しくイキんでも…ちょっと行ってきます…戻った…そして飲む…リーリー虫の音が…一雨ごとにどころか一発の雨でもう秋か。だいたい、雨が今日になって降る前から、いぎたなくももう秋を感じ、きちきちと苦しゅうなっていたのであった。忍び寄る修羅場に向けて心の刃を粗く研ぐのは怠らぬとしても心の萎えがあらゆる些細な現象をも過敏にとらまえては無かった事とする言い訳に仕立てようとする手際の良さだけは虫唾が悪くも、利発だ。気が狂いそうだ。運命の懐柔工作など性根の腐った幻に過ぎぬのに、矛をおさめようとしてどうする、まだ、矛をおさめるつもりはない、往生際を悪化させねばならぬ…もたついているうちに外部から決断を迫られる決定的な時が忍び寄っているのは分かっておろうに…最早、形振り構わぬとはこのことか…結局、映画「風立ちぬ」を、盆休みの初めと終わり、2回も、映画館でねっとり鑑賞したのであった…そればかりか、さもしくも、まだ見足りないとばかりに、今更、あわよくばもう一回足を運びたいとすら思っている…しかし2時間近くもまた、内容を覚えている映画にまた費やすなど、そんな時間の余裕が己にあるのか、別種のさもしさが頭をもたげ、徒にうずうずするのみで何も手につかずかえって時間の無駄を費やす破目に、…美しかったのだ…美しければ、それでよい…そんな捨て鉢に陶酔させて、何が悪いというのかと開き直るほどに、膂力無く傾倒する己のひ弱と日常の萎えが専らの原因で、作品のずば抜けた優れのせいなどではない、もっとよい映画は巷間にそこそこある、しかし、もう、よい映画をがつんと受け止める気力も耐力も、憔悴しきって…風立ちぬ…いくらでも映画のそこかしこや映画中で頻繁に云われる美しいという概念についてなどをあげつらっての批判などはいくらでもできようが、もうそんなことはどうでもよい、美しいのだから…監督の、飛行機に対する思想はよく分かったがこの際それもどうでもよい…ゼロ戦設計者の堀越二郎と大正のあの時期のあの作風の小説家の堀辰雄を「堀」つながりでくっつけちゃう創意は、全く成熟した大人の監督の発想である…粉雪が風に掠れるように舞い散る中、もう、わざわざここで小生の駄文が映画を汚す必要はないだろう。菜穂子の、凛として、すっきりと、けなげで本質的で、可憐な輿入れのシーン…野の花の生涯のような…その時の自分の心のままに病院を抜け出した菜穂子の灰青色のふっくらよく伸びた髪に差した白い花の何とも映えることよ…高まった感情のままの咄嗟の装いが信頼できる人への篤い礼にもなる奇跡の白い花が美しくって…幼き頃は二等車に乗っていたのが山を下りる時は三等車になっているこだわりも、いちいち泣かすし(小生は泣かなかったが)…人間の意志=尊厳が、きちんと、内的にも外的にも、すっ、と尊重されている、美しい夢のような映画だった…外部や他人がごちゃごちゃとつまらん御託を並べて人のやる事の足を引っ張ったり、内部や自分が率先してそれらに後ろ髪引かれて煩悶するといった汚物が排出されない、できるだけスムーズに人間の意志が尊重されて事が渡っていく決然、それがすなわち、粋、であり、心意気、というものであり、非生活的だけど、そういう瞬間にこそ、創意というのが自然と生まれる、そう、黒川夫妻がはからずも仲人になった不時の婚礼のように…公的ではない、あくまでも私的に差し迫ったところに創意が溌剌する、茶の湯しかり、婚儀しかり…もう、音ばかりが、よく聞こえた、音ばっかりの映画とも思えるし、黒川主任…映画の中では一際魅力の気を吐いていたが現実での小生との関係を想念すればうまくやっていけないだろうなあああいう人とは、などとつまらんことを思ったり…とにかくまた風の音や爆撃機の音、震災の音、ドイツの石畳の影の音、黒川家で何故か押し寿司をこしらえている音、こまごました音をずっと聞き続けていたい、20世紀初頭の日本とドイツの調度品や風景の、監督こだわりの描写をまた味わいたい…黒川主任の離れの床の間に飾ってあった薄汚れた、黄色っぽい香炉が気になるがあの時代に、財閥の数寄者以外で黄瀬戸が出回るはずはないし、気になってしょうがない、あれは何焼なんだ、もっと詳しく見せてくれ、あるいは詳しく描いてくれ、と…軽井沢での、自分の今の生活からすればほとほと非現実的で美しい夢のような余暇の豊かさに小生も浸りたい、…あくまでも、美しい夢、と書かねば気が済まぬ。夢のように美しいとは書けやしない小生の荒んだ生活からすれば、夢は現実よりも現実的で生々しく問題を突きつけてくる苦しさ以外のなんでもないのだから…何かしら口上の一つは覚えておきたいものです。小生も、「申す。七珍万宝打ち棄てて身一つ山を下りしは見目麗しき乙女なり…」したい。映画の中の喫煙がどうのこうのいうのはゲス、問題外、ここで言葉を費やすまでもない、頭の悪い人間というのは本当に絶望的に頭が悪いとしか言い様が無い。いね。まあなんにしろ懸案の荒み宣言を起草しおえて今は弱りきっている、弱っていないときなど皆無だが、今はとりわけ…後はねちねち推敲するだけで、脱力とほてりの残響がまだ続いている…きれいなものが見たい、もう、縋るように、ただそれだけである…でも日曜日に出歩きたくはない…映画のエンディングにあった荒井由美の「飛行機雲」ってこのアルバム「コバルトアワー」に入っていたかな、と思って聞くも、残念ながら収録されていなかった。「ルージュの伝言」が入っていた。今となっては、もう、全ての楽器がクリアで輪郭が鮮明なこの、和臭ティンパンアレー系の音作りというのは昔よく聞いていただけに今となってはついていけない、くっきりすぎるベースがいやらしく聞こえて耐え難い。和臭ティンパンアレー系のこだわりのアレンジにも、荒んだものしか聴けない今となっては耐え難い…挑戦的でタフで、人生の機微や自然のぎらぎらをぐんぐん受け止めた腰の据わった感情をきちんとした独自の言葉できらきらと輝かせる、自分にも他人にも、迸る無償の愛ゆえに厳しい、凛とした女性として荒井由美の人格や、ついでに吉本バナナの人格が聞こえるわけだがそういう人はそういえば他にも居たなあ、実際に会った事があったなあ、と、つくづく思いつつ、他の楽曲はスキップして陽気なルージュの伝言だけを2、3回聴いた。「卒業写真」は、ちょっと男の自分にはついていけず、聴けなかった。堀辰雄は中、高校生の頃によく読んだものだった。堀辰雄論ひいては大正文学論はここでは省くが、彼の小説の、英語の関係代名詞を直訳した長い文体が日本語表現に新たなスリルを生んだ手際のよい複雑さに森のように魅かれていたのであった…映画の中では、ヴァレリーの詩句を、恐らく観衆に分かりやすいようにという商業的配慮から、あるいは、さほど日本の古語に詳しくないかもしれない飛行機技師の二郎自身が外国語を日本語に翻訳したという脚本上の設定を重んじるために、二郎に、「風が吹いた、生きようと試みなければならぬ」と直訳調のセリフを言わせていたが、ここでは、もう、素直に、堀辰雄の有名な翻訳で、「風立ちぬ、いざ生きめやも」と二郎に云わせてもよかったと思う。そうすることで堀越二郎と堀辰雄の邂逅という作品ならではの出鱈目を映画の中で高らかに謳うべきであった。夏の休暇中、四国高松に物見遊山。西国で1、2を争うほど長大な商店街があると知り、歩いてみるがアーケード街のあまりの長さ、先の見えなさに意気消沈、戻らなければならないことが重くなって終わりまで行けず中途で戻る…各地の地方の商店街廻りを好む小生にあっては初めてのノックアウト。兎に角長すぎる。街の目抜き通りから一本入ったところがメインの商店街で洒落乙な明るい雰囲気だが、さらに一本入ったところの商店街が、昔ながらの、暗く汚れた、コクのある飲み屋が文字通り軒を連ねる古格ある商店街である…ライオン通りだったかな…そこで大衆居酒屋に入るが人と喧騒が多く、まずは待たされ、暑いのに店内もエアコンが効いていず、つらそうなので、「もうちょっと待っても」という細君のいう事聴かず、待つのが我慢ならず、いくらか待たされた後に店を黙って出る…つらつら獰猛そうな店先を眺め歩くに、「洋風居酒屋「風」」という小さな看板が2Fまで続く細い階段の前にある。奥方連れでもあるし、あまりやけっぱちな居酒屋に入るのも怯えられるから、ちょうどよいと思って入店…客は男一人、さっぱりした内装の清潔な店内で、カウンター席と、テーブル席が二つである。メニュを見ると、「洋風」というように間口が広い言い方をしてあったがその実、ロシア料理を専門的にカジュアルに提供する新趣向らしく…つき出しの野菜のキッシュが、旨すぎる…注文した種種のロシア料理の名前は覚えきれないが、料理につられて、酒も変えざるを得ぬ…店側にはシェフとバイトの男のふたりだが、このバイト君、サーバーからビールをつぐのがうまくいかず何度も泡だけをグラスに満たすしくじりをしでかし、見かねたシェフがかわりにうまいことやる危うさもあったが、料理の工夫は確かだ。肉と小麦粉の味が際立つピロシキでひもじかった腹を温めてビール二杯のあと、料理のコクに合わせて、ギネスビール、赤ワイン2杯、そしてウォッカのロックへと推移し…ウォッカといえば小生、学生の頃、いろいろわけあって後輩が住まう仏教施設の座敷でウォッカと日本酒を混ぜて煽り飲んで意識を飛ばし急性アルコール中毒、友人に救急車呼ばれて搬送、入院、点滴、という苦い思い出があって遠ざかっていたが、十年ぶりのウォッカ…かつては味わいなど分かろう筈も無かったが、シベリアの針葉樹の幹がそのまま一気呵成にずどん、と酒になったかのような野趣あふるる苦味と風味が、今までになく旨い…焼酎よりは好きかもしれない…塩の効いた、味の層は浅いが生半可ではない牛の旨味の鋭さが生クリームの中で呈するビーフストロガノフにこのキツめのウォッカが、いみじくも、合う。静かでいい店だった。正解だった。高松城見物…堀に海水を入れているらしく、餌をまくと日に焼けた黒い鯛が群がってくる珍光景…石垣はそんなによくないな…城の中では讃岐の新進作家さんのクラフトフェア&カフェ的な洒落乙な催しもやってはいたが、もう、旅の行く先先で自分が欲しがるものが手に入ってしまうという現実に嫌気が差して、購入は控えた…業務用扇風機に吹かれながら往時の殿様が愛でた立派な蘇鉄の庭を眺め…ステンレスをばしばしアーク溶接したようなインダストリアルにさばさばしてかっこいい洒落乙なプロダクツのポットに触手が伸び、これで珈琲豆に湯を注ぎたい欲望に駆られたが、上記の内的事情で、よしておいた。久方ぶりの瀬戸大橋から眺める景色は時間を忘れさせるほど爽快だった。列車の進行方向と逆向きに座らざるを得ない席しか空いていずそこに座ったから吐きそうにはなっていた。高松市美術館にも抜け目なく来訪、幕末の工芸家、玉かじ象谷を彫祖とする讃岐彫の、象谷の弟子筋の人間国宝たちの彫漆作品の超絶技巧をつぶさに鑑賞…コウモリとナマズと白菜といったモチーフの取り合わせも激しくて、まったくかなわない、小生こんなところでなにをやっているのであろうか。


 

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