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「van morrison/astral weeks(1968)us:1768-2 europe:246024」夏至
下線部緊急追記(2011年6月26日午前9時50分)
朝のニュース番組…膝上30cmの短いスカートから生脚を見せる、甘ったるい顔の女性レポーターが最近多く感じる…朝から甘ったるくて気持ち悪い…どこまでも従順に保守的な人格がうかがえる…一方で、女性の服を売っているショップで、ブラウス売り場をまさぐる小生…「これは工夫が凝らしてある」「この刺繍とヒラヒラの造形が斬新であるな」「ガーゼ生地か…ナチュラルよの…」などとぶつくさ思いながら、女性客や店員の目も多少気にしつつ、全品きっちり目利きする。
クーラーから出る機械音ではなく、冷風がさあさあ出る音が好きだ…よく耳を澄ますと、わずかな乱流が、風向きを指定する魚の鰭の如き舵のような部材に当たるためなのか、夜水引き入れた田にぬるむ蛙どもの鳴き声まで聞こえるようだ…乱流の音が蛙に聞こえるのか、それとも本当に、クーラーの冷風音に混じって蛙の下戸下戸も混じっているのか分からぬ…クーラーを消せばその真偽明らかになろうが、暑すぎてそれは出来ぬし、それをはっきりさせる気も、毛頭ない…クーラーも蛙も、有ろうが無かろうがさわさわ下戸下戸鳴いておるよ…。
先週末、大阪、雨の新世界、鶴橋温床旅行から帰る…過ぎ去ってしまったということが今だ納得しえず、今週の金曜日、大阪への旅の支度をいそいそと始めてしまいそうな自分がいた…もう終わってしまった事なのに、それが過ぎ去ってしまった事への深甚なる心のうろたえは自分でも計り知れず、夢見心地と虚脱感で地に足つかず生活の実際に萎えきっている…国立民族学博物館の、圧倒的な数量と質の民族収蔵品を思い出すにつけ、メルビルの白鯨を読むのが一層面白う感ずる…文明と文化が各国で一体化していた時代を思い、西欧科学技術が文明を文化から拉致した挙句、文明=科学技術へと矮小化され統制化された現在を思う…まあ、何にしても、名品というのは思いの外デカいな、とつくづく思う…大人ぐらいの直径の石貨も立てかけてあったし…新世界で串カツとビール、外は割り切れぬ雨模様…最近小生がウイスキーを嗜むのを知っている友人から、どういった銘柄を飲んでいるのか聞かれ、「黒ラベル」と答えてしまう愚かしい始末…どこまで惨めに、情けなくなれば気が済むのだろう、小生は…黒ラベルはサッポロビールの銘柄だろう…しかもこのビール、小生は飲んだ事も無いのに、自堕落にテレビやなんかの宣教に洗脳されて、宴の先発のビールによる、忍び寄る老いによるいささか早すぎる酔いがあったとはいえ、決定的な間違いを真顔で晒してしまったのである…どうしてこういう大事な時にこういう間違いを犯してしまうのだろう、思えば、一事が万事、こうした些細な体たらくでいろんな事態を台無しにしている気がする…ニッカウヰスキーのブラックのことなのだろうと件の人にフォローされ、話の流れで、表面上は何事も無かったかのようにその話は過ぎたが、意味も無く、忸怩たる思いは、内容の無い悔悟と共に渦巻いていたのである。その時、きちんと正確に答えられたからと云って、小生が日頃悶々と考えるでもなくまとまりもせぬが徒に怨念のように蟠りがきつうなるその一端でも披瀝できるかと云えばそんな器量があるはずもないのだが…彼のあの発言に対して、こう云えば、もっと話は深まったかもしれない、小生の取るに足らぬ拘泥疑獄がへどろのように吐き出せたものを…といぎたなく後悔したところで、一週間たった今となっては、どの発言に対してどういうべきだったのか、その内容丸ごと忘れてしまい、あるいは、そもそも何も思っていない、内容すらもともと無かったのかもしれず、どうしようもない…同じくどうしようもないニーチェを読む…ふて腐れて荒んだ、山の現場の職人らが週刊現代とか週刊大衆などを睨み付けるようにして、足をトラックのハンドルの上に投げ出しながら読むように、小生は、善悪の彼岸などを、憂さ晴らしに週刊誌感覚で読む…哲学や教養が到達しえた、最高にして最低の書物。告白というほどでもないが、小生は週刊大衆や週刊現代や週刊実話なんかも、憂さ晴らしのために実際に読みまくっている。だから、ああいうのを読んでしまう人間の荒んだ気持ちというのは痛いほどよく分かる。書物は下劣なだけでも構いはしないのだが…。製品の不具合が見つかり緊急の設計変更となり現場では対応できないため、来週から手作業で片っ端からやらされる、工場での勤労をとりあえず三週間限定で命じられる…若年性認知症ほどではないが認識やら実行やらが軽く壊れている小生がやるのだから、しくじるのは必定、仕事を増やし続け怒鳴られ続けるのは目に見えている。労働基準法ぎりぎりまでの残業と休日出勤を一方的に強制通告される…こういうのを、剰余価値説における、資本主義による搾取という…しかし、日頃の、組織の制度と人間の感情との狭間で渡り合うことが不可能なことによる水圧のような出口無き軋轢や恨みから一時的に解放されはする。それでも、いずれにせよ生活地獄である…いずれにせよ毎日くさくさしている。その手で何一つとして物を作ったことがないアナウンサーや評論家どもが物作り立国などとのたまうのは論外に吐き気がするが、一方で、実際に物を作っている人間の、一見如何に謙虚に見えようとも、その社会的安定感から嗅ぎ付けることもできる、生産体制を後ろ盾にした傲岸不遜なる態度も気持ち悪い。この生産体制を何とか破壊できないものか…破壊できるとしたら、自分しかいない、己の身を挺して…。
ヴァン・モリソン。英国。是無の声…極度に粘っこい声質だが熱いということは決してなく、むしろ冷たげなのが不思議である…雪原が荒漠たる岩の島の底にはマグマがとぐろ巻いているアイスランドのような国柄なのかアイルランド気質なのか…兎に角粘っこく、端的に、うるさいといっていい。全然ソウルフルなんかじゃない。25年ほど前の日本の電気製品の興亡を知っている世代の人がたまに「ファジー」という言葉を使うのを聴くと、その当時の記憶を有する小生でさえも何となく鼻白む思いが拭えぬ…自然現象や数理現象を複雑系で捉えるのが流行った時代、揺らぎとか1/f揺らぎとかがもてはやされ、そうした理論に基づいた動きが人間に優しいという事で扇風機の風量の振幅に応用されていた頃…ヴァン氏の音楽はまさにファジーに、人のノリを容易に許さぬ不確定な揺らぎを備えた珍妙なリズムを繰り出してくる…楽曲に、その楽曲とは別個に設えられたかのような薄暗いストリングスが不安定に打ち寄せてくる…地震の長周期振動に揺れる高層ビルの上での体感のような、気持ち悪い揺れがまことに大きくうねる。いわゆるプログレの変拍子のような、凡俗のリズムからの尖った反抗的逸脱とは異なり、音を聴取し始めた時点で決定的にずれてしまっている違和というのが、将来解消される可能性が絶無なままに、ようするにおかしいのである。何の技巧も仕掛けも突出することなく、極めて自然にずれてしまっている。他の楽曲も、たとえば、フルートやらドラムやらが、それぞれ互いが聞こえない丘の上で自主練習している音を、何の調整も無くスタジオワークで合体させてしまったかのような、それぞれの楽器の、リズムに追従せぬ気ままさがのどかに狂っている。しかしそれぞれの楽器演奏がこれ見よがしな前衛的にずれているわけでもなく、ぎりぎりの処でまとまっているように聞こえて、しかし、それが偶然によることをきちんと知らしめてくる、そういう意味で生活感あふれる音楽なのである。アイルランドがどうのロックがどうのジャズがどうのと云おうと思えば云えるのだろうが、彼の音楽に、そんな説明は侮蔑であろう、途方もない珍妙音楽がここにあった、今もある、と、放置するべきだ。二日前に、百円を拾った。
van morrison:vocals, guitar
jay berliner:guitar
richard davis:bass
connie kay:drums
john payne:flute, soprano saxophone
warren smith,jr.:percussion and vibraphone
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