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「bastro/sing the troubled beast+diablo guapo(1989-90)pcd-23590」左京忌
日本酒のつまみには、味付け一切なしの炒り大豆に限る…淡白で芳しいかおりが一噛みで砕けては去る小ざっぱりした無味が、酒の旨味を引き立たせてあまりある。萩焼藁すぼ形徳利、掻き彫り花鳥呪紋青磁盃にて。
なぜか首筋が痛み続ける。こめかみを中心とした頭痛が止まらない。頭に風船をつけて、その浮力でもって首への負担を減らしたい切実な思いに駆られる。それでも頭痛は治らないだろうが…あまり首筋をもみ続けると大事な神経系がやられそうで怖い。
昨日も今日も、虫も殺せなかった極貧の農民が満蒙の地でいかに憲兵隊として完成され、中国の人たちに残虐非道の限りを尽くしてきたかが書かれた本を読み続ける…関東軍潰走、赤軍につかまったチチハル憲兵隊の土屋氏らは5年間、シベリヤ抑留で瀕死のどん底を生き抜いた後中国共産党政府の引き渡し要求によって中国へ送還され、日本人戦犯管理所で拘束される…シベリヤでは零下40度の中、一日二回の水のごときコウリャン粥を与えられるのみで過酷な伐採労働を強いられてきたが、中国ではなぜか労役も強いられず、しかも毎日鱈腹の白飯に肉、野菜が日に三度、与えられた…はじめは「大和民族の優秀さを中国人は理解しているから厚遇してくれているのだな」程度にしか思っていなかった旧憲兵隊らは、いつ処刑判決が下るか分からぬ不安な日々においていつまでたっても裁判が始まるわけでもなく厚遇される生活が4年近く過ぎたころ、自分らがやってきた残虐行為を思えばすぐさま拷問で殺されても仕方がないはずなのに逆に丁重に扱われることに良心の呵責が芽生え始め、ついに、床に膝をついて泣き崩れ、自らの罪を自白し始める…そう、これは当時の中国共産党の政策で、自ら積極的に罪を認め心底からの反省を促す認罪運動というものであった。下部構造(白飯)の質を高めることで上部構造(反省、悔悟)の質も高めるという、よくできた応用例ではあった。シベリヤでは過酷な抑留の合間での赤軍からの取り調べに対しいい加減な回答で済ませ、裏でベロ出して北叟笑んでいた元憲兵隊らが、中国ではこのように豹変したのだった。当然ながら歴史のことゆえ、あらゆる例外は存在しただろう、この本に書かれていることが全てではないだろう。
今のようにインターネットもない時代、一応戦勝国の中国が日本人戦犯を秘密裏になぶり殺しにするくらいわけなかっただろうしそれを実行する十分な理由も日本人自身が作っていたにも関わらず、4、5年かけてタダ飯食わせてでも自らに反省を促そうとする気の長い、根気強い人間観は、やはり、この当時の、毛沢東がいた頃の中共というのは論語や韓非子、老子孟子を生んだ国としてのしたたかな寛大さや余裕を駆使する大陸的発想と云うのを保持していたのだなと思わせる。共産党が好むいわゆる自己批判はともすれば性急で形式的になりがちだが、諸子百家の伝統が通底した時にそれが人間臭く生きてくるのを、文革以前の中共は知っていたのだろう。そう思えば、どうも漢文臭いことばかり言っている日本の初期無政府主義者、石川三四郎の文章なども、これまでと違った読み方が出来るかもしれない。いわんや、昨今の、高速鉄道の事故処理を巡る対応を見るに、中共の資本主義的堕落というのは、相場(情報)の動きに一喜一憂する場当たり的な貧相へと矮小化の一途を辿るのみである。無論、我々にしたって、神も仏も知恵も無い議会制民主主義が、自らを主体的に律しえぬゆえに創作した市場と云う自然に取り縋る資本主義に振り回されながら、さらなる人間性の卑小化を生き抜くしかないのだろう。
社会的能力的ヒエラルキー的理由などいろいろありはするだろうがそんなものはもうどうでもよい、畢竟、他の人間から、下の身分として、馬鹿にされて当然のようにして扱われることに、これも金のうちとして我慢する理屈も空疎に棚上げされるがままに、もうこれ以上こらえきれぬ、表象せぬ憤りのみがいたずらに根を深くするのみである。小生がかような構造に心身ごと同調できず批判するがゆえの見返りに過ぎぬと分かってはいる。殺伐とした、見るもの触れるもの全てに過敏に毒つきたくなる、余裕のない、イラついた心の伴奏に相応しいのはやはりロックと云う如何わしい底辺の音楽に限る…バストロ、アメリカ80年代末のハードコア…もはやパンクやメタルといった言葉も意味をなさず死語に等しく成り果てた芸能者たち…メタル的ドスの効いた奏法が重厚に、逆立てた鱗を土壁にごりごり擦りあてながら路地を高速徘徊する亜細亜の龍を思わせる圧密された音圧。筋肉質の白人が身勝手な狂気を吐き散らかすが切れ味は鋭くなく、繊細なる鋭利さでもって対象を切るというよりも、対象よりも固い棍棒でもって兎に角ぶん殴る類の冷静なる凶暴である。肉を切るのではなく肉を叩くという執拗さ。一歩間違えれば体制の犬になりかねぬような…時折シロップの如き叙情を垂れ流すことも忘れはせぬ。しかしそれでも…小生のやっかみなのだろうか…どうしても、パンク的精神を経由したハードロックの一典型、というふうに聞こえてしまう。それはそれで悪くはない。しかし、そうした経緯のややこしさによってまことの混沌、即ち正方形に混沌の姿を見るが如き危険な混沌が無かった事にされ、ただのジャンル横断的消化試合的発想に格納されるきらいがあるのが、何とも遠まわりに思えるだけである。サイケ、ガレージからしか、ハードロックという閃光は聞こえはしない。パンクやグランジ、オルタナなんぞへの道草乃至は迂回も、殊にハードロックという途方もない音楽からすれば、道は全ての道に通ずるという常識をあてにできないだろう。延長なのか飛躍なのか判然せぬが歴史の時間軸としてサイケ/ガレージの次に来たハードロックという事実を主体的に生き直す素直でもあるし途方もない愚鈍こそがハードロックを聴きつけるし演奏するだろう。袋小路にしかハードロックは存在しないし、道なき荒野にしかハードロックは佇まない。狭き門より入れ、ということなのか…。
バストロ聴きながら、盆灯篭界の新型モデル、蓮の花を蛍光ダイオードで縁取った妖艶なものを買いに行くと、無かった。先週はあった。どこぞの数寄者に先を越されたらしい…品物との出会いは一期一会、なぜ先週即断即決でお助けしなかったのか、幾度も経験したことなれどまたしても拙劣にほぞを噛む思いだ…イライラする…
デイヴィッド・グラブズ:ギター
クラーク・ジョンソン:ベース
ジョン・マッケンタイア:ドラム
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