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 ロック史を体系的議論から解き放ちながら、サイケデリアの土着性とハードロックの非継承性を論ずる。主要1000タイトル、20年計画、週1回更新のプログ形式。
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「talking heads/remain in light(1980)wpcr-2664」小鳥



 台風が来る度に、愚かしいと分かってはいても、命(と小生所持の茶碗と掛軸とその他古陶磁とCDと蔵書と金と盆灯篭)だけは残して、それ以外はみんなぶっ壊してくれないか、という未熟な、無責任な破壊願望の拠り所にしてしまう。台風直撃を願っている。断水と停電くらい我慢する覚悟である。

 野分に乗って速さスコブル小鳥群
 
 去年買いそびれた、銅細工の泡沫水中花盆灯篭を今年こそはゲットするつもりだ。しかし、昨日目撃した、造花のハスの花びらを、蛍光クラゲのようにあやしく発光するダイオードで縁取った、盆灯篭界のニューフェイスも捨てがたい、と、悩んでいる。

 先週、近所のスーパーで買い物していると、店内では、凶悪な司祭血祭り系のデスメタルがBGMとして絶叫していた、と同時に、その店の生温いテーマソングも鳴らされており、おかしな世界となっていた。今となってはこれも、自分の妄想なのか、と疑獄に陥る。

 山田洋二が、「復活」というテレビ映像を作っていた。遊園地に展示されていたSLを修理して実際に軌道で走らせるまでの技術ドキュメンタリーである。そこでの山田氏の発言のあまりの幼稚さに愕然となった。蒸気機関車を、科学が人間の生活を良くしてくれることに全幅の信頼が寄せられていた幸福な時代の象徴、などと云っていた。これは単なる無知無恥発言に過ぎない。蒸気機関の発明と産業革命は、それ以前になかった過酷な労働環境(幼児や婦女子も含む)をもたらし、蒸気機関による挟まれ、巻き込まれといった労働災害は産業革命当初から深刻の度を増し死亡事故は激増、何よりも機械による効率化が雇用を奪うということで労働者による蒸気機関の打ちこわしはイギリスのみならず後進各国でも頻発したという、中学の教科書にすら記載されている程度の歴史を知らないのだろうか。蒸気機関が人間の生活を良くする?かような状況で、そんな認識を誰が持つのだろう。持つとしたらごく一部の資本家やブルジョワ貴族に過ぎない。産業革命後、イギリスで史上初の労働組合結成、マルクス・エンゲルスの共産党宣言、ヨーロッパ各国でのプロレタリア革命運動、パリ・コミューン、そしてロシア革命という歴史の根本の一つが蒸気機関による産業革命であったことを知らないのか。
 また、蒸気機関の仕組みは、ピストンやクランクの動きを辿っていけばよく分かるけれども、原発はなんだかゴチャゴチャしてよく分からないから人間にとって危険なのではないか、などとも云っていた。小生、唖然となった。原発だろうが何だろうがああいうものは図面見たら仕組みは分かるようになっているし、それを分からないというのは山田氏の単純な勉強不足、怠慢に過ぎない。それを、何の根拠もなく自分の、あるいは社会雰囲気内で何となく承認されている短絡的なイメージで、原発はよく分からないから怖い、などと云っている…短絡的なイメージに乗っかった浅はかな認識を、さも説得力ありげに発言することで、結局、こたびの原発の問題を含む科学技術と社会との根本関係に巣くう問題を公衆に対して見えなくさせようとする愚かさを露呈させていたのだった。結局その程度の認識だから、このSLドキュメンタリーにしたって、従来からはびこる、技術立国日本、みたいな、まことに空疎な衆愚的イメージを再生産させるのみであり、無自覚に問題を誤魔化してしまう欺瞞にセンチメンタルに加担するはめになっている。要するに、山田氏は、この件に関して何も考えていないし批判できていないばかりか、承認されている既得権益へのお追従の上手さを披露したみじめな人間である。山田氏の幼稚な発言やこのテレビ映像が発する幼稚なメッセージに影響される視聴者など、今時いないだろうと期待するしかない。ではこの問題とは何なのか、詳論すれば長くなるのでかいつまんで言うと、社会化政治化経済化された存在である人間が主体となる科学技術の限界に対する認識と社会的許容、ということに尽きる。科学的人間など存在しないし、科学を支える科学的良心というのは科学の中では規定しえず、あくまでも社会的なものに過ぎぬということである。今更云うまでもないことなのだけれど…。
 
 喋る頭、アメリカ、1980。パンクの灰。アフロアメリカなるもののファンキーな体臭にすらも何かしら古臭い厚かましい制度的欺瞞を感じ取らざるを得なかったプログレ以降の者たちは、ジャズにおいてもロックにおいてもより直接的にアフリカなるものへの視線を明敏に主張するのだろう。ブルー・ノートとして規制される以前の、すなわち黒人奴隷市場としてのアメリカにおいてこそ発達したジャズやロックという歴史の範疇からの反抗的逃散を目論む者らは、アメリカ化される以前のアフリカに次の手を打ってくるのは今にしてみれば必然であった。しかし、そうした者らが、たとえば同時代80年代のレゲエ(ボブ・マーリー)や一部のソウル(スティービー・ワンダー)のように母なるアフリカを楽観的に希求するポピュリズムに身を委ねることなどできはしなかった。音楽上、いかに直接的にアフリカの民族音楽に根差した奏法を採用しようとも、結局のところ白人の都合に限定されたアフリカしかとらまえることが出来ぬ袋小路であることを、何よりも自覚した音楽を作るしかないのであろう。煽るようでいて冷め切った単調ポリリズムも既に著しく電化処理されざるを得ず、所詮、アフリカの土俗などに感応しようも無い限界を承知しきっている白人の身勝手な、だからこそ行き場の無い絶望をハリネズミのように撒き散らす。しかしこの種の絶望は思えばかつての凶暴サイケデリアが保持していた矜持でもあったのだが、その矜持を捨てて更なる精神の底辺へ至らんとする衰弱した破滅欲が不健康に先走っても仕方が無い時代ではあった。ロックにおいて王道への道行きは異端へ至る逆説である。そして無益な計算処理しているがごとき尖がった、珍妙電子音が場違いに陽気に無責任を託ち、食欲の無い、顔面蒼白な男がか細い声で、遺書の黙読のように非元気に変態じみて頓狂に歌うしかない。アメリカ化される以前の直接的なアフリカの再発見などといったところで、そんなものは終わりが見えきった者が流れでやるしかない消化試合に過ぎぬことを、それでもあえてやるということに、ブライアン・イーノのその後の音楽の新しさが聴かれるのだろう。だから、楽曲としても、決定的に盛り上がりに欠けるし、線が細い。陳腐な言葉だが、終わりの始まりという奴なのか。反抗ですらない自滅なのか。音楽は楽しむためのものではない、と、最底辺のポテンシャルから北叟笑む、悪趣味の系譜の道標(墓標)である。全然関係ないかもしれないが、こたびの震災と津波で、15年間ほど家に引きこもっている40代男が、津波が迫っているから早く逃げろという母親のいうことを無視してまで家に閉じこもり続け、母親は息子を捨てて家から逃げたものの現在も行方不明、しかしこの40代男は家の二階ごと津波に流され、ドンブラコドンブラコうまいこと漂流の末、救助された、救助される際も、食糧が無いから渋渋外に出たが本意ではないという態度であった、というニュースを思い出した。うろ覚えなので事実と異なる部分もあるかもしれないし、小生の妄想かもしれないことを注記する。

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