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「デキシード・ザ・エモンズ/SOMETHING Dew(1996)k.o.g.a-103」夏至
菊でいえば厚物咲よりも平弁や管弁などの小ざっぱりと風通しのよい簡素な品種に心惹かれるし、そういう意味で紫陽花も、ガク弁が赤子の頭部大に折り重なった、市井の路地裏では一般的な厚物よりも、山紫陽花などの、中央部に楕円星雲のように虫の複眼のように濃紫の小粒が集結した周りに、はらはらと疎らに花びらのようなガク弁が蝶のように舞う、簡素にして精妙に工夫された生態に心奪われる…
NHKタイムスクープハンター、毎週楽しく拝見…だいぶ前の、室町時代の闘茶レポートでは使用されていた茶碗があの時代にはあり得ぬ品ばかりで辟易したが、最近のレポートでは、昔の人の、侍や農民なんかの月代(さかやき)が、異様にリアルだ…頭頂まで剃り上げた跡に、薄汚い産毛まで生えていたり、頭側の髪をひっつめて油で撫で着けているべとつき感も生々しい…かつらには見えず、まさか本当に役者さんが月代を剃っているのだろうか。
朝…工場での仕事の前に何が何でも脱糞しなけらばならぬ事に何よりも気を使わなければならぬ惨めな状況となっている…間断なく製品が流れて来、いちいち加工しなければならぬ工場労働に、自由に排泄する自由などない…始まってしまえばそこから決して動けぬ…監督者どもによる、あらゆる方向からの絶えざる監視…まさに監獄の誕生(M・フーコー)は監獄というよりも産業革命後の工場制手工業において広く社会化されたようだ…山奥の現場までの1時間45分あまりの運転(毎朝6時起き…耐えられない)による微妙な運動が括約筋に刺激を与えるという素地があって、いざ労働が始まると激しい運動により腸が活性化され確実に便意を催すは必定、しかし労働が始まれば脱糞は許されぬので始業前に必ず脱糞する必要があるのだ…従って、以前にもどこかで書いたが、山奥の現場に向かう途中の、つまらぬ県道脇の郊外型コンビニで脱糞しなければならないことは相当切実である…そして、こうした位置づけのコンビニの便所は、毎朝、同じような理由で脱糞したがる現場系の男たちがひっきりなしに出入りする、朝っぱらから心底荒ませる状況が露わなのである…そして自分もその一員なのである…あああ、何だかもう、本当に荒んでくるなあ、と心の声を絶叫しつつ、モーニングを手に取り「へうげもの」を立ち読みしながら先客が終わるのを待っていると、その日は、いつもと違って、異様に長い…始業に間に合わなくなるし、意識的に早めた便意もあって、たまらず、ドアをノックしたり軽く蹴ったりするが、一向に出てくる気配がない…だいたい長くて5分だろう、こいつは15分以上も便所で何やってんだ、一つしかない貴重なコンビニの便所をいつまで独り占めする気だこの野郎、と思っていても、便所のドアの向こう側からは何やらカチャカチャとベルトのナックルを震わす音をさせるのみで、出てこない…糞、朝っぱらから最悪だ、もうこいつは待てない…という事で工場に向かい、着いて、便所に行くと、案の定、労働者たちが全個室でりきんでいる始業前ぎりぎりの時間…最悪だ…
かような、直腸周辺での切迫した状況と同時進行で、通勤(=出頭)中の車の中で聴く音楽の存在はかなり切実である…1日10時間近く、ただひたすら、一つ一つでは単純な要素作業が、人間がある時間内にこなしうる限界量まで詰め込まれた作業を文字通り休む暇なくしなければならない労働環境…2時間おきに休憩があるとはいえ、精神衛生にはすこぶるキツめである…慣れぬ内はそれでもあっという間に時間が過ぎるが、慣れてくると、時間の経過の遅さが、懲役並みに苦痛となってくる…時間を意識し出すと、たとえばまだ5分しか経っていないのを時計で知って、愕然たる絶望に襲われるものだ…気が狂いそうになる…隣にいる、商業高校卒の女性が、ぶつぶつ、「気が狂いそう」「気が狂いそう」…そのように呟くことで、その呟きがある種のリズムとなって忘我の境地に自らを至らしめ、つらい現実を気休めでも軽減しようとしているのだろう…立ちっぱなしで、加えて荷の上げ下ろしもあるしで足が真鱈の干物のようにつってくるし腰は石臼のように鈍重に痛む、そして何よりも、インダストリアルな理由が指先に、ある特殊な動きを何度も強いる、しかも一回やっただけでも指がおかしくなるほど力を籠めないといけないのだから、指を動かす特定の腱が切断しそうな恐れと実際の痛みに襲われる…何度も、というのは、1個作るのに7工数ほど、それを10時間の内に650個ほど作る、という内訳である。そうした労働時間をやり過ごすのに、件の女性工員は一定のリズムで「気が狂いそう」と呟くのと同じ効能を期待して、小生は、頭の中で、記憶した音楽を何度も何度も再生させるのである…そのために、通勤中に音楽を記憶することに必死なのである…記憶するために聴くという事…そのうち、聴くという事が記憶の反芻へと自閉しつつ、これから確実に訪れる過酷な労働を恐れながら、諸々の人生状況もこの際ひっくるめて、先走る惨め、汚辱、情けなさや焦燥、不甲斐無さや荒みや乾ききった渇望などと共に、こらえ難く、音楽を思念の中でひたすら再生し続けること…指定された動きを、はた目には滑稽に繰り返しながら、いつしか周囲の騒音も自分の行為も消え去りながら、自分が掴みとった音楽を、記憶力が悪いからアルバム一枚分とはいかずある曲の一部分のみを、徹底的に繰り返すしかなかった。これもまた切迫しているが、2時間おきの休憩で、座る場所がない…トイレから現場に帰ったら、誰もいない…みなさんどこで休憩しているのだろう。脚がつってきついので1分でもいいから座りたいのに、現場には座る場所はない…休憩中電気消しているので暗い現場で1人、立ちっぱなしで作業開始を待つ。4時間立ちっぱなしはきつすぎる…かといって人に休憩場所を聞けるほどのコミュニケーション能力はないし、あったとしても発揮するつもりは全くない。持ち前の孤立のせいとはいえ、きつすぎてこれではあと2週間も続けられないよ…
特に今宵はデキシード・ザ・エモンズの音楽性について語りたいわけではない。かような状況下で、たいした理由もなく、なんとなく暢気で穏やかな、どこか枯れた雰囲気のロックで労働をやり過ごそうと思って、本作を手に取ったまでであった。しかし、それでも、迂闊だった…ボーナストラックのドッグスとオール オア ナッシング…ドッグスは、誰かのカバーなのだろうか、詳細は忘れてしまった、オール オア ナッシングはスモールフェイセスのカバーだろう…ドッグス…自分の状況とは関わりなく楽しくやってそうな、気のいい連中の野放図なコーラスと、悲しい人間の声…他人が楽しそうなのが、たまらなくうれしく思える虚ろな感謝の念…オール オア ナッシング…本当にその通りだ…全てか、無か、こんなにも残酷なことが、希望や美ですらなく、ひたぶるに心を打つ妙境…次に眠ってしまえばそのまま死んでしまいそうな、優しい荒みというものなのだろう…もう何も言うまい、小生が、労働している間、ずっと記憶の中で反芻していたのは、結局、この二曲であったことを特筆するだけで十分だろう。不覚にも運転中と労働中、はらはら溢れそうな涙で視界が霞んだ危険をも伴っていた。
デキシーについて一言云えば、彼らは、スモールフェイセスのカバーにあっては、原作と区別がつかぬほどの、しかし妄執を感じさせぬほどの自然さで正確無比にコピーしてくる、ということを指摘するに留めたい。声色までスティーブ・マリオットそっくりだ。絵画のデッサンや書道の臨書のように、スモールフェイセスをきっちりカバーするということが、彼らの音楽の核となっている。
そして、テレビで、福山で骨董市があることを知るや否や、矢も盾もたまらず早速、出かけた…とんでもない品々に出会い、お助けしてきたが、それについては長くなるのでまたの機会に。写真では分かりづらいが、参考までに。肉眼で実物見ると本当に凄まじい品です。
阿部智康:ベースギター、オルガン、ピアノ、スティールギター
ハチマ氏:ファズギター、ベースギター、ドラム
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