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 ロック史を体系的議論から解き放ちながら、サイケデリアの土着性とハードロックの非継承性を論ずる。主要1000タイトル、20年計画、週1回更新のプログ形式。
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「the shaggs/philosophy of the world(1969)」 2008年10月26日 赤口  うぶ寒

 今更特に学ぶことは無かろうと思って読んだ事無かった柄谷行人「日本近代文学の起源」を、遅ればせとも思わぬが一応、という事情で少し読んでみた。今のところ予想どおり、何一つとして新しく学ぶことは無かった。この書がそもそもポストモダニズム文脈の契機の一つとなっているため致し方ないのだろう。俄然、納得しかねる箇所も散見される。山水画並びに山水という名称をフェノロサの発見による所与とし、明治期以降の日本人の山水画鑑賞は西洋的風景画の概念に制度化されたとしている宇佐美圭司の文を肯定的に引用しているがとてもそんなことは考えられない。古今新古今から水墨、連歌、茶の湯、俳諧と貫くものは唯一つと蕉翁が喝破したように連綿と続いている中、山水画と山水画と絡んできた東亜細亜文化圏宗教圏の文脈のみが御一新の世になって忘れられたとでも言うのだろうか。雪舟、等伯が忘れられたのであれば蕉風も忘れられてしかるべき、しかるにそんなことはありえなかった。

 芭蕉を日本人よりも早く発見したと言える西洋人あるいは西欧的近代者なぞ明治に居はすまい。他国者のフェノロサはともかく、ごく一部の日本の近代馬鹿が勝手に山水を忘れ、勝手にまた思い出したかのように発見発見と言いたてて西洋的遠近法上の観点から愚かしく関心しているだけである。無論漱石は、そうしたごく少数の近代馬鹿と、その少数の近代馬鹿が頼まれもせぬのに文壇を形成して言説するのを非難しているのだし、柄谷氏もそうしたことを指摘しているのだから、批評としてはまあ、いいのか、と納得する。
  
 しかしながら、「日本近代文学の起源」にしても蓮実重彦「表層批評宣言」にしても、今読むと只ならぬ退屈さである。これらの著作の中でも予測された退屈さであるが、あのような戦略的方法、即ち小説という作品から物語性を抽出して、その分りやすいところだけを汲み取ってこれは物語、制度に過ぎないと批判している自家中毒あるいはただの茶番のようである。蓮実氏は物語の戦略的抽出が物語ならぬものを炙り出す、と申し訳程度にちょこっと書いてはいたが、そろそろ、小説(当然他分野にも言えるが)に内在する分りにくい処、意味の無い処、曖昧な処、一般化できぬ処、突飛な処、まさにこれがこれであるという事、即ち作品性と直接的に対峙する批評が出てもよいのではなかろうか。もしあれば誰か教えてください。曖昧なものを曖昧なまま提示しえた結果が作品と呼ばれ、批評が作品性と向き合うには自らが作品にならなければならないのではないか。ただ、無茶苦茶に提示したのであればそれはただの分りにくいもの、前衛、実験的などの言葉の暴力にさらされ、言うなれば分りやすいものに堕する危険への覚悟が必要である。

 話が逸れてしまった。ではシャッグズについて。アメリカ産。少しおかしい、ブルース好きの親父とその長男が、ブルースもロックも概念化したことがない、そして当然楽器など手にしたこともない娘(妹)たちに、とりあえず楽器を持たせ、さあ、やれ、何でもいいから歌え、音を出せ、と命じて録音した作物である。日本のお笑い界においてここ十年くらいで「天然」「ぐだぐだ」という新しい概念が生まれたが、既に40年前に、アメリカで「天然」「ぐだぐだ」「へろへろ」のサイケデリアが生まれていた。

 演奏と歌唱との関係の原始がここにある。歌と演奏との分離ないし役割分担が出来ていないので、まさに歌いながら音出している、だから言葉の切れ目で楽器の音も同時に消えている拙さ、幼さそしてほほえましさである。同音を繰り返し、それに飽きたらちょっと違った音を出してみるという、幼児じみた発達段階が露に聴取できる。どうすれば音がでるのか、楽器のあちこちをためつしがめつしながらも恐る恐るではない大胆さで時折頓狂な音を立てる凶暴がむき出すが、至って平和な雰囲気である。キチガイの憩いである。サイケデリアの彼岸であった。即興とかインプロヴィゼーションといった、偶然性を戦略的に用いようとする知性など、彼女らの音楽を前にしたら鼻つまんで逃げ出したくなるほどいやらしいものである。聴いたザッパが泣いて喜んで、自分でも類似の趣向の女子バンドをプロデュースしてみたが、やはり持ち前の知性が邪魔したのか、シャッグズほどの成果は上げられなかったようだ。

 シャッグズのバンド形態も、家族という、前近代的な、家内制手工業であり、あきれる馬鹿馬鹿しさである。ロックバンドにありがちな、メンバーたちの出会いといった物語はありえない。ジャズと共にロックは、バンドという新しい組織形態を成し、中央集権的にみられがちな西洋オーケストラ組織を批判しうる匕首と成りえていた。物質を点の集合として捉える原子論を超克するために生まれた、今年のノーベル物理学賞で話題のひも理論がバンド・セオリーとでも訳されるのであれば、オーケストラ:バンド=アトム:バンド(ひも)という対応も成り立つのではなかろうか。ひもはストリングかもしれぬし、生半可で申し訳ない。ただ、オーケストラ様式を茶化すためにジョン・ケージが、指揮台に立って演奏とは無関係の動きをしまくるという試みが、奇しくもオーケストラが必ずしも中央集権であるとは言えぬ、生の集合大衆論を彷彿させているので事は簡単ではない。ロックにおけるバンド性、バンド組織論についてはまた後日。

shaggs.JPGthe shaggs/philosophy of the world(1969)09026 63371-2

dorothy wiggin/lead guitar, vocals
betty wiggin/rhythm guitar, vovals
helen wiggin/drums
rachel wiggin/bass guitar on "that little sports car"



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